1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/05/29:聖日礼拝(旧音源)
2011-05-29 46:36

2011/05/29:聖日礼拝(旧音源)

2011/05/29 聖日礼拝(旧音源)


00:01
本日の聖書をお読みいたします。
新約聖書457ページ、ペテロの手紙第1・4章の7節から11節まででございます。
それでは、お読みいたします。
新約聖書457ページ、ペテロの手紙第1・4章の7節から11節まで。
万物の終わりが近づきました。
ですから、祈りのために心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず互いに熱心に愛し合いなさい。
愛は多くの罪を負うからです。
つぶやかないで互いに親切にもてなし合いなさい。
それぞれが賜物を受けているのですから、
神の様々な恵みの良い管理者として、
その賜物を用いて互いに使い合いなさい。
語る人があれば、神の言葉にふさわしく語り、
奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、
それにふさわしく奉仕しなさい。
それはすべてのことにおいて、
イエス・キリストを通して神があがめられるためです。
栄光と支配がよよ限りなくキリストにありますように。
アーメン。
以上でございます。
では聖火体の賛美をしていただきましょう。
賛美していただく神聖歌は292番です。
聖火体の賛美に続きまして、
野田茂先生より互いに愛し合いなさい。
と題してメッセージをしていただきます。
もしも私が苦しまなかったら
神様を教え
人が苦しまなかったら
03:02
神様の愛を伝えられた
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛をあらわ
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知ら
それでは野田先生よろしくお願いいたします。
この素晴らしい街道で皆さんとご一緒に
主を礼拝できることを心から喜び感謝しております。
やや突然伺ったような感じがあるんですけれども
4月に新しく就任なさった石田先生とのお交わりの
関わりで今日皆さんと一緒に
この時を過ごすことになりました。
よろしくお願いしたいと思います。
1993年、18年前に
石田先生のご一家とアメリカで初めてお会いいたしました。
その後先生が献身をなさって
新学校に学び、そして牧師になられて
この日本ユースの群れの中で
奉仕をなさるようになったわけですけれども
そういう神様のお導きの中で
ずっと私のようなものもお交わりの中に
加えていただいておりました。
その結果として今日ここにお伺いをすることになったわけです。
まずこの礼拝において
今日ペテロの手紙の第1を開いて
06:04
互いにという言葉を鍵にして
少しお話をしたいと思っています。
最近私はこのペテロの書いた第1の手紙に
俗な言い方で言うと
ハマっておりまして
大変この手紙の中から
多くを学ばせられ考えさせられ
そして申し得られております。
全般の方はどちらかというと
個人の信仰について
彼が書いているように思うんですが
後半の方になると
教会というものを意識して
彼が書いているように思われるんですね。
今日はその後半の方の一部を
今読んでいただきましたけれども
皆さんもそうだと思いますが
私たちはお互いに聖書的で健全な
教会形成というものを
僕氏はもちろんですけれども
皆さんも目指していると思うんです。
教会というのはどんなでもいい
そして自分にとって楽しければ
都合が良ければいいという
そういうクリスチャンは
いらっしゃるかもしれないけれども
少ないと思うんですね。
教会というものを考えたときに
私たちはそれが聖書的である
そして健全な教会であるという
これがいつでも私たちの心にある
お祈りに覚える課題だと思うんです。
ところが教会というのは
人の集まりでもありますから
時には難しいことが起きたり
また面倒な状態になったりすることが
ないわけではありません。
そういうことがあればあるほど
私たちは聖書に聞き
そして聖書に近い教会形成を
目指したいと思うんですね。
教会にはいろいろな人たちが集まります。
クリスチャンだからといって
みんな同じになってしまうわけではありません。
むしろいろいろな人たち
いろいろな違いを持ったクリスチャンたちがいて
健全だと思うんですね。
男性もいます。女性もいます。
高齢の方もいらっしゃれば
若い人もいる。
