1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/04/15:聖日礼拝(旧音源)
2012-04-15 49:49

2012/04/15:聖日礼拝(旧音源)

2012/04/15 聖日礼拝(旧音源)


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御着席ください。 聖書を朗読していただきます。
使徒の働き二十八章の七節から十四節まで、ページは新約の二百八十六ページです。宮原誠二兄弟です。
聖書をお読みいたします。
新約聖書二百八十六ページの二十八章、使徒の働き二十八章、七節からお読みいたします。
さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。
彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。
たまたまポプリオの父が熱病と下痢とで床についていた。
そこでパウロはその人のもとに行き、祈ってから彼の上に手を置いて治してやった。
このことがあってから、島の他の病人たちも来て治してもらった。
それで彼らは私たちを非常に尊敬し、私たちが出版するときには私たちに必要な品々を用意してくれた。
三ヶ月後に、私たちはこの島で冬を過ごしていた先週に、レオスクロイの飾りのあるアレキサンドリアの船で出版した。
白草に帰港して三日間留まり、そこから回ってレギオンに着いた。
一日経つと南風が吹き始めたので、二日目にはポテオリに入港した。
ここで私たちは兄弟たちに会い、進められるままに彼らのところに七日間滞在した。
こうして私たちはローマに到着した。
以上です。
聖火隊に賛美していただきます聖火174番。
その後に内田正晴牧師より福音がついにローマへと題して、説教をしていただきます。
03:42
聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖火174番、聖
7indre
みなさんおはようございます 今日もこうして共に礼拝を捧げますことを感謝をいたします
今日も御言葉をいただきますが 一言お祈りをいたします
あなた方が多くの身を結び私の弟子となることによって私の父は栄光を受けになる のです
見たまのみは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈性です。このようなものを禁ずる律法はありません。
恵み深い天の父なる神様、神と共に歩み豊かに身を結ぶというテーマをいただいて、2012年度もこうして歩み始めたことを感謝を致します。
先週は、主の復活を記念してのイースターを迎えて、そしてもう一度主を仰いだことでありますけれども、
決してイースターの時だけではなく、これから日々、よみがえの主を覚え、またこの方が私たちの神であり主であることをさらに深く覚えて、
主と共に歩む生涯を貫かせて下さいますように、
こうして週の初めの朝に集ってあなたを礼拝しております。
人として最高の務めである神を礼拝するというこの務めを、今日もこうしてなし得ますことをありがとうございます。
06:07
心よりあなたを賛美し、またあなたを頼り、またあなたからのお声を聞かせていただけます幸いを覚えて、今日も精一杯あなたにお捧げいたします。
今からまた御言葉をいただきますが、その御言葉のうちにも主が働いてくださって、
私たちがあなたを覚えて、また御言葉を悟るものとさせていただきますよう、お導き下さい。
今日もこうして御霊の導きによってここに集えたことを感謝をいたします。
中には様々な事情のゆえに、いわゆる弱気を覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方もおられることを覚えます。
どうぞ、また次の礼拝には来ることができるように、あなたが促して下さいますように。
今日もたれています日本全国の礼拝と、また世界中の種にある礼拝が祝福されますように心から祈ります。
また教会のそれぞれ与えられている使命をこれからも全うしていくことができるように、あなたが力を与えて下さいますよう、
今日も御言葉を待ち望みつつ、衆逸様の尊い皆によって委ねてお祈りをいたします。
アーメン
今日で使徒の働きが終わります。28章をもって使徒の働きを全部読み終えたということで、一つの区切りがつくわけであります。
予告でありますが、私たちは今年度の一つの方針として、基本に変えましょうということを総会でもお話しさせていただいて、皆さんに承認していただきました。
