00:01
改めて皆さん、おはようございます。
今日で3月が終わり、来週から4月、新年度に入りますけれども、
何より世の中の仲間も変わろうとしている方かなと思いますけれども、
教会としては、来週からは子どもと大人がみんなで一緒に
主を礼拝していくことになっております。
心を一つにして、互いに愛し合いながら、助け合いながら、
共に神の教会を立て上げてまいりたいと思います。
お願いしたいのは、皆さんもそのためにお祈りをしてくださり、
また様々な伝播や報知の協力をよろしくお願いいたします。
では、一緒のように周りの方と挨拶させましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
彼らはイエスを受け取った。そしてイエスは御自分で十字架を追って、
ドクロの地という場所、ヘブルコでゴルコだと言われるに出て行かれた。
神様、この世に来て今日も今から神の御言葉を神様御自身で語っていただきます。
神様御自身がここに集まっている私たち一人一人にお語りくださいました。
私たちは心を謙虚にして、心を低くして、人間のお話を聞くのではなく、
生きる神様の言言の、その栄光のお言葉を聞く心としてくださいましたように。
死体求める上渇きの心と、同時に謙虚な心を我々にお与えください。
そしてその御言葉が私たちの内側にあって、力となり命となり力となりますように。
名こしゃめとなりますように。信仰が引き上げられる恵みの御言葉となりますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
03:24
アーメンの国書の十九章、イエス様の十字架の物語の真ん中に来ていますね。
軍首たち、またローマの兵士たち、それから妻子たち、また総督などにイエス様は罵られました。
恥かしめられました。
無事撃たれました。
そのイエス様の十字架を、今日は許しというテーマというか観点から学んでいきたいと思います。
日本語の許すという字典を調べてみましたら、こういう意味が書かれていました。
罪や過失を咎め立てしないことにする。
罪や過失を咎め立てしないことにする。
これが国語辞典の意味でありますが、新約聖書の許すという言葉の言語の意味をちょっと調べさせていただきました。
ちょっと皆さんに話したいと思います。
もっと豊富な意味があるんですよね。
新約聖書に書かれたギリシャ語の許すという言葉の意味は、こういう意味が含まれています。
1.加害者に対してこれ以上怒りを抱かないことにする。
2.加害者を罰するためのいかなる要求や行動も放棄する。
3.加害者の過ちによる恥を負い、加害者の罪悪感と自分の恨みを取り除き、加害者や状況から避けない。
4.意思的に加害者やその時の状況などすべてを神様に委ねる。
という意味が皆さん許す、許しという意味なんです。
皆さんこういうふうに理解していらっしゃったんでしょうか。
さあここまで来て、ある先生の説教中からバツと言ったお話です。
日本の文化では許しよりも水にならす、いわゆる忘れる、忘却という方が強く意識されているように感じます。
06:11
例えば時が経てばいずれ忘れるだろうというのが日本人の一般的な解決法だと言われています。
ところが皆さんよく考えてみていただきたいです。忘れるという方法はある意味でこういう行動に例えられるんじゃないかと思います。
例えばものすごい毒性のある廃棄物を土の中に埋めて処理する。植えを埋めるんですね。
そしてしばらくの間は問題がなくなったかのように見えるでしょう。土の表面はね。
ところが気が変わってどうなりますか。その土壌は汚染される。そしてもっと深刻な問題になってしまうんじゃないでしょう。
つまり私たちの感情というものも似ていると思うんですね。
その汚染された恨みは私たちの成長に悪い影響を与え、人生に様々な障害をもたらし、また歪め、人間関係を破壊してしまう恐れがあるかと思います。
ところが欧米の文化では意識的に許しを実行することによって、悲劇そのものに積極的な意味を与えようとするケースが日本文化の場合よりも多いように感じます。
といった先生の説教室からのお話です。
例えば私たちはこういう許しという話を聞いたり読んだりすると、すごく大きく考えさせられることがあるかと思います。
ある事故に巡った栗ちゃんの話です。アメリカのある大学の中で起きた車の事故の話です。
学校の中である男の学生さんがまだ免許を持っていない。ところが友達の車が学校の中に停まっていたから、それを借りて校内で運転免許をしていました。免許を持っていない。
