イエス様の受難
改めて受難日を迎えております。 私たちはイエス様の十字架の苦しみを、ご一緒に聞いてまいりました。
そのイエス様の姿を思い浮かべるときに、 私たちはその姿に一体何を見るでしょうか。
英雄のような華々しさは、かけらもありません。 この時代の多くの人が、
イエス様を英雄の成り損ない、敗北者として見ました。 当然、私たちはそのようには見ないわけですけれども、では、
私たちは受難のイエス様をどのように見るでしょうか。 罪の身代わりの子羊として、私たちはイエス様を見るかもしれません。
罪人である私たちが受けるべき神の裁きを、 イエス様は身代わりとなり、十字架ですべて引き受けてくださった。
私たちは裁きを恐れるよりも、 御子への感謝をしていきなさいということを招かれるわけですね。
それはしっかりと覚えておきたいと思います。 ただ、
イエス様は神の子羊であるだけではありません。
むしろ私たちがマタイの福音書を一緒に聞いてきながら知ったことは、 イエスキリストは誠の王であるということです。
そして誠の王が十字架へと進んでいかれたのですね。 そうである場合、私たちはこの誠の王が十字架に進んでいったという姿は、
どのように映るでしょうか。 十字架の意味というのは一つではありません。
ある先生は十字架というのはプリズムのようだという話をしました。 光を指すところを変えたらまた違う輝きが見えてくる。
十字架とはそのようなものだ。 そうであるならば、この時は
誠の王イエス様が十字架に向かわれたその意味をご一緒に覚えたいと思うのです。 26章と27章を読んでまいりました。
誠の王としてのイエス様
特に27章からは受難は佳境に入ってまいります。 私たちはご一緒に見てきましたが、振り返れば
イエス様はエルサレムに王として帰ってこられました。 人々はイエス様に期待を寄せて、
ホザナと褒め唄いました。 その期待とはまさに
このイエス様が私たちをこのローマの支配から解き放ってくれる ユダヤ人の王となってくださるのだという期待でした。
あのダビデのように。 だからエルサレムに入ったら奇跡を持ってピラトだとかを追い出してくれると彼らは期待してたんですね。
しかしエルサレムに入って間を置かずイエス様は捕らえられてしまいます。 そして総督ピラトの前に引き出されて27章からはまさにピラトがイエス様に問うのですね。
27章の10節に あなたはユダヤ人の王なのかとピラトはイエス様に聞きます。
ピラトの眼差しはイエス様を図ろうとしているようです。 あなたがあの群衆が期待するローマを打ち破ると言っていた王なのかと。
しかしイエス様はここを答えました。 あなたがそう言っています。
実はこの言葉は新海約2017で訳が大きく変わった言葉です。 これまで後語訳聖書と新海約第3版はそのままその通りですと訳していました。
でもこれ元のギリシャ語の言葉もこの言葉通りなんです。 あなたがそう言っていることですと。これは改めてこの歌詞を研究し直した人たちが言っています。
おそらく単なる同意ではない。 その通りですよって言ってるわけではない。むしろこれは
ピラトよ、あなたは私をユダヤ人の王だと言っているけれども 私はあなたが期待するような王とは違う。
そういうニュアンスを含んでいる。 あなたは私をユダヤ人の王だと言いたいだろうが、私はそのような王とは違う。
ここで明確に道が分かれるのです。 人々はイエス様をユダヤ人の王様と見たい。
しかしイエス様ご自身は私は真言の王としてこの呪難の道を歩み始める。 ここで見方が大きく2つに分かれる。
ピラトをはじめイエス様を十字架につけるローマ兵、エルサレムの住民、いいえイエス様の弟子たちですら、イエス様はピラトの言うようなユダヤ人の王であると思っていました。
そういう見方に則るならば、イエス様はローマに行ったんだけれども力足らずで勝てなかった、
いわば人々を支配から解放し損ねた勢いだけの無力な自称王様です。 人々はそう見てイエス様をあがけりました。
しかしイエス様はピラトにはっきりと言うのです。私はそういう王ではない。
私はそもそもそんなことを狙ってもいない。 ではイエス様はどういう王なのでしょうか。
イエス様は彼らが期待するようなユダヤ人の王、それは言い方を変えるならば 違法人のように権力を振りかざし