そういう意味もありまして、基本中の基本の一つ、それはやはり私たちがイエス様というお方がどういうお方なのかということをもう一度、それこそ基本に変えてしろと。
イエス様が何をおっしゃったのか、その意味はどういう意味なのか、あるいはイエス様が何をなさったのか、
そのことをもう一度この福音書から読んで、そして私たちに知っていることはそうだったということを再確認することも幸いですし、そういうことだったのかと新しい発見をまたそこでいただいて恵まれることもいいのではないかと思います。
ですから、来週からまたマルコの福音書を順々に読んでいきたいと思います。
09:04
教会の小読みに従っての行事などは時折入りますけれども、それ以外はまたこのマルコの福音書を最後まで一緒に読んでいきたいと思っております。
ですから皆さんもそのことを覚えて、事前に読んで、自分なりにまた恵まれて備えていてくださったら幸いかと思います。
決して説教者が語るメッセージ、それだけではないと思うんですね。それは神様が語ってくださるメッセージのほんの一部であろうかと思います。
皆さんは皆さんで直接見言葉から恵まれていただけたら、それはそれで幸いだと思っております。
もう一つ、水曜日の聖書研究起答会、これも幸いなことに創世記を最初から読んで、残すところ49章50章で終わります。
その次にまた続いて、シュツ・エジプト記を一緒に読んでいきたいと思います。
本当にこの御霊の導きなくして私たちは聖書は読めませんし、もちろん地面を追っていくことは誰もできるんですけれども、
この聖書に書かれてある神の言葉が私たち直接霊の言葉として、神様が霊をもって語ってくださったその見言葉が、私たちも魂霊をもってそれを悟っていく。
これは御霊の導きなくしてできないことであります。ですから祈りつつまた一緒に読んでいきたいと思っております。
今日は使徒の働き最後の28章でありますが、パウロたちは海の難を逃れて全員が無事に着いた。
27章の最後で、こうして彼らは皆無事に陸に上がった。誰一人命を損ねることなく皆が無事に陸に上がった。
そして一節、こうして救われてから私たちはここがマルタと呼ばれる島であることを知った。
後でこの島がマルタ島であるということを知ったというんですね。島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。
檻から雨が降り出して寒かったので、彼らは火を焚いて私たち皆をもてなしてくれた。
私たちのこの出会い、この出会いが全てを決める時があります。
もしこの島の人たちが悪い人で、そしてこのパウロたちを襲ったりしたら、彼らは生きることができなかったでしょうし、
12:13
雨が降り出して寒かったとありますから、放っておかれたら彼らは凍え死んでしまうような、そういう状況でありましたけれども、
この島の人たちが親切に皆をもてなしてくれた。何とこのありがたい、そういうことが想像できるわけです。
ただ、この島には福音は当然伝わっていなかったということがわかります。その島の信仰というのでしょうか、土着の信仰があったと思われます。
その一つの現れとして、このようなことが書いてあります。
パウロが人抱えの芝を束ねて火にくべると、熱気のために一匹のマムシが這い出してきて、彼の手に取り付いた。
島の人々はこの生き物がパウロの手から下がっているのを見て、この人はきっと人殺しだ。
海からは逃れたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだと互いに話し合った。
要するにここでいうマムシ、これが例えば災いの印ですから、悪い人にこのマムシは取り付くのだという、そういう信仰、迷信があった。
ですからパウロはきっと悪い人だ。人殺しに違いない。そういうことですね。正義の女神もこの悪い人を生かしてはおかないだろうと。
そういうような彼らなりの迷信、信仰があったということであります。
パウロはこのイエス様が、よみがえって最後の言葉を弟子たちに語ったその言葉を当然彼も知っておったに違いないと思うんですが、
また後、開いて読んでいただいたらいいかと思うんですが、マルコの福音書の16章の17節でイエス様は弟子たちに言われた、有名な世界選挙の言葉ですが、
全世界に出て行き、すべての作られたものに福音を述べ伝えなさい。その後ですが、信じる人々には次のような印が伴います。
すなわち私たちの、私の名によって悪霊を生い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けば病人は癒されます。
