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2020-09-13 33:17

2020/09/13:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(15)ぶどう園のたとえ

2020/09/13 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 13:6-9

マタイの福音書 -30


00:04
改めて、みなさんおはようございます。
今日は一部に斎藤たちも来て嬉しいです。
朝早く、早く起きられたんですね。感謝です。
さあ、このイエス様のたとえ話、私たちへの問いかけ、15回目です。
今日は、ぶどう園のたとえ話になります。
イエス様のこのたとえ話は、このたとえ話を聞いてほしい人たち、
そして、わかってほしい人たち、その対象の人々がいるわけなんですね。
その対象になる人々は、時にはパリサイ人のような人々、
時には弟子たちだったり、時には群衆だったりするんですね。
ところが、今日のルカノ福音書のこのたとえ話を理解するために、
その前の1節から5節に、イエス様がこのたとえ話をしたその意図、メッセージがここに書かれているんですね。
そこをちょっとご覧下さいますか。
今日のルカノ福音書の方です。
13章の1節から5節、全部読むのは長いですので、3節だけご覧下さい。
ルカノ福音書13章の3節、一緒に読みたいと思います。
3杯、そうではない。私はあなた方に言います。
あなた方も悔い改めないなら、皆同じように滅びます。
実は、この文脈の中で、今日の箇所、6節から9節のブドウ園のたとえ話をされたわけですね。
しかし、あなた方も悔い改めないなら、皆同じように滅びますよというメッセージは、
当然、このメッセージがイエス様と神様の思いが、皆も滅んでほしいから語られたメッセージではないでしょう。
神様の心は何でしょうか。
それは、皆が悔い改めて、そして生まれ変わること。
それが神様の御心なんですね。
パリサイ人も、サドカイ人たちも、立法学者たちも、悔い改めないで、
家族な心を持った人々も、皆悔い改めて、本当に信仰に生きることを主が願っておられるから、
03:05
あなた方も悔い改めないなら、皆同じように滅びますよという話なんです。
この例え話のシリーズですね、福音書の順番にこの例え話が来るわけですけれども、
私たちはそれを合わせたわけではありませんが、
先週行われた秋の特別企図会に、ペテロの手紙第2から月曜日は休会して、
花、水、木、金、4日間、休会が開かれました。
いろいろ忙しさの中でも、朝昼晩皆さん出席していただきました。
その中でですね、いろいろ理由があって参加できなかった方々もおられますから、
ちょっとだけね、味わってほしい、また分かち合いたいと思いますけれども、
そのペテロのメッセージもですね、神様がもう忍耐していますよ、
偽善者たち、偽教師たちが教会に忍び込んで、教会を駆け回していて、
ペテロは使徒じゃないか、あるいは弟子じゃないんじゃないかと疑わせる、
そしる、神の真理がそしられる、大きな罪と外には迫害がある中で、
そんな中で何とか信仰を守っている彼らにですね、主は忍耐して待っていてくださる。
ある人たちが言うように、想像の時から今から何も変わっていないじゃないか、
サイリンは本当にあるのか疑っていても、怒らせているわけではない。
ただ神様が忍耐しているんだ、その忍耐の理由は何なのか。
それはあなた方に罪がないからでもなく、神様がもうアホだから、バカだから、
何が何がならないのか分からないから、その裁きをしていないわけでもない、
気づいていないわけでもない、あるいは神様が傍観しているから、もうどうでもいい、でもない。
