00:01
御着席ください。聖書をお読みします。
新約聖書、ヘブル人への手紙、12章の5節から11節まで、新約聖書の440ページです。
後ろの方のページです。新約聖書の441ページです。
ヘブル人への手紙、12章、5節。
そして、あなた方に向かって子供に対するように語られた、この説明を忘れています。
我が子よ、主の懲らしめを過論じてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主は、その愛する者を懲らしめ、受け入れる全ての子に無知を加えられるからである。
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もし、あなた方が誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、死生児であって本当の子ではないのです。
さらにまた、私たちには憎の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、
しかも、私たちは彼を敬ったのであれば、なおさらのこと、私たち全ての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、憎の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、
霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の清さに預からせようとして懲らしめるのです。
全ての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、
後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
以上でございます。
続きまして、聖火隊に神聖火428番を賛美していただき、その後、内田牧師より、あなたの父を敬えと題しまして、説教をしていただきます。
03:26
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
06:45
おはようございます。
今日もまたこうして共に礼拝をさせていただきます。特権を感謝しております。
ただいまから見言葉をいただきますが、その前に一言お祈りをいたします。
父なる神の恵みは、限りなき海。
沖へ出よ。
主の恵みの田田中へ、いざ漕ぎ出よ。
恵み深い天の父なる神様。
今日もこうして私たちをこの水戸へと導いてくださり感謝をいたします。
衆の初めの日の朝、
衆は復活してくださり、それを記念してのこの誠実の礼拝をこの世にして守っています。
その前にあります一人お一人を今、あなたが豊かなる恵みをもって抱き、また憐れみをもってお支えくださるようお願いをいたします。
心を込めて捧げておられます。
このプログラムの一つ一つをどうぞ天において受け入れてくださり、また清めて、それにふさわしくあなたが報いてくださることを私たちは信じています。
この恵みのただ中に今私たちはおいてくださっている幸いを感謝いたします。
さらにおきへと私たちを進みゆかせてくださるように。
そして何よりもキリストは私たちの命であり、また私たちの救い主であることをもう一度このところで覚えることができますように。
キリストには変えられませんと賛美してくださいました。
本当に私たちの救い主、そして道、真理、命であるこのお方をこれからも私たちの救い主として、そしてこのお方を信頼して、信じてともに歩むこの生涯を歩みゆかせてくださるようにお願いをいたします。
また今日は御言葉を通してあなたの御胸を教えていただきたく願っております。
09:00
父の火としてのこの特別な火をあなたは備えていてくださったことを感謝をいたします。
どうぞ御言葉を通して私たちに必要な霊の糧を与えてくださることを信じて待ち望んでいます。
しもべは聞きます。主をお語りください。
語るものは乏しく小さいものですが、どうぞ主を憐れんで支えてください。
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は何の日でしょうかと教会学校でも子どもたちに先生が問われたんですが、何の日だったかなというような声もありました。
そうだったという父の火であります。
父の火は教会のカレンダーにはないんです。