王兵に振る舞う王ではない。 力に力を示して新たな支配によって王になるような王ではない。
イエス様が私はこういう王だと言われたのはマタイの20章の28節というところです。
お読みするので聞いてください。20章の28節にイエス様はこう言われました。
人の子が使えられるためではなく使えるために、また多くの人のための贖いの代価として 自分の命を与えるために来た。
私は使えられるためではなく使えるために来た。 私は命を奪うのではなく命を与えるために来た。
そのような王であるとイエス様は言われる。 そのため、イエス様が王様になるための道筋というのは
普通の王様とは全く異なっていました。 人々はイエス様に力を持ってローマを追い出してくれたら王様になると思ってましたが
十字架における戦い
イエス様の敵はローマではありません。イエス様の敵はサタンです。 敵はそもそも見ているところが違いました。
サタンというのは様々な暴力、偽り、搾取構造の大元に存在する そのような存在です。
最史長や朝露や立法学者たちというのはまさにエルサレム神前の権威を重ねきながら 貧しい人々から搾取、そして富江の悪なき誘惑に囚われている
そういう人たちでした。しかしその背後にはサタンがいた。 このサタンにどのように勝利をできるのでしょうか
それは 力で報復しろ
力で報復しろ そのように絶え間なく誘惑をしてくる
サタンの誘惑に勝利することによってです。 イエス様は言われました。先ほども言いましたが26章の52節
剣を取る者は皆剣で滅びます。 イエス様のある弟子は剣で斬りかかって耳を切り落とした。しかしイエス様は即座に止めました。
剣を取る者は皆剣で滅びます。なぜならこれはサタンの手である。 しかしまことのイエス様は
剣を持って相手を支配することからではなく、 むしろ最後までご自身の命を与え抜くことを通してサタンと戦われます。
それが誠の王としてのイエス様のサタンとの戦い方でした。
ですからイエス様は、この受難の歌詞を見ていただけばよくわかりますが、一切の報復を手放します。
イエス様はピラトの前で不利な証言を言われます。 しかし重ねて語られることはイエスキリストは何もお答えにはならなかった。
不当な裁判です。本当はイエス様は反論する権利はある。 しかしイエス様はあえてお答えにはならない。
兵隊はイエス様をあざけります。 ユダヤ人の王様万歳と言いました。
イエス様は誠の王です。 本当であれば嘲笑ではなく心からの敬意を持ってその言葉を言わなければなりません。
不敬な兵隊に対しては天皇十二軍団の密会を使わすこともイエス様には可能でした。 しかしイエス様はあえてその言葉を甘んじられた。
27章の40節から十字架の光景というのは実に最も皮肉に満ちています。 群衆がイエス様に言いました。
神殿を壊して三日で建てる人よ、もしお前が神の子なら自分を救ってみろ。 そして十字架から降りて来い。
しかし彼らはイエス様がエルサレム神殿以上の永遠の忠補者として三日目によみがえるということ。
そして神の子であるからそうしなさい。できないだろうじゃなくて、神の子であるからこそあえてイエス様はご自身を与え抜くために
自分を救わないという戦いをここでしていることに彼らは気づかない。 最初、立法学者長老たちも言います。42節から。他人を救ったが自分は救えない。
彼はイスラエルの王だ。今十字架から降りてもらおう。 そうすれば信じよう。
彼は神により頼んでいる神のお気に入りなら、今救い出してもらえ。 私は神の子だと言っているのだから。
この言葉は最後にサタンがイエス様の心を挫くように言わせているような言葉に聞こえます。 しかしこの言葉は的外れです。
イエス様はあえて他人を救うために自分を救わないという戦いの中にいる。 神により頼み、神のお気に入りであり神の子である。間違いないんです。
だからこそイエス様は御心を歩み抜かれる。 剣に対しては剣では応えない。
私は命を与え抜くのだ。 最後までマコトの王は愛を貫徹される。
それによって勝利をされる。 そしてイエス様は息を引き取られます。
イエス様の十字架の勝利
人々の目にはイエス様は英雄の成り損ないです。 いいえ、木にかけられて殺された人間というのは、ユダヤ教で言うならば、神に呪われて死んだんです。