なんで神様が忍耐しているんでしょうか。
神の忍耐は救いであると御言葉にありました。
それが第二ペテロ三の十五節なんです。ちょっとね、一緒にいただきましょうかみなさん、せっかくですのでね。
第二ペテロ三の十五節。
第二ペテロ三の十五節。
06:09
神薬説の後ろの方にあります。
三の十五節の一番最初の一行目を一緒に読みますね。
464ページですね。
よろしいですか。
第二ペテロ三の十五節、一行目一緒に読みますよ。
また私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
愛する兄弟、パウロもその与えられた知恵に従って、あなた方に書き起こったとおりです。
どうですかみなさん。
神の忍耐は、主の忍耐は何ですか。
救いである。
神様が救いを望んでおられるから、今忍耐していますよ。
2000年前も今も忍耐している。
どれだけ深い深い忍耐なんでしょうか。
今日のメッセージは、今日のルカノン福音書として後から少し見ますが、
タイの福音書のメッセージは同じ話なんだけれどもね。
神の忍耐は救いである。
だからみんな悔い改めて清く歩んでほしい。
しかし悔い改めないなら、その終わりは滅びである。
使徒テテロが人生の最後の最後に書き送った手紙が、第二テテロなんです。
今日の例え話を見ていきましょう。
ある人がですね、ルカノン福音書に戻りますよ。
武道園に一軸の木を植えました。主人がね。
植えてですね、そこの武道園のいわゆる管理する人々、番人がいるわけなんですね。
よくね、世話してくださいとね、頼んだわけなんですね。
きっとですね、その番人はですね、水やりもよくして、枝も切ってよくですね、世話をしたと思うんですよ。
09:01
3年もね。ところが、どうですか?
今日の6節ご覧ください。
ある人が武道園に一軸の木を植えておいた。
実を取りに来たが、何にも見つからなかった。
3年もですね、主人が待ってくれたわけなんですよ。
いやあ、一軸の実がなったのかなあ、楽しみだなあ、行ってみたら何にもない。
何も実のってない。
主人は、このオーナーさんはがっかりしたでしょう。悲しんでいたことでしょう。
それでですね、7節ご覧ください。
武道園の番人にですね、この主人がこう言ったんですよ。
みなさん、3年もの間やってきては、この一軸の実のなるのを待っているのに、
神様が私たちに対して、この世に対して待っていてくださるように、
この主人も待っているのになっていたためしがない。
これを切り倒してしまいなさいとね。
何のために土地を塞いでいるのですか。
もう切り倒して、燃やして捨てなさいと。
ところがですね、8節番人がですね、こう言うんですよ。
ご主人様、どうか今年1年でいいんだから、この1年、この1年、猶予をください。
そのままにしてやってください。
私が一生懸命木の周りを掘ってね、もう肥料をやって水やりをして、
ちゃんと世話して実がなるようにしますから、
ご主人様、もう1年猶予の時間をくださいとね、お願いしたんですよ。
何の優しい番人なんでしょうか。
そしたらですね、このご主人さんもね、9節。
もしそれで来年、この番人が言うんですね。
もしそれで来年、実を結べば良し、それでも駄目なら切り倒してください。
例えば私はここで終わっているんです。
皆さん、このブドウ園の主人は誰でしょうか。
神様ですね。神様を指しています。
そしてこのブドウ園の番人は家様でしょう。
12:01
3年というものは、家様の3年の働きをその期間を象徴すると理解していいと思うんですね。
この一軸の木はイスラエルの人々です。
今日の私たちに例えて当てはめて言うならば、教会の中にいる私たちなんです。
番人がですね、3年の間一生懸命ね、管理して水やりして肥料してね、
でも実が一つもなかった。