性格的にややせっかちな人もいるかもしれないし
悠長な人もいらっしゃるのではないでしょうか。
こんな言い方がありますけれども
あの人は分かりやすい人だ。
09:01
分かりやすい人もいらっしゃれば
分かりにくい人もいるかもしれない。
私などは分かりにくい人間の典型なんですね。
昨年金婚式を迎えたんですけれども
家内と結婚しましたときに
自分とこんなに違う人、人間がいるのか
同じクリスチャンでですね
こんなに違う人間がいるのかということを
牧師でやりながら
駆け出しの牧師でしたから余計に
そういうことに目が開かれたんですね。
私は今でもそうですけれども
色に例えると灰色が好きなんですね。
あんまり白と黒とはっきりしない
そして結論を出すのがあんまり好きじゃないんです。
ですから結婚して間もない頃
家内は非常に論理的なはっきりした
先生のもとに育ったクリスチャンでありましたから
私のまして牧師になりたての
若い牧師の私の語ることが
なんか終わりに行くと
結局よく分からないで終わってしまうという
そういう感じだったらしくてですね
もう少し結論をはっきり出してほしい
というようなことを家内が申しました。
でも50年たって私の方が結局
あまり折れないで
家内の方が忍んでいるかなという感じではあるんですが
夫婦であっても夫婦のクリスチャンであっても
牧師の夫婦であっても
そういう違いというものがある
お互いの集まりであるわけですね
いろいろな人が教会には
この宮谷教会にもいらっしゃると思うんです
違いというものがあると
それは素晴らしいことであるとともに
少しずれるとその違いのために
夫婦でもそうなんですけれども
難しくなるのも事実ですね
ペテロという人はイエス様のお弟子でありましたけれども
いろいろなことを経験しながら
初期の教会形成をする中で
そういう人の違いばかりではなくて
様々な課題というものを経験しながら
どうしたならば教会が健全に育っていくか
ということをいつも祈り考えていたと思うんです
そういう中で当時のクリスチャンたちに
送った手紙がこの手紙であるわけです
その中に一つそれを乗り越える課題として
彼が語っていること
それはパウロも同じなんですけれども
もっと言えばイエス様も同じなんですけれども
この互いにということなんですね
互いにという言葉が一つ
鍵になっているように思います
12:01
このそんなに長くない手紙の中に
ペテロは互いにということを
6回述べています
6回そのことについて語っています
2つはほとんど同じなので
実際的には5つのことになるわけですけれども
1つは今日の題になっておりますけれども
この4章の8節のところにある熱心に愛し合いなさい
これを互いに熱心に愛し合いなさい
これは1章の22節にもほとんど同じことが言われております
それから2番目は何であるかというと
4章の9節ですね
次の9節ですけれども
つぶやかないで互いに親切にもてなし合いなさい
これが2番目です
1章22節を入れると3番目になりますけれども
その次が10節の中にまた出てまいります
それぞれが賜物を受けているのですから
神のさまざまな恵みの良い管理者として
その賜物を用いて互いに使い合いなさい
その次は全部挙げてしまいますが
5章に飛んで見ていただきたいんですけれども
5章の5節です
同じように若い人たちよ長老たちに従いなさい
皆互いに謙遜を身につけなさい
そして最後が同じ5章の14節
この手紙のほとんど終わりのところですけれども
あまり皆さんは気に留めないかもしれませんね
ご挨拶ぐらいの言葉のように思う方が多いかと思うんですが
5章の14節
愛の口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい
以上ですね全部で6つ
そのうち2つはほとんど同じようなものですけれども
ですから5つにしますと
その5つを3つのグループに分けたいと思うんです
第一がこの愛し合いなさい
互いに愛し合いなさいという
これですね
これはですから1章の22節
それから4章の8節
そして4章の9節の新節にもてなし合いなさい
これも同じようなことだと思いますので
そのグループ第一のグループに入れたいと思うんですけれども
第一が愛し合いなさい
そしてもてなし合いなさい
こういうことであります
15:07
聖書が私たちに
聖書がということは神様が私たちに愛し合うようにと
言っていること言っていらっしゃることは
お互いによく分かっていることだと思うんですが
実際的にそれでは
互いに愛し合うというのはどういうことでしょうか
私なりの結論を申し上げると
それはこういうことだろうと思うんです
