1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/04/21:聖日礼拝(旧音源)
2013-04-21 1:00:51

2013/04/21:聖日礼拝(旧音源)

2013/04/21 聖日礼拝(旧音源)




00:02
アーメン、ハレルヤ、感謝します。
みなさん、おはようございます。
今日、礼拝に初めておいでになった方々、あるいは、久しぶりにおいでになった方々、あるいは、毎週来ていらっしゃる方々、みんな、みなさんに、
イエス様の愛をもて、心から歓迎いたします。
礼拝は、みなさん、ついさんだけが集まる、会員制のクラブではありません。
イエス様を信じる方々も、あるいは、これから信じてみようかな、そういった方々も、みんなが等しく礼拝を捧げ、交わりをもて、あるいは、その中で一生の親子の仲間を作る、そこが教会です。
礼拝のメッセージが入る前に、新しい試みかもしれませんけれども、周りの方々と握手をしながら、交わりをもて、挨拶の時を持ちたいと思います。
よろしかったら、交わりをもて、握手をしながら、挨拶しましょう。
受けいらっしゃいました。
アーメン、ハレルヤ、感謝します。
一言、お祈りをいたします。
めぐめぐ大天皇、主な神様、今日も神様が天地を守ってくださって、また多くの方々が主の教会に集まりました。
賛美を捧げました。
祈りを捧げました。
また今からは、神様の御言葉に心を開いて、メッセージを受け止めます。
どうか神様、唯一の救い主神様が、今日の御言葉を通して、私たちに命のお言葉、恵みの言葉を通過しよう。
あなたがお語りくださいますように。
どうぞしよう。
希望を与え、慰めを与え、また闇の世界から光の世界へ、どうぞ主が導いてくださいますように。
お願いいたします。
上から満ちあうれる祈福を豊かに注いでください。
礼拝に来て、本当に元気づけられて、慰められ、希望を得て、そして一週間の歩みを本当に生き生きと歩んでいけるように、どうぞしよう。
信仰の勇気をお与えください。
感謝して、家様の皆によってお祈りいたします。
03:00
アーメン。
先ほど三浦姉妹の祈りにもありましたけれども、4月1日から始まった新年祝福大合祈祷会が、昨日の午前中の祈祷会をもって終わりました。
多い時はですね、一日延べでもう20人以上の方々がですね、蒼天も午前も夜も集まってですね、そもに本当に祈る中で多くの恵みが与えられました。
ある方々は、本当に昔の厚方信仰を主が改復してくださった、あるいは誠の悔やさみが不満なのか、それをまた改めて悔やるために導かれました、という方もいらっしゃいました。
ある方は、真の祈りはどんなものなのか、その恵みを改めて悟ったという方もいらっしゃいました。またある方は、古き傷から癒やされ、本当に回復されたという方もいらっしゃいました。
また、この退室がですね、祈る退室に変わりましたよ、というですね、多くの証がありました。すべては神様がなってくださったことです。
この話だけ聞くと、今日の礼拝が無くなりますので、それはですね、来月にですね、印刷をして、皆さんにお招きして、ともに明かしたですね、味わいのある神様に栄光をお返したいと思います。
では、今日のメッセージに入りたいと思いますが、今日のメッセージのタイトルは、教会とは第二です。福音の共同体という題を持って、ともに恵みをいただきたいと思います。
その前にですね、今日が私のメッセージ三回目、四回目ですかね。四回目ですけれどもね、下手くそな日本語でですね、発音もおかしい日本語でメッセージをされてもらっていますけれども、
皆さんがですね、よく熱心に聞いていらっしゃいまして、私こそ励まされてメッセージを取り付けさせていただいておりますが、本当に心から感謝をいたします。
皆さん、この世に存在するあらゆるものは、何かの力によって主導される、動かされると言えるでしょう。
例えばですよ、家庭の場合に、あるお家はお父さんが家庭の主導権を持って、引っ張る家庭がいる反面、いや、奥さんの方が強くてですね、奥さんの方が家を主導権を持って引っ張る家庭もいるかと思います。
06:05
あるいは、実際にはお金によってその家庭が左右される家庭もあるかもしれません。企業の場合はですね、企業の場合は収益によって動かされるわけなんです。
その利益をもうけるために開発をしたり、研究をしたり、あるいは投資をしたり、あるいはビジトラムをしたりするでしょうね。企業の目的は、簡単に言えばお金をもうかることです。
では皆さん、教会は何によって主導されるべきでしょうか。何によって教会は動かされることが神様に喜ばれる教会でしょうか。
この何によって、あるいは誰によって主導されるかに従って教会の行方が決まるということです。それですね、神様に喜ばれる方向に行くこともありますし、あるいは全く違った方向に行ってしまうこともあり得るということです。
例えば一つ目、人間によって主導される教会があります。去年ですね、私、札幌にお訪ねしたことがあるんですけれども、ある教会から話を聞いた教会です。
その教会が街道を建築するときに、ある一人の信者さんが7割、8割ぐらいの献金をその信者さんが捧げました。そこまではよかったんですけれども、その後からは内部の恩許やさまざまなことをほとんどその信者さんが献金を捧げてできたわけですが、
その後はですね、その教会の中で、教会の行事やあるいはゲストを呼ぶこととか、何もかもですね、役員さんの意見より、僕先生の意見より、その信者さんの意見が一番重要です。