というのは、まずこの当時、イエス様が3年の公の生涯の間ですね、
どれだけ神の御言葉を、福音を、悔い改めと救いを、神の心を、天皇御国を述べ伝えたんでしょうか。
癒してやって、死んだ者をよみがらせてですね、産女衰君のようにですね、
あるいはね、パリサイ人たちのような人々に、群衆に、弟子たちにですね、
一生懸命ですね、番人が一軸の木の世話をしたように、イエス様が御言葉を述べ伝えられたわけなんです。
3年間。ところがですね、まるでイスラエルの人々のように、
この真理の御言葉を聞いても、悔い改めないイスラエルの人々が大勢いたわけなんです。
神様の心から見れば、そのイスラエルを見ればどうでしょうか。
きっとですね、神様は心を痛めておられることでしょう。
一人子イエス様を使わせて、神の国の真意を伝えたのに、聞こうともしない、悟らない、
いやむしろイエスキリストを阻止する、拒む、否定する人々が大勢いたわけなんです。
ブドウ園の主人がその番人に、もうこの一軸の木を全部切り倒して捨てなさいと言ったのは、
皆さん、神様の裁きの神様の意思なんです。
神は裁かれるという神のこの意思、御意思なんですよ。
なぜ神様は裁かれるのでしょうか。
悔い改めないから。
自分の罪に気づいてないから。
キリスト御言葉を拒んだから。
15:04
ところがですね、この番人は、ご主人様、もう一年待っていてくださいとね。
もう放って、肥料、肥やしをやって、水やりをして、ちゃんと実るようにしていたいんですね。
皆さん、これはですね、神様とイエス様の意見が一致していないことを意味するのではなく、
神の恵みと哀れみ、忍耐を強調していることなんです。
皆さん、この番人が言っているのは、まるでイエス様が私たちのために虜して言ってくださる。
神様、まだ悔い改めない人がいるんだけれども、自分の罪に気づいていない人々がいるんだけれども、
神に立ち返っていない人々が大勢いるんだけれども、
昔は洗礼を受けた者も、一向に神に礼拝していない者たちがいるんだけれども、
聖徒でありながらも、肉の欲望に従って生きる人々がまだいるんだけれども、
神様、もう一年、彼らが悔い改めて、まことの神の民になれるような、
もう一年のチャンスを与えてくださいませんか、というイエス様の取りなしなんです。
なんと大きな恵みなんでしょうか。
神様の忍耐は、ただの忍耐ではないんですね。
私たちに、神の心に従って生きる、祝福されるチャンスの時間でありますね。
さらに豊かに祝福されるチャンスの時間である。
あるいは、神を信じない人々には、神様を信じることができるチャンスの時間である。
裁かれないうちに、神様を信じられる時間、チャンスが与えられる、機会が与えられる。
裁きの猶予の時間なんです。
あるいは、教会の中にある私たち生徒たちは、それぞれ罪を悔やめて、
清く生きるその道に歩めるチャンスが与えられている。
まるでこの一年の時間があったように、皆さん、神様は今も同じく働いておられますよ。
第2ペテロでも見ましたけれども、イエス様もサイリンが遅れているように思われるかもしれません。
今もですね、いやもう2000年前も言って、今もまだ来ていないんだから、
18:02
これからもう2000年くらいはあるんじゃないですか。
もう全然大丈夫、そんな焦ることないし、大丈夫よイエス様、すぐに来ませんよ、みたいな声があったりしますね。
ところが皆さん、ある意味でですね、この神様の裁きが、イエス様のサイリンがまだ来ていないことには、
私たち感謝と恐れ、この2つを覚えていなければならないと思うんですね。
感謝と恐れなんです。
まず感謝してほしい理由は、神の忍耐がまだ有効中だからなんです。
今も神様は忍耐している中なんですね。だから感謝しなければならないんです。
