00:01
それでは、今日もメッセージに入る前に、隣の方々と爽やかな声を持って、挨拶をしたいと思います。よろしくお願いいたします。
挨拶しながら挨拶をしましょう。よくいらっしゃいました。互いに恵まれましょう。
ありがとうございます。では一言お祈りいたします。
愛する主な神様、今日も神様が私たち一人一人を選んでくださり、名を呼んでくださり、またこの主の教会に私たちを集めてくださいましたことを、心から感謝を申し上げます。
どうか今日、賛美を捧げ、祈りを捧げ、主の御前に、私たちのすべてのことを生きた生贄としてお捧げしてまいります。
今から神様がお語りにいらっしゃるその御言葉に耳を傾けて、舌が心を持って、減り鎖の心を持って、アーメンと昭和また受け止めさせていただくことができますように、
またその御言葉通りに生きることができる力を上から注いでください。
どうかしよう、語るものも語られるものもどうかしよう、なぜか同じエグギで一気の霊を注いでください。
神様の皆によってお祈りいたします。
今日はこのエヴェケールの第37章の御言葉から、教会とはその3、回復とリバイバルの共同体という題にして、共に恵みをいただきたいとそう願っております。
今日も神様がお一人の皆さん、お一人の心の中に、霊の中に、主が御言葉を持って大きな大きな恵みを注いでくださいますようにお祈りいたします。
現在の人々は、誰もが心の病を持っているまま生きていると言えるでしょう。
その病の程度の差はあるでしょうけど、みんなが持ったまま生きていると言っても過言ではないと思います。
日本人だから鬱になるという本があります。そのところを私と共感したもので読ませていただきたいとそう願っております。
03:05
こういう内容です。
人間は完璧ではない。時にはスカで失敗や平らを繰り返すこともある。
だが日本人はそのように心が自然に落ち込む状態を、片時も許さないような風潮がある。
頑張りが足りなかったのではないか。こんなことでは申し訳が定まる。
心が疲れているなど甘えにすぎない。フラフラになりながらも自分を逆例して働き続けろ。
それが新しい日本人であるという価値観がこの国にはまだ根強いようだ。
この価値観に彩られた社会では、鬱になるなどということは自己管理ができていないだけの話。
そんな人間の面倒を見ているほど社会に余裕はないということになってしまうだろう。
社会全体がピンと張り詰めたギリギリの精神状態で維持されているのが、現代日本の偽る姿だ。
メンタルヘルス的観点から見た日本はまさにこのような状況である。
私も二十六年間生きてきて、学校、社会などで必死と感じた。
甘えるな、努力しろ。上には上がいるぞ。無心で働け。身を削って働く姿は美しい。
そんな言葉に囲まれながら生きてきた。
結果、運悪、悪く、鬱病になった。
そう、単に運が悪かっただけなのだ。
上のような言葉に囲まれている日本人は多い。
今もなお、そんな教育が学校でも社会でも行われているのではないだろうか。
このような状況では、少ししたきっかけでも、
ペンを床に落とすくらい、些細なきっかけでさえも鬱になるには十分なのである。
皆さんどう思いましたか。きっと同感できるかもしれないと思うんですけれども。
この文章を読みまして、
もしかしたら、私と皆さんの自画像ではないのかなと思わされました。
実は皆さん、私たちには、みんなには、誠の回復が必要なんです。
06:05
霊的リバイバルを必要して求めているんです。
それを私たちは気づいていないだけなんです。
いや、先生、私は大丈夫ですよ、とおっしゃる方であるこそ、
とても真面目な方であるこそ、最も回復が必要です。
それは、とても誠実で真面目な方であるこそ、
さっきのこのお話に当たるのではないのかなと思うんですね。
家族のために、一生懸命、この文章のみたいに身をけして働いておられるでした。
あるいは、昔々ローンで購入した家のローンを返すために、最後の最後まで、
あるいは子どもたちの学児のために、
あるいはご両親の様々な施設や何とかいろいろな費用をあげるためには、
この時代のお父さんの方は、とても重い重荷を頭の上にも肩の上にも、