それはその教会が動かされる場合もあります。神様が教会の頭ではない、人間が教会の頭である場合です。神様が放つまれるでしょう。あるいは、教会が予算によって、その文明によって動かされる、主導される教会もあり得るということです。
会議をしたら、予算がどれくらいなのか、どれくらいかかったか、どれくらい残ったのか、それにいつもそこに集中しすぎている。
09:11
それがですね、これから福音のために前向きにですね、未来を準備するためのものであればいいんですけれども、主な関心がですね、お金をどれほど使ったか、どれほど残ったなのか、福音を働く働きに、あるいは人を養って育てる働きに関心を持つことではなく、お金によって主導される教会があり得るということです。
神様がくださる希望をつかんで、それに集中するのではなく、お金にですね、とらわれて、そこからなかなか抜け出られない場合もある。これも神様が放つまれることです。
3番目は、伝統によって主導される教会があります。神様が喜ばれる礼拝、福音を述べ伝える、救いに前進する、人を養うことより伝統や歴史を守ることを最も重んじる教会です。
新しい働きをしようとしても、これが福音にふさわしいものなのか、御言葉にふさわしいものなのかが基準ではなく、昔やったことがあるかどうか、伝統的にそれがあったかなかったか、それを基準にするケースです。このケースも神様が放しまれることです。
皆さん、私たちの人生においても、教会においても、この目的と手段が変わってはなりません。
考えていただきたいと願っております。
皆さん、お金を設けることが人生の目的でしょうか、手段でしょうか、健康に生きることが人生の目的でしょうか、手段でしょうか、勉強することが目的でしょうか、手段でしょうか、いい会社に就職することが目的でしょうか、手段でしょうか。
職場を例えば、就職すること、いい会社に行って勤めることを人生の最大の目的にしている人を退職したら、あるいは職場を失った場合に、人生を生きる意味さえもなくなってしまって落ち込む場合があります。
12:03
職場は人生の目的ではありません。
あるいは、皆さん、結婚は人生の目的でしょうか、手段でしょうか、それも手段でしょうか。
では、教会の場合に見てみましょう。
教会の予算は目的でしょうか、手段でしょうか、教会の伝統は目的でしょうか、手段でしょうか、教会の礼拝形式や順序は目的でしょうか、手段でしょうか。
皆さん、目的を知らないと、ぼうぼう泊まる海の上で潮流する船と同じです。
ですから、この目的を確実にすればするほど、人生はそれでない人生と全く違った方向に行ってしまうということです。
教会も同じです。
教会が目的を確実にしていればいるほど、その教会の中に神の栄光が恵みで満たされるということです。
皆さんの人生の目的は何でしょうか、健康に百歳まで生きられることでしょうか、皆さん、それも良いことでしょう。
あるいは、ただ単なる幸せに生きることが人生の目的でしょうか、
あるいは、お子様たちを成功させることが人生の目的でしょうか。
皆さん、作り主なる神様のうちで、皆さんの人生の目的を、ゴールを見出していただきたいです。
それで、その人生のゴールに向かって活動を続けていきたいと思います。
私の人生の目的はただ一つです。
それは、日本福音か、でございます。
それを通して、神様に栄光をお返しすることでしょうか。
皆さん、教会も目的はただ一つ。
全ての国に、全ての民族に、イエス・キリストの福音を述べされて、
そして、全ての人がイエス様の弟子になって、
そして、神から来る、天から、上から来る、本当の幸せを得て、
そして、このうちに、神の国の到来のために生きること。
15:01
それが、教会の目的なんです。
それが、教会の存在の理由です。
他のことのために、力を、エネルギーを、無駄遣いしてはならないでしょう。
この目的をはっきり言って、持っている教会には希望があります。
いくら人数が少なくても、希望があります。
私たちのような明堂の教会には、希望があると信じたんです。
希望があります。
イエス様はなぜこのうちにおいでになったのか、
そのことを私たちに教えてくださる見言葉があります。
そのところを、一緒に見てみたいと思います。
新約聖書の中に、ルカモ福音書という聖書があります。
114ページです。
ルカモ福音書、第4章、43節、116ページです。
よろしいですか。
それでは、一緒に読みたいと思います。
三杯、しかし、ありません。
私はそのために誓わされたのですから、アーメン。
ここにですね、イエス様が、ご自分がなぜこのうちにおいでになったのか、
その目的をはっきりとですね、語られているんですよ。
どうしても、神の国の福音を述べ伝えなければなりません。
私はそのために、福音を述べ伝えるために、誓わされたのですから、アーメン。
皆さん、イエス様が、神の国の福音を述べ伝えるために、このうちにおいでになりました。
その教会の頭が、イエス様であります。
そうしたら、教会の目的、存在理由は、ただ一つ、神の国の福音を述べ伝えることです。
そうやるならば、私たちも、この福音を述べ伝えることのために生きるべきです。
その福音のために教会が存在し、その福音によって教会が主導されるときに、
18:02
教会も私たちも、最高の幸せを味わうことができるんです。
福音中心の教会です。
ひたすら福音によって指導される、ひたすら福音によって方向が決まる、
ひたすら福音によってビジョンや計画が立てられる教会。
皆さん、この朝、シュイエ様が私たちに問われていました。
あなたは何のために生きているのか?