全ての人が誠に悔い改めて、人生の向きを変えて神様のために、誠の信仰の人に生きるように神様が待っていてくださる。
どれだけ感謝のことなんでしょうか。
ある意味ですね、何千年も神様が待っていてくださるんですよ。
この世の中にですね、何千年も待っていてくれるところはないんですよ。
例えばね、お金借りて、私借金したことはありませんがとかのローンしたりですね、
必ずですね、返さなくてはならないでしょう。
1日も1ヶ月も1年も待ってくれないんですよ。
他もそうですけどね。
神の忍耐は、その忍耐を本当に恵みとして受け止めて感謝する人はね、
それにふさわしい生き方をするんじゃないでしょうか。
どこの国もそうですけれども、昔千年受けた者の教会から離れた人々が大勢いるでしょう。
我々の家族にもいるでしょう。
あるいは生徒でありながらも、悔い改めないままで固くなな心を持って、
盲目の目で信仰生活をしている人もいるでしょう。
自己満足のために生きている人々もいるでしょう。
そういった全ての人々が悔い改められるチャンス、
向きを変えられるチャンス、死のために生きられるそのチャンスの時間が神の忍耐である。
それを覚えたら、どれくらい感謝なことなんでしょうか。
しかし同時に忘れてはいけないことがあります。
21:02
それは恐れというものです。
神の忍耐があるということは、永遠に忍耐があるわけじゃないですね。
必ず終わりが来る。裁きが必ず来る。
身を結ばない一軸の木が切り倒されるようにですね、
毒麦を最初に集められて束にして燃やしてしまうような裁きが必ず来るんだということなんです。
それがまずは世の中の人々でしょう。
神を信じない人々。
あるいは、私は昔せいにおけたんだからね、
だから天国に行ける地点を持っていますよ。
だから今はもう極下に行っていないんだけど、
大丈夫だよみたいに間違った信仰を持っている人々。
神をあかれない人々。
悔い改めない人々。
信仰にふさわしい身がない人々。
その信仰はもしかしたら、
私にはそれが分別できませんが、神様の目からは、
何が本物で何が偽物なのか。
信仰も悔い改めも洗礼も教会生活も、
何が本物で何が偽物なのか、神様には分かれる。
そしてやがては、その不信仰、
あるいは偽りの信仰のゆえに、
みんな裁かれ滅ぼされる。
この感謝と恐れを同時には、
私たちは覚えなければならないと思います。
ちょっと長くなるかもしれませんが、
この話をさせていただきたいと思います。
今日の福音主義の教会の
盲点・弱点・反省するところがあります。
だいたい20年、30年前から、
この福音主義新学校とか、
そこの教授とか、僕会社たちが、
もう本当に痛感して痛烈に反省して悔い改めて、
新しく改めて教えて伝えているところがあります。
幸いに、教団の新学校にも、
そういった点を同意して、
教えている先生たちもいるようなので、
希望があるかなと思います。
簡単にまとめて話をしますと、こんな話です。
今まで福音主義の教会が、
神の愛と恵みだけ強調しすぎて、
そこに神の義と悔い改めが欠けた福音になってしまった。
そういった教会制度を量産してしまった痛感の反省であります。
24:06
もう一点は、1980年代にですね、
世界的にいわゆるキャラバン伝道、
あるいは学生伝道がものすごく活発で、
そこの意味もあるんですけれども、
損もあったわけなんですよ。
いわゆる、今はあまり使われていないんですが、
皆さん、四つの法則というものがあるでしょう。
ご存じだと思います。
全く不信心とか異端とかそういう話ではありませんが、
そこに盲点、弱点が一つあります。
それはですね、私も若い時に、学生の時によくやりましたけれども、
そこに、例えば公園にいてですね、
誰かのおじちゃんにですね、四つの法則を読み上げる。
その人がですね、こっちの方がね、
イエス様を受け入れますか?