ところが免許を持っていなかったんですね。そして連休したわけですから、そのときに運転ミスで、たまたま芝生で野外住居中だった12人の学生さんを引いてしまう大きな事故が発生してしまった。
その事故で、住居中のほか新入生の女の子一人が命を失われました。100%運転ミスによる事故、無免許の事故、また免許を持っていない友達に車を買った過失があるわけです。
09:21
しかし驚くことが起きました。その亡くなった娘の両親はクリスチャンだったんですね。自分の娘が有名な大学に入ったばかりの新入生でした。その娘を失ってしまった。本当に悲劇が起きてしまったんですね。
ところが何日か経っているうちに、この両親は二人話し合って、ところに決めさせてもらいました。それは車を貸した学生にも事故を起こした学生にも、いわゆる賠償請求をしない。何より恨まずに許すことにしました。
ミスであろうが自分の娘を殺した人を恨むということ。自分の家庭から、心からそれを取り除こうと。そしてそういった恨みに縛られている自分自身をそういうふうには放て置かない。解放しようというふうに従事との許しを実践しようとしました。
いよいよ闘技がありました。国別式の現実。車を貸した学生さんの父親が亡くなった娘さんの家に電話をしました。お詫びをしました。その時にその娘を失った父親は相手の方にこういうふうに言いました。
自分の宝のような娘に二度と会えないことは非常に悲しいことです。どうしたらいいのか分かりません。希望を失ったようで本当に言葉が続かなかったんですね。ところが最後にその父親はこういうふうに言いました。
私の家族はイエス様を信じるクリスタルです。私はイエス様に大きな大きな罪の許しという見込みをもらったものです。その許しは言い尽くせないほど大きな許しです。許してもらったあさきがあなたの息子さんを許すことは当然のことではないでしょう。
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その話を聞いたこのプルマ・パクターさんの父親はこういうふうにお答えしたそうです。あさきはキリスト教の信徒ではないんですけれどもご遺族の方々のあの態度や許しに触れられてキリスト教のすごい力を感じることができましたというお話です。いかがでしょうか。
聖人は許しについてこういうふうに教えています。もし人の罪を許すなら、あなた方の天の父もあなた方を許してください。これは皆さん、人を許すことが天の父から許されるための条件ですよという話ではないんですね。逆なんです。
自分が天の父なる神様からどれほど多くの罪を許してもらったのか、それを知っているならば人を許すことができるはずだという意味であります。
皆さん、イエス様の十字架は私たちの罪をただ忘れるためのものではないのです。いわゆる十字架が忘却忘れのうっかりのシンボルではないんです。完全な許しのシンボルです。先に許す言葉の意味その通りなんです。
イエス様の十字架は私たちのどんな罪も悪も咎もすべてを完全に消すためのものである。二度と覚えないためのものである。最初からなかったことにするためのものである。
それから最も大事なことがあります。それは罪を犯した私たちと罪のない神様を和解させるためのものです。罪のある私たちと罪のない神様を平和にする和解させるためのものが何でしょうか。イエス様の十字架であります。
信仰を持つこと、礼拝をすること、神様を信じることはこの許しに生きることなのです。
15:16
167ページですね。33節私は読みますので、34節はみんなで一緒にお読みしたいと思います。
父よ、彼らをお許しください。私は何をしているのか自分でわからないのです。彼らは釘を引いてイエスの着物を分けた。アーメン。
ありがとうございます。ここにイエス様が父よ、彼らをお許しください。十字架の上でイエス様は初めて口を開いておっしゃった言葉がこれなんです。
父よ、彼らをお許しください。しかもそれは自分のためのものではない。あるいは自分を十字架で殺そうとしている人々を何とかやっつけてくださいという話ではない。
むしろ、今ご自分を十字架で殺そうとしているあらゆる人々のための許しという取りなしの祈りだったのです。父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。