背負って生きていらっしゃったのではないかと思います。
だからこそ、私たちの主なるキリストのまことの慰めとまことの回復が必要なんです。
いつその心が、いつその人生が崩れ落ちるか、誰にもわからないということです。
今日の神様の御言葉は皆さん、私たちに本当に必要な御言葉であると信じて疑います。
どうか、命と回復の詩である神様が、今日お祀りの皆さん、礼の中に、
この御言葉による回復とリバイバルの恵みを体験できることを願っております。
今日のメッセージに行きますと、とても鮮やかなイメージのメッセージなんですね。
一説をもう一度見ていただきますと、
なんとその谷間には非常に多くの骨があり、白く干からびていたとあります。
09:01
その前にエゼケイルが立っているわけなんですね。
神様がエゼケイルを連れ出して、
その谷間にあるものすごい非常に多くある干からびた骨を、幻を見せてくださいました。
白く干からびていた骨です。
これはどういう意味でしょうか。何を意味するのでしょうか。
皆さんがエゼケイルの川に、その谷間に立っていらっしゃるとイメージしてみてください。
どういう思いがするでしょう、皆さん。
その干からびた骨を見て、どんな思いがするのでしょうか。
絶望です。闇です。死です。将来がありません。
回復可能性が全くありません。
命すら全くありません。
十一節に記されているように、この干からびた骨はイスラエルの現在の状態です。
イスラエルの人々が生きてはいるんですけれども、実は干からびた骨のようです。
神様は皆さん、まず預言者エゼケイルの目を開いてくださいまして、
それで、今のイスラエルがどんな状態なのか、それを主が言いさせてくださいました。
それで、イスラエルの状態を、その生死を見ることができました、ということです。
皆さん、例えば、私たちがどこか痛くて、風邪とか、あるいは変異株性が腫れたとか、
そうしたら、その病気から治るためには、その病気がどんな病気なのか、
病名をはっきりした上で、そして治療を受けなければならないんですよね。
皆さん、一人一人の、あるいは教会の、あるいはこの国の、この回復、リバイバルは、
まず、自分自身の状態を直視することです。直面することです。
今、自分がどんな状態なのか、神様が開いてくださる霊の眼をもって、よく見つめる、直視することです。
12:02
そこから、回復とリバイバルが起こるわけです。
皆さん、干からびた骨はどういうものでしょうか。
それは、神様を捨てたこの世であり、神様からはまれた人々の状況であり、
身体は生きていますが、恒久はしていますが、実は干からびた骨に過ぎないという、
今の私たちに対する見言葉であります。
皆さん、人の死には三つがあります。
一つは、この身体の死があります。
二つ目、魂、霊魂の死があります。
三つ目、永遠の死があります。
この身体の死は、身体と霊魂、霊が分離するとき、それを死と言います。
私たちは、いつかは、その死を迎えたるを得ないものです。
霊魂の死は、神様との断絶です。
例えば、ここにきれいなお花がありますが、
今は生きているように見えます。
でも実は、死んだお花に過ぎない。
長く生きても、一週間くらいでしょう。
いくら栄養たっぷりの水に生けていても、一週に生きないのです。
枯れて、捨てるしかないのです。
なぜでしょうか。
根っこから切られているからです。
命の根源から断ち切られているからです。
神様から離れた人間は、今は生きているように見えるのですが、
その魂は、命の根源から断ち切られたお花のようです。
三つ目の永遠の死があるとお話ししました。
しかし、私たちの霊が神様にお会いさえすれば、その魂は永遠に、
しかし、神様と断ち切られるならば、永遠の命じゃなくて、
永遠の死に投げ込まれるでしょう。
15:03
ですから皆さん、私たちが自分自身のことを見つめるときに、
あるいはこの世のことを見るときに、
神の名をもって、神の霊をもって、この世を見抜いていただきたい。
この世はですね、日本はですね、とても賑やかですね、華麗です。
生き生きとしたカオスです。
みんな生きているようです。
例えば、神戸だったら一番賑やかなところでしょう。
三宮?ハーバランド?
