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おはようございます。それでは、奨励と明かしをさせていただきたいと思います。
奨励は20分程度、明かしは10分から15分程度を予定しております。
では始めていきたいと思います。スライドをお願いいたします。
2021年12月12日の高端節の礼拝で、ユン先生が行いました、「神がいると信じることと、いないことを信じること、どちらがより論理的で科学的なのか?」というメッセージがありまして、私はとても興味深くそのメッセージを受け止めました。
そこでユン先生は、偶然の産物として人が存在するということが、どれほど非科学的なのかを説明してくれました。
そのメッセージはとてもわかりやすく、十分に納得すべきものでしたが、今回私に奨励の奉仕が与えられましたので、この機会に科学に携わるはしくれの一人としまして、科学の立場からそのことを少し検証してみようと思いました。
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現在の科学によりますと、地球が誕生したのは約46億年前。
進化論によると、最古の命が誕生したのは、地球上に海が誕生して間もない約40億年前だったとされています。
それでは命はどのようにして生まれたのでしょうか。
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現在地球上の命の起源に関しては大きく3つの考え方があります。
第一は、超自然的現象として説明するものであり、つまり神の行為によって命は誕生したという説です。
第二は、地球上での自然発生や科学進化の結果と考える説です。
第三は、宇宙空間には命の種のようなものが広がっていて、それが地球に飛来して結果命が誕生したという説です。
それではそれぞれの根拠、エビデンスと呼ばれるものは何なのでしょうか。
第一の神の行為によるとする根拠は、神の霊感を受けて書かれた聖書です。
それでは第二の科学進化の結果とする根拠にはどういったものがあるのか。
それを調べてみた結果、第三の宇宙飛来説の非科学性も理解することができました。
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泥の中から生まれたウナギの子供を見て命は自然からも発生すると気がついたというギリシャのアリストテレスを祖とする自然発生説ですが、
イギリスの天文学者であるフレッドホイル博士によりますと、その確率は10の4000乗分の1となるそうです。
数が多いことを表すときに星の数ほどと表現しますが、今宇宙にあるとされる10の22乗の星ですから、
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10の4000乗分の1という数字がいかに突拍子もないものかということがわかります。
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自然科学者の間では一般的に進化論を論ずるときに必ず登場するのがソ連の科学者でありますアレクサンドル・オパーリンです。
彼によりますと物質進化を想定した科学進化説とも言いますが、今も進化論者には多く広く受け入れられています。
これらを理解するには何をもって命であると言えるのかという問題が出てきます。
それでは命というのはどういったものなのでしょうか。
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一般に生化学分子生物学の研究者が唱える命というのは3つもしくは4つの属性特徴があるとされています。
第一は自己複製つまり自分と同じ構造のものを作る能力があるということ。
第二の特性がエネルギー代謝つまり代謝によってエネルギーを作ることができる。
第三は細胞構造つまり細胞の境界となる膜があってここまでは細胞ここからは他と区別する膜があるということ。
第四に遺伝子があるということ遺伝物質DNAやRNAによって自分を複製することができるというこの4つをもって命というふうに定義をしています。
面白いことに今世界を騒がせていますコロナウイルスですがこの定義によると代謝を行わずまた自分の遺伝子で自己複製ができないため実は生物にならないことになります。
ウイルスが生物なのか物質なのかは今でも議論があります。