教会のカレンダーには母の火というのはあるんですが、どういうわけか父の火がないわけですけれども、私たちはここを出ますと世に使わされるわけですね。
神様が創造なさったこの世、神様はその世を愛してくださっています。
そして私たちもこうして礼拝を捧げて神様の恵み祝福力をいただいてまた世に使わされていく。
その世がいつしかこの父の火というのを定めたわけですが、そういう中に私たちもこの世の一人としてその父の火をともにお祝いするというんでしょうか、覚えておきたいと思うんですね。
決して私たちはこの世とかけ離れたものではありません。
私たちはむしろここで養いそして恵みを受けてそして神の子としてそして世に使わされる。
そこにあって私たちは福音宣教の働きあるいはイエス様を御紹介する。
そしてともにその世の人たちに神様の恵みをお届けする。
それが私たちの務めでありまた喜びであります。
ですからもちろんこのような礼拝を捧げる、この礼拝は本当に真剣な場ですね。
これは本当に今日の礼拝の本番と言いましょうか、本当の真実なる私たちの礼拝を捧げています。
しかし私たちの本当のキリスト社としての務めは救われた者としての務め、それは世においてどうそれを果たすかということなんですね。
ですからむしろ本番は私たちがここから出たそこにあるわけです。
私たちが使わされるそこが私たちの本来、本領を発揮するところなんですね。
12:01
家庭であったり職場であったり私たちが行くところどころ、そこで私たちが神様の恵みを受けた者として救われた者としてどう生きていくか、それが問われるんだと思うんですね。
そのために私たちは週に一度、少なくとも週に一度はこうして共に集まって、そして祈りをなし、御言葉をいただいて、そしてまた養いをいただき、力をいただいて、そして使わされる。
こういうことを毎週毎週毎月毎月毎年毎年繰り返して、それが2000年来私たちが継承していることですね。
本当に幸いなことだと思います。
今日はそういう父の日ということで、聖書を今日も開いています。
ヘブル人への手紙の12章のところから先ほど読んでいただきました。
私たちは今日、もう一度自分の父親を覚えるときであろうと思うんですね。
私たち自身の父親、それはどういう人だったでしょうか。
もし既に召されているお父さんであるならば、自分のお父さんはどういう人だったのかな、そういうもう一度覚えるときでもあろうかと思うんですね。
記念のときでもあろうかと思いますし、まだご健在であるならば自分のお父さんはどういう人かな。
そういうことをもう一度覚えて、そして感謝を表す、そういうときであろうかと思うんですね。
これは非常に大切なことであります。
私たちは父親なしにこの世に生命を受けることはありません。
ですから誰にでも父親はあるわけですね。
そういう子としての私と親としての父親をもう一度振り返る、そういうとき。
かつてこの父親のイメージ、日本の父親のイメージというのはどういうものであったでしょうか。
皆さんのお父さんはどうかということでしょうけれども、かつては地震、雷、火事、親父というふうに言われていたわけですね。
それは恐らく大変怖い、恐ろしい存在というイメージがあったからだと思うんですね。
でも全てのお父さんがそういうイメージだとは思いませんけれども、一般的に昔はそうだったなというのがそういうふうに言われておるわけですね。
15:00
地震、雷、火事、親父。
父親というのはその使命があるわけですね。
一家を支えるという大国柱としての使命、あるいは家や家族を守り養うという、そういう大きな責任があったわけです。
子どもたちを育て、そしてしつける、そういう責任、それは大変重い責任でありますけれども、またそれと同時にそういうことが果たせるために権限があったわけです。
そういうことから、かつてのお父さんのイメージは、そういうちょっと怖い、恐ろしい、そういうイメージがあったんだと思うんですね。
特に私よりももう少し上の皆さんのお父さん方というのは、戦前、戦中、そして戦後、そういうところを生きてこられたお父さん方。
本当にご苦労様でしたと言いたいくらい、本当によく働かれた。
中には実際に戦争に行って、その務めをなさった、そういうお父さん方もいたわけですね。
実際に戦地で戦って、そして帰ってこられた。
その後は、日本の戦後の高度成長期、とにかく働きに働くという、そういうお父さん方が多かったようですね。
私の父も明治の終わりの頃の人だったんですけれども、あまり口数は多くありませんでしたが、この夕食の晩酌のときによくこの戦争のときの話をしておりました。