大阪だったら南波とか梅田とかどこでも濁りとかね、そういったところ。
滝に満ちているように見えます。
もう一律、若者いっぱいでですね、騒がしいです。
実は、死んでいるものに透きます。
実は、今日の御言葉の表現が変わりますと、
空びた、その、干からびた骨に薄い血がついていることに、
生きているようですが、実は死んでいるものです。
何でしょうか、その中には誠の命がない。
皆さん、今日の御言葉にもあるように、
ひどく干からびた骨だけでは何事も起こりません。
干からびた骨が山ほどあったとしても、そこからは誇りしか立たないでしょう。
実は皆さん、私たちもみんな、神様にお会いする前には、
みんな、このような干からびた骨のようなものではなかったのでしょうか。
いや、先生、私は立派な人でしたよ、という人がいらっしゃるでしょうか。
みんな、絶望でした。みんな死であり、みんな闇の中にとどまっていました。
身体は生きていましたけれども、魂は死んだものでした。
そのような私たちのところに、まず神様が先に訪ねて下さいまして、
先に御言葉を語って下さいまして、先に命を息を吹き込んで下さいました。
それで生き物に変えられたということです。
永遠の死から永遠の命へ移して下さったということです。
皆さん、この命を吹き込む作業を、働きを誰にできるでしょうか。
誰がすることができるでしょうか。
自分でいいえ、神様にだけおできになること。
18:08
今日の御説をご覧いただけますか。
まず御説を見ますと、このように神様は教えられています。
神である死は、これらの骨に、こう教えられる。
二を、私が、私がお前たちの中に息を吹き入れるので、お前たちは生き返る。
六説、私がお前たちに筋を付け。
その後半にですね、お前たちは、私が死である。
この死は、ヤーウェイという意味ですよね。
私が死であることを知ろうと語っています。
また十四説を御一緒にお読みしたいと思います。
十四説です。これを合わせて御一緒にお読みしましょう。
三、私が死である、私がこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。
死の三つ毛、ラーメン。
最後にですね、この時、あなた方は、死である私がこれを語り、私がこれを成し遂げたことを知ろう。
日本語の成語はですね、語り、その次に私がが抜いていますけど、言語には二回も繰り返す。
私がこれを語り、私がこれを成し遂げた。
みなさん、神様がなさる。
今日の御言葉をよく聞いていただけたらいいですか。
SSLをこの力げた骨のある谷間に連れ出されたことも神様です。
SSLに御言葉を語ってくださった方も、息を吐き入れてくださった方も神様です。
命を与えられた方も神様です。
力びた骨を生かしてくださった方も神様なんです。
最初から最後まで全てのことを神様がなされ、神様が成し遂げてくださりました。
これが救いの宮座であり、これが戒句の宮座なんです。
みなさん、誰が私を、あなたを生かすことができるでしょうか。
21:03
神様しか。
誰が生き返らなければならないのでしょうか。
私たちです。
あなたです。
私です。
さまざまな壊れた関係、親との関係、あるいは子供との関係、あるいは夫婦の関係、
自分のうちにある何らかの中毒の問題、あるいは自分のうちにある罪の問題、あるいは痛みのこと、
あるいは体とか心の病等々、これらの全てのことは、
ただ神様のみによって生き返ることができることを信じていただきたいです。
神様以外には希望がない。
三節をご覧ください。
もう一度読みたいと思います。
三節。
三杯。
アーメン。
神様がエゼキエルに、このようにおっしゃいました。
人の子よ、これらの骨は生き返ることができようか。
たどり合いました。
その時にエゼキエルは何と答えたのでしょうかね。
神主よ、あなたがご存知です。
このエゼキエルの答えの意味はどういう意味だと思いますかね。
こういう意味なんですね。エゼキエルは言い返しているような雰囲気です。
あなた神様は知っているでしょう。決まっているんじゃないですか。
ダメです。その答えなんです。不可能です。
もう神様、ひどく光られているんじゃないですか。
これは絶望で絶対言う気に。ダメです。不可能です。
これがエゼキエルの答えです。