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しかしこのような定義を満たす生物が実際に発生するところは日々自然現象が膨大に起きており自然を観察している人も莫大な数がいるにもかかわらず今まで一度も自然界で観察されたことはなく、
またこの説が唱えられて以降実験室でそれを再現しようと非常に多くの科学者によって太古の地上や海の環境を想定した条件で無数の実験が行われたにもかかわらず無機物から命と呼べるようなものが誕生するプロセスは未だに一度も再現されたことはありません。
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先ほども出ましたアレクサンドル・オパーリンがその著書地球上における命の起源において無機物から有機物が蓄積され有機物の反応によって命が誕生したとする仮説を立てました。
彼の説はスープ説とも呼ばれていまして科学進化説は現在の自然科学で広く受け入れられています。
オパーリンの説では次の要点にまとめられます。
原始地球の構成物質である無機物から有機物が生まれ低分子有機物が高分子有機物となり古代の海はこういった有機的なスープでありました。
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この原始の海の中で高分子集合体が誕生し高分子集合体がくっついたり離れたり分裂したりこの高分子集合体が有機物を取り込んでいく中で最初の命が誕生し優れた代謝系を有するものだけが生き残っていた。
つまり原始の大気海の中でシアン化水素やホルムアルデヒドなどができましてその結果アミノ酸拡散糖脂肪炭水化物などができここからタンパク質拡散多糖脂質などの高分子ができこれらが集合作用しあって命と呼ばれる古代原始生物が誕生したということです。
それではこれらのことが全く偶然に起こる可能性確率というのはどれほどあるのでしょうか。
東京大学のトタニン・トモノリ先生の説を引用します。
最初の生命はRNAから始まったという説がほぼ定説です。
これは科学界に広く支持されている説ですが、それではそもそも最初にRNAがどのように誕生したかは謎のままです。
RNAは遺伝を司るものでリボン・ヌクレオシドと呼ばれる分子が一本の鎖のように多数つながったものです。
ヌクレオシドが一つずつ結合する化学反応を考えて生命活動を可能にするだけの高度な情報を持った長いRNAがたまたまできあがる確率はあまりにも低く現実には起こり得ないと考えられてきました。
そのため長いRNAをランダムに作るのではなく、何らかの未知の反応や機構によって生物的活性を持った高分子にまで進化したという仮説に基づいた研究も行われましたが、実際にはうまく働きそうなものは見つかっていません。
つまり自然発生論者たちは偶然ではうまくできないけれど、何かよくわからない力がなぜだかうまく働いてRNAができたと言っています。
それではそのよくわからない力というのは何なのでしょうか。
実験的に作られるRNAの研究から命を維持できるRNAが生まれるには、ヌクレオシドが最低でも40個あるいはざっと100個程度以上につながらなければならないと言われています。
逆に言うと、非生物の家庭からそれぐらいの長さのRNAが正しい情報配列を含んで生まれれば、生命誕生における最大のハードルは超えたと言えるそうです。
この可能性を先ほどの東京大学の戸谷先生は計算をしてみました。
宇宙全体をベースに考えたときに、ある星で40単位の長さで特定の情報配列を持つRNAが偶然に生まれるためには、宇宙の星の数は10の40乗ほど必要です。
100の単位ならば10の180乗の星が必要となります。
これは今我々が観測可能な星の数、10の22乗をはるかに超えます。
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つまりすべての星が地球と同じような状態であったとして、宇宙のどれか一つの星でヌクレオシドが偶然に40単位の長さに並ぶという偶然が起きるためには、
今宇宙にあるとされているすべての星の数では全然足りなく、全宇宙の星の数の1億倍×1億倍と重乗しなければならない。
そうでなければ確率的に起こり得ないという話です。
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この計算に基づけば、命を育む惑星は太陽系や銀河系どころか、我々が観測可能な半径138億光年のこの宇宙でこの地球ただ一つになるということになります。
つまり地球の他に命が見つかる可能性はないと言ってもいいと思います。
ですから仮説3番の地球以外の星から飛んできたという仮説も成り立たないということがわかります。