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ここにイエス様は不思議にも蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けない。蛇の害のことが書いてあるわけですが、
ここもそのような同じ状況がパウロの身に起こったわけですが、5節。しかしパウロはその生き物を火の中に降り落として何の害も受けなかった。
島の人々は彼が今にも晴れ上がってくるか、または倒れて窮死するだろうと待っていた。しかしいくら待っても彼に少しも変わった様子が見えない。
マムシに取り憑かれて毒が回って死ぬだろうと思っていたが、何の害も受けていないということがあったわけです。イエス様が語られた御言葉の通り、このマムシの害はなかったということがここに書いてあるわけです。
迷信や土着の信仰を持っている彼らにとっては、これは一体どういうことだろう。
そして彼らは考えを変えて、今度はこの人は、このパウロを指して、この人は神様だと言い出した。
今までこの人は人殺しだ、悪に取り憑かれる悪い人だと言っておったのが、その蛇がパウロの手から取り去られて何の害も受けないのを見て、この人は神様だと言った。
ここで大事なことは、彼らの迷信や土着の信仰がどうだ、あるいは福音が彼らに行き渡ったのかどうか、そういうことではなくて、この出来事を通して彼らは考えを変えたということですね。
もちろんパウロは神様ではありませんけれども、彼らなりにこの人は何か持っている、何か私たちとは違うものに満たされている、何か不思議な力がこの人に及んでいるということを彼らは感じたわけですね。
そして感じただけではなくて、彼らの考え、考えというのはここでは例えば価値観であったり、あるいは彼らが今まで信じてきたもの、そういうものは変えられていったということ。ここが非常に大事なことではないかなと思うんですね。
もちろんこのマルタ島にもやがて福音が伝わるんですけれども、この最初の時、パウロたちが来たその時に、このパウロたちの成した出来事と、そこに神様の力が働いて起こったその出来事を通して、彼らの考えが変えられたということ。これは非常に私たちにとっても励ましになる言葉ですね。
18:11
やがてこのマルタ島は様々な歴史を経るわけですが、いろいろマルタについて調べましたが、現在このマルタ島はマルタ共和国という一つの独立国になっています。イギリスから独立したマルタ共和国。
約40万人、あるいは少し増えているのでしょうか、41万人でしょうか、そういう人たちがこの国に住んでいます。そして98%がローマカトリックです。一時は歴史上でイスラムの支配を受けたようですけれども、福音が伝わり、そして今では98%がローマカトリックの信者であるということ。
本当に幸いであろうと思うんですね。
しかし最初にパウロたちが来たときに、彼らは考えが変わった。このことは私たちが福音というものがもたらされていく、そこに非常に大事なことを語っていると思うんですね。
私たちも福音を伝えるその使命がありますけれども、その福音を聞いた人たち、あるいは聞いただけではなく、その福音を自分のこれからの生きるための考えによってそれが変えられていく。
福音によって価値観が変えられていく。あるいは福音によって生き方が変えられていく。あるいは福音によって今までの言動が全然違うものになっていく。そうでなければまた福音の意味もないわけであります。
ただ福音を聞いた、恵まれただけではない。この人たちのように考えが変わっていく。そうでなければ福音は虚しいものであります。十字架も虚しいものであります。
私たちは十字架の罪の贖いと、そして許しを伝え、そして十字架で表された神の愛を伝えて、そしてそれを聞いた人たちが、それは素晴らしいことですね。それで終わったのでは、この十字架は本当に虚しいものです。
その十字架を聞いた人、言葉を聞いた人たちが考えを変えていく。価値観が変えられていく。生き方も変えられていく。そして希望なかった人が希望を与えられて、そして日々歩んでいくように変えられていくということ。
21:14
ここにこの福音の素晴らしさがありますし、また変えていく力があるんだということを、私たちは証をもって証明していくわけです。十字架の言葉は滅びに至る者には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。
