1. 名谷教会 podcast
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2022-11-06 34:47

2022/11/06:わたしに何をして欲しいのか

2022/11/06 聖日礼拝

斎藤亘師

マルコの福音書 -52


00:01
おはようございます。早くも11月を迎えて、何かと私たちは、その思いはクリスマスの方に向かっている、そんな最近じゃないかなと思います。
今朝、私は、この今読んでいただきましたマルコニオン福音書の10章の、この手前の子、バルテマイという、この盲人の癒された出来事。
私は、新学校に入る前に、しばらく教会で奉仕する、奉仕と言いましょうか、訓練する機会がありましてね。
その時に、斎藤がまた一度、説教してごらんと言われましてね。それで、初めて説教ということを言われて、開いたこの歌唱はこの歌唱でありまして。
非常に私は、それ以来何回もこの歌唱を学び、また御用させていただきながら、その都度色々と教えられてまいりました。その歌唱であります。
この盲人の癒しというこの出来事ですけれども、似通った出来事が、この福音書には何箇所かでそれが出ております。
ただ私は、この丸子による福音書が、そういった福音書の、言うならば原本のような、ルカもあるいは丸子のこれを参考にしながら福音書を記したでしょうし、絶えもそうであったと聞いております。
で、この丸子という人は、これは若くしてね、イエス様を信じて、そしてある意味で言ってこのクリシャンオブのような、そういうこの家庭に生まれ育ってまいりましたので、早くからイエス様の側について、そしてイエス様のなさること、イエス様のおっしゃること、そういったことを一つ一つですね彼は、
心に留めながら、そしてまた後日、彼が使いましたこのペテロからも、詳しくその時はどうだったのか、あの時こういうことをおっしゃったけれどもどうだったのかと、丸子はそれを聞き、そしてこの福音書をまとめたというふうに聞いております。
で、ですからこの十四章のこの出来事もそうですが、手前のバルデマイという、他の箇所ではですね、ただ盲人二人がとか、そういうことのあった表現ですから、あるいはそういうことがよさでもあったのかもわかりません。
03:25
しかし丸子から聞いた言葉を心に決めてこういうことがあったんだろうということで、また他の福音書を記した人たちも書いたかもしれません。
で、それだけにこの丸子による福音書の神秘を据えてみましょうかね。非常に他の福音書が丸子による福音書を一つの題材として、非常にこれを大切にして、そして丸子からも聞いたでしょうし、そのようにしてまとめた。
ですから他の福音書に見られるこの盲人の癒しのところは、この十四章の丸子が記すよりも、もう少し抽象的な感じがするところがあるわけですが、けど丸子は手前のバルデマイというですね、そういうことまでもきちんとこうでもって彼は書き記しております。
といってこのバルデマイという人が、じゃあそこで癒されて後どうなったのかとか、それまでどうなったのかというような、そういう背景は詳しくは聖書には記されておりません。
ただこのところにおいての、イエス様から病が、目が癒されたという、それの関係。ですから若い丸子はですね、非常にその出来事を衝撃的に受けたんじゃないか。
ですからこの出来事の中に丸子が含めている大切なメッセージがそこにある。
私はこのバルデマイと、そしてこのイエス様、イエス様とバルデマイといった方が立場上よろしいかと思いますけれども、私はなんと素晴らしいこの関係。
イエス様はこのバルデマイに向けられたその関係を、私は自分とイエス様との関係においても同じように示されると言いましょうかね。
イエス様は私にもこういう関係で、こういう風に語っていらっしゃるんだな、そういう風に思うんですね。
06:03
ただ、もうじんを前にしてね、改めて聞くまでもないでしょう。何をしてほしいのかっていう。
それはもうじんですから、早く治りたい、もっと新しい世界を見たいという思いを持つでしょう。
戦国イエス様はそれはご承知のはずですよ。
ただ、イエス様がここで持って、バルデマイとの関係において私たちに示そうとされているのは、このイエス様とバルデマイの関係を通しての私たちへの関係。
私に、じゃあ何をしてほしいのかって。
そこには、責任上聞いてくるような、あるいは立場上おっしゃるようなそういうのではなく、
あるいはそういうもんだから、じゃあ仕方がないんじゃっていうの、そういう関係じゃなくて。