どんな相手であれ
今同じ教会の仲間を意識して言っているわけですけれども
その人の存在と人格と弱さ
あるいはカッコ好きで罪
4章の8節に罪が覆われるということが言われていますけれども
を受け入れることです
もう一度申し上げると
相手の存在と人格と弱さ
ないしは罪を受け入れることが
それが愛するということです
もちろんあまり簡単な話ではありません
正直に申し上げると
牧師にとっても
牧師も人質の人格を持った人には人間ですから
牧師にとっても苦手な人というのはあると思うんですね
自分のことを下敷きにしていっちゃいけないかもしれませんけど
他の牧師さんたちはそうでないのかもしれないけど
私には苦手な人というのがあります
今でもあります
もう終わり近くなってもあります
若い頃に今でもそうですけれども
教会総会というのがありますね
皆さんもなさると思うんですけど
教会総会というのがあります
教会総会というのは私はあまり好きではなくて
教会総会の好きな牧師さんっているかどうかわからないんですけども
だいたい統計が出てきたりそういうことが多いですから
あまり牧師にとって楽しい時ではないんじゃないかなと思うんですが
一応の報告をしたりそれから方針を話したり
最後にだいたい質問の時って設けますよね
あれが私は嫌で
手を挙げられるとドキドキし始めて
特にある人が手を挙げると
ある人がっていうのはある特定の人が手を挙げると
もう胸が早金のようにですね
18:01
とっとっとと心臓が打つような
そういう何年かがありました
そしてその人は見事に私の
今弱さって言いましたけども
私の弱さ考え方の弱さや
皆さんに提示していくことの足りなさや
そういうところをつくんですね
そしてその方針に少しビジョンがないんじゃないかとかですね
いろいろおっしゃって
ですから毎年のようにこの教会総会というのが
私は苦手で特にその人が苦手でした
教会総会はそれでも何とか終わって
夜になって布団に入るとですね
そうするとそのことが思い出されて
あの時何でああいうふうに言えなかったんだろうか
その時思いつかないんですよね
もうああとなってますから
夜になってから
紙片の中にありますけども
夜になると自分の心が自分を教えるとあるんですが
夜になったって間に合わないんですけどね
夜になってから
あああの時何でああいうふうに言えなかったかな
というようなことを思いついたりするような
そういう何年間ありましたね
だんだんだんと私の心の中に
思ってはならないと思うんだけれども
あの人がいなければもう少しうまくいくんだな
というような思いが膨らんでくるんですよね
でも私も牧師のはしくれですから
そういう思いを持つこともいけないと思うところがあるので
そうすると心の中に葛藤が生じますね
そういう何年間があったんですけれども
でも私も牧師には違いないので
神様にお祈りをいたします
それを乗り越えられるよ
ある時主が御言葉を示してくださいました
それはヨハネの福音書の15章の17節というところに
よくご存知の言葉だと思いますが
あなた方が私を選んだのではありません
私があなた方を選んで弟子としたんだ
というイエス様の言葉がありますね
その言葉が目に飛び込んでまいりました
普通は私たちが自分が救われたのが
イエス様によって選んでいただいたからなんだ
というふうに読むわけですけれども
その時神様が示してくださったのは
あの兄弟を選んでそしてクリスチャンにし
そして牧師である私の前に
置かれたのがイエス様である
つまり牧師である私が彼を選んで
21:05
洗礼を授けたのではないんですね
よく考えてみたならばそれが許されたら楽なんですよ
牧師が皆さんを相手にしながら
この人は将来ちょっと面倒な存在になりそうだな
と思ったら洗礼を授けなければいいんですから
それが許されるなら楽なんですよ
この人は私を苦しめる存在になるんじゃないかなと
そんな感じがしたら
もう少し洗礼を受けるなどの
伸ばした方がいいんじゃないですかって言えれば
それの方が楽ですよね
でもそうではないんですね
そうではない
その兄弟を私の前に立たせて
その兄弟を私の前に連れてきて
私の前に立たせて
そして彼の肩を押すようにして
私にお前がこの兄弟を没回するんだよと
主がおっしゃったようにその時思ったんですね
もう文句は言えません
結論を言いますと
幸いというべきでしょうね
彼はまだちゃんと教会にいますよ
私もそこを一つ乗り越えたし
彼の方も少しずつだけれども
主によって変えられてきたと思うんですね
ですからお互いにまだ
いるって言ったらおかしいですけれども
支えられている
ですから神道の皆さんでも