あなた方の教会は何によって指導されているのか?
福音によってなのか?他のことによってなのか?
お答えを聞いていただきたいと思います。
どうか、今日ここに集っていらっしゃる皆さん、お一人お一人が、
また、妙谷教会が、ひたすら福音によって指導される、
福音のために歩んでいく私たち、また教会でありたいと説明願っております。
では、福音って何なのか、それについてお話ししたいと思うんですね。
福音とは一言で言いますならば、神様の救いの計画であります。
救い主なる神様の救いの計画です。
聖書の中で、その福音の一言で一番よく表している箇所があります。
二つの箇所を見てみたいと思うんですが、まずは、
ヨハネによる福音書、ヨハネの福音書、3章16節。
暗記していらっしゃる方もおられたと思いますが、
ヨハネの福音書、第3章16節、新約聖書、177ページです。
では、16節をご一緒にお読みしたいと思います。
3、神は実にその一人子をお与えになったほどに、要愛された。
それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を求めて、アーメン。
皆さん、これが福音です。
これが教会の存在理理です。
イエス・キリストは、実にその一人子をお与えになったほどに、あなたを愛されました。
21:00
あたたきを愛されました。その教会を愛されました。
それは、信じる者が、その御子をイエス・キリストを信じる者が、一人として滅びることなく、闇の世界に留まることではなく、永遠の命を持つためである。
皆さん、これが福音です。
教会はこのために働ければいいのです。
もう一か所、今日の本文ですが、ローマ日という手紙、第一章、十六節です。
今日の過去ですね、290ページです。
十六節だけご一緒にお読みしましょう。
3、私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力です。
アーメン。
皆さん、キリストパウル先生が、はっきりと、福音はこれなんですけど、私たちに、はっきりと、優しく、分かりやすく、教えてくださいました。
福音は、ユダヤ人にも、ギリシア人にも、全ての人々を指します。
全ての人々に、信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力です。
これが、ですから教会は、私たちクリスタンは、イエス・キリストの救いのために、
救いを得させる神の力によって、主導されるべきですし、またこれからも、主導されていかなくちゃありません。
ですから、教会で行われる全ての働き、全ての奉仕の究極的なゴールは、この福音にあります。
救いを得させるゴールに、フォーカスを当てて、行っていきたいと、そう願っております。
それは、福音に集中することです。
イエス・キリストの救いに集中して、働き、歩み、走り続けることです。
ですから、その以外のものは、実はそんなに重要なものではないです。
あってもいいですし、なくてもいいです。
してもいいですし、しなくてもいいでしょう。
さらには、この礼拝の開度があってもいいですし、なくてもいいです。
開度がなくても、いくらでも福音の見合わせが起きてくるんです。
24:02
東京と西の宮にも、教会がありますけれども、東京はダイズハウスという教会、また西の宮にはクロスロードという教会がありますけれども、
そこは教会というのの開度はありません。
毎日ホールを借りて、礼拝をしているんです。
事務室一つしか持っていない。そこに荷物を、楽器とか様々なものを置く保管の倉庫みたいな事務室が一個しかない。
もう教会全体が、人も教会も軽いからアクティブなんですね。
だから、この福音を述べ伝えること、福音を得させる働きに集中するんです。
他のものはもう、枝打ちをして軽いんです。
だから、小さい赤ちゃんから小学生、中高生、もう青年、尊年、婦人も外国人も数百名が集まって礼拝をしているんです。
福音に集中すると、そこに力が起きるんです。
私たちの明太民教会も、さらに軽くなったらいいなと思うんです。
大使は軽くなったらいいです。
教会は軽くなって、礼拝もシンプルになって、伝統やあるいは格式を重んじるより、
礼拝での喜びを、神様を喜ぶ感激と感度ある礼拝を失わず、その福音に集中していきたいと、そう願っております。
皆さん、お年とは関係はありません。
去年ですね、北海道のトマコマイという市にですね、私、お勧めした教会がありますけれども、
私と同じの韓国の選挙区が同盟教団の母会をしているんですね。
もしかしたらその町が、神を救う会社が活発だったので、ものすごい賑やかな町だったんですけど、