もうここにはね、バルデマイに寄り添ってくださるイエス様のそういう関係っていう。
イエス様はバルデマイだけじゃないんですけどもね、特に私には最初ここを読んだ時にそういう風に思いました。
イエス様という方はバルデマイに対してもそうであったように、私にも寄り添ってね、何をしてほしいのかって聞いてくださってるっていう。
ですから私は非常にこのバルデマイの出来事を読んでまいりますとね、丸子も衝撃を受けてここに書いたんでしょうけども。
私も丸子ほどではないですけども、しかし私に向けられたイエス様との関係が何と素晴らしいかっていうことを改めて思わされるんですね。
先ほど神聖歌の8番を歌いましたけれども、「贖い主に寄りて祈れば、慈しみの三日を向けて罪とが許し、靖けを給え。」っていう一節がそこにあります。
このバルデマイの出来事として、何かこの歌詞が非常に私にはより身近に感じられまして、そして今朝ご一緒にここをお歌いしたわけです。
贖い主に寄りて祈れば、バルデマイはイエス様は見えるようになることなんですっていうその祈りに対して、イエス様は分かったって言ってですね、彼の祈りを全部受け止めて、そして彼が癒されていくっていうその様子。
しかもこの時っていうことを考えますとね、イエス様は最後の、言うならばこのエリコを通過された時の出来事。
09:10
次読んでいきますとね、イエス様はこの十一章に入りますと、ここではそのままエルサレムに向かわれていく。そしてこのマルコの十一章は、言うならば受難節の始まりなんですね。
ですからもしバルデマイが最後とも知らずに、ここでイエス様が来られたっていうことを聞いて、そしてイエス様と言った時に、この時をね、また次があるんじゃなかろうかっていうような思いで、もしこの時を意識していたならば、もちろんこの出来事は起きなかったでしょうし。
バルデマイはずっと不自由な盲人としての生活をしておったでしょう。けれども彼はそういう時間的な流れの中で最後になるとは思わないで、とにかく今イエス様にお願いしたんだから、イエス様にお願いしようと言って、そして彼はもう恥も甘えもなくというような表現はおかしいんですけどね。
周りの人たちはもう何イエス様とかそんな風に言ってきてって言って、みんなこう妨げようとしたぐらいの状況でしょう。ですからバルデマイがどれほどの勢いと言いましょうかね、切実な思いでもってイエス様と言ったら向かって行ったのかということが想像できるかと思います。
しかしイエス様はそう呼び求めるバルデマイに注目して、そして彼を呼びなさい、そしてことは起きたわけですよ。
きっかけというのは何がきっかけになるかわかりませんけれどもね、バルデマイにはもうイエス様が私たちの街、この自分の近くにおいでになるっていう、もうそれだけでもって二度とそういう機会がないかもわからないっていう、そういう切羽詰まった思いでもってイエス様と呼びかけたかもわかりません。
そしてエリコニーは二回ほど行く機会がありましてね、最初行ったときはまだそのときはイスラエルがあそこをこのヨルダン川の西側っていうんでしょうかね、そこをこの武力をもってね、統治しておりました。
ですから街の中に、二か所ぐらい高いところに築いて、そしてそこからイスラエルの兵隊たちが周りを機関銃でもって見てるわけですよ。何があったらすぐにそれでもって言うでしょうね。
12:08
二回目行ったときには、やがてそのところはパレスチナの自軸になりました。ですから最終的にはパスポート見せずにすっと同じ街でもって入れたんですけども、二回目行ったときはみんなパスポートを出して、そして改めてそこに入るっていう、そういう二度の経験をいたしました。
しかし私は一度も二度もですね、ああここがバルテマエがイエス様とお出会いしたところか、あるいはザーカイがね、ルカニオルフ勲書の方ではザーカイがこの十九章でもってイエス様と出会い、そして彼はそこから会心していくっていう、そういうきっかけ。
ですから一つの伝説でしょうか、あのクワノキがあるんですよ。でバスはそこをずっと迂回してね、これがザーカイさんがイエス様にお会いしたところのクワノキだそうですっていうですね、第二段階がありましたけども、ほーっと思いながらそこを通過しましたけども、しかしあの周りは荒れ地のようなそういうところですけども、ところがこのエリコというところは果物の豊富なね、
このエリコっていうのは世界で一番古い町として形成されたそうですよ。しかも紀元前八千年っていうんですから、今から約一年、一万年前ですかね。
