00:00
お祈りをお捧げいたします。
ヨハネはためらうことなく告白し、
私はキリストではありませんと明言した。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
見よ、世の罪を取り除く神の子羊、
愛せる天皇様、あなた様の限りない豊かな御愛を思いまして、心から感謝をいたします。
そして今朝も、私どもの罪をあがない許すために、
あの十字架で全てを投げ打ってくださって、
血を流す。
その御父よによって、私たちを全面的に許してくださり、
あるいは醜い全ての穢れを清めてくださって、
生まれ変わらしめ、神に仕えるすのべとしてくださったことを、
真理で心から感謝をいたします。
しかも、救われた私どものうちに、
主イエス・キリスト様がいただいていた同じ御霊様が、
御大事をくださっていることを驚きとともに、
また感謝とともに、信じてありがとうございます。
今日は主の2022年6月26日、
主を礼拝する聖なるこの時を私たちに与えてくださりました主よ。
今日もあなたの御言葉によって、あなたの素晴らしい御心を悟らせてください。
あなた様への信仰と希望を新しくさせてくださいますようにお祈りいたします。
03:08
祈られたごとく、この全世界は混沌とし、
まさに聖書が言っているように、またイエス様がおっしゃったように、
今は悪しき時代です。
何がどこで、どのような形で起きるかわからない。
不安とまた痛み、悲しみに満ち溢れた、
まさにバプテスマのヨハネ、あるいはそのいにしえイザヤが予言したように、
荒れされた時代でございます。
オクライナとヨシアとの紛争が全世界を切断して、
全人類に計り知れない痛みと悲しみと不安をもたらしておりますが、
取りも直さず、たくさんのオクライナの方々がさまざまな国に避難を要約され、
あるいは明日どうかわからない国土にサメを売っていらっしゃる姿をテレビなどで見るために、
私たちはこの方々のために何もどうすることもできない、
あがりされたともにしかし、天の幕との神様が何とかいろんな手段を通して、
本当の平和と秩序がもたらされますようにと、ひたすらに念じておりたいでございます。
今日もまたこの明治谷教会のみならず、
日本エスキスト教団、北場北海道から東北関東、新越京都、大阪、兵庫、中国、九州、沖縄に至りますまで、
124教局27の教会と、また日本全国のすべての教会、全世界のすべての教会の礼拝をいたかにお恵みくださるようにお祈りいたします。
そしてすべてのクリスチャンたち、そのご家族、あるいは先教師、牧師、牧師夫人、そのご家族、
すべてをあなたが帰りに守ってください。
特に常に引退・退職された多くの先生方の上に、あなたの守りと良き導き・御助けがありますようにお祈りいたします。
06:11
どうか私どもの知らないところで、かかり知れないご苦労されている多くの方々を覚えます。
日本全国のすべての病院を私が守ってくださり、お医者様、看護師さんや保健さんたち、あるいは救命士の皆さんの働き、警察や自衛隊消防、
様々なところでご苦労されている多くの方々、あるいは全国の老人ホームや介護施設で過ごしていらっしゃるお体のご無重なたくさんのご高齢の皆さん、
そこで働いている職員の方々、どうぞ主がお助けくださるように併せてお祈りいたします。
全国の幼い子どもたちの幼稚園や保育園、あるいはすべての学校、学生たちや働いている教職の先生方、そのご家族、どうぞ帰りに来てくださり、お守りくださることをお祈りいたします。
国際連合、WHO、WTO、そして今、先進7カ国の会議なども行われておりますが、責任ある方々の上に、神様どうか良き知恵と導きに助けをお与えくださるようにお願いいたします。
日本国際生き合い対策、ワールドビジョン、あるいはユニセフ、ジャニカ、ジョマの働きなども、あるいは国境なき石団、新生選挙団、そうした方々の働き務所は帰りにお助けくださるようにお願いいたします。
経済的にも大変な時でございます。どうぞ商業施設や中小企業、大企業にかかわらず大変な事態の中にありますが、どうぞ神様お助けください。
何よりもマカトの生きる神様を本当にお世で貸し込むことができますように、神様どうかこの日本を哀れに、全世界を哀れんでくださるようにお願いいたします。
09:08
どのような時代になろうとも私たちクリスチャンはマカトの神への信仰と希望を決して失うことがないようにともすれば祝ってしまうような愚かなものでございますが、
主よ十字架のイエス様、復活のイエス様、私たちのために際がなくウィザで祈ってくださっているイエス・キリスト様、やがて再び来られるサイリンのキリスト様にしっかりと希望と信仰を抱いて日々つぶやかに生活することができますようにお助けください。
