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2024-03-29 15:41

2024/03/29:あなたは今日、私とパラダイスにいる!

2024/03/29 受難日礼拝

加藤満牧師


サマリー

イエス様はゲッセマネの園で受難に直面し、罪の力によって苦しんでいます。しかし、十字架の上で憐れまれた罪人たちと共にパラダイスにいることを約束されています。と言われると、イエス様は大事な言葉を伝えます。あなたは私とパラダイスにいるのです。大丈夫です。あなたは救われるのです。

受難の光景
短く、御言葉を取り継がせて頂きます。
受難の歌詞を聴いて参りました。
イエス様が、あのゲッセマネの園で捕らえられて、
わずか数日間の間で、今読んできましたが、
イエス様は様々な苦しみに出会われました。
裏切り、あざけり、侮辱、暴力、そして十字架につけろ。
平たく言えば、お前なんか死んでしまえ、と。
そのような言葉、バリ像本を受けました。
そして十字架系です。十字架系というのは、
当時、そのあまりの痛みの、その痛みのあまりに、
気が狂う者がいたと記録されています。
それほどまでに残酷な系です。
皆様もご覧になられたことあるでしょうか。
パッションという映画が昔、メル・ギブソンが作ったものがありました。
映画館で公開したとき、私は母と一緒に、
あれを夜中見に行ったんですけれども、大変でした。
私はもう画面を直視できずに、ずっとこんな感じで見てて、
隣にいる母は号泣していました。
見終わったと思った感想は、もう二度と見たくないです。
あんな光景も二度と見たくない。
それほどまでに、受難の光景というのは、どれも残酷で
おぞましいものでした。
このおぞましさの原因とは一体何なのだろうか。
一言で申し上げるならば、それは
罪というもの。
罪というものでした。
十字架のその場所というのは、よく
人間の罪が目に見えて現れた場所、それが
凝縮して現れた場所だとよく言われます。
罪というのは、いろんな犯行であったり
悪行ということも言えますけれども、
罪というのは根本的には、的外れということです。
神様に向かいながら、神様を見ながら的を合わせて
生きるべき人間が、
神様から目をそらしてしまっている。
そしてその結果、
自分こそ自分の人生の主人である。
自分こそ自分の人生の神である。
そう思ってしまって、
神様に背くこと。
私が神だから、
自分が困るなら裏切ってしまえるのです。
私が神だから、
自分よりも弱い人間を痛めつけてしまえるのです。
私が神だから、
私を脅かす者、
それがたとえ真実を告げている者であったとしても、
邪魔であれば殺してしまえるのです。
十字架だ、十字架につけろと、
ある種、
狂ったように、
群衆たちが叫びました。
しかしこれが、
まさに恐ろしい罪の力、
罪の力です。
そしてこの罪の最大の問題は何かというと、
それにどれほど自分が支配され、
自分がいかにおぞましいことに加担しているか、
自覚すらできないということです。
自覚ができない。
自分が何をしているのか、分からないのですと、
イエス様は祈られましたけれども。
まさにそれが罪人の姿ですね。
イエス様はその人々を思って、
十字架で祈られたわけです。
私たちも経験があるでしょうけれども、
神様の愛を知り始めると、
私たちは罪が自覚できるようになります。
それまでは大したことないなと思っていたことが、
あるとき、ああこれは罪だってわかる。
時にはそれが深くなりすぎて、
自分の罪深さに、私はダメだと思いすぎてしまう。
それはちょっと行き過ぎなんですが、しかし、
これは神の前に罪なんだと自覚できるようになるというのは、
それは神様の愛がわかったからです。
それはとても大切な感覚ですね。
罪の力と十字架
それゆえに私たちは神様に愛されている。
まさに本当においしいご飯を食べたからこそ、
おいしくないご飯の味がわかるかのように。
種の愛がわかる。
けれども同時に、自分の罪深さ、
自分がいかに罪にとらわれているか、
わかりすぎるからこそ、
自分がそこから逃れることにある種、
どれほど絶望があるのか、
どれほど自分は無力なのか、
そのことにも悩んでしまうお互いです。
当然、主は私たちを救い、コツコツと救い続けてくださいますから、
大丈夫なんですけれども、しかし、
変われないということ、
そこに救いは本当にあるのかということに、
いつも私たちは信じれなかったり、
信じれたりする、そういうお互いではないでしょうか。
ただ、この真っ暗闇の十字架のその場面の中で、
一つだけ救いが起こりました。
それが、この十字架にかけられたイエス様の左右にいた犯罪者たちにおいてです。
十字架形にかけられることのことを、この人々もしました。
そして十字架の上で、一人は叫びました、
お前はキリストではないか、自分と俺たちを救え。
しかし、もう一人は、
いや、私たちは自分の下、報いを受けているんだから、仕方がないじゃないか。
対照的な態度をとります。
この二人は一体どこが違うのでしょうか。
俺を救えと言った犯罪人の姿というのは、
まさに自分の罪を棚にあげて、
自分のことだけを考えているように見える、
まさにこれまで見てきた罪人と同じような姿かもしれません。
しかしもう一人は何かが違うのです。
もう少し彼の発言を見ていきましょう。
40節、41節を見ますと、彼はこう言いました。
するともう一人が彼をたしなめて言った。
お前は神を恐れないのか。
お前も同じ刑罰を受けているではないか。
俺たちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。
だがこの方は悪いことを何もしていない。
まず彼はイエス様を神と認めています。
この方は神だ。神をもお前は恐れないのか。
それゆえにこの人自身はイエス様を恐れている。
イフの念ですね。
そしてそのお方の前に自分の罪を悔いているんですね。
神というお方は聖なる神、創造主なる神、義なる神様です。
そのお方の前に心というのは何一つ隠れていません。