今はもう町自体が衰退している町なんですけれども、
その先生が赴任したときに、教会には本当におじいちゃん、おばあちゃんばかりの20人あまりの信者さんが集まって、教会を守っていた。
その先生が赴任してですね、どんどん教会が軽くなって、若くなりました。
礼拝もですね、まるで若者たちが集まって賛美集会をするみたいにですね、みんな最初から最後までですね、立って賛美して、手挙げて賛美してですね、もうするんです。
州内市のこの前にですね、州内市の内都会もですね、毎日50人あまりがですね、おじいちゃんが集まって礼拝をするんですね。
27:06
今は礼拝が、その先生が赴任して、4年くらい経ったと思うんですけれども、80くらいの子供から子供で集まって礼拝をするんですね。
教会が若くなって、本当にもう福音だけに集中していく中で、その町にジバイバが起きている。
皆さん、キュリーさんが、教会が福音を逃してしまう、あるいは軽んじてしまう、あるいは失ってしまったら、脳死状態の人と同じです。
生きてはいますが、何事も一つすることはできます。
しかし福音に指導されて、福音だけに救いに集中して歩んでいけば、そこに素晴らしい神の御朝が、神の栄光が、救いが次から次へ起こされます。
闇の世界から光の世界へ、また足風から鎖から解き放たれて、真の回復を、真の恵みを受けることができるんです。
それが教会です。それがキュリーさんのライフなんです。
選挙の人の働きというところがありますが、参出館の特別記者会でも初代教会の特徴をたくさん教えていただきましたが、
エルサデモ教会をはじめ、初代教会は福音のみを持っている教会でした。
その他のものには持っていないんです。出て行って福音を述べ伝え、伝導して、集まって恋愛をする、祈りをする、魂が生かされ、癒される。
そして、そのエルサデモを越えて、今のプルコですね、政府にはアジアとなっていますけど、トルコへ、ギリシャへ、イタリアへ、ローマへ行って、福音を述べ伝え続けること、それだけなんです。他のことはありませんでした。
パウロをはじめ、ピリフォー、彼らはですね、行く所々で、相手が誰であろうが、公館であろうが、奴隷であろうが、女性であろうが、男性であろうが、子供であろうが、お父さんであろうが、
見事を述べ伝える。イエス・キリストは死です。このイエス・キリストを信じれば救われます。イエス・キリスト以外には福音はありません。それだけを述べ伝えてきました。
その所に解放があり、解散り、恵みがありました。
福音によって生きる聖書の中の一つのケースをお話したいと思います。
30:10
プリスキダ・アクラという夫婦があります。皆さんご存知でしょうか?聞いたことありますか?プリスキダ・アクラという夫婦がありますね。
この夫婦はもともとローマに住んでいました。イタリア人ということですよね。ローマに住んでいたんだけど、その国の事情があって、彼らは今のギリシャ、コリンプス、コリントに執行してきたんですね。
そこでファウロ先生が伝道する時に、一緒に同じ家で住みながら、そこでテントを作りながら、共に働きました。
その夫婦は、テントを作って、商売をして、お金をもって、金持ちになることが有名ではなかったんです。
テントを作って、商売をして、お金を持って、ファウロ先生がもっと多くの人々に、もっと広いところに行って伝道できるように、すべてのものを支え、そして捧げる夫婦でした。
また彼らは、なんとそのギリシャのコリントから、この福音のために、丸ごと今のポルコのエペソに執行していきました。
それで自分の家を教会にしました。
そこでまたファウロ先生が来た時に、またテントを作りながら、彼らは職になったわけですよね。テントを作りながら支えていたんです。
その後は、また彼らはですよ、そこからまたイタリアのローマにまた引越していきました。
そこでまた教会をやっていたんです。
なぜでしょうか。福音に囚われたから、人生の目的がはっきりしたんです。
プリスキラ、アクラにとっては、家や自分の土地や自分の財産や持ち物や、あるいは職業さえも、それは目的ではない。
ただ単なる手段、道具につきまして。
ですから、いくらでもですね、ギリシャからポルコやクラクバからイタリアへ、いつでも動くことができるわけなんです。
皆さん、すごくすごいと思いませんか。
手段は、道具は目的のために、いくらでもですね、変えることもできますし、捨てることも、諦めることもできるわけなんです。
願うわけは、私たちのニョーラニー教会にも、このプリスキラ、アクラ、フーズのような方々が、たくさん起こされることを切磋に願っています。
33:11