それぐらいの時からこのエリコというこの町は一つの町として、しかもそういう清水が湧くもんですからね。だからまあ人も寄ってくるでしょうし、また産物もそういうふうにこの果物なんかも豊かだったんでしょうが、そういう印象でもって、エリコという町はなかなかいい町だなっていう、そんな感じを持ちまして。
中にはですね、そこでラクダに乗せてもらって、そして歩きなさった方もおりましたけども、そういう今はパレスチアの自治区になっておりますけども、非常に緑豊かな、果物の豊かな、そしてそのイスラエルのそれがね、こうって感じで満たるっていうのはことがありませんから、なんかこう平和になったなっていう、そういう印象を持ちました。
まあちょっと前置きが長くなりましたけども。
で、バルテマイは生まれつきなのか、その辺りも詳しくは分かりませんけれども、しかしそこで彼は育ち、そして見えない中での不自由な生活を余儀なくされてきたっていう。
ですから私は、単なる話の中の話みたいなですね、作られた話ではなくして、申し上げたように、若いマルコにとってはですね、この出来事は彼には非常に強烈な印象としてそれが残っている。
15:12
そしてそれが今記録として私たちは、バルテマイがイエス様によって癒されたっていうその様子。ただ、申し上げたいことは、一人の盲人がこの病が癒されたっていうのではないんですね。
で、私はゲームのようなことで、よく目を閉じてね、片足を上げて、そして手を広げてくださいって。やって何秒も持たないでダメになっちゃう。今はもう目を開いとってもですね、足元がヨレヨレしてしまうんで。
だから本当に見えないっていうことはね、まずバランス感覚がすぐ無くなっちゃうんですね。もちろん方向感覚も無いですよね。
そして、やはり美しいものを見ても、その花の色がどういう色なのか。あるいはこの景色が紅葉で綺麗だなって言っても、一体その紅葉がどういうものなのか。
目が見えないっていうことを私たちを非常に狭い世界に言ってみましょうか。不自由な世界に、生活の中に追いやってしまう。
霊的な面においてこのことを考えますとね、そのことが同じように言えるのではないだろうか。霊的な盲目っていうことも、私たちは方向感覚を失ってね、神様から離れていても、それが当然のように思ってしまうような生活。
見失っていても何もわかんないが、それが当然みたいな感じで、私たちは霊的な盲目の中におる。あるいはバランスにおいてもそうです。私たちは神様の本当のお心というものがなかなかわかりませんからね。
神様の御心よりも人の発言、あるいはそういう時代の流れというところについ気持ちが寄せられてしまって。だから右の人が右のことを言えば、なんかそっちの方がいいのかなと思ってそっちへ行ってしまう。あるいは左だと言われたら、いやそれもそうかもしれないと言ってまた左へ行ってしまう。
ある人言いましたですから、右に左にすぐ変わってしまう私という存在は一体何なのか。私たちはそういうこのバランス感覚、そういったものをこの私たちは失ってしまっている。やはり見るべきそのお方を見ないでおると。私たちは一体どっちへ向かって行ったらいいのか。
18:22
ですからこのバルテマイナ、イエス様からじゃあ何をして欲しいのかと言った時に、見えることなんです。これはただ肉眼が見えるというのではなくて、むしろ盲目、霊的な盲目であった自分がここで改めてね、イエス様のことを知りたいし、イエス様をしっかり捉えていきたいしという、
そういうこのことでしょう。私は一人の盲人が癒されたというだけではなく、私たちに向けられたところのイエス様の御頃というものをしっかりとこれが理解できる目の開かれたもの、一人のバルテマイとして私はそのことをしよう。
どうぞ私にもなお深くあなたを見させてください。なお深くあなたの御心を悟ることができるようにしてください。あなたを知るということのどんなに大切なことか、素晴らしいことかということをより深く、より確かなものとして、そして教えてください。
実はこのバルテマイの出来事に行く前に、この実証に入りますとね、これはいつもイエス様の行動をどこかに落ちておかないか、何かしっかりといかないかということで、やっているパリサイブスとか立法学者たち、彼らがやってきてね、離婚問題を取り上げたんですね。
そしてイエス様はそこで持って、創世記のお言葉を開いてね、神が決めたものをね、私たちは話はならない、それこそ神が私たちの結婚というものを、これをお意思になり、そしてまたそれを私たちが生きるために大切なこととして教えなさったんだって。