今から本堂聖子姉妹に読んでいただきました、ヨハネの福音書の御言葉を語らせていただきます。
どうぞ聖霊様がこの弱き鳥居谷合いしもりでございますが、語るべきあなたの御言葉をわかりやすく、またできる限り正しく語ることができますようにお助けください。
後になりましたが、私たちの愛しているユン先生、ハンナ先生ご夫妻、三人の子たちの上に特別なるあなたの帰りにとお助けを与えくださることを心からお祈りをいたします。兄弟姉妹たちの切なる願いと感謝に合わせてイエス様の尊いお名前によってお捧げをいたします。
今日の説教のポイントは、まず最初のポイントは、荒野に叫ぶ声。
二つ目のポイントは、神の子羊イエスキリスト。
三つ目のポイントは、罪を取り除くキリスト。
以上、この三つの大きなポイントをもって今日のメッセージをさせていただきたいと思います。
まず第一のポイントは、荒野に叫ぶ声。荒野で叫んでいる声が聞こえてきました。
12:02
この福音書のヨハネはそのように述べております。
つまり、ドブテスマのヨハネが、荒野で文字通り荒れ下れた砂漠のようなところだと思いますが、それだけではない。
死の道をまっすぐにせよ。
これは遥か昔、預言者イザヤが、聖書でいえば四十章の言葉の引用です。
ほとんどの聖書学者、信学者は、四十章以下、最後の六十六章まで、三十九章までのイザヤではなくて、
イザヤのような神の器が語ったと言われておりますが、
個人的なことになりますが、私自身は第一イザヤとか第二イザヤという学びはしなかったんです。
だから、どちらが正しくてどちらが間違いであるということは、誰も判定はできない。
ですから、私なりに申し上げれば、とにかく第一イザヤであろうが第二イザヤであろうが、とにかくイザヤ書である。
これは間違いない。
預言者イザヤが四十章で、死の道をまっすぐにせよと叫びましたが、
それはイザヤが財政当時の自分の民族、イザヤ民族、経済、あるいは教育、あるいは国際関係とか、
様々な点で非常にアレスされていた時であった。
そして、ただ軍事力が増強されて、他国への侵略、民族紛争、あるいは原因不明の病原菌の蔓延、
それらを見てイザヤはまさに荒野のようであると言ったのですが、
それ以上に彼が一番言いたかったのは、神に敗神堕落した我が民、イザヤ民族、イスラエル民族、
15:02
もう信仰も何もない、もう荒れ果ててしまっている、礼的に。
それを彼はたまらなくなって預言した。
聖書に、草は枯れ花は凋むという言葉がありますが、まさに当時はそうでありましたが、
イザヤは自分が預言しながら、語りながら、やがて将来、この預言がまた時代以来で必ず何回も常時するということを彼は語ったのです。
ところが皆さん、現代の日本、現代の世界はどうかと言いますと、ほぼ変わらない。
イザヤの時代、あるいはここに出てくるバプテスマのようなイエス様の時代、それから二千何年か経っておりますが、ほとんど変わらない。
やはり今は、今も荒れ花のような時代。
イエス様が聖書の中で、今は悪い時代だと言われましたし、他の箇所でも、今は悪しき時代であると。
エペソーションなんかにも出てきますね。今は悪い時代だ。
悪い時代というのは、法律に引っかかるようなものすごい犯罪とかそういうこともそうですけれども、やはり一番聖書が言っている、あるいはイエス様が言っている悪い時代というのは、神なき時代だ。
神様は存在していますが、神を信じるということをなくした時代である。
正義、真理、真理ね、真言の真と偽言。
正義、真理、公正、真実が失われてしまった時代である。
ほとんどの人は主の道、真理の道から外れてしまっている。
ここで話したと思いますが、列車、汽車というのは、レールの上を走っている間は安全です。
レールからそれると、汽車、列車という乗り物の機能は全くなくなって、大変なことが起きる危険性があるわけです。
人間の私たち、私たちの列車、汽車に例えますと、人間という列車もそうです。
18:08
神が備えてくださった真理のレールを走っている間は、少々の揺れはありますよ。
少々の揺れはありますが、まずは大丈夫、目的地に必ず到着する。
バプチョさんのヨハネが出現するわけですが、そこで彼はこのように言いました。
あなたはどなたですか、何人かの派遣された。
ここでは、祭司たちとレビビトたちをとありますが、
これもある神学者や聖書学者は、実際に神殿に仕えていた祭司やレビビトではなかったのではないかと言っていますが、
私はそれ以上のことは詮索しません。
とにかく使わされた人々がバプチョさんの家に、
Who are you? あなたはどなたですかと何回も尋ねる。
ヨハネはためらうことなく告白した。
どういう告白したかと言いますと、私はキリストではありませんと明言した。
つまり、私はメシアではありません。
キリストとメサイアと一緒の意味ですね。油注がれたもの。