皆さんしかし神様が尋ねられたその質問の意味は、
神様が答えが知りたくて、どうすればいいか知らなくて、
エゼキエルに神様が尋ねられたのでしょうか。聞かれたのでしょうか。
これらの骨は生き返ることができようか。これできるんだろうかね。
聞いているんでしょうか。そういう意味ではないんですよね。
神様のご意図は何でしょうか。
24:03
神様のご意図は身もねはですね、私がこの骨を生かしてあげたいんだと。
あなたがそれを信じてほしいの。
それが神様のご意図なんです。
この朝皆さん、神様に私たちに尋ねておられます。
優しく尋ねておられます。
あなたの心が生き返ることができようか。
あなたのうつうが治ることができようか。
あなたの魂が生き返ることができるんだろうかと尋ねておられます。
その時に皆さんもエズキルに答えないでほしいです。
死を治ります。あなたにはできますと。
答えることができるわけだってあったんです。
私があなたに回復を与えたいのだ。あなたにリバイバルを与えたいのだ。
私があなたを癒したいのだ。
これが神様の今日のお声なんです。
その命のお声に応答しようでありますか。
この世は希望のない世です。
とても良さそうに見えます。
日本は贅沢です。
大体皆さんは安定している生活をしています。
年金ももらえます。
他の国と比べたら、そんなに貧しい人々はあまりいないと思います。
しかし皆さん、この世から誠の希望を、望みを手にすることはできません。
これをまず私は認識したくてはならないんです。
この世には希望がないんだと。
その目を神様に向けて、神様を見つめ、神様を見上げなければなりません。
希望は上から与えられるものであるということ。
皆さん、どんなに最悪の状態であっても、
どんなに白く光られた骨であっても、
どんなにもうダメだ、不可能だ、無理だとそういうふうに見えてきても、
27:04
いや、神様にはできないことは何一つもある。
皆さんの心がどんなに弱くていても、疲れていても、
なかなか家族の反対がもう白くても、
絶望的な状況であっても、
この白らびた骨に息を吹き込まれ、命を与えられ、
それが息切って集団になったことができた神様は、
私のすべてのことを生き返らせてくださることができる神様。
皆さんですから、自分のあるいは周りの状態がどうであろうが、
それより誰が働くのか、それが最も重要でしょう。
例えばですよ、皆さん。
でも危険な病気の施術、オペがあったとしても、
医科大学の大学生にはそんなに難しいオペはできないでしょうね。
でもベテランの専門は何百回もそのオペの経験を持っている医者にとっては、
それはできることができるでしょう。
それを施術をすることができる、治ることができるということです。
状態がどんなにひどいのか、それを見つめないでください。
代わりに、まことの命であり得る神様に目をあげて、
皆さん、力びた骨の状態より神様の力が偉大です。
皆さんの痛みより神様の慰めの方がもっと深いです。
私たちのこの闇の世界、あの力より神様の光の力がもっとも明るいです。
死より神様の救いがもっと。
だからそれが神秘であり、それが奇跡なんです。
これを皆さん、伝道に当てはめていきたいと思います。
例えば皆さん、お宿題の方々とか、家族とか、
あるいは友人や知人の方に伝道されるときが皆さんあるんでしょうね。
そのときに大体私たちは、相手の心の状態をよく見たりするんですよね。
心が本当に深くしているのか、あるいは硬いのか、
それを見てですね、今生きていいのだろうか、
30:02
いやもう整った方がいいのかな、
そういう相手の状況をよく見たりするんですよね。
測ったりするときがあります。
でも、いくら待っていてもですね、
硬いパンが不確かな豚まんのようにはならないときがよくあるんです。
なかなか準備ができていない、反対が強い心がギュッと閉じている、隙間が見えてこない、
拒んでいる、あるいは迫害がひといときがあります。
しかし皆さん、今日の御言葉から教えられることは、
その相手の状況や状態を見つめるより、
その相手に神様の御言葉が語られるならば、
その魂が生き返ることは、神様がしてくださるということです。
だからエジェキエルはですね、今日実は彼はただひとつしかしていないんです。
ひとつのことしかしていない。何をしていますか?