主は心を見る、人は上辺を見るが主は心を見られます。
それは良いも悪いも全て私たちの心を見られる。
彼であるならばきっと自分の罪、犯罪もそうでしょう。
しかし神に目を向けることもせずに、
神ご自身を悲しませてきた歩みが次から次へとあふれ出してくる。
その自分をあらわにされるとき、まさに神の前に自分の罪をあらわにされるとき、
人は二通りの態度をとります。
一つはそれを恥じて逃げるか、誰かに怒るか。
パラダイスへの約束
しかしもう一つはあらわにされた自分自身を認めて、
主の前に憐れんでくださいと出ていくかです。
二通りあるんです。
この人は主の前に出ていきました。
主よ、罪深い私を憐れんでください。
しかしそう本来は言うべきなのですけれども、
彼自身は自分の罪の重さを思えば言えないのです。
憐れまれることも、
そんなことをこうこともできない。
天国に行くことすら当然できない。
だから言うのです。イエス様、
あなたが御国に入られるときには、
私を思い出してください。
もう私は行けないって彼は言っているんです。
自分を救ってくださいと言えないほど罪深い私である。
罪深さがわかるからこそ、
私は主にもう救ってくださいと手を差し伸べることすらできない私である。
でも、私はこの後のイエス様の言葉に感動します。
誠にあなたに言います。
あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。
私と共にパラダイスに。
イエス様の大事な言葉
誠にあなたに言いますというとき、
誠にという言葉は、
簡単に言うと、イエス様が大事な言葉を伝えるときです。
いわば、しっかり聞けよということです。
しっかり聞きなさい。
あなたは私とパラダイスにいるんだと言うんです。
それは大丈夫だ。
あなたは救われるのだと言っているんですね。
あなたがどれほど自分の罪深さに手を引っ込めていたとしても、
あなたがどれほど自分の罪深さに手を差し伸ばせないほどに自分を責めていたとしても、
私を仰ぐならば、私はその手を引っ張り出して握ってやると言っているんです。
しっかり聞きなさい。
あなたは滅びるんじゃない。あなたはパラダイスにいるんだ。
しっかり。しっかり聞きなさい。
そうイエス様はこの人に言ったんです。
私はつくづくこの歌詞を見るときに思わされます。
それは、父なる神様もイエス様も、そして今も働いておられる精霊様も共通する思いが一つある。
それは、罪人を救いたいのです。
罪人を救いたいんですね。
そうではないでしょうか。
この世界が作られて、しかしアダムとエヴァによって堕落をしたこの世界、
罪の状態によってどうしようもなくなってしまった世界です。
そしてその中に生きているどうしようもない人間たちの姿が、この十字架の場面にあらわにされます。
罪人たちが。
けれども、神様はこのどうしようもない世界に愛する御子を下し、
御子は神である姿を捨ててこの世界にまで下ってこられ、
そしてどうしようもない人々を神は、イエス様は愛し続け、
しかしあまりにもどうしようもないが故に、
神の御子は十字架に架けられた。
罪人の救い
どうしようもないんです。
しかし、どれほどどうしようもなかろうとも、
どれほど罪の力がこの世界を取り巻き、
いや私たち自身を絡み取ろうとも、
この世界への、この世界に生きる一人一人への、
そして私たちあなたへの、
神の愛御子の愛は変わらなかったということが十字架で表されている。
父よ、彼らをお許し下さい。
彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。
私たちは次南宗に十字架を仰いでいます。
十字架にはいろんな意味が、豊かな意味がありますが、
しかし私はこう思うんです。
これは変わらない神の愛の意思の現れです。
十字架を仰ぐときに、
私はあなた方を永遠の愛をもって愛したとあのエレメアシの三十三章で語るように、
永遠に変わらずに、私はあなたたちを愛し続けている。
あなたを愛し続けている。
どれほど罪に囚われていたとしても、
私はあなたがその罪から救われるために、
全てを背負って、
罪に勝利した、
全てを背負って死んだ。
それほどまでにあなたを愛しているし、
あなたを救いたい。
だから、
手を広げて、
私を仰ぎなさいと言うんです。
私たちは時折思います。
自分がいかに罪に囚われ、
変われないかということ。
そのところに葛藤を覚えます。
それは救われているからこそ感じる葛藤ではありますが、
しかしつらいことですね。
私たちは死によってコツコツ変えていただく日々です。
けれども覚えていただきたいのは、
十字架を見ていただきたいということです。
十字架をくじけそうな時に、
私の神への愛が信じられない時に、
もう全てが終わったと思う時に、
十字架を見ていただきたいということです。
それこそには、
私はあなたを愛していることは変わらないと言われる神様の
愛の意思が表されている。
どれほどの神を愛することはできず、
自分自身を愛せず、
隣人を愛せなかろうとも、
私はあなたをあきらめていない。
私はあなたを救いたい。
だから、
あなたが
自分の罪の深さに引っ込めた手を、
ちょっとでもいいから差し出しなさい。
ちょっとでもいいから差し出しなさい。
私はそこに手を差し伸ばして、
私はあなたの手を引っ張り出す。
そして、その時に主が私たちに言ってくださる言葉も一緒なんです。
誠にあなたに言います。しっかり聞きなさい。
あなたは今日、
私と共にパラダイスにいる。
あなたは今日、私の恵みに入ることができる。
あなたは今日、私の恵みによって、
一歩一歩変わり始めることができる。
その愛を
忘れてはならない。
十字架の場面というのは、そういうことだと私は思っています。
主が私たちを救ってくださる。
いろいろな面から救ってくださる。
そのことを信じながら、
私たちを歩ませていただきましょう。
一言お祈りをいたします。
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