皆さん、こんな夢を持っていた人たち、私の家もこのプリスキラ、アクラ、フーズのように、死のために生きようと、そういう夢を持っていこうではありませんか、皆さん。
アーメンがないことはあまり関係がないですか、皆さん。なりたくないんですか。
皆さん、福音のために、ジエス・キリストのために、キリストの従事家のために、人生を送っていただきたいです。
福音のために命を懸けるときに、教会は、クリシャンは、この1世紀の時代に、ローマによって非常に激しい迫害があったんですね。
今もそうですよ。アフリカのスタンとか、他の国々でですね、今ですよ、毎年、約10万人以上のクリシャンが命を失わされて、福音のためなんです。
でも、そのクリシャンによって、ローマが変化させられ、またヨーロッパが変化させられ、この世界が、まるで福音を持っているからです。
皆さん、さっきも言いましたけれども、初代教会は、すべてのものがシンプルでした。シンプルでした。
集いも礼拝も、すべてのものがシンプルです。だから軽いです。複雑ではありません。
格式も形式もありません。品格、行品、そんなこと、そんなに重要なことではありません。
ただ、神様を喜ぶこと、それが教会の仕方ではありません。
しかし、その福音に人間たちは、何かを一つ、二つ、三つ、四つ、しきりに、しきりに、そこに付けました。付け加えました。
それですね、もっともっと重くなりました。重たくなりました。
それで、習政時代には、教会が、初代時代には福音だけを持っていた教会の中に、さまざまな儀式が、形式が、一つ、三つ、四つ、しきりに入って、入って、付け加えられていったんですね。
それで、礼拝も順序も、教会も複雑になり、軽視化になりました。
カイドだけ、もう、でっかくですね、作っていきました。
36:03
この福音の純粋性に、人間が何かを、もうですね、一気に付け加えて、付け加えて、しかけ、重たくなったんです。
巨大なサイコロがなければ、教会でないように、厳粛な姿に沿って、打てなければならない、そういうふうに。
習政時代の教会は、そういうふうに、福音より、十字架より、祝いより、儀式や形式や建物や建築を重んじていまして、祝いも変質してしまったわけなんです。
高壇からは、教会からは、福音は、十字架はなくなってしまいました。
徹角を押し、徹角を語ることになりました。まるで抜け殻だけが残ってしまったわけです。
習政時代の教会は、そういうふうに堕落していきました。
教会もクリスチャンも、福音の力を失ってしまったということなんです。
皆さん、私たちは、福音を回復していただかなければなりません。
教会の中に、もしも、この福音をイエス・キリストの十字架を伝えることのために、もし、それを妨げる、遮るものがもしもあるならば、それを枝打ちをしなければなりません。
主イエス様が回復してくださるように、祈りを持って、まず、私たちの内側から主が帰ってくださるように、祈りを持って、祈りを持っていかなければなりません。
皆さん、例えば、果物で例えて言いますと、皆さん、リンゴとか桃とか、お好きですか、ぶどうとか、その栽培をするときに、リンゴや桃やぶどうを栽培するときに、
ちょっと腐ったものとか、あんまりでは小さいものは、そのまま置いておかないんですよね。切って捨てるんですよ。
なぜですか。この他のものがもっと甘い、おいしい、食べたくなりますね。そのために、栽培するために、ちょっと腐ったもの、いらないものを、枝打ちをするわけなんですよ。
それをして、もっといいものを得ることができるということです。教会の中に福音をさまたけること、神様に集中するのに、それを邪魔になること、
もしも、そういった不必要なものがあるならば、それに礼も心もエネルギーも、無駄遣いしないために、枝打ちをしなければなりません。
39:07
皆さん、私たちの第一サイクルも同じなんです。礼拝するために、神様を喜ぶためには、無駄な時間、無駄遣いを、枝打ちをしなければならない。
日曜日の礼拝にですね、もっと目を覚まして、礼拝するためには、土曜日も早く寝られたほうがいいでしょう。
様々な忙しがあるかもしれません。あるいは、見たい映画があるかもしれません。
それでですね、11時、12時、1時までですね、覚めていて、日曜日の礼拝、なかなか強く守ることは難しいです。
神様に喜ばれない、そういった行いがもしあるならば、枝打ちをして、シンプルに軽くしなければならない。
どうか、私たちの明太の教会がですね、この福音の力を回復していただきたいと願っております。
一つ、教記を通して教えられることがありますけれども、皆さん、2012年の統計ですが、世界の大陸別にですね、
クリスチャン人口が一番多い大陸は、どこなのか皆さんご存知ですか?