はい。
そうしたらですね、あなたの魂は今日救われた。
あなたは永遠に救われた。
永遠の命が与えられた神の民になれました。
ハレリアみたいなね、伝道してきました。
もちろんそこで本当に救われた人がいるかもしれませんが、
そういうふうにして、救いを、福いを安価なものにしてしまった。
イエス・ギリスの十字架のあの父を、本当につまらないものにしてしまった。
そして今も多くの信者たちが、
その安価な、もう間違った、欠けた福音に陥っていっていることに対する反省と悔い改めが、
今ね、福音主義教会の中で、神学の中で起きているんです。
ともかく、皆さん、神の忍耐は、私たちが悔い改めて、
神の御言葉通りに正しく清く生きられるチャンス。
本当の神と交わって、誠の祝福を、恵みを味わって、
飯と選びにふさわしい実を結んでいくことができるチャンスを主が与えてくださっている。
今も何と大きな恵みなんでしょうか。
ここで、大の福音書の御言葉を入れさせていただきます。
麦を植えました。しかし、敵がやってきて、毒麦を、種をまけました。
最初わからないんですよ。芽生えて、これが麦なのか、毒麦なのか、わからないんです。
しかし、どんどんどんどん伸びて育ったら、後からどうですか。
誰が見てもわかるんですよ。農夫だったら、これが麦なのか、毒麦なのか、
27:06
これが稲なのか、雑草なのか、わかるわけなんです。
最初わからないんです。
ところが、畑の主人も、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、サイリンの時なんですね。
私は狩る人たちに、まず毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦の方を集めて、私の蔵に収めなさいと言いましょう。
皆さん、これを広い意味で見れば、世界なんですね。
世界に聖徒とそうでない人々、麦と毒麦。
これを狭く見れば、教会の中に当てはめることもできると思うんですよ。
麦と毒麦。あり得るということなんですよ、皆さん。
この世界に、あるいは、教会の中に毒麦がないから、不信仰者がないから、神様がすぐに裁かれないんでしょうか。
そうではない。
私たちに罪がないから、私たちがあまりにも清いから、神様が裁かれないんでしょうか。
そうではない。
主は、神を愛して、主の御言葉に信頼して、
あるいは、食い改めて、その信仰にふさわしい身を実らせていく聖徒たちのために、
教会を保って、守って、主が忍耐してくださるんですよ。
麦のために、毒麦もそこにまだいるだけなんですね。
しかしどうですか。
狩られる時は必ず来る。収穫の時期は必ず来る。
イエス様の祭りは必ず来る。
そうすると、不信仰の人々、神を信じない人々、
あるいは、ニセイ教師たちのようなニセイクリスチャン、ニセイ牧師たち、ニセイ聖徒たちは、
束にされて焼かれることになるでしょう。
このマタイノクイーションの例えも同じですね。
もちろん、毒麦が麦になることはないんでしょうけれども、
この滅跡の中心にも、神の忍耐があるんですね。
食い改めと、その飯と選びにふさわしい身を結んで歩んでほしいから、
30:08
神の忍耐と、救いの神の心を知ってほしい、信じてほしい、
この切なる神の思いが、この例え話にあるんです。
皆さん伝わってくるんでしょうか。
今日のマタイノクイーションのイエス様の例えは、
もう全部滅ぼしてしまえじゃないんですね。
もう全部砂漠上じゃないんですね。
あなた方にまだチャンスがあるよ。
あなた方が食い改めて、御言葉にふさわしく生きるチャンスがまだあるよ。
私が与えるんだからね。
サイリンが来るまで、神の御言葉に従って歩んでほしい。
今日も私があなたに食い改めるチャンスを、メッセージを通して、聖書を通して、あなたに与えている。
真ことの信仰を持ちなさい。
罪を食い改めなさい。
欲望に従って生きる生き方を捨てなさい。
記憶を歩みなさい。
あるいはイエス様を信じなさいという、神の忍耐のメッセージであります。
しかし、今日の例えにも出てきているように、神の忍耐は永遠に続くわけではありません。
そして、遅れることもありません。
神の時は、イエス様のサイリンは必ず来るということです。
そして、無儀は神の蔵に入れられるように、神の本当の生徒たちは、神の国に迎え入れられるでしょう。
しかし、ドコムギのような人、飯とエラビに相応しい身を結んでいない、
偽クリチャンたち、偽牧師たちは、必ず裁かれる、焼き尽くされるということを思いましょう。
メッセージを伝えたいと思います。
私たちは皆、罪人です。
何一つ自分の行為では、思いでは、言葉では、救われるものはありません。
ただ、私たちを召して選んでくださった神の恵みによって、私たちは救われ、生かされました。
どうか、この世に召して選んでくださった神様、その方の身言葉と心に相応しい清い身を結びつつ、
33:09
イエス様のサイリンを備えつつ、歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りします。
33:17

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