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奇跡に奇跡が重なり、偶然の上に偶然が起こり、もしも命が誕生したとして、その命が維持できる確率はどのくらいなのでしょうか。
大学病院時代の研究で細胞培養を行っていたんですけれども、いくら気をつけて行っていても、ほんの何度かの温度変化や環境変化で細胞は容易に死滅します。
実験しようと朝早く研究室に行って、培養機から細胞を出して見て、死滅している細胞を見て何度もため息をついたことがあります。
40億年前の酸素もほとんどないマグマが煮えたぎるような高温で過酷な地球で、生まれたての細胞が生き残ることはできるのでしょうか。
そして偶然の奇跡でできたただ一つの細胞が死ねば、次の偶然まで宇宙規模の確率での偶然が必要となります。
さらにさらなる奇跡で生き残ったその原子細胞が、何らかの設計図や一貫した意志、意図もなく人間にまで進化することができるのでしょうか。
つまり、何かわからない力がなぜだかうまく働いて、全宇宙に一つも起こる可能性もない命がこの地球で奇跡的に発生し、
さらに原子地球の過酷な環境にも奇跡的に生き残り、さらに偶然が重なって人間にまで発達したと進化論者は言っているのです。
そして今まで何百年にも渡り、優秀な科学者何百人が多くの時間と費用を費やし、様々な工夫を凝らし、努力と知恵を振り絞っても偶然できたというその細胞を一つも作れないのです。
人間の創造、それは我々の創造を超えた知能、つまり全知全能の創造主の考えに従って神の計画の下に一連の創造が行われたと考えることがより科学的、論理的なのではないかと私は考えます。
科学は偶然を嫌います。山の奥ですごい修行してきたからできるとか、生まれついて優秀な能力があるからできるんだとか、そういったものは科学的ではありません。
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科学とは正しい手順で行えば誰が行っても同じ結果になるものです。そして繰り返し行っても同じ結果になる再現性がなければなりません。
科学の立場から見ると神の創造論以外の自然発生論は確率的にゼロというしかなく、再現することもできず、何かがなぜかうまく働いたと説明するしかないのでしたら、これは科学的とは言えないと断言してもいいと思います。
偶然の産物として人間の誕生する可能性を表現する言葉としてある有名なセリフがあります。最後に紹介いたします。スライドお願いします。
偶然の産物としての人間の誕生する可能性、それは猿がタイプライターを打っていて偶然シェイクスピアの小説が出来上がるようなものである。以上です。
続きましてそれぞれの証を行います。
私が育った町は天ヶ崎の森部という下町です。そこには教会がありまして、貧しい人々のコミュニケーションの中心となっていました。
その教会の設立から中心人物の一人が私の母方の祖母でした。私の母も祖母の影響でクリスチャンとして育ち、父と結婚しました。
父はもともとはクリスチャンではなかったのですが、母と暮らすうちに洗礼を受けクリスチャンになりました。
そして先日、信仰のマラソンを最後まで走り終えて天に召されました。
ですから私にとって教会や信仰は物心がついた頃から当たり前にある存在で、何か心を動かす大きな出来事があったとか、強い決意をして信仰を得たのではなく、何となく気がついたら教会にいたというぼんやりした信仰でした。
食事の前の祈りや誰かの誕生日、お祝いの席で大人の人がお祈りをするのは当たり前で、日曜日には日曜学校に行くのも当たり前のことです。
教会で友達と遊んだり卓球をしたり、礼拝の終わった大人たちと一緒にご飯を食べたりして、日曜日は一日教会で過ごすものでした。
祖母は息子二人、娘五人、孫二十三人に恵まれたのですが、お祈りの度にその一人一人について順番に祈るので、その祈りは長い長い祈りになりました。
特に子供の私にはお腹の空いているときのお婆ちゃんの長い祈りは本当に辛くて泣きたくなったこともよくあります。
そんな祖母は私については毎回同じような内容の祈りをしてくれました。
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週一にソロモンの知恵を与えてください。そして神様の働き人として用いてください。
働き人の中でも後ろについて行くのではなく、先頭に立つようにしてください。
この祈りを何百回、もしかしたら何千回も聞いたかもしれません。