明治生まれの父にはかなわないなという、そういうイメージがありました。
何か大きな家の中のどっしりとそこに座っている、そういう父のイメージですね。
そういう人が多かったのではないかということが、そのように言わせるんだと思うんですね。
ですから、あまり父親と遊んだという記憶がないわけです。
とにかく働いているお父さんのイメージ。
そういうことを思うときに、私たちが今こうしてこの日本で少なくとも平和に暮らせる。
それは、そういうあの頃のお父さん方が残してくださった尊い遺産ではないかな、そう思い改めて感謝をするわけですね。
それと私たちの年代以降の、いわゆる現代のお父さん方のイメージはどうだろうか。
18:06
また時代とともに変わってきたと思うんですね。
一つは、例えば運動会で子どもたちの姿をカメラやビデオを持って追いかけている、そういうお父さんのイメージが一つ浮かびます。
それはまた私でもあったわけですが、そういう微笑ましい家庭の姿を思い浮かぶ、そういう気がいたします。
あるいは娘が小さいときに、娘を連れて休みになるといろんなところに出かけていくわけですが、しかし中学高校生ぐらいになると全然お父さんを相手にしてくれない。
あれほど小さいときはお父さん、お父さん、お父さん、離れなかったのに、もうお父さん、ちょっと敬遠するというような、そういう時期になって少し寂しさを覚える。
それもお父さんの姿ではないかなと思うんですね。
そういう中で昨今、父親不在とか、父親の権威喪失とか、そういう新聞の見出しを見ることもあるんですが、いえいえ決してそんなことはないと私は言いたいんです。
やっぱりお父さんは一家の柱であり、そして家と家族を守る、そういう使命に預かって働いていてくださっている。そんなことをもう一度思うときでもあろうかと思うんですね。
そういうことを思って今日はもう一度聖書にそのことを聞いてみたいと。私が勝手に思ってお父さんを弁護しようとしてもそれはいけませんので、聖書はどう言っているのかということで、神様の御言葉にもう一度聞いてみたいなと思うわけですね。
そしてそれで父親の権威が回復すればいいのにな、奥様方にとってはちょっとやばいなという、そんなことでもありませんけれども、とにかく子供と父親との関係、それが聖書ではどう言っているのか、そんなことを覚えるときとしたいわけですね。
先ほど読んでいただきましたヘブルビテの手紙の十二章の五節から十一節の中に、九節でさらにまた私たちには肉の父がいて、そして私たちはすべての霊の父に、十節なぜなら肉の父親は、そして霊の父は私たちの生きのため。
ここに肉の父、霊の父、肉の父親、霊の父、このようにして私たちには二人の父がいるんだな、父は二つあるんだなということを聖書は言っているということに気がつくわけです。
21:12
もちろんこの肉の父、これは私たちの肉親である父親のことですね。その父親について聖書が言っていること、それは先ほど講読文で読みました、あの十課に書かれています。
あなたの父と母をうやまい、あなたの父をうやまいなさい、これがまず聖書が私たちすべての人間に語っていることです。あなたの父母をうやまいなさい、今日は父の日ですからあなたの父をうやまいなさい。
そして父はうやまわれる存在である、だから子は父をうやまいなさい、これが聖書の言っていることですね。これはおそらく家族が祝福されるための神様が備えなさった秩序として子は父をうやまいなさい、そのように言っているわけですね。
子はまず父をうやまう、あるいは尊敬する、そのことによって家族の秩序が保たれその家庭は祝福されるんです、そういうわけですね。
しかし中にはうやまうに値する父であれば尊敬に値する父であれば尊敬もしますけれども、そうでなければうやまえない尊敬に値しない父はどうしてうやまうことができるのですかとおっしゃる方も中にはいます。
あるいは実際に今父がいない、そういう場合もありますよね。
個人個人のいろいろな事情でこの父親との関係でいろいろ課題がある場合、それはまた別の機会に改めて私たちはそれに取り組まないといけないと思うんですが。
しかし聖書がまず人間全体に語っていること、それはあなたはあなたの父をうやめなさい、これが聖書の言っていることですね。
ですから私たちはそのことをもう一度覚える必要があります。
そしてこのヘブル人への手紙の中に、肉の父肉の父親にあってはどう子供は対処すべきかということが書かれてあるわけですね。
