兄息子の怒り
では一言、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も主の御前へと、あなたの恵みによって招き入れられて、
あなた仰ぎ礼拝ができる幸いを心から感謝をいたします。
祈られたように、当然のことではなくて、
いつもここに来ているあの人、この人が、
今日は来れていないことを覚えています。
ある方は倒れましたし、ある方はまた治療の後の疲れでしょうか。
神様、どうかそれぞれのうちに、あなたが伴っていてください。
心を慰め、励ましてください。
この時も主を仰ぐことができますように、助け導いてください。
お願いいたします。
あなたは限りない愛をもって、私たちを愛し抜いてくださいました。
御子イエスキ様が流されたその血潮によって、私たちの罪が完全に許され、
それだけではなく三日目に甦えられた復活の命を私たちに与えてくださり、
永遠なる死と共に生きる命を与えてくださいました。
神様、ありがとうございます。
どうか神様、あなたに結ばれたものとして、
ブドウの枝がその木から離れては何一つ実を結ぶことができないように、
あなたに繋がることをやさしてください。
そして、あなたが結ばせてくださる実によって、
私たちがこの世界に主の御業、あなたの御国を来たらすことができますように、
神様、力を与えてください。
お願いいたします。
祈られたように、特に世界の戦争のことを覚えていますけれども、
どうかラファの地区に進行がと話が出てきています。
本当に歴史を見れば、誰が悪いのか、何が問題なのか、
そんなことを本当に誰も正しい答えを持てないような中で、
今、人々が本当に憎しみと復讐という思いに駆られて、
また利益によって人々が動かされ被害を受けているのは、
本当に弱い一人一人であることを覚えます。
神様がどうかこの愚かな過ちを、
あなたがそのうちに働いてくださって、平和を築いてください。
祈られたように、聖者たちのうちにあなたの礼を注いでくださいますように。
お願いいたします。
これからあなたの御言葉に聞こうとしています。
あなたが御言葉を開き、私たちに必要なことを語りかけ、
悟りを与えてくださいますように。
取り継ぐ者をどうか主が憐れてくださり、御言葉を語らしめてください。
これからの時を見てに委ねます。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン
先週、綾名先生と私は日本YLGというキャンプに参加をさせていただきました。
埼玉県であったんですけれども、300名ほどの青年と、そしてまた若い先生たちの集いで、
テーマはですね、大まかに言えば、
共派を越えて、選挙のために友達になりましょうというものでした。
共派を越えて友になろうということでした。
私にとっては本当に新しい出会いがありましたし、また、
謙遜と傲慢さの意味
学生時代の友人で今牧師をやっている人間が何人もいますが、
その彼らとも久しぶりの再会をすることができて、とてもうれしい時でした。
ただ大会で印象的だったのは、こういうことが何度も繰り返し語られたということです。
友達になるために必要なことは、謙遜であるということでした。
謙遜さである。
そして友達になることを一番阻害するのは、傲慢さであるということでした。
謙遜や傲慢という言葉は聞いてイメージは湧きますが、一体どういうことなのでしょうか。
一つの説明ですが、こういう説明がされていました。
謙遜というのは、私たちが持つものすべては、神様からの純粋な賜物として委ねられているものである。
そのことを認めることなのだということです。
私たちが持っているものはすべて、神様からの純粋な賜物として委ねられているものである。
そして、それは委ねられた賜物ですから、
まさにその良き管理者として神様と隣人のために用いることなんですよということが語られていました。
ではその逆に、じゃあ傲慢とは何なのでしょうか。
全くその逆のことですね。
傲慢とは、神様に賜物として委ねられたものをあたかも自分のもののように考えて、それを用いて誰かと比較したり批判するために用いてしまうということです。
神様から委ねられたものをあたかも自分のもののように考えて、それを用いて誰かをと比較したり批判してしまうということです。
私たちの教団といったらちょっと怒られるかもしれませんが、
認めなければならないのは、かつて私たちの教団こそ本物だ。
私たちこそ真の霊の流れを持っているということを言っていた時代がないわけではありません。