お互いにあまりそのままで
すっとものがスムーズに
いかない相手が教会の中に
いらっしゃるかもしれない
今いらっしゃらなければ幸いですけど
将来いらっしゃるようになるかもしれません
それは神様のなさることで
そういう時に何か自分の心を無理してですね
愛さなければならない
愛さなければならない
無理に笑顔を作って
そしてしていこうとする
というようなことではなくて
まずその人がどういう方であろうと
主がその人を選んで
私の前に置いていらっしゃる
そうであるとすれば
その人の存在と
そして人格
相手がどういう性質
性格 気性の人であろうとですね
その人格と
そして時には相手の持っている弱さ
24:05
時には罪
それをまず受け入れる
受け止める
それが愛ではないでしょうか
私は今そのように
主に教えられています
それを互いにするんですね
2番目は
使い合いなさいという言葉が
4章の10節にありましたけれども
謙遜を身につけなさいという
5章の5節と合わせて
互いに使い合うということ
これ2つ目のグループにしたいと思います
5章の方の言葉を見ていただくと
5章の9節にありましたけれども
そのことがありましたが
5章の
4章の10節と
ごめんなさい
少し混乱しましたかね
2番目のグループは
使い合いなさいということですが
4章の10節と
5章の5節の中にある
互いに謙遜を身につけなさい
この2つを合わせて
使い合うという
互いに使い合うという
グループにしたいと思います
その4章の10節に
互いに使い合いなさいとあるわけですけれども
その11節に
9節の
10節の賜物ということを引いて
11節に語る人があればとか
奉仕する人があれば
という言葉が出てきます
語るというのは
まさに今私がしている
こういうことだと思うんですけれども
あるいは奉仕
様々な奉仕が教会にはあるわけですけれども
そういうものを通して
互いに使い合うんだよと
こういうことなんですね
そうすると
この語るとか
あるいは奉仕するということは
ここではやや
教会の中で
主たる働きに
携わっている人
になるのではないかと思うんですね
にも変わらず
27:01
それによって
使い合いなさい
というのです
一見何となく
上に立つような
そんなふうに見える
立場の働きであっても
今風の言い方を許していただくと
例えば説教をしながらでも
上からの目線ではなく
お互いに同じ立場に立って
奉仕する場合でもそうですけれども
こんな奉仕をしているから
教会の中で
用いられている
偉いとか
そういうことではなくて
どこまでも
主イエスキリストの下辺として
使えるものとして
それをさせていただくということではないでしょうか
それを互いに
お互いがどういう
教会の中で
どういう立場であれ
どういう奉仕をするように
導かれているにしても
それを互いに
下辺として
させていただくならば
まさに使い合うことになると思うんですね
そういう意味で
教会の中に上下はありません
3番目は
5章の14節の
先ほど
あるいは見落としがちではないかと
申し上げましたけれども
ペテロは
この手紙を締めくくるにあたって
愛の口づけをもって
互いに挨拶を交わしなさい
と言いました
互いに挨拶を交わしなさい
これが3番目のグループというか
これ一つですけれども
それにしておきたいと思います
挨拶を交わしなさい
これはパウロの手紙などにも書いてあることで
確かにややお手紙の最後の
まさにご挨拶ぐらいの
言葉でもあったのかもしれませんけれども
しかし
当時の生活習慣は
よくわかりませんけれども
あえてそういうことが書かれているということが
やはりとても大事なことを私たちに
示してくれているんじゃないかと思うんです
愛のゆえに
礼節を保つとでも言い換えましょうか
礼儀正しくすると言い換えてもいいかもしれません
30:01
私は1932年
昭和7年の生まれで
いわゆる昭和一桁の典型のような人間ですけれども
ですから戦争前の社会と
そして戦後の社会の両方
一応経験しております
そこには大きな落差があって
どんなに戦後日本が変わったか
良くもそしてあえて言えば悪くも
そうなったかということをそれなりに
経験し見てきたつもりです
日本の戦後の教育がもし
失敗したものを持っているとしたならば
それは子どもたちや若い人たちに
しつけを忘れたということではないでしょうか
そしてもう一つあえて申し上げてよければ
ですから今日こういうところをあえて開いているんですけれども
戦後の日本のキリスト教会も
その点で例外ではなかったということです
ニトベイナゾーという人がおられましたけれども