この中に私たちはもう一つ繰り返し出てくる言葉を見ることができます。
24:03
それは何でしょうか。
懲らしめということですね。
五説に主の懲らしめ、六説に愛する者を懲らしめ、七説父が懲らしめること、八説も誰でも受ける懲らしめ、九説私たちを懲らしめた、十説にも懲らしめるのです、十一説すべての懲らしめは。
この懲らしめということは日本語の訳ですから、これですべてを言い表しているとは言えませんが、おそらく叱るとか、あるいは親がしつけるとか、そういうことだと思うんですね。
そのために訓練をする、鍛錬をする、そういう意味も含まれていると思います。
十一説に肉の父親、私たちの父親は短い期間、おそらくこれは生涯の中でも子どもと接する短い時間でしょうね。
そういう間、自分がよいと思うままに私たちを懲らしめるのですが、当然親は子に対してその懲らしめ、あるいは叱ること、しつけること、そういうことを自分の務めとしてするんだということですよね。
しかし、この懲らしめということ、あるいは叱るということ、あるいは成長のためのしつけということ、それは愛から出たものである。
父親は子を愛するがゆえに、そしてその子が立派な大人になってくれるように、あるいは成長を願って、時には叱ることがあるんだ、懲らしめることがあるんだ、なぜならそれが父親の務めであるからですね。
しょっちゅうしょっちゅう懲らしめたり、叱っているということではありませんけれども、私たちがいけないことをしたときに父親はそれを叱ります。
それが、もう地震、雷、火事に匹敵するほどの大変な起こりようであるという、そういうことであったんでしょう。
ですから、しかしそれは父親の務めでもあり、またこう思うがゆえの父親の愛情から出たものなんだということ、それを私たちはもう一度ここで覚えたいと思うんですね。
そして、そういう懲らしめ、叱りを受けて、子供はしょげてしまいます。へこんでしまいます。それをまた慰めるのが母親の役目。いい役ですね、これは。
父親に叱られて、もう行き場もない、そういうどうしたらいいんだろうか、そういうときにお母さんが大丈夫だよと慰めてくれる。それでちゃんとバランスが取れるわけですね。
27:13
お母さんはまるでマリア様のように優しいお方、しかし父は雷親父という、そんなことであるわけです。
しかし、子供たちもやがて大きくなったらきっとわかってくれる。もうそのときにもわかっているに違いないと思うんですね。
お父さんは私のために私がいけないことをして、そしてもうそういうことをすることのないように叱ってくれたんだ。それももう怒りに怒って、そしてあんな怒りを恐ろしい、そういうぐらいの愛情を持って自分を叱ってくれた。
おそらく子も自分が親になったときにそれがわかるかもしれませんね。あのとき本当に自分を思ってくれて叱ってくれたんだ。ここに言う懲らしみを私に与えてくれたんだ。私はお父さんに愛されていたんだということを私たちはもう一度覚えると思うんですね。
それがここに書いてあるわけです。8節。もしあなた方が誰でも受ける懲らしみを受けていないとすれば死性死であって本当の子ではない。親が子にその愛情を持って懲らしめ、また訓練、成長を願って叱る。そういうことがあるわけです。
ですから私たちのお父さんを思うときにもう一度そのことを感謝すべきだと思うんですね。これは余分なことですが、お母さんを歌った歌というのは結構歌手にもあるわけですね。お母さんの歌というのはあるわけです。でもなかなかお父さんを歌った歌というのが少ないわけです。
皆さんご存知だったら教えてほしい。私が知っているお父さんの歌のうちの一つは吉田卓郎の親父の歌という歌です。ぜひ聴いてください。この親父という響き、これが私は好きですね。
もちろん今のお父さん方、優しいお父さん方、そういうお父さんにはやはりお父さんというのが似合うわけですが、あの地震、雷、火事のあのころのお父さん方はやはり親父かなという、そんな響きがいいなという、そんな気がいたします。
30:01
これはあるオートバイ、自動車のメーカーの社長であった人の話ですけれども、彼は物づくり、そういう姿勢、あるいはサービス、そういう指導に大変厳しい人であったようですね。
もう間違いをすれば怒鳴られる。そして失敗でもすれば、やはり命を預かるオートバイ、自動車ですから、大変な起こりようで、スパナでも飛んでくるかというような、そういう勢いで叱られるわけですね。