神様から預かった御言葉を、それをいただいた御言葉、その通りに語ったことしかやっていないんです。
すべては神様がなしってことです。
ただエジェキエルは御言葉を代わりに預言しただけなんですよ。
生き返りなんです。一秒吹き込まれて立ち上がれと言っただけなんです。
でもすべては神様がなしといて、語った。
皆さん、私たち人間の領域と神様の領域、いや簡単に言えば、
私たちの役割と神様の役割があるわけなんです。
私たちは神様の役割をしなくていいんですよ、皆さん。
それは神様がわかって、神様がしてくださるから、それは皆さん心配しなくてもいいです。
ただ、私たちは自分の役割、御言葉をもとに伝えること、与えることだけで十分なんです。
スピーカーになればいいんです。スピーカーになればいいんです。
すべてなくてもいいんです。説得をもっては人を救いに導くことはできないんです。
ただ、私たちはスピーカーという道具にすぎないこと、語弁を伝えること、予言すること、それで十分なんです。
その魂が救われて命を得ること、共感して恋愛すること、それは神様がなってくださることなんです。
33:07
だからその相手の状況はどうであるか、それを見積み落としてエネルギーを費やしてしまうのではなく、
御言葉を時が悪くても良くても伝えさえすれば、神様が今日の力びた骨が一日変えたような恵みが起こる。
御言葉を一括一緒にお開けしたいと思います。
ヘブル人への手紙4の12節です。
皆さんよくご存知の方です。新約聖書428定義です。
では12節を御一緒にお読みしましょう。
神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と根地、別れ目さえも指し通し、心のいろいろな教えを判別することができます。
これが御言葉の力です。
だから御言葉により頼んで御言葉を伝えていきたいと願っております。
さあ、エゼキエルに戻りまして、7節を見ますと、
エゼキエルは、私は命じられたように予言した。
エゼキエルはですね、もう命じられた通りに予言しただけなんです。
スピーカーに挙げました、伝えました、伝えました。
そしたら予言していると音がした。
なんと大きなトトロッキ。
すると骨と骨とが互いに繋がった。
私が見ているとなんとその上に筋がつき、肉が生じ、血がその上をしっかり覆った。
しかしその中に生きはなかった。
私たちみんながエゼキエルようになりたい。
御言葉をみなさんのご家族に、友人の方、あるいは親族の方々に、御言葉を伝えてください。
御言葉を伝えてください。御言葉に力をかけてください。
36:01
僕にとってはですね、この説教も同じだと思うんですよね。
時にはですね、ものすごい力を入れて、本当に目線の準備をするんですね。
自分が恵まれてですね、これはすごい、本当に今日は本当にすごい恵みがあるだろうとですね。
そしたら大失敗。時がよくある。
でも加減せずに御言葉を伝えついた時に、その恵みは主が上から注ぎます。
これが御言葉の力。人の力ではないんです。
御観みなさん、更石からですね、5月7日から毎週火曜日訪問伝道を始めます。
一人でも多くの方々がこの伝道にですね、加えて出ていて述べ伝えてきました。
訪問してですね、世の闇に囚われて死に向かっていかないように、
主が必ず出会う人を備えてください。待っている魂に合わせてください。
御言葉をですね、述べ伝えていきたいと思います。
一つですね、分かっていきたいと思います。
神の恵みが御言葉の力はどれほど素晴らしかったのか。
福岡教会にですね、2年前から奥様から一方的に離婚を通知されてですね、
その旦那さんを一人だけ残されて、奥様と二人の子供は東京に引っ越していった、その男性の人が一人いました。
彼はですね、もう生きる意味を失ってしまったんですね。
もうものすごい真面目な人なんですよね。
もう家族のために必死に一生懸命に働いて働いてきたのに、奥様からもうこれでいいよって言っちゃってしまいました。