クイズです。一番、北アメリカ。二番、南アメリカ。三番、ヨーロッパ。四番、アジア。五番、アフリカ。
どっちでしょう?これでしょう?アフリカです。アフリカです。
アフリカの今のクリスチャン人口は、約4億人以上です。全体人口と比べたら、約半分ぐらいがクリスチャンなんです。
例えばですよ、セイント・ヘリエナという国がありますけれども、97%がクリスチャンです。コンボは95%がクリスチャンです。
アンゴラは94%がクリスチャンです。ブルンビは91%。ダンビアは83%。ケニャンは80%がクリスチャンです。
アフリカのリバイバルには、彼らの純粋な信仰があるんです。それが一番大きな力なんです。
選挙主や、あるいは現地のですね、牧師たちがですね、福音を述べ伝えるんですよね。
そしたら、この御言葉をそのまま信じて受け入れるんですよ。だから100%を純粋に受け止める。
だからですね、現地の牧師たちが、あるいは選挙主が御言葉を伝えるんですよね。
42:03
例えば、いくつのウオとか、そういう出来事とか、あるいは病気が38年間病んでいた人が癒された、そういうメッセージを語るんですよね。
そしたら、自分たちもその通りに信じるんですよ。受け止めさせてもらう。
だからそこでですね、もう悪霊に取り憑かれた人が癒されることも、盲人の目が白かれることも、
もう生まれつきから歩くことが出来なかった人が、歩くことが出来る癒しが、
個人自体がまるまるクリスタルになるリバイガルが起きるんです。
なんて言われるでしょうか。福音の純粋性。またクリスタルの純粋性があるんですよ。
御言葉が語られた時に、本当かしら、とかですね、マジで、とか、あるいは今はちょっと無理じゃない、そんな測ろうとする一切ものがない。
そのまま、御言葉そのまま、神様の約束だから、そのまま受け止めるんですよ。
子供も大人も、だから素晴らしいリバイガルが起きるんですよ。
皆さん、貧困はシンプルなことです。貧困は複雑であり、侵含や共有があることが良さそうに言えるかもしれませんけれども、
でも実は私たちは騙されていることに少ないことです。
反面、皆さん、ヨーロッパの教会を見てください。
伝道や建物、形式ばかりを重んじていた教会は、今どういうふうになっているんでしょうか。
福音を失ってしまいました。
この神の御言葉を文学仕様というものとして、もう聖書の御言葉、神の御言葉を粉々にしてしまいました。
今、ヨーロッパの教会は脳死状態です。意識不明です。
例えば、昔の福音で栄えていたイギリスは、今、クリスタル人口がなんと2%くらいです。多くとっても6%くらいです。
さまざまな理由があるでしょう。さまざまな理由があるんですね。
そのところに、福音を重んじることより伝道を起こっていました。
でかい、そして本当に華麗な街道を起こっていました。
45:00
すごく大きなパイポールが起こっていました。
みんな綺麗で、本当にそういった服を着て教会に来ることを起こっていました。
しかし、その中に福音の力はもうなくなってしまった。伝道しようともしない。
御言葉をそのまま受け止めようともしない。
それが今のイギリスをはじめオランダとかドイツとか、ヨーロッパの業界の実態なんです。
日本はですね、イギリスの影響を多く受けていると思うんですね。昔から。
だからイギリスやイギリスの文化をみなさん好んでいるのではないかなと私は思ったりはしますけれども、
内閣制度とか道路とか交差とかあちこちいてもですね、英国館という喫茶店の辺じゃないですか。
そのうちに自然に日本のキリスト教の中にもイギリスキリスト教の文化が様々入ってきています。
深く目を下ろしているんです。
みなさんはそれは気づいていないかもしれないんですけど、そこから来たものには、それが目にもう自然と入ってくるんですよね。
良い面も確かにあります。
でも福音を福音と語弁を伝えない、教えない、学まない、福音をおもんじるより伝統や形式ばかりおもんじていたイギリスやヨーロッパの教会は衰退して、
イスラム教にあるいはノミアにそのカイドウがですね、まるまる売られている実態が今の向こうの実態です。
ですからみなさん、今ですね、もう世界選挙学者も様々な協議会においてもですね、キリスト教はもう欧米の宗教ではないと決定している、言われている時代になっています。
みなさん、福音の以外のものは実は持っていなくても大丈夫です。
福音さえつかんで、それにさえ集中していけば、そこにリバイバルが起きる、救いが起きる、回復が起きるんですよ。
私、結構前ですね、中国に1回だけだったけれども、中国に行ったことがあります。
礼拝をしたことがあるんですけれども、3秒するんですよね。2時間、3時間、もう3秒するんですよ。
私もちょっと明らかだったんですけれども、もう2時間、3時間経ってですね、もう手拍子で両手挙げて3秒するんですよ。
48:05