しかし、その社員たちにとっては、その社長は恐ろしい社長であったにもかかわらず、その社長のことを聞くと、もう本当に満面笑みを浮かべて、「ああ、うちの親父はね。」と言うんですね。
あの恐ろしい社長のことを社員は皆、「ああ、うちの親父は…。」と言うわけです。
おそらく彼は、本当に社員に対して厳しい指導をし、そしてしっかり懲らしみをするわけですが、おそらくその社長は社員とその家族ですね。
そういう人たちをこよなく愛し、そして守り、そして温かい思いやりを持って日頃接していた。
そういうことを通して社員たちが皆、自分の社長のことを、「ああ、うちの親父…。」という、そういうふうに呼んでいたんだろうな、そういうふうに思うわけですね。
そしてその社員と社長との関係、それは血肉の父子以上の深い絆で結ばれていた、そんなことを聞いたことがあります。
そのようにして、父であればこそ子を愛し、また懲らしめ、叱る、そして成長し立派なものになってほしい、それがあふれ出てくるわけですね。
私たちのお父さん方、あるいは今現役のお父さん方、子どもたちに何と言われようと、親父は親父、本当に私たちの一家の柱、そのお父さん方に私はエールを送りたいし、
どんな時代にもやはりこの親父というのは必要なんだな、そう思うわけであります。
二つ目に私たちはもう一つの父があるということをここから学びました。
九節に私たちは全ての霊の父、十節にも霊の父は私たちの生きのため、私たちをご自分の清さに預からせようとして懲らしめるのです、ここにあります。
33:05
霊の父、今日は教会学校で本当に恵まれました。私たちは三つ目小僧だという話でした。
私たちは目が二つ、そしてもう一つの目がある。それは信仰の目を持って、そして天の父なる神様を見ることができるんだ。
まさに私たちはもう一人の父、この天におられる霊の父をしっかりと見ていく必要がある。
そしてこの天のお父様も私たちを愛していてくださっている。
そしてこのお方は誰も差別なく、どんな人にもそれが、たとえ悪い人であっても良い人であっても、正しくない人であっても正しい人であっても、太陽を昇らせ雨を降らせてくださる。
もちろんその悪い人には早く良くなってくれよ、正しくない人にはそっち行っちゃだめだよ、正しい方に行くんだよ、そういう憐れみと愛を持って、今日も変わらずに太陽と雨を与えてくださっている。
恵みの主であるということ、このことを覚えたわけであります。
もちろんこの父なる神様、これはイエス・キリスト、子なる神、そして聖霊なる神の三密体の神様であるわけですが、ここでは特に父なる神様ということが強調されて書かれているわけです。
そして私たちがこの天の父なる神様、霊の父には服従して生きるべきではないでしょうか。いや、生きるべきだ、そういうふうに勧められているわけです。
それはなぜなら十一節に結論が書かれてあるわけです。
私たちの父なるお方が私たちに与える懲らしめは、その時は喜ばしいものではありません。かえって悲しく思われます。
そうですね、痛みを持ち、そして自分のしたことに悲しみ、そして叱った方も懲らしめる方も共に痛みを覚えるわけです。
しかし後になると、これによって訓練された人々に平和な義の実を結ばせます。
やがてそういう人々が皆訓練を受けて、そしてその懲らしめに感謝をして、良いものを身につけていく、良いものを残していく、平和の義の実という、そういうものを一人一人に結ばせてくださる。
それが父なる神様、礼の父が望んでおられることである、そのことを覚えたいと思うんです。
私たちの父が私たちを訓練するように、礼なるお方、父なる神様も私たちに訓練を与え、そして時には忌ましめも与え、懲らしめも与え、そして私たちを練り清めようとしてくださっている。
36:14
これは何よりの神様の愛から出たものだ、そういうことを私たちは今日もう一度覚えたいと思うんですね。
ここに、主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛するものを懲らしめ、受け入れる全ての子に無知を加えられるからです。
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなた方を子として預かっておられるのです。
ここに訓練、あるいは時には試練、あるいは忠告、警告、そういうものを私たちにお与えなさる。
それは私たちを鍛えるために、そして豊かな身を結ばせるためにそうしてくださっている。私たちはそのことを覚えたいと思うんですね。