もうそれでその人がですね、もう命を自分で断とうかと思っていたんですね。
ものすごく押し込んでいたところ、彼の兄貴のようなクリスタルの人がいてですね、福岡教会に連れて行った。
こういうふうにですね、彼は最初ですね、もう教会っていらないと。
でもその知事の方は、もう死にても教会に連れてこなかったら、この人はもう死ぬかもしれないと思ってですね、
もう無理やりでも引っ立て教会に連れて来ました。
39:01
彼はですね、最初は本当に顔色は真っ黒でした。
家族に捨てられたという思い、本当に家族だけのために一生懸命にもう職場でそんなに頑張ってきたのにという捨てられた思いで、
絶望感や挫折感でもう眠れない日々が続いていたそうです。
その中で礼拝に一度、二度来ることに不思議になりまして、そこから僕先生とですね、今取り組もうしているASKというあの学びを始めました。
なんとか彼はその絶望の中にも置かれていたこともありますけれども、
なんとその学びをですね、大体1時間半くらいするんですけれども、ある時は2時間もある時は4時間もですね、学びをします。
ものすごい聖書を読み始めました。
もうメッセージもですね、ものすごくですね、本当にまとめる書き写しですけれども、ある時ですね、私も見せてもらってですね、
私の説教の原稿より素晴らしく書かれているほど、
彼は学びをしました。
家産も受け入れました。
洗礼も受けました。
今ですね、福岡教会でものすごい熱心な僧侶の一人一人としてですね、もう様々な奉仕をしている、恵まれているところです。
いつもですね、私のメールにたまに来てですね、先生、何か仕事があったら読んでください。
知らしをもき知らずのために行きますかとですね、そういうメールが来たりするんですけれども、
奥さんとの問題はまだ解決されていませんけれども、でも彼の思いは変わりました。
家様に出会いする前までは、もう死にたい、もう死しか考えていなかったんですね。
でも、今彼の心の中には、この夫婦の問題を必ず万事を得に行って、よく知ってください。
それで自分が後々、自分と同じ立場に置かされている人々に慰めを与えることができる、そしてお役に立ちたい。
そのために私を、こういう今、トンネルを通らせて語らないと。
その希望が与えられてですね、生き生きとして信仰生活をしているんです。
来月は長崎恵美課会があります。そこでまた、この赤城本人がそこでですね、またされるということですけれども、
皆さん、御言葉に力があります。エゼテルはこの御言葉だけをもべ誓います。
42:01
そしたら、つかわびた骨が生き返りました。
皆さん、この時代に本当に必要なメッセージは、複雑な御言葉ではありません。
イエス・キリストが闇から私たちを光へ映して語ると、神は実にその一人子を渡り成ったことに慰愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びことなく、永遠の命を持つためである。
真実を信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
皆さん、神の御言葉、真実、命です。
さて、8節へ行きましょう。8節に行きますと、最後にですね、
しかし、その中に息はなかった。
蕾が好き、肉が好き、衆がその上にすっかり覆ったんですけれども、まだその中には息がなかったんですね。
9節を私は読みます。
その時、血は覆せられた。
息に優言せよ。人の子よ、優言して、その息に言え。
神である血は覆せられる。息を四方から吹いて来い。
この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。
14節をもう一度ですね、14節の前半のところだけですね、ご一緒にもう一度読みたいと思います。
私がまた、私はあなた方の家に住みつかせる。