それである人が祈り始めるんですね。そしたらみんながまた祈り始める。またもう一人が祈り始めるんですね。祈り始める。
そしたらまた誰かが3秒するんですよね。そしたらみんなが3秒するんですよ。
それでいつの間にか先生が前に立って、誰が先生なのか福音を見てはわからないんですよね。
立って、メッセージを1時間以上でする。その後祈って、ある人はもう膝をまづいて祈る人、立って手を挙げて祈る人、
あるいはもう椅子に座って静まって祈る人、様々に神様に礼拝するんですよ。
それで研究もして、もう礼拝がですね、4時間ぐらいでした。4時間ぐらい。
ある人はですね、礼拝に来るために1日もう10時間以上歩いて来る人もいる。
あるいはもう2日、3日かかって礼拝に来ている人も稀ではない。普通に福音そのものだけなんです。シンプルに。
今ですね、四国のクリスチャン人口は1億人越しました。日本の全国の人口ほどのクリスチャンがあの国にある。
でも四国もですね、国が公認した三社教会がありますよね。そこはヨーロッパみたいにですね、景色があるんですよ。
カタクリの景色があるんですけれども、建物は立派なんですよね。国が建ててくれたから。でもそこには福音はない。
人は集まっているんですけど、脳死状態。しかし家の教会、様々な福音を掴んで祈っている教会はリバイバルと起きている。
皆さん、歴史を通して学んでいただきたい。歴史を通して学んでいただきたい。
なぜヨーロッパのあるいはイギリスの教会が失態しているのか。福音の力を救いを得させる力を失ってしまったか。
なぜアフリカとか中国の教会に爆発的なリバイバルが起きているのか。福音のみに集中しているから。フォーカスを当てているからです。
皆さん、私たちは福音のために生きている。この救いを得せる力を土で伝えることが教会の使命であり、ツリーさんの使命であります。
これが教会の本質であり、救いの本質であります。初代教会の信者は御言葉を教えて学ぶこと。人々をイエス様の弟子にすること。
51:03
それでイエスを信じる者たちが集まって、お互いに支え合い、祈り合い、そしてお互いに癒し合われる、そして神の国を立て上げていくこと。それだけでした。
今の教会もそこに集中しなければなりません。これが教会の本質です。教会は福音の共同体です。
教会を主導する力は、ただ福音しかありません。皆さん、私の教会は、いや、私一人一人は神なる御子イエス・キリスの死死を代化として買い取られた尊い存在であります。
教会が福音を掴むときに、教会がイエス・キリスの福音だけを集中するときに、そこに神の国が来ます。救いが起きます。
解放と回復が与えられます。全ての悪霊が逃げ去ります。そのうちに神の栄光が輝く照らされるでしょう。
これが教会の使命であり、クリスタルの皆さん。教会は救いに集中すればいいのです。教会は伝道を知ること、御言葉を教えること、学ぶことに上手になればいいのです。
例えば、皆さん、ボクシング選手がいたとしましょう。ボクシング選手は、ボクシングが上手ければいいのですかね。
ボクシング選手が料理が上手だから、奥さんに愛されるかもしれないのですけれど、選手としては失格なんですよね。
例えば、塩。塩は、その塩味、しょっぱい。だからそれが塩なんですね。だからそれが申し訳ない。塩はしょっぱくない。それはいらないんですよ。知ればいいんです。しょっぱくないものは塩ではない。
福音を持っていないクリスタル、福音を持っていない教会は、実は教会ではありません。私たちが誇るべきことは、イエス・キリストの十字架だけです。
福音だけです。だから、教会はこの福音の味が、イエス・キリストの十字架の味が、恵みの味がしなければならないのです。
皆さんから共に話し合ってみて、比較してみて、混ぜ合ってみて、皆さんから救いの味が、恵みの味がしなければならないのです。
どうか、皆さんお一人お一人が、また平谷教会が、これからさらにさらに、このイエス・キリストの十字架と復活し、またこの福音だけを述べ伝え、福音だけを誇る教会、そして信徒でありたいと、そう願っております。
54:15
それで、わざわざと通して、この街が、この神戸が、この日本が、この世界が潤され、そしてイエス・キリストの十字架が与えられることを待ち望み、希望を持って歩んでいきたいと、そう願っております。お祈りしました。
いやですね、今日の御言葉にそれぞれ与えられたメッセージがあると思います。その御言葉を覚えてですね、本当に主を、私の生活において、福音を妨げるものがもしあるならば、それを得直しできるように助けてくださいと。
妙太の教会の、本当に知名を改めて、主を確認させてくださって、ありがとうございました。妙太の教会が、さらに福音のために前進していけるように、助けてくださいとですね、心を合わせて、御一協にお祈りをしていただきました。お祈りしましょう。