私たちだけが真理を知っている。
そんなわけないですよね。そんなわけない。
しかしそのようなある種独善的な姿勢が協力、友達になることを阻んできたのではないだろうか。
ただ私自身も経験がありますけれども、
人と自分を比較して優越感や劣等感を持ってしまうということであったり、
また自分が持っている何か、能力であったり才能であったり、
それを持って、それを誇ってしまって、誰かと比較したり批判をしてしまうということがあるなあと思います。
時にそれは抗いがたくやめられなくなって、自分の癖みたいになってしまって、
結局自分の自尊心を誰かを批判することで保つということがあってしまう。
そういうことってあるなあということを思うんです。
そしてそういうものが気づいたら神様との交わりであったり、
家族であったり、友人であったり、夫婦であったり、
そのような交わりをある種傷つけて裂いてしまっているということがあるなあということを思うんです。
私たちはそういうことを思うときに謙遜になりたいなと思うんですよね。
ただどうすれば謙遜になれるんでしょうか。
それがわかれば苦労しないということかもしれませんけれども、
兄息子の葛藤
ただ今朝はこのルカの後頭息子の後半を見ていきます。
ここにはまさにそういう葛藤を抱えている人物がいるなあと思うんです。
兄息子ですね。
この兄息子の姿を見ていきながら改めて、
この兄息子と弟、兄息子とお父さんの関係、
それが傷つきかけているんですけれども、
それがどういうふうに動いていくのかということを聞きながら、
私たちも少し謙遜ってどうやったらなれるんだろうということを考えていきたいと思っています。
さて、今日25節から読んでいただきました。
25節以下を見ますと、こういうことが書いてあります。
ちょっとお読みしますと、25節から27節。
ところで兄息子が畑にいたが、帰ってきて家に近づくと音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それでしもべの一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。
あなたの御兄弟がお帰りになりました。
無事な姿でお迎えしたので、お父様が声と拳をほふられたのですとあります。
兄息子はどういう人だったのでしょうか。
おそらく真面目な人だったのだと思います。
畑から帰ってきて、朝早くから畑仕事をしていたのかもしれません。
けれども家に近づいていくと、家からどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。
聞けば遠い国へ勝手に出て行った弟息子が帰ってきた。
しかも父親は越えた孔子を、最上級の振る舞いを弟にしている。
兄息子はこれを聞いて、怒って家に入ろうとはしなかったとあるんですね。
ある種、家に帰るための道が閉ざされてしまった。
そこで止まってしまったわけです。
ちょっと考えたいんです。
なんとなくこの兄息子が怒るのは理解ができますけれども、
彼は一体何に対して怒っているのでしょうか。
彼はおそらく弟に対して怒っているし、そしてそれ以上に父親に対して怒っているんです。
例えば弟に対して彼はどう言っているでしょうか。
弟のことを30節を見ますと、彼は弟を指してこういう呼び方をするんですね。
それなのに、幽女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子。
弟息子のことを彼はそう呼びます。幽女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子。
これは厳しい言葉ですね。
原文で見ますと、これはあなたの子なんです。あなたの子が帰ってきました。
私の弟が帰ってきたと彼は言わない。あなたの子供が帰ってきた。
ある種、弟とは認めたくはない、兄弟の縁を切るじゃないですけれども、
それほどに兄は弟に対して怒っている、軽蔑をしている。
ここに一つの断説があります。
しかし、兄はこの弟に対する異常に、見ていくならば父親に対して怒っているんです。
弟を最上級の客として迎えたその父に対して、29節30節を読みますと、
彼はこう言うんですね。29節30節。
しかし兄は父に答えた。
ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、
あなたの戒めを破ったことは一度もありません。