武士道という本をもともとは英語で書かれたもののようですけれども
日本語にも訳されていますけれども逆みたいですけどね
その中でクリスチャンのニトベイナゾーさんは
日本の武士道というものをそれなりに評価しながら
武士道の中にある霊説というものと
第一コリントの十三章にあるパウロの述べました
愛の強調ですね
その中で愛は非礼を行わずと書いてあるそのことと
彼は重ねて語っていますね
武士道そのものが全部正しいとかいいとか
そういう話ではありませんけれども
しかしいずれにしても人の世界に社会にそして教会に
霊説というものが戦後失われてしまったということは
否定できないと思うんです
キリスト教会までもそうなったというよりも
そういう面の強調が忘れられてしまった
民主主義というものの持っている大切なもの
尊さかつての戦争前の日本の社会にあった間違いを知っているものとして
民主主義というもののもたらした幸いのあることは
33:02
これは言うまでもありません
そして今も民主主義は高く叫ばれているわけですけれども
しかし本当の民主主義が日本に根付いたのかというと
残念ながらそうではありません
むしろよく権利と義務とこう言われますけれども
その権利の主張のみがされて義務というものは忘れられたり
そして単純な話お辞儀一つ挨拶をすることができないそういう人たち
それをしない人たちがしたりですね
若い人たちあるいは子どもたちが年長者を遠飛ぶというような
こういうものがすっかり姿を消してしまった
失ってしまった
これが1565年を経て歩んできた日本の大きな課題ではないでしょうか
もう一度言いますけれども
教会ですらもその点を見落としたように思うんです
教会学校の教師の方々に私はこんなことを話したことがあります
教会学校に日法学校に集まってくる子どもたちに
家様のことを伝えるのは当たり前なんですけれども
福音を伝えるのは当然なんですが
ちゃんと年上の人にお辞儀をして挨拶をする習慣を
教会学校に来た子どもたちに教えられないものだろうか
そしてもしそれに成功したならば
そして子どもたちが家へ帰っていって
そして親が目を見張るように礼儀正しい子どもたちになったならば
クリスチャンではない家庭の親たちが
教会学校というものの教育を高く評価するに違いない
でもなかなかうまくいきませんでした
今の子どもさんたちが明るくのびのびとしている良さを持っているとともに
しかしそういう今申し上げたような
礼節礼儀ちゃんとした子どももいますけれども
全体的にはそれがあまり見受けられないですね
教会で私がこうやって街道の後ろに立っておりますと
36:04
そうするとこの辺のところですね
中高生が挨拶もしないで目の前を通過いたします
ひっとらえてやろうかと思うぐらいのことなんですけど
冗談ですけど
それは単に礼儀動向ということではなくて
そういうことの中に隠されているといいますか
潜んでいるといいますか
人と人の間に神様が望んでおられる愛というものの具体化として
愛は非礼を行わず不作法をしないというその課題があるからだろうと思うんです
子どもの話だけではありません
大人同士がお互いに挨拶を交わす
単なるおはようございますこんにちはという挨拶以上の人に対する
これも愛し合うというところで申し上げましたように
一人の人の存在を尊ぶという意味で
特に教会の中ではそれは社会は社会のためにも祈らなければなりませんが
教会の中でこの聖書の御言葉のこういう世界がもっと具体化されていかなければならないのではないかと
こんなふうに思うんです
多分ですけれども日本の教会は欧米の教会に追っているところが多くあります
それはそれで幸いだと思いますが
しかし欧米の文化は申し上げて民主主義が根底にあるし
そしてもう一つ言うと握手の文化ですね
これももう私ども私などもようやく人と握手するのに慣れましたけれども
よく考えてみるとこれも欧米の文化ではないか
先生に初めてお会いしたそのアメリカに初めて行きましたときに礼拝で説教して終わると
街道の後ろに立って礼拝に来た皆さんと男性に対しても女性に対しても握手をするように向こうの牧師の方から言われました
私も初めての経験ですけれども街道の後ろに立って女性の方とも握手をしました
初めての経験でしたよ女性の人と握手をした
39:00
日本に帰ってきてすぐに三重県四日市でしたかねある教会に御法師に来ましたときにこんにちはと
行ったときに応接前に通されて牧師の奥様が私にこうやって手をこうなさったんですね
私はアメリカから帰ったばかりなもんですが何かあちらが握手のために手を出されたのかと危うく手が出そうになったんですけれども