私の霊をあなた方の家に入れると、あなた方は生きる。
どうやって生きることができるのでしょうか。
神の霊が私たちの家に入れると。
入る時に、その魂が生き返ります。
その病が癒されます。
その心が回復されます。
その霊にリバイバルが起きます。
皆さん、神の霊が入りますと、干からびた骨も生き返ります。
生き返ることができない骨とかありません。
神様にお出会いさえすれば、干からびた骨も生き返ります。
神様に深く深くお出会いすれば、
いくら暗い暗い闇であっても、いくら強い痛みであっても、いくらひどい病気で、心の絡まる病気であっても、
45:09
死の見光が照らされますと、そこから新しい人生が始まります。
そう、手を神様がなしてください。
この位置は、神様の霊ですね。私の霊とおっしゃってますから。
それは三魂様なんです。
精霊様なんです。
皆さん、精霊様が三魂が入りますと、すべての人々は生かされます。
生き返ることができました。
だからこれは、今日の御言葉にあるように、御言葉から始まった回復なんですね。
御言葉から始まった回復なんです。
キリスト教は御言葉の宗教である同時に、三魂の宗教であると言えるでしょう。
この二つを同時に、私たちはおもんじていなければならない。
一方に偏ることはよくないと思います。
御言葉だけを供奉しすぎて、三魂が働きを無視することもよくないし、
あるいは御言葉を過論じて、精霊様の神秘的なことだけを求めることも健康ではありません。
御言葉と三魂の、それはもう文にできないことなんですよね。そもそも一つですから。
御言葉が語られるときに、精霊様が働いて下さいまして、
そこから変化と癒しと回復が起こることを、そういうふうに受け止めていきたいと願っております。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さん、命のあるものには、そこから新しいことが起きてきます。
皆さん、蒸した豆には何事も起きます。
しかし、枯らし種の小さいその種であっても、それはゴマより小さいんですよね。
その枯らし種から大きかったら2メートルほどの木が落ちます。
命のある邪術はですね、アスパラコスさえもスラも打ち破って出てくることでしょう。
どうか恋愛を通して、教会に主が支えてくださる恵みを通して、
しかし、私たちの霊が、心が、魂が生き返り、
新しい回復と新しいリバイバルが与えられますように切に切に願っております。
教会こそこの世の唯一な希望です。
神様は教会を通して、私たちを招いて、救って、回復、そしてリバイバルを起こしてくださいます。
48:04
この希望を持って今日も歩んでいこうではありませんか。お願いいたします。
ではですね、今日の御言葉を覚えて、今それぞれですね、静まて大共祈りを神様におさらいしたいと思います。
まずですね、主よ、本当に血からびた骨のようなこの者の霊も魂も心も体も、
今日どうかあなたが息を吹き込んで下さいまして、主を生き返らせて下さいと。
また周りの方々に神の御言葉が語られる時に、主を生き返る恵みを起こして下さいと。
御一生にお祈りしてまいりましょう。お祈りしましょう。
ハレルヤシオ神様、あなたの恵みの心から感謝いたします。
ハメシオ神様、私たちは皆、血からびた骨に過ぎません。
生きているようですが、実は死んでいる。
どうか主よ、霊も心も体もこの霊魂も、主よどうか、あなたの御言葉によって聖霊様の働きによってどうか主よ、
あなたが生かして生き返らせて下さいますように。主よ、立ち会わせて下さいますように。
主よどうか、本当に闇からお光へ、本当に主よ、痛みから喜びへ、本当に主よ、
泣いてからあった主かどうか、本当に私たちを、本当に引き上げて下さいますように。
お願い致します。どうか主よ、光を当てて下さい。
本当に主よ、癒しを与えて、回復を、祝いを起こして下さいますように。
この世には、希望が境界からあります。