神の呪いとなりました。 すべてにおいて敗北者にしか人の目には見えない。
しかし誰がこの戦いの勝敗をジャッジし、誰が勝利を宣言されるのでしょうか。
それは父なる神様です。 イエス様が十字架で死に三日目に蘇らされたということは、そのことを意味します。
当時のユダヤ教において、神は死者、死んだ者、忠実な者を蘇らせるということが信じられていました。
それは言わば、三日目に父なる神様がイエス様を蘇らせた、 それはイエスキリストの歩みこそが神の前に忠実なものであったということを確証しています。
このイエス様の十字架の歩みこそが神の前に忠実なものであり、 誠の王としてふさわしい歩みであり、これは決して敗北ではなく勝利なのだということを、
イエス様が蘇らされることによって約束された、確証された。 私たちはよく歌います、「黄泉より帰り、死と悪魔に勝ちし。」って賛美をしますよ。
悪魔に誠の王イエス様はどのように勝利をされたのか。 それは、
まさに、悪魔は剣を持って剣で返して来いと誘惑をする。
しかしイエス様はそれに対しては乗らない。 私は私の命を人に与え抜いて、私はあなたに勝利をする。
その箇所が、それがこの十字架の柔軟の場面ですね。 私たちはこの箇所から二つのことに迫られるような気がいたします。
一つは、 イエス様はこのように十字架で勝利をされたのは、
私たちがその足跡を進むために道を切り開かれたということです。 私たちは十字架のイエス様を見て、勝利とは何かということを改めて考えろと言われます。
いや、むしろそのことを教えられる。 十字架のイエス様を見て、私たちはどこに勝利がと思います。
本当だったらやり返した方がわかりやすい勝利ですね。 私たちはそれほどまでに報復をしたいんです。
やられたらやり返したい。 し、人よりも上に立ちたい。
それによって自分は安心できるから。 そういう生き方を持って私たちは支配に取り組まれていく。
しかし勝利とはそういうものだと、頭から足先まで使って育ってきてしまった私たちはなかなかこの十字架が理解ができない。
けれども、 だからこそ十字架のイエス様を私たちは見つめ続けなければならない。
勝つとは一体何なのか。 勝つとは一体何なのか。
剣を取る者は皆剣で滅びます。 相手が剣をちらつかせても、
しかしその剣を取らないという戦いがあるんですよ。 もしも相手が鞭打ってきて罵られたらどうしましょうか。
私は個人的には黙れとは言いません。 言わないといけないこともあります。
しかしだからこそ、 愛をもって真理を語りなさいという言葉が響きます。
言わなければならない言葉であったとしても、 愛を失ったらそれは敗北です。
そのように先んじて進まれたイエス様は私たちに、 この十字架で勝利した私と同じように、あなた方も勝利をしなさい。
そのように招く。 私たちはそう招かれながら敗北を何度もしますが、
ただ私たちは何が勝利で何が敗北であるかという理解を、 死を知らない人々といつまでも同じようでいてはならない。
そしてもう一つ、 それはこの世界はこのような
ご自身を与え抜き、愛を貫徹することによって勝利を収められた イエスキリストこそが誠の王と今なっておられるということです。
この世界の王はそのようなイエスキリストなのだということ。 2000年前からそうなのだということ。
ある先生は2000年前からこの世界は十字架の形に変わった、 そのような表現をいたしました。とても素敵だなと思いますが。
ただイエス様ご自身は今も誠の王として、 この世界になおも恵みの支配を実現しようとご自身が働かれている。
罪に痛む一人一人を憐み、イエス様ご自身が嘆いておられる。 そしてそこにイエス様が届こうとする時、
それはいつも私たちの手足を通してです。 そのために私たちは召され、主の手足とされる。
この世界を十字架の形に変えるために、 十字架に進まれた神の愛が見える世界になるために、
私たちは主が先んちで進まれる、主がそこでなしておられる働きに、 私も手足として使わせてくださいとそこに加わっていく。
私たちは改めて十字架を見つめながら、 そのような世界に進んでいくんだということをご一緒に覚えながら、
何度も負けますけどね、ただ勝利が何であるかを見誤ることはしたくない。 十字架を見つめさせていただきたいと願っております。
神の王の働き
一言祈ります。