それでは私たちが日ごろいただく主からの訓練、それは何でしょうか。それは教会を通してなされている奉仕だと思います。
私たちは奉仕を通して神様からの訓練をいただくわけです。
奉仕を通して私たちがこのお方に何を捧げるのか、あるいは捧げるときに私はどうあるべきか。
そして自分のまだ至らなさ、未熟さ。そしてどうしたら、どういう奉仕を捧げたら神様は喜んでくださるか。
そういうことも含めて私たちに訓練としてその奉仕という場を与えてください。
ですからもし私たちに奉仕がなければ、私たちはいつまでも幼子です。
この幼子も聖書は二つのことを言っています。
一つは幼子のようになって素直に主耶穌を受け入れなさい。幼子のようになって神様を慕めていきなさい。
何の邪悪な思いも持たずに純真な思いで神様を慕めなさい。
そういう意味での幼子になりなさい。
もう一つ聖書が言うのは、いつまでも幼子であってはいけません。
これは私たちが神様の救いを受けて子どもとしてこれから歩んでいくときに、
もちろん一年目はまだ教会のことも奉仕のことも全くわからない聖書のこともわからない。
そういうものでいいと思うんですね。
それが一年経ち、二年経ち、三年経ち、そしてどんどん成長していく。
時には落ち込むこともありますが、こういうふうにしながら、
39:02
最初のバプテスマを受けて救われたときよりはだいぶ成長してきたなという、
いつまでも幼子のようなベビーであってはいけない。
どうしたら成長していくのか。
それは奉仕を通して成長していくんだ。
ですから神様がお与えくださる奉仕の場とか、あるいは奉仕の機会、
それをもし私たちが拒絶するとするならば、私たちはいつまでたっても成長しない。
ベビーのクリスチャンのままでなってしまう。
そういうことを本当に神様は望んでおられるだろうか。
私たちの父親、自分が父親として子どもが立派に成長して、
そして世にあってはまた良い奉仕をし、また人に愛されて、
そして自分の持っている賜物を十分に発揮できるように、子どもたちに願うと同じように、
この霊の父も私たちが信仰において少しずつでも成長していくように、
そのための良い訓練の機会として奉仕というものを私たちは与えられている。
この素晴らしい恵みのチャンスをどうして拒絶して良いだろうか。
それは神様が喜ばれないこと。
私たちが成長し、信仰において成長し、また神様も私たちの成長を願っておられるならば、
この奉仕を私たちは機会あるごとにそれをさせていただく。
間違ってもいい、あるいはできなくてもいい、しかしそれを何とかしようと努力する。
そして少しでも神様の喜ばれるものに練り、清められて、鍛えられて、
そして神様の間に合う器とさせていただく。
それが神様が望んでおられることですね。
奉仕といってもいろいろなことがあろうかと思います。
大きな奉仕は私たちがまずここから使わされていって、
そのところところで福音を伝えるという、それが教会としての大きな働きですけれども、
それを皆さんが担って、それぞれ使わされるところで、
その福音選挙の働きというものがあるわけですね。
先日も奉仕のいろいろな種類を書いて、そこに奉仕者の名前を書いて皆さんにお配りしました。
あれだけでも十も二十もあるわけで、もっともっとあろうかもしれません。
ですからそういう奉仕に皆さんが率先して加わっていく。
できるかできないかは、それは主に委ねて、
それは私たちが鍛えられている神様の愛をいただく良い機会なのだ、そういうことですね。
42:06
あるいはこの礼拝の中にもいろんな奉仕があります。
司会の奉仕、奏楽の奉仕、祷盤の奉仕、あるいはお祈りの奉仕、いろいろあります。
皆さんはそういう奉仕に励んでくださって本当に感謝でありますし、何よりも神様が喜んでくださる。
そしてそういうものを通して成長してきたな、それを見る、あるいはそれを知ることが、
牧師にとっての何よりも喜びですし、神様がそれを一番願っておられる。
どうぞいろんな奉仕に預かってみてください。
そして案外自分がやれそうにないなと思うことをやってみたら、できた。
自分もこういう賜物があったんだということに気づくはずです。
そしてこの奉仕の中でも、わりと実務的なことは皆さんよく率先してなさるんだなということに気づきました。
その反面、これは牧師としての願いでもあるんですが、
信仰に関わる奉仕、これがどの教会も少し欠けているのではないかなというふうに思うわけです。