ハレルヤ天の地下神様、あなたの恵みを心がかけて、あなたが、どうか一人一人が、福音の上に立ち、神の恵みの上に立って、人と共に歩むことができますように、教えを示し出して、導いてください。
我ら一人一人が、ほずれ、福音だけを掴んで、福音のために生きる、福とために人生を捧げるものでありますように、どうか一人一人が、我らの両身に、どうぞ、あなたの光を照らして、人と共に歩むことができる教会と神父とならせてくださいますように、お願いします。
人と共に歩む、教会と共に歩む、神父とならせてくださいますように、お願いします。一心と悩みも上にも、一応どうか、あなたが豊かに祝って恵んでくださいますように、お願いします。
お祈りをさせていただきます。
めぐみをかい、天のちな神様、あたさちを闇の世界から、かいとってくださり、あかなって、すくってくださって、しかりのうちに、あたさちをみちりいてくださった、あなたのめぐみを、心から感謝いたします。
どうかしよう、あたさちが、福音のために、福音のみのために生きるものとならしめてください。
信仰様かける、清め上げ様かけるものが、もしもあるならば、神の力をいただいて、枝打ちをして、もっともっと、さらにさらに、清められますように。
そして、また、イエス・キリストの十字架のために、福音のために生きることができますように、どうかしよう、あなたがみちりいてください。
57:09
我らの明堂の教会を、主よ、今日まで主が守ってくださったことを、心から感謝いたします。
これからさらにさらに、主よ、この福音のために、福音の伝説のために、伝説のために、福音のために、伝説してまいりますので、どうかしよう、これは、見世によらず、知識によらないことであります。
ただ、見様によることでありますから、どうかしよう、あたさちに、上からの力や知恵を、あなたが注いでくださいますように、お願いをいたします。
そして、明大教会のうちに、本当に小さい赤ちゃんから、お年寄りの方々まで、全世代、全年代が、集まって共に礼拝を捧げ、神様を喜ぶ教会でありますように、
救いの本当に源泉としてしよう、どうか、我ら一人一人を、明大教会を、あなたがどうぞ主よ、当国を大いに用いてくださいますように、お願いをいたします。
教会が、本当に、さらにさらに、シンプルになって、本当に、ただ、福音のために歩んでいけるように、どうぞ、しささしく、導いてください。
いつも、教会の様々な活動のために、奉仕をしてくださる、兄弟姉妹を、どうか豊かに覚えてください。
役員の方々、一人一人を、神様覚えて、本当に、ステファニルのように、ピリッパのように、本当に、見様に満たしてくださり、知恵に満たしてくださりまして、
他の信徒の信仰的に、模範になりますように、本当に、神様、その過程においても、豊かな祝福を、巻き返ってくださいますように、お願いをいたします。
役員の一人一人を通して、本当に、周りがうろうたれ、恵まれますように、日本中の中で、本当に、最も模範的な役員さんとして、主が、本当に、見つけてくださいますように、お願いをいたします。
また、福岡県の方々、他の、さまざまな聖火祭や、ほどなむや、花の会や、あるいは、さまざまな伝言のために、手紙を送ったり、訪問をしたり、電話をしたり、本当に、さまざまな報酬が来てくださる、愛する兄弟姉妹、一人一人を、死を覚えてください。
彼らの祈りと涙の、その報酬を覚えて、死をどうか、あなたが、小さかに報いてくださいますように、お願いをいたします。
また、家族の助けのために、ご主人の助けのために、長い間、長い間、祈って、祈っていらっしゃる、兄弟姉妹の、その祈りに、死をどうか、あなたが、答えてくださいますように、お願いをいたします。
家族ととって、死を賛美する日が、近づいていることを信じますので、どうか、貴方が豊かに、祝してくださいますように、お願いをいたします。
また、がんや、さまざまな身体の病気、あるいは、心の病の上に、さまざまな家庭の事情の上に、本当に、死を悼んで、苦しめる方々が、大勢います。
どうか、死を、死を、あなたの御言葉によって、あなたの福音の力によって、どうどし、あなたが、癒してください。
1:00:05
また、こき放してくださいまして、神様から来る、真の自由を体験できますように、どうどし、あなたが、憐れんでくださいますように、お願いをいたします。
3時間の人帰りを、本当に感謝いたします。これからも、さらに、さらに、祈っていく教会とあらわされてくださいますように、お願いをいたします。
新しく始まる伝道も、また、優秀礼拝も、また、スモールグループも、本当に、神様に高みに用いてくださいまして、
そこから、恵みが甘く加えられ、本当に、神の喜びを、本当に、思いっきり、本当に、一応、味わうことができますように、
どうか、死を助けて、導いてください。お願いをいたします。
感謝して、神様の皆によって、お祈りをいたします。
アーメン。
01:00:51

コメント

スクロール