その私には友達と楽しむようにと小柳一匹くださったこともありません。
それなのに、優女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰ってくると、
そんな息子のために肥えた格子をほふられるとはと怒っている。
平べったく言うならば、
お兄さんはこのお父さんに対して、
あなたの弟に対する態度は間違ってますよと批判しているんです。
あなたのやり方は間違っている。
このお兄さんの怒りというのは、確かにごもっともなことだと思います。
言われた通りなんでしょう。真面目に仕えてきた。
でも、冷静に考えるならば、
兄息子の怒り
このお父さんへの怒り方というのはちょっと行き過ぎなんですね。
そうではないでしょうか。
なぜなら、先週も言いましたけれども、
お父さんが自分の財産を何のために使うかということは、お父さんの自由ですよ。
それを何のために使うかということは、
お息子であったとしても、口を本来は挟むべきではないことですよね。
けれども、それを言わないと気が済まないと言わんばかりに、
彼はある週、ここでは聞き分けの悪い子供のように、
境界線を越えてまでお父さんに怒るんです。
なぜそこまでして彼は怒るんでしょうか。
それはきっと、彼の心にはこういう思いがあったからではないかなと思うんです。
それは、お父さん、そんな弟よりも、
私こそ、越えた行使を受けるにふさわしいではありませんか。
私こそ。
だって、私はあなたに忠実に仕えてきたのですから。
兄息子はおそらく、自分こそ最上の振る舞いにふさわしいと考えていたのです。
なぜなら、彼の中には一つの方程式がおそらくあったからです。
29節を見ますと、29節の言葉をもう一度見ますと、
長年の間、私はお父さんにお使いし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。
その私には友達と楽しむようにと小柳一匹くださったこともありません。
兄息子の中におそらく深くあった一つの方程式というか、
彼の世界観というか、持っていたのはそれは、
父から何かをもらうためには忠実に使い続けなければならないということです。
そう彼は思っていたわけですよね。
そして自分はそれを忠実に守ってきたのだけれども、
父は私に小柳一匹すらくれませんでしたと不平を言っているわけです。
彼は思っていたかもしれません。
父親はここまで私が忠実に使えても小柳一匹もくれないのであれば、
では父から何かを得るためにはもっと忠実に、もっと一生懸命使い続けなければならないんだ。
そう思ってもしかしたら、彼は朝から畑に行って一生懸命やっていたのかもしれません。
あたかもこの父からの祝福というのは、
忠実に使えた報酬だと言わんばかりです。
父からの祝福というのは忠実に使えたことの報酬なんだと、
そう彼は考えていた。
でも彼からするとショックですよね。
そのように頑張っていたその最中で、
未尽も忠実ではなかった、いやむしろ父に対して逆らい続けた弟が最大の祝福を受けているんです。
ある意味それは兄息子からするならば、彼が持っていた法定式や世界観が揺るがされて、
本当に大きなショックな出来事だったのだと思うんです。
ただですね、私たちもちょっと立ち止まって考えたいのは案外、
私たちはこの兄息子と同じ法定式を持っているのではないかということです。
神様の祝福は忠実に使えたことの報酬であると、私たちはどこかで考えてはいないだろうか。
礼拝は、誤解がないように言いますから、礼拝することは大事ですよね。
祈ることも大事です。
奉仕をすること、主に捧げていくこと、それは本当に一つ一つ大切なことです。
けれども、それを報道したのだから祝福してくださいと私たちが思っているならば、
もしくはその逆で、私はちゃんと信仰生活を送れていないから祝福されるわけがないと自分自身を見限ってしまったり、
ある種、私がこれだけ死に差し出したから返してくださいという交換条件のように、
私たちが神様との関係を考えている。
でもそれは兄息子と同じ方程式なんですよね。
祝福は忠実さの報酬だとどこかで考えている。
この理解というのは実に分かりやすいわけです。
言葉が悪いですが神社でお祭りに入れることと一緒ですからね。
でも、私たちはちょっと考えなければならない。
神様ってそんなにケチくさいお方なんでしょうか。
父親は兄息子に対してこう言うんです。
31節32節を読みしますとこういう言葉です。
父は彼に言った。