実はそうではなくてどうぞそこにお座りくださいというそういう合図だったんですね
これは笑い話みたいな話なんですけれども
その欧米の文化や習慣が悪いとかそういうことを今言うつもりはありません
しかしそれもそこに愛が表されているんだと思いますけれども
ただ日本人には日本人のさっきから申し上げているような日本人の挨拶というものがあっても別におかしいわけではないでしょう
教会の中でですから握手の文化もあっていいと思いますけれどもきちんとお授業して挨拶をするというようなことにおいて
愛を表すそういうものがあっても不思議ではありません
ペテロがこの言葉を書いた時に当時ユダヤ人のクリスチャンたちやあるいはギリシャ人のクリスチャンたちや
そういう人たちがどういう挨拶をしていたのかというのは全く私はわからないんですけれども
愛は礼儀に反することをしない
こういう面からクリスチャンたちが教会においてそれをお互いに進めていくことによって
教会がさらに聖書的で健全なものになっていくのではないかなと
そんなことも考えたりしております
大きな三つのグループに分けてお話をいたしました
聖書にこのようにして互いにと書かれていることはとても意味深いことだと思います
それは誰もがそこに当てはまらなければならないということを意味していますし
一方だけの主張や要求ではならないということでもあるし
そして互いにということをもし心に私たちが止めたならば
自己主張自己中心的な在り方というものにブレーキがかかるでしょう
人を責めたり人に文句を言ったり人を問題にすることは簡単ですけれども
それをしながらふっと互いになんだなと思うと
42:04
私たちは自分自身を振り返ることもできるでしょう
この漢字の互いという字は見てお分かりになりますように
ひっくり返しても何度ひっくり返しても同じですよね
面白い字だなと改めて思うんですけれども
それぐらい人が問題なんじゃなくて
私もそうしなければならないんだということをしみじみと考えさせられます
そういう意味で聖書にこの互いにと出てくるこの言葉は
少し悪い表現かもしれませんけれども
聖なる殺し文句です
この言葉の前に私たちは自分の正当性を主張することができない
この言葉を出されたならば私たちはその言葉の前に
宗の前に減り下がって砕かれて
そしてもう一度自らを振り返らなければならないからです
この互いにということを忘れるということは
もしかしたら自分自身がクリスチャンであるということを忘れることと
イコールであると言ってもいいぐらいのことではないでしょうか
どうぞこの明太に教会の皆様が
この互いにという言葉の重みをもう一度お考えくださって
この素敵な礼拝堂そして素敵な会集の皆様が
宗の愛を中心にして一つになって前進し成長していかれることを
心からお祈りをいたします
新しい内田先生が真面目で真実な器だと私はいつも感心しているんですけれども
今奥様がご両親のことでここにおられないのは残念ですけれども
ご一家がこの新しい教会で皆様とともに
福音の宣教に十分に当たっていかれるように
そのことのためにもお祈りをさせていただきたいと思っております
ではお祈りをして終わりたいと思います
聖なる御神様
この主の日に私たちをこの明太に教会の礼拝堂に集め
あなたを礼拝しながら
あなたの御言葉に聞くこのひと時を与えてくださったことを感謝申し上げます
罪の中にあったお互いがキリストにおいて許され一つにされ
そしてさらに清き生涯を求めて今歩んでおります
この教会がこの互いにという言葉をしっかりと
45:05
その交わりの中心におきながら
内田先生を改めて牧師としてお迎えになりました
先生の御指導のもとに
この地域の宣教のために力強く前進していかれるように
ペンテコステを前にしておりますけれども
御精霊の豊かな働きを見ることのできる教会として
祝福してくださるようにお願いを申し上げます
今日は台風も近づいてまいりましたが
日本全国の主の教会があなたを力いっぱい宣教を述べ伝えていくために
霊的な力を天からいただくことができるように
祝福してくださることをお願いをいたします
世界の宣教のためにも祈ります
あなたを知らない多くの人々がイエス様に救われますように
またこの日本の震災の問題
原発の問題
今私たちは大きな課題の前に立たされておりますけれども
そのことを覚えつつ
今こそキリストの教会が
しっかりと神の御胸を行っていけるものとなれますよう
お導きくださることを願いながら
私たちの救い主イエスキリストのお名前によって
お祈りをいたします
アーメン
46:36

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