この力はジュナミスというダイナマイト、どんなものをも破壊して、そして突き破って、そういう素晴らしい力、自分をがんじがらみにしている、そういうものをも打ち破って、そして自分が閉じ込められている、様々なものにしがらみで縛られている、そういうものを全部解き放って、解放してくださる。
そういう力がある。それがまた福音なのだということを、このところから覚えさせられるわけであります。この様子を見て、彼らは考えを変えて、そして一方、二方、この福音に近づいていったということであります。
七節からは、先ほど読んでいただきましたように、また別の出来事がこのところで起こりました。それはポプリオの父が熱病とゲリトで床についていた。そこでパウロはその人の元の行き、祈ってから彼の上に手を置いて治してやった。
私たちは聖書を読むときに、その聖書の言葉をそのまま受けて、それに恵まれていく。あるいはそこに私たちの信仰が表されていくということは当然でありますが、あるいはこの御言葉には記してはいませんけれども、いわゆるこの行間を読むということも大切なことですね。
ここはその一つだと思います。パウロはその病にある人のところに行って、祈って、そして手を置いて治してやった。ある人がこの熱病とゲリ、そういう病も祈って、そして手を置けば治るんですか、ということですよね。
私たちにはその答えを出すことはできません。聖書は治してやったと書いているから治ったんでしょう。しかし私たちの様々な経験の中で、祈って、そしてそれこそ手を置いて祈った。
それで治るかというと治らないこともありました。これからもあるでしょう。薬を持ってしないと治らない病もあります。手術をしないといけないこともある。様々な神様から示されて与えられたあらゆるものを用いてその病を治していかなければならない。そういうことも当然含んでいます。
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大事なことは、私たちはここにあるこの祈って、あるいはその手を置いてという、要するに神様のその癒しの力をもお借りしなければいけないということ、あるいはむしろそのことがまず最初にあって、そしてこの人の体に取り付いている病とか、あるいは何か心の中にあるそういう重荷をとっていただくということ。
得てして、多くは祈らずに、あるいはその人の上に手を置いてというのは祈りのことですが、ただ治すということに私たちはどうしても思いが行きますし、そういう願いを持っています。
しかし私たちのこの人間というものは神様はどのように作られたのかということですね。私たちは体が動けばそれでいいのか、あるいは体が動くことが人間なのか、そうではない。
私たちには心もありますし、何よりも魂というものがあって、そして一つの人間として神様はお作りになって、今ここに置かれているということ。
ですから、この病院のいろいろな病院がありますけれども、ホスピスケアの中でも特にその全人医療ということを掲げているホスピスの病院があります。
それはただ体の癒し、病気を治すということではなくて、その人の全部、それは心のケアであったり、あるいは魂という部分での取り扱いをして、そしてその人のすべてを見ていくということですね。ケアしていく。
ですから、体が治ってもその人の心に、あるいは魂に、まだ何か治さなければならないものが残っていたら、それはまだ残念なことでありますし。
それじゃ、体は治らなくても、その魂が、やがて私たちが神様から使わされたその魂がまた神様に戻っていく、その希望も残されているということ、そういうことを私たちはすべての面においてきちっと整理しておく必要がある。
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またそれをケアしていくという、全人医療、そういうことをもう一度ここでも改めて覚えておきたいと思います。
ですから、祈ったらすべてが治るのかということではありません。
祈って治ることもあります。それも神様がそうされたことでありますし、祈りとまた他の様々な方法をもってケアをしていく。これも神様が示してくださることであるということです。
そういうことがあって、島の他の病人たちも来て治してもらった。
おそらくパウロももちろん祈りの人でありますが、ここでは当然、医者のルカも一緒に同行しておったわけでありますし、彼がその医療の面でいろんなアドバイスもしただろうし、あるいはその治療に関してのアドバイスなり、
あるいはどのようにしたらこの病が治るのかというものをルカが担当したという、それも想像できるわけです。そういうものを全部含めて、パウロが島の他の人たちも来て治してあげたということ。