子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
だがお前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、
喜び祝うのは当然ではないかと父が言うのです。
怒る兄息子に対してある種温かな眼差しでなだめるように言ったのかもしれません。
子よ、お前はいつも私と一緒にいるよね。
それは、あなたは私の家、パンのあり余るほどの豊かさの中に今すでに住んでいるよね。
そしてそれらすべては、私のものは全部お前のものなんだよということを父はここで言うのです。
お前のものなんだよという。
実はこれは兄息子がお父さんに持っていたイメージとは真逆の姿ではないでしょうか。
真逆なんですよ。
兄息子はもしかしたらお父さんに対して長年忠実に仕えてきても小柳一匹もくれないケチな父親。
そういうふうに思っていたのかもしれません。
何かをもらうためには忠実に使い続けなければならない父親として見ていました。
兄息子の誤解
でもそれはおそらくもはや父親ではなくて厳格な主人のように見えていたのかもしれません。
弟息子とちょっと似てますね。
雇い人の一人にしてください。そうじゃないとあなたは何もくれない。
そういうような考えが兄息子の中にもあったかもしれませんね。
けれども父親は私のものは全部です。全部お前のものだというのです。
そういうほどに実は父は気前のいい恵み深い父親であった。
何かが欲しいなら遠慮せず求めたらいいのにということだったのかもしれません。
ここまでしないとあなたは私のことを見てくれないのでしょう。
いや違う。何かが欲しいならば遠慮せず求めればよい。
父の家のものはあなたのものなのだからこの父は兄息子が長年忠実な息子だったから愛していたのではないのです。
弟息子と同じ誤解をしているのです。
そうではない。父がこの息子を愛しているのはただこの兄息子が私の子供だからです。
あなたは私の子だから私はあなたのことを愛している。
私たちの親子関係もそういうことかもしれませんよね。
愛する子供に恵みを与える父はいない。同じように天の父はあなたに良いものを与えたいと願っている。
マタイの福音書に書いてありますね。
私のものは全部お前のものだと言われる。
パオロはエフェスト書の中で神はキリストにあって天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださったと書きます。
神様はすべてのですよ。すべての霊的祝福。
私の持てる全部はそれはあなたのものなんだということを言われる実に気前のいい神様。
言い方を変えるならばこれが恵み深い神様だということです。
恵みの主であるということです。
私のものは全部お前のものだとこの父が言いました。
この言葉は兄息子に一体何を教えているのでしょうか。
それはこの兄が父の家にいることも、父の守りと支えの中で生きていることも、そして父の財産を受け継ぐことも、それは何かの報酬ではないということです。
そうではない。
無償で与えられる恵み、純粋な賜物、プレゼントなのだということです。
その家で養われ、父に仕えることもできるある種健康な体、それも純粋な賜物です。
これは私たちも同じだと思うんですね。
私たちもそれぞれいろいろ持ってますよね。
総会のときにも少しお話をしましたけれども、私は教会というのはいろんな人がいろんな能力を活かし合う場所だと思っています。
加藤光一人の能力は高々知れているわけです。
でもそうではない。一人一人の持ち味が、賜物が活かされていく。
私たちそれぞれに与えられているものがあるのです。
それは頭がいいだとか、体が動くだとか、共感力があるだとか、誰かを励ませるだとか、何かの強さを持っている、いや何かの弱さを持っている。
賜物なんですよ。賜物である。
それは神様から賜物として私たちに委ねられたものであって、それは私のものではない。
言い方を変えるならば、だから私たちは私の何々が。
私はこれだけのことを持っています。私はこれだけのものを築いてきました。
あなたのものではない。
種の賜物。
だから私の何々がと、それを用いて誰かと比較をしたり、比較をする道具にしたり、誰かを批判する道具にするのではなくて、
私が神から与えられている純粋な賜物としてのこれは、互いに愛し合い、使い合うことを築くために用いられていくべきものだ。
まあこの宝刀息子の話で言うならば、兄は弟を愛せるために使わなきゃいけないんですよ。