それをね、何かイエス様を攻撃するために、何か間違ったことを言ったならすぐ、ということで持ってやってきた彼らは、改めて聖書が教えるその前に返す言葉がなかった。
21:05
ところがその次の出来事は何でしょうか。千葉市は離婚という問題は、子供が内側収入されるという、そういうことがそこに今度言われます。
ところがこの出来事の流れを見ますとね、そういう離婚があって神様がどうのじゃなくて、神は私たちにそういう素晴らしい家庭を与えなさって、そしてそこに神様は子供を祝福としてお与え下さる。
ですからこの流れの中でのこの様子を見てまいりますとね、家庭と、そして子供と。
ところがここに、じゃあイエス様私はね、小さい頃から立法に従って、何一つ間違ったことをしないで今日まで来れました、といった人々が出てくるわけですよ。
イエス様もね、ただしかしあなたには足りないことが一つあると言われた、というあの出来事ですよね。
私はあそこを読んだ時にですね、イエス様からね、僕は満点だけど一つだけ足りない、この人はすごい人だなと思って、あのイエス様に私は小さい頃から従ってきた人のあのすごさと言いましょうかね、驚きましたよ。
私はもう逆ですからね、どこかに一つのところがあるかなと言ってもなかなかそういうところも見出せないような人間ですから、ですからイエス様から足りないことが一つあると言われた、これはすごい、99点、しかし1点取れなかったら駄目となっちゃったらもうそれだけですよね、言うならばそこなんです。
で、この問題は私たち何を言っているかと言ったら、イエス様がそこでおっしゃったことはね、神様は何でも出来なさる方だって、この方の前にね、私は100点満点です、何一つ広がりませんと言う人は誰もいない、本当に自分を知る、そしてその自分を知る、そしてそこから神様が改めて私にね、私がする。
そうおっしゃって下さい。守れないような本当に100点とこどくじゃない、1点も取れないような人間であってもね、イエス様はその一人の人間を捉えて、そしてそれを作り変えて、そこにあるのは何でしょうか、イエス様がそうなさるっていう、して下さるっていう信仰でしょう。
イエス様はそのことをね、この出来事として示そうとされている。ところがね、その後弟子たちは何ですかね、彼らは一体我々の中でね、誰が次のポジションだ、自分の立場をですね、なお、というようにしようとして、ある箇所では母親が出てきてね、うちの息子二人をよろしくお願いしますなんていうところもあるんですよね。
24:24
イエス様の心とは全くかけがえのありた当時の弟子たち、彼らこそ全く盲人ですよ。この後すぐに起こることに対して、彼らは目が開かれていない。
だから、まあいろんなところでもっていろんな話を聞く、またイエス様がなさることを見てきた。けれども、彼らはその中でもってきちっと紹介しているのかと言ったら、そうじゃないんですよね。
自分のことが、何よりも自分のことが最優先。ですから、私こそイエス様に一番近い、というようなことでもって、だからそれをまあいろんな場所でもって見せてくれているのがペテロですよね。
他の弟子たちは、ひざけられず、イエス様は私に関しては、どんなことがあってもイエス様はあなたを第一番にして、私はついていくんです。と言って、その人たちの皮が乾かないうちに、彼はその下でもって、私は知りません、関係ないですって言った人でしょう。
それぐらい弟子たちは、イエス様の心をしっかりとらえて、そしてイエス様についてきているのかと言ったら、そうじゃないんです。
この10章には、今読んだこの33節以下にそのことが示されています。バルテナイの出来事の前で。ところが、9章、あるいは8章、3度イエス様は、自分がエルサレルにおいて、どういうことがそこに待ち、そして私がどういうふうになるのかということを予告されている。
3コマで開きますと、このマルコニオ福音書ならば、最初にそのことをイエス様がおっしゃったのが、失礼しました。
9章の31節、前の章ですね。それは、イエスは弟子たちを教えて、人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。
27:22
しかし、殺されて3日のうちに人の子は蘇るということを、そこでこのおっしゃった。ちょっと今見当たりませんけれども、マルコニオ福音書は3度そのことを言う。そして3回目の今のバルテナイの出来事の出来事ですね。
この先ほど言いました33節。人の子が最初の立法覚悟者たち、彼らに引き渡され、そして死刑に定めて云々と書いてあります。