それはお祈りの奉仕、あるいは証をする奉仕、あるいは聖書を朗読する奉仕、
これもまた皆さんにしていただく機会もあろうかと思うんですが、
あるいは御言葉の解き明かしとまではいかないまでも奨励をするということですね。
あるいは聖書を教えること、少し信仰ということに重きを置いた奉仕、
そういうことにも成長していってほしい。
あるいはそういうことを指導できるリーダーに育っていってほしい。
そういうときに、もう私はダメですという拒絶をしないで、一つ自分もそれに預かってみよう。
今までしていなかったけれども神様の訓練として、
そして自分を養い育ててくださる神様の愛に応えて私もそれをしていこう、
そういうふうになっていただけたら幸いだと思うんですね。
そういう中でやりがいだとか、あるいは生きがいだとか、そういうものが見出せてくるのではないか、
そういうふうに思うわけであります。
私自身の証ですけれども、私も神道役員で何年間かいたんですけれども、
突然牧師先生が御用で次の日曜日、講壇に立てないということがあって、
そうですかというふうに、役員の一人として聞いていたわけですが、
どういうわけか、内田さん、内田さん、あなたが今度の日曜日奨励しなさいと。
いやいや、とんでもないです。私はそんな御言葉の取り継ぎなんか、とんでもないです。
45:04
それでも、いやいや、あなたがしなさい。もう言うことを聞いてくれないわけです。
もう仕方なしに立たされたと言うんでしょうか、御言葉の奉仕。
ですからその一週間、御言葉と取り組むと言うんでしょうか、格闘すると言うんでしょうか、
そしたらこちらから仲介書を引っ張り出してきては、もう真剣にその数節の御言葉に取り組んだわけですね。
そのときの私の、それが今の私の基本になっているんですね。
あのときに私がこれほど御言葉と取り組んだことはあっただろうかというぐらいに真剣に取り組んだ。
そして御言葉からやしないと、そして恵みをいただいた。
ときどき御言葉の御奉仕のための準備をしているときに、何度涙を流した経験があったでしょうか。
それほど御言葉と取り組み、その御言葉を通して神様の恵みと愛とそれを覚えるときに、
本当に恵まれ、癒され、そして御言葉には力があるなということを覚えさせていただいているものですね。
ですから、そういう恵みも皆さんに知ってほしい。
おそらく神様はそう願って、そういう奉仕という訓練の場を提供なさっているんだと思うんですね。
どうぞそれを拒絶することのないように。
むしろ私はあれをさせてください、これをさせてください。
そういうふうになっていただきたいと、そう願っているわけです。
私たちはここにあります短い期間、もう限られた生涯、その中で、
天の父なる神様は私たちを愛し、そして養おうとしてくださっている。
そして私たちに清さに預からせようとして、
あるいは平安な義の実を結ばせようとして、豊かな実を結ばせようとして、
今日も私たちを見守っていてくださり、また愛を注いでいてくださっている。
このことを覚えて、この霊の父、天の父なる神様を覚えて、
これからもこのお方を信頼して進んでいきたいと思います。
お祈りをいたします。
訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
天の神様、今日は私たちの憎しみの父親のことも覚えました。
またさらに霊の父であるあなた様をこの場で覚えて恵みをいただいたことです。
何よりも父なるお方は愛のお方であり、私たちをこよなく愛してくださっている。
48:03
その表し方は様々でありますけれども、私たちがその愛を覚えて、
そしてまたその愛に応えていくものとしてくださいますように。
もう既に召された私たちの父親であるならば、そのことを覚えて、
そしてお祈りの中でその天に帰った父親のことをもう一度覚える良い機会としてください。
また現役の健在なお父様方には、何よりもこれからの尊い務めを果たせるように、
神様どうぞあなたがお支えくださって、そしてその家と家族を支えるための尊い存在として、
あなたがこれからも守ってくださりますようにお願いをいたします。
何よりも天皇父なる神様を私たちの神様として、これからも共に会いましていただきますように、
御言葉を通してあなたの養いをいただき、また私たちの捧げる奉仕を通して私たちを練り清めてくださいますよう、
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。