でも私たちは、全てにおいてこれは神様の働き、使徒の働きは、精霊の働きだということを一番初めに申しましたように、精霊は人々を用いて神がその技をなされるということ。もう一度ここでも改めて覚えたいと思います。
10節、それで彼らは私たちを非常に尊敬し、私たちに必要なものを用意してくれた。それからまたこの島を出て、いよいよローマに向かったということ。そのことがここに書いてあります。
14節、ここで私たちは兄弟に会い進められるままに彼らのところに7日間滞在した。そしてこうして私たちはローマに到着した。この14節のこうして私たちはローマに到着した。
私たちが聖書を読むときに、この聖書という書物と私たちが日ごろ読んでいる小説だとか、あるいは私たちの好みの本を読んでいる、そういうときにずいぶん違うなと思うんですね。
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聖書はただこのように、こうして私たちはローマに到着した。そのように書いてあるわけですが、ただこれだけというような気がしないでもありません。
思い返せば、このローマ行きはどれほどの苦難があったかということですね。パウロさえももうだめではないか、もう何度も何度もそう思った。しかし傍らに主が立ってくださり、あるいは密会が立って、お前は必ずローマに行くのだ、そういうふうに告げられた。
そのたびに、ああそうだった。でも目の前にある困難はもうかすかず起こってきた。ハードルがいくつもあった。そのたびに気持ちが慣れたり、あるいはもうだめだろうと。命も取られそうになった。何度も何度もそういうことを経て、そして今マルタ島に着き、そしていよいよローマに到着した。
もっとかけようがあるんじゃないだろうか。ついに私たちはローマに到着した。今まではこんなことがあり、あんなことがあり、そしてもうこの喜びは語り尽くせないほどのたくさんの思いが彼らのうちにはあったろうと思うんですね。
なのに私たちはローマに到着した。どうして自分たちもこのローマに着けたことは不可無量だというような、そういうことを書かないのか。ある人はそう思っても不思議ではないと思います。
しかしこの人の働きの著者は、「どんな形容詞を持ってしてでも表せないほどの思いであるから書けなかったのではないか。言葉には表せないそれほどの感動を彼らは覚えたからこそ、容易な形容詞を連ねることを彼は避けたのではないか。
こうして私たちはローマに到着したという、もうこのことに自分の全てを込めてこう表した。
ですから私たちもそのことを汲み取って、彼らがローマに到着したということの中に万感の思いが込められているんだということをここに覚えて。
ああ、やっと福音が当時の世界の中心であるローマに着いたんだ。いよいよこれからこの福音がローマからやがて全世界に行き渡っていくのだなというその思いを持って私たちはここを読みたいと思うんですね。
33:15
こうして様々いろんなことがあった。こうして私たちはローマに到着した。そしてこの福音をここで広めていくのだというその思い。その思いを私たちも共に味わいたいと思うんです。
15節からまたずっとこのローマでのパウロの様子が書かれてあるわけです。
16節にはパウロは万兵つきで自分だけの家に住むことが許された。ここでも初めて来たこのローマ、パウロにとっては不安もありましょうけれども、この万兵つき、護衛つきで守られて、そしてこのローマで滞在することができたということが書かれてあります。
これも神様の守りがあったということ。そのことを覚えたいと思います。そしてこのローマにはすでにユダヤ人が先にいたということが書かれてあります。
パウロはユダヤ人の主だった人たちを呼び集めて、彼らが集まったときにこう言った。いわゆるパウロが行く前にもすでにエルサレム辺りからいろんな国々に、町々に移り住んでいた人たちがいた。ローマにもユダヤ人同胞たちがいた。
その人たちと会って、そして自分もユダヤ人としてローマに来たけれども、その理由とその使命はこうこうこういうことなのだということを彼らに告げたわけですね。
カイザルに上祖して、そして私はここに送られてきたんだ。そういうことをパウロは語るわけですけれども。次のページの24節のところでパウロは神の国のことを明かしし、またモーセの立法と預言者たちの書によってイエスのことについて彼らを説得しようとした。
要するにローマにいる、いわゆる同胞、ユダヤ人に神の国とイエスキリストのこと、そして福音を彼らに語ったわけです。24節、ある人々は彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