こういう事柄がもうそこに迫ってきている。迫ってきているにも関わらず、弟子たちはそのことに対しての何の緊張感も、そしてイエス様がイエス様の身にどういうことが起こるかということの、そういう一体性と言いましょうかね、わからない。
だからそういう自分のことでもってあれやこれやとやるわけでしょう。けれどもイエス様はそういう弟子たちを連れて最後のエルサレム入場となっていくわけですね、このマルコニオ十一章において。
しかし、象徴的にバルテマイは本当にそれが癒されて、そしてイエス様を見るという、見えない世界からイエス様を見るという世界に彼はここでもって大きく切り替えられた。
バルテマイに対して最初に申し上げたように何をして欲しいのかというイエス様の問いかけですけれども、私たち人間というのは感情がありますしね、それから知識というものを持つことができますし、そしてもう一つは意志という。
これは神様が私たちに全ての人に与えられたところの感情と知識と意志という。
この感情というのは確かに私たちは感情に流されるところがありますけれども、しかしこれは神様を賛美するために神がこういう感情というのを、あるいは感性というのを与えなさっている。
30:01
私はそういうと考えますね、本当に感性の鈍い人間だなと今更自分はこう思うんですね。
それから知識というもの、イエス様を知ったおかげでね、私は生きるために本当に大切な一つ一つを赤くして教えられて、そして今日まで守られた。
あの水野玄造さんは、あの人はあそこに書いてありますように1937年生まれで私と同じ年なんですよ。
同じような環境に育ってきた。
で、彼は弟たちと一緒に川原へ遊びに行って、そこで脊椎菌か何かそういうね、ややこしい病気になってしまって、そしてあのように体の不自由な障害をお持ちになってしまった。
けれどもしかし、あの水野玄造さんのその心の中、どんなに素晴らしいんだろうか。
我が恵みなちに垂れ入って、あの言葉から始まる水野玄造さんのその証を読みますとね、本当に感性の豊かな、そしてまたそういう世界ですけれどもしかし、この彼の心の中にはもうイエス様で満ち溢れている。
それが歌詞の一つ一つになって、私たちは感動しながら歌うわけですよね。
神様はそのような素晴らしいものを与えてくださった。
そしてその人の意思というものをね、しっかりとこれを捉えて、そしてその人のための一番いい生き方をそこで教えてくださっているわけですよ。
機械人間を作ったんじゃない。ロボット人間を作ったんじゃなくて。
感情もあれば意思もあれば知識もあるっていう、そういう中でもって私たちは神を選び、神に従い、神を喜ぶっていうね。
そしてイエス様をいつもこう仰いでいくっていう、そういう生き方っていうものをここにいらっしゃる方は皆がそうですけれども、その人生のある時点においてそのことを知り、そして今日まで来ているっていう。
私は水野玄造さんの歌を歌いますとね、同い年でもありながら、なんと私は乏しい人間だろうかということを、見えてない人間かということをこの深く反省させられるわけですけれども、
しかし、五体は不自由であっても、しかし心は羽ばたいているような、そういう水野玄造さんの姿にいつも歌いながら感動しますわ。
神様はそういう私たちに三つのものを与えて、そして何をしてほしいのかという、最後には私たちの意思に委ねてくださっているようなね、もうあなたの意思を私だと言って強引に言うのではなくて、私に、私たちに、じゃあ何を?
33:20
と言って、そこにはもうどんな人に対してでも寄り添って、そして声をかけてくださるイエス様の姿がそこにある。本当にこの方を自分も17歳の時に知って、そして今日までいろいろ迷うことはありましたけれどもね、躓くことはありましたけれども、
あるいは妻を救わせるようなそういう人生でもありましたけれどもね、しかし本当に守られておればこそ、今が当たった。私の恵みはあなたに対して十分だというこの水野玄造さんも受けたその光、私もそのことを今日いただいて、そして今日まで守られてきている。
私にとって分かったことは、そういうイエス様がいつも寄り添ってくださっているという、このことは誰ともいないが、見えるようになることですと言ったあの言葉はね、見上げるという意味がそうですよ。
だからイエス様を見上げる、そういう言い方を私もしていきたいんですというのが彼の気持ちとしてそこには十分あったでしょう。イエス様との関係は、私たちはいつもイエス様を見上げていくという関係をお祈りします。
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