小学校の高学年となり、友達と遊んだり、野球やサッカーをするのが楽しくなり、少しずつ教会から離れていきました。
そろそろ行かないとお婆ちゃんに怒られるというぐらいのタイミングでたまに教会に行って、礼拝が終わるやいないやお婆ちゃんに挨拶して外に飛び出していく、そういった状況です。
ある時、誰かが学校でダーウィンの進化論を習ったようで、日曜学校の先生に、先生、人は本当に類人猿から進化したんですか?と言って行きました。
その先生は、それはデタラメだよ。動物園の猿は何十年前から動物園にいるけれども、人にはならないでしょう。と説明しました。
先生は子供だから、難しいことを言ってもわからないので、簡単に説明したのかもしれませんが、私にはその時、これはとても説明になっていないと感じました。
この先生に習ったことが、ちょっと信じられなくなってしまいます。
その後、私は理系に進み、科学と進行の間で矛盾や葛藤があるとき、この出来事をよく思い出します。
このことは私の中で、進行の非科学性の標本のようになってしまったのです。
そんなこともあって、中学高校になると教会との距離はますます遠くなって、大学に入って親元を離れ、一人で下宿生活を送るようになってからは、教会や神を思い出すことはほとんどなくなりました。
主は私に進行の種をまいてくれたのですが、私はその種を枯らしてしまいました。
そんな時に、今のカナイと出会いました。
カナイは、カナイもクリスチャンホームの出身でした。
カナイと付き合うようになり、彼女の誘いで再び教会に通うことになりました。
僕は、日曜日の午前中からデートに行ったりしたい気持ちもあったのですが、彼女は、日曜日は教会に行きましょうと、なかなか許してくれませんでした。
意外に頑固なところもありまして、教会を休んじゃいけないと何度も悟されたものです。
彼女の進行の元は、彼女のお母さんです。
彼女の母は、聖書の教えを忠実に守るとするクリスチャンでした。
1円単位まで10分の1献金を行って、日曜日には買い物はしない、豚肉も食べない、そういった経験なくクリスチャンでした。
カナイ、韓国のお母さんは立派に進行を守って、2012年に天に召されましたが、韓国の母に言葉で、そして行いで多くのことを教えていただきました。
特に人格や進行の大切さをその背中で教えていただき、深く感じたものです。
私はせっかくたくさん教えていただいたのですが、守ることができず、今私が守れているのは、新しく買ったものをまず教会に持っていくということだけです。
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唯一これだけは守っています。
そして少しずつですが、神や教会との距離が近づく近くなってきました。
医師となり、外科医となり、人の体の治療に携わりながら、人の体は何と巧妙にできているのかがわかりました。
知れば知るほど素晴らしい構造で、とても人の知恵の及ぶところではありませんでした。
また、人の体を壊すことは簡単ですが、治すということがどれほど難しいかを知りました。
科学で治せない病気、治せない怪我がたくさんありました。
正直言うと、科学ではわからないことだらけでした。
科学に偏っていた私の中の正しさの矢印が、進行に傾くようになりました。
結婚の時ですが、両家において反対も障害もありました。
その時、僕は自然とこう祈りました。
この人と一緒にさせてくれるなら、神様、一生涯あなたを信じます。
もう裏切りません。約束します。
そして、神に許されて私たちは結婚し、子供にも恵まれました。
私は、家内によって神のもとに戻され、そして神と約束したのですから、もう神から離れることはありません。
時々ですけれども、家内は不満がある時、こんなふうに言います。
神様はなぜ私をあなたと結婚させたのかな。
神様から離れていたあなたを連れ戻すために、私をあなたと結婚させたのかな。
あなたはそれでよかったわね。
でも、そしたら私は神様にとって何なの。
それが彼女のどうも不満。
最後にですけれども、最近私は子供たちのことで、主に祈ることが増えました。
私に与えられた信仰と恵みを子供たちにも与えてください。
そしてそれぞれの努力が報われ、人にも神にも喜ばれる人とならせてください。
子供たちに神の栄光をあらわすような人生を与えてください。
そのためにソロモンの知恵を与えてください。
神の働き人として用いてください。
働き人の中でも後ろを歩く者ではなく、先頭に立つ者とさせてください。
気がつけば、おばあちゃんの祈りと同じような内容になっています。
信仰と祈りは受け継がれるものなのでしょう。
それぞれ違いますか?