これは今も続く世の常であります。ある人たちは信じたが、ある人々は信じようとはしなかった。
36:03
このことも去ることながら、私たちがここで覚えたいことは、自分の同胞、ユダヤ人。ユダヤ人たちは本来自分たちの国というものを持っているわけですが、そこを去って、いわゆる外国に行ったわけですね。
そして外国に行ったその同胞に福音を伝える。この感覚は私はよくわかるんです。私も日本に生まれ日本に育ちながら、日本では福音を聞くことはなかったんです。
誰もクリスチャン身近にいなかったし、十字架のこと、復活のこと、イエス様のことは誰も私に語ってくれる人はいませんでした。私の家自身もクリスチャンホームではありませんでした。
いろいろなゆえあって、私がアメリカのカリフォルニアに行きました。そこで、日系の教会ですがそこに連なって、そこで、あちらで福音を聞いたんです。日本人の人たちから。それによく似ているわけですね。
そしてやがて、それはアメリカに限らずヨーロッパでもそうでしょう。他の国で日本人が外国で福音を聞くということがあるわけです。このように。
ただ問題は、彼らがその福音を信じて救われてクリスチャンになって、祖国日本に帰ってきます。そこで起こる一つの出来事はカルチャーショック。
自分たちは日本で生まれ育って日本のこともよく知っている。しかし、あるそれが二十代でしょうか三十代でしょうか五十代でしょうか。残念ながら日本の中にある教会というのを知らずに帰ってくるわけですね。
ですから、こと教会に関しては向こうの教会のありようはわかっているんだけど、日本の教会のありようというのは初めて接しますから、そこでカルチャーショックを受けるんですね。
こんな教会ってこうだったっけという、そういうもの。それは良し悪しの問題ではなくて、それは文化の違い。教会というのはその土地、その土地の文化の影響をものに受けますから、
そのところでどんな礼拝をしていたのか、どんな交わりをしていたのか、教会とはこうだと思って日本に帰ってくるんですが、全然違うということで、でもよく考えればカルチャーショックなんか受ける必要はないんですね。
39:23
私たちはなぜ教会を変わることによってカルチャーショックのようなものを受けるのか。それは主から目を離すからですね。どんなところに行っても教会がどうであっても、私たちが目を注ぐもの、魂を向けるものは主です。
その教会の群れが、どこの教会であってもどんな教会であっても、その群れが主を信じてその同じ主に礼拝を捧げている、同じ主に賛美を捧げている。それさえ一致しておれば何もカルチャーショックなどを受ける必要はないわけです。
その机の並び方、椅子の並び方、あるいは何かこの荘学の堂とか、そんなことは後のことであって。一番肝心の、この礼拝の民が本当に主を信じて賛美を捧げている。あるいは祈りを大事にして祈っている。
あるいはこの福音を神の言葉と信じて、みんながこの御言葉により頼んで、一生懸命歩んでいる。それさえ確認できれば何も恐れることはない。私たちはイエス様から目を離して周りを見たりするときにカルチャーショックを受けてしまう。
ですから帰国したクリスチャン、帰国クリスチャンの方にもどうぞカルチャーショックを多少受けても受けないでください。神様を仰ぎましょう。同じ主を仰いでいるんですから。
あるいはその教会もそういう帰国、外国で信仰を持って来られた、ちょっと驚きっている人も心配ありません。私たちはあなたが信じた同じ主を信じているんですから。多少いろいろ違うところもありましょうけれども。
同じ主を仰ぎ、見た目は一つ、信仰は一つ、バプテストも一つ、同じ主を共に歩んでいきましょう。そういうふうにして3ヶ月、1年、3年過ごしていくうちに全くお互いが一つにされるということ。
そのことを経験上そう思うんですね。ここにローマにいた同胞たちにパウロがエルサレムでは語れなかったその福音をローマでユダヤ人に語ったということ。
42:10
そしてある人々が彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとはしなかった。
28節、ですから承知しておいてください。神のこの救いは違法人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう。
同胞であるこのユダヤ人に何としてでもこの福音を知ってほしい、救われてほしいとパウロは願うんですけれども、なかなか固くなな人たち、固くななユダヤ人であった。