彼が持っているすべてのものは。
私の方が相応しいと弟から奪い取るのではなくて、弟と共にそれを喜び合うだ。
そのために彼の持てるものは与えられている。
この宝刀息子の例え話というのは、今日で終わりますけれども、この例え話というのは、ある種救いと和解の話なんです。
ちょっと区別しました。救いと和解の話なんです。
この15章の最初を見ていただきますとわかるように、この宝刀息子の話というのは、そもそも誰に対して語られたかというと、
これは立法学者やパリ裁判に向けて語られた話なんです。
宝刀息子の話って前半が大事に見えますけど、実はこの宝刀息子の中心は兄息子の話です。
これは例え話でしたから、この話にはモデルがいるわけですね。
イエス様と罪人たち
弟息子というのは誰なのか。それはイエス様が普段関わっておられた罪人と呼ばれる人たちです。
パリ裁判や立法学者からするならば、神様に愛される資格のないものです。
しかし、この兄息子は誰か。パリ裁判や立法学者のことを言っているんです。
彼らは神様に日々熱心に仕え、私こそ祝福にふさわしいと考えていました。
しかしイエス様は言うのです。あなたたちは二人とも、双方とも神の前に失われている。
あなたたちは双方とも、神の父の、父なる神の心を見落としている。
神は何かの報酬としてあなたを祝福しようとしているわけでもなければ、失われた人間を追い出すようなことをする神でもない。
神は恵み深く、あなたにも、そしてあなたの弟にも望んでいる。
この法闘息子の話はですから、この弟も兄も父に、本当の父の心に出会い、二人は父の愛を知り、
そしてこの法闘息子に続きがもしも描けるとするならば、きっとこういう話なんです。
それは、父は兄息子を連れて弟の宿縁に連れて行くんですよ。和解をさせる。
なぜなら、お前たちが持っているすべては私のものじゃない?
私のもので喜んで楽しんだらいいんだから、なんでそこで争うんだってことですよ。
和解を阻むのはいつも傲慢です。
いや、それは神のものじゃない、私のものだ。私が頑張って築いてきたものだ。
私は神を知っている、あなたは知らない。
私は正しい、お前は正しくない。
私は熱心だが、あなたは熱心ではない。
もしもそういう視点で物事を考えているならば、その時点で私たちは父の心を吐き違えているんです。
何かが間違っている。
あなたが誇りとしているものもまた、父なる神様が恵み深く委ねてくれたものなんですよ。
それは何のためにあるのかということを考えなければならない。
謙遜になる方法があるとするならば、神様の恵み深さを思い見ることだと思います。
今日ご一緒に受け止めたい御言葉は、この父の言葉ですね。
私のものは全部お前のものだという言葉です。私のものは全部お前のものだ。
私たちの持つもの、能力も体も心も何もかも、神様が恵み深く与えてくださった純粋な賜物です。
でもそこで思うかもしれません。いや、あの人はたくさん与えられていて、結局私は少ないだとかね。
でも、イエス様が話されますよね。10タラント、5タラント、1タラントのね。
あの話は比較のために使っちゃダメ。神様は1タラントという莫大な財産、莫大な能力、莫大な賜物をあなたに委ねてくださっているということです。
量の違いというのは比較じゃないんです。持っている賜物の違いなんです。
比較してはいけない。違う。あなたに与えられている、神が与えられているものは何か?
そしてそれは何のためのものか?
私のものは全部お前のもの。神様の賜物は委ねられたもので、私たち自身のものではない。
それゆえに比べるためのものではなくて、誇るためのものではなくて、分かち合われ共に生きるために用いられるものです。
私のものは全部お前のものだ。
主の恵み深さを覚えて、私たちはこれは私のだというケチ臭さからあるし、解放されましょう。
そしてこれも主のものだ。あなたのそれも素晴らしい主のものだということを言い合いながら、
私たちは互いに、じゃこの素晴らしい主のものを主のために、誰かのために、一体どうやって用いていこう?
そういうことを一緒に考えられたら、それが教会なのではないでしょうか。
優は優し、おこなわざたし。けれども、私たちはそのために謙遜を学ばせていただきたい。
私のものは私だけのものじゃない。主が私に純粋に与えてくださったこれを、主を私は何のために用いたらよいでしょうか?
主が委ねてくれているもの、全部お前のものだと言ってくれているもの、それが何のためのものなのか?
ご一緒に覚えたいと思います。一言お祈りをしてメッセージを終わります。