人間の中で誰が一体このような祈りをすることができるでしょうか。このような祈りができるのは私たちを愛し、私たちの救いを心から願って、そのためにご自分の命をもう惜しまずに捧げられた神の御子キリスト以外にはないでしょう。
父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからない。
この言葉から教えられることがあります。それは、この彼ら、彼ら、彼らの中には誰が含まれているのでしょうか。彼らの中に誰がいたでしょうか。
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ちょっとその話をとりたいと思います。
まず、ローマの兵士たちがいたでしょう。自分を持ちで打ってしまった兵士たち。
唾をあげかけて殴った兵士たち。茨の冠をかぶせた彼ら。そしてユダヤ人の王様バンガイと呪わせたローマの兵士たちが彼らの中にいました。
イエス様はその敵のような御自身をあざけたローマ兵士たちのため、父よ彼らをお許しくださいと祈られたのです。
またイエス様が彼らをお許しくださいと祈られたその彼らの中には、陰謀によってイエス様を十字架に引き渡したユダヤの指導者たち、議員たち、妻たち、彼ら。
またそこには、イエス様を十字架につけろと叫んだ群衆も入っていることでしょう。
イエス様の敵と言ってもいいものなんです。しかしイエス様は御自身の敵である彼らのためにも許しを祈られたのです。
ある寺内宗の牧草宗にこういう話がありました。
宗、私たちの神よ。あなたは十字架にかけられ、あなたの敵となるであろう人々のために祈られました。あなたは敵を持たずに亡くなられました。
私も同じことができるよう助けてください。こういう話です。
イエス様はその大きな愛によって、自分を傷つけ苦しめ殺そうとする人々を御自分の側に取り込んでしまわれた。そして敵を持たずに亡くなった。
皆さん、今日どれだけ多くの人々が自分の心の中に、あらゆる人々、集団、府に様々な人々を恨んで憎しんで敵を持っているのでしょうか。
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政府に対して、あるいは自分に悪いことをした人に対して、あるいは仲が悪い夫婦の間に、あるいは親子の間に、友人の間に、もう敵を持っているのです。
イエス様は敵を持たずに許して十字架で亡くなられました。
また、彼らを許しくださいと祈られたその彼らの中には、イエス様の十字架を見て逃げ出してしまった不甲斐のない弟子たち、
またイエス様に同情し、イエス様のために悲しんだとしても、イエス様は必ず死を打ち破って復活されるということを信じることができなかった人々も含まれていたことでしょう。
その弟子たちのためにも、彼らを許しくださいとイエス様は祈られたのではないでしょうか。
最後に、そこに彼らの中には、私が、皆さんがそこにいるのではないでしょうか。
イエス様の十字架にあるこの大きな愛を知っていても、時には拗ねた心ですが、イエス様に向かっていない私たち、
あるいは復活の力を知りながらも、それに頼らずにいるこの時代の人々も、この彼らを許しくださいという彼らの中に含まれていたことでしょう。
皆さん、イエス様の許しという大きな恵み、
イエス様は今も、父なる神様に私たちのために取りなしていてくださっており、今ここにいる私たちのためにも、神様に許しを祈ってくださっているんですね。
ですから、私たちのために父なる神様に許しを求める祈りは、2000年前のカルバリの丘で、
父よ、彼らを許しくださいというイエス様のお話が、こだまして消え去ってしまったのではなく、今もイエス様によって祈り続けられているんですね。
父よ、彼らをお許しください、これはまさに私たちのための許しの祈り、取りなしの祈りではないでしょうか。
24:06
では、自分自身のことを考えてみますと、私たちはイエス様の指導によって罪の許しをいただきました。
罪の責めから解放していただきました。
咎め立てをしないことにしてくださいました。
もう消し去らせてくださいました。覚えられない。
そのためにイエス様は全身全霊でご自分の命を懸けて、罪の許しをこちとってくださったんですね。
だからこそイエス様のこの祈りは、父に届けられ、私たちは今、罪の許しを受け取っているんです。
父よ、彼らをお許しください。
この祈りは既に成就しています。
願わくは、この祈りが今朝お一人お一人に成就しますように、心からお祈り申し上げます。
来週にですね、もう一回この許しについて、もう一回説教させていただきたいと思います。お祈りします。