ですから決してユダヤ人同胞を見捨てるわけではありませんけれども、神様は少し方向転換をして、これからは違法人を通してこの福音はより多くの人たちに述べ伝えられていくでしょう。
全世界にこの福音が伝えられていくためには、神様の知恵として違法人にまずここから伝えられていくんだということをパウロは改めて示された。
ですからこのマルタ島の人たちも土着の迷信や信仰から救われて、今はクリスチャンの人がほとんどになっているということでありますし、
やがて私たちは知るようにローマ、あの大ローマ帝国がこのクリスチャンの群れに変えられていったということ、そんなことを振り返るときに、その最初はこういうところから始まっているんだということであります。
どんな小さな群れであったとしても、神の力はダイナマイト、素晴らしい大きな力を持っている。その福音をただストレートに単純に十字架に表された神の愛と、そしてこの方はよみがえられた復活の主、この方をとにかく述べ伝える。
身近な人から述べ伝える。私たちは大改修を前にして語るという機会はほとんどありません。多くは私たちの身近にいる人、あるいは出会った人に福音を語っていく。それは本当に小さな働きであるかもしれません。
しかしその私たちが、たとえ小さな働き、あるいはその百人二百人の方々に語ったとしても、一人しか福音を聞いていただけなかった、あるいは信じて救われていただけなかったと言っても決してがっかりする必要はありません。
45:21
ある人が多くの改修の前で三千人、あるいは一万人の改修の前で福音を語っても、誰一人救われないこともあります。あるいはそれは五人であるかもしれません。幸いです。それも幸いです。
でもある人がこんな話をしてくれました。その人は自分の生涯でいろいろと福音を伝えたのですが、一人しか聞いてもらえなかったし、一人しか救えなかった。救ったのは神様ですが、お手伝いをした。それはただ一人だった。
その人はシュバイツアーであったと言うんですね。このシュバイツアーがどれほど大きな働きをしたかということですね。
ですから私たちがどれほど多く語るか、あるいはどれほど多くの人に聞いてもらうか、そういうことではない。もう一人一人に心を込めてこの福音を丁寧に、そして忍耐強く伝えていく。
その伝えた人がまた、その人の賜物を用いてどうしてくださるかということを神様に委ねていくわけです。これがゲス様の言う、全世界に出て行き、すべての作られたものにこの福音を述べ伝えよう、そう言っていることであります。
使徒の働きのこの二十八章はこのところで終わります。思い返しますと、この使徒の働きはまさしく精霊の働きであった。神御自身が人を用いてこの技をなさった。
一章の八節の御言葉。精霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てにまで、当時で言えば世界の中心のローマ、あるいはパウロの中にはスペインまでもビジョンはあったようですが、地の果てにまで私の承認となります。
それがまた新大陸、アメリカ、あるいは私たちはこのアジアを通して、アジアを経てこの日の出る国、日本にもこの福音が伝えられた。この御言葉が成就しているわけです。
エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てにまで私たちの承認となります。福音は述べ伝えられていきます。そしてこの今日二十一世紀にもこの使徒の働き、精霊の働きは続けられていく。その使命を私たちは預かっているのだ。
48:19
ですから三十一節のその使命の言葉、大胆にそして少しも妨げられることなく、神の国とその主イエスキリストを述べ伝えなさい。そのことをもって今日終わりたいと思います。お祈りをいたします。
こうして私たちはローマに到着した。天の神様、パウロたちがローマに着いて、そしてここからいよいよ福音が全世界に広まり、私たちのこの日本にも伝えられたことを覚えて感謝をいたします。
私たちもまた救われた者の一人として与えられたその持ち場立場で、この福音を述べ伝える者としてくださるように、そして神様の宮座がそのところで現されて、そして共々にこの救いを喜ぶ者としてくださいますように。
この教会にありましても、この業が見えるごとくに現されて、共々にそれを喜ぶ時が来ることを信じて、イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。アーメン。
49:49

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