悔いちゃんしかありません。神様しかありません。どうか主よ、神様により頼んで、
主だけを見上げて、主に本当に癒しを与えて、立ち上がって、本当に主よ、歩んでいけるように。
どうか主よ、あなたが恵んで下さいますように。
お願い致します。どうか主よ、あなたの恵みを引き寄せて下さい。
本当に聖霊を心の中に、あなたが御言葉を持って養って、どうか主よ、光を照らして下さいますように。
お願い致します。どうぞ主よ、神の恵みを本当に感謝致します。
どうか主よ、感謝致します。
阿弥陀佛をお祈り致します。
あなた方は、主である私が、これを語り、これを成し遂げたことを祈る。
阿弥陀佛をお祈り致します。
私たちはみんな、干からびた骨のようなものでした。
しかし、神様が先に訪ねて下さいました。
神様から先に、福音の命を語って下さいました。
神様から先に、命を吹き込んで下さいました。
神様から先に、私たちを救って下さいました。
始めから終わりまで全ては、神様の恩贈であられます。
どうか主よ、私たちに、神様から来る、誠の居合と、誠の回復、誠のリバイバルを起こして下さい。
本当に、今日お祭りの兄弟姉妹たち、一人の一人の霊、身体、魂を、
51:07
どうか主よ、あなたの御言葉と精霊のお働きによって、
主をどうか生かして、生き返らせて、立ち上がらせて下さいますように、お願いを致します。
どうか主よ、御言葉のあるところに命があることを、今日教えていただきました。
どうか主よ、私たちに大切な父親子を勇気を与えて下さいまして、御言葉を携わって、
今日エズキエルが予言したように、命じられた御言葉を通りに予言し、伝えることができますように、
どうか主よ、私たちの父親子を強めて下さいますように、お願いを致します。
どうか主よ、本当に共に礼拝したくても、様々な病気やあるいは事情があって、教会に来れない兄弟姉妹たち、
お一人の一人を、主を覚えていて下さい。そして同じ恵みを豊かに豊かに主が捧げて下さいますように、
それぞれのお家で賛美を捧げ、賛美を聞き、御言葉に本当に呼んで、
その中から本当に聖霊様が働いて下さる恵みが与えられますように、どうか主よ、助け、導いて下さい。
また様々な課題やあるいは心の病み、様々な本当に課題を抱えている兄弟姉妹たちを、主は本当に御存じです。
主に神様には全ての事を解決して下さる、成し遂げて下さる力がありますので、
どうか主よ、あなたが一人一人を愛を持って、慰めて、その涙を脱ぎ去って下さり、希望を与え、勝利を与え、将来を与えて下さいますようにお願いを致します。
教会の七人の役人さんを、主よどうか、あなたが見たまを持って、知恵を持って、満たして下さりまして、
本当に死のために、憎みのために、教会のために、兄弟姉妹たちのために、道徳王に用いられる役人として、主が本当に恵んで下さいますようにお願いを致します。
また様々な奉仕をなさる兄弟姉妹たちを、主よどうか、あなたが覚えて、その奉仕の技を通して、愛の労苦を通して、
教会がますます清掃し、また多くの人々が救われ、そして本当に喜びに満たされますように、その奉仕を道徳主がお持ち下さいますようにお願いを致します。
家族の救いのために、長い間涙を持って祈っている兄弟姉妹たちが大勢います。主、イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われますと、御言葉を信じてまいりますので、
どうか主よ御言葉がなりますように、その通りに本当に答えられることを信じてまいりますので、どうか主よ、あなたが祝して下さい。
今週はゴルデンクで採掘が入っていますけれども、どうか主よ、私たちの信仰の地が緩んでしまうことはありませんように、もっとこのような時に祈りに励み、御言葉に励み、
54:08
あなたは本当に恵まれることを求めてまいりますので、どうか主よ御言葉に祝して下さい。どうか主よ、御言葉を感謝します。イエス様の命令によってお祈り致します。