私はキリストではない、メシアではない、救い主ではないのです。
いわゆる、私はそんなものでありませんと自己否定をした。
ここでバプチョさんのヨハネが、
Not the Messiahといった非常に重要な言葉ですから、
いわゆる自己否定、
これは非常にこの箇所の、この箇所と言いましょうかね、
ヨハネ福音書の全体と言ってもいいですが、
一つのキーポイントになる言葉なんですね。
Not、私はそういうものではありません。
私は、バプチョさんのヨハネが、
間違った道を正すために、私は神から使わされたしもべである。
21:09
自分は聖書にも、ラクダの毛衣とか、蜜を食べていたとか、
まあ言ってみれば風貌は、
なんと言いましょうか、
コツジキというのは失礼ですけれども、
風貌の冴えないような格好をしていたのではないかなと。
でも彼は、27節で、
その方は、
その方は、
その方というのはキリスト、イエス様のことですね。
その方は、私の後に来られた。
私にはその方の履物の紐を解く入れ口もありません。
ちょっと皆さん考えてくださいね。
イエスキリストという方は、
私の後に来られる方、
イエス様はすでに来られているんですね。
何か矛盾しているようですが、矛盾ではなくて、
これは公の生涯、
公の生涯、
公生涯としてこのように姿を現されるという形では、
私の後に来られたのです。
このことがあったのは、
ヨルダン川の川の向こうのベタニアであったという、
このベタニアというのは、
マリア、マルタ、ラダルのベタニアの村ではありません。
ということだけ申し上げてください。
このことを説明しだしたら、
今日の本論から外れてしまいますので、
そのことだけ。
ヨルダン川のベタニアという町があったのかどうかは、
それは不明です。
わからないです。
さて、その翌日、29節、
ヨハネは自分の方に、
イエスは来られるのを見ていった。
今日の説教の主題ですが、
ヨハネは、
あそこから、
私の後に来られる方と言いながら、
29節の見事はちょっと置いておきますが、
30節、
24:01
一人の人が来られます。
その方は、
私に勝る方です。
これは、
勝るというのは、
私には、
心から手の届かない、
偉大な方の中の最も偉大な方である。
グレイトという言葉が、
グレイト、グレイト、
グレイティスト、
遥か、
遥かなる方である。
それは、
私より先におられた。
27節は、私の後から来る。
ここでは、
私より先におられた。
この言葉も、皆さん、重要な言葉です。
私より先におられたという言葉は、
出礼する時の3章の14節。
モーセが、
イスラエルの使用者として、
目覚めた、
神様のメッセージをもらった時に、
躊躇って、
一体あなたはどういう方ですか、
と書くのだった。
その時に、主はモーセに答えられた。
出礼する時の3章の14節。
私は、主は言われた。
私は、
私である。
私は、私である。
これより以外のことは、
言えなかったんですね、
さすがの主も。
主は言われた。
私は、私である。
つまり、よく言われます、
I am that I am。
いや、あの、
もっと申し上げますと、
I am the being。
もう、私は、
存在しているものである。
いや、存在そのものである。
存在そのもの。
I am the being。
もう、あってあるもの。
過去も、
現在も、
いつまでも存在するものである。
27:00
こんな方、皆さん、
あの、
他には誰一人いませんよね。
ずっと、永遠から、
現在も、
将来も、いつまでも存在する、
ずっと引き続けるものである。
こんな方は、皆さん、
まことの神以外にいらっしゃらない。
ま、ちょっと参考ですが、
この同じヨハネの18章の、
中に出てきます、
あの、お話ですが、
イエス様に敵する者が、
ゲスセマノに、
ゲスセマノで祈っているイエス様を
捕獲しようとしてきますね。
イスカリアとの間に占領されて、
捕れようとしてきます。
で、その時に敵する者が3度、
なぜれのイエスはどこにいるか、
なぜれのイエスは誰か、
と3度聞きますが、
3度の質問に対して、
イエス様が同じ答えをします。
私がそれである。
で、この場合の、
イエス様の私がそれであるという答えと、
今日お話ししている、
私より先に終わられた方というのは、
全然違います。
内容が。
ここでは、
存在そのものではなく、
18章のイエス様の答えは、
あなたはなぜれのイエスか、
私が彼である、
私はなぜれのイエスですよ、
ですからそこでは、
イエス様は、
私はキリストであるとか、
私は救い主であるとか、
私は主である、
という答えはなさっていない。
それは、
矛盾しているのではなくて、
矛盾をしていない。
イエス様は、
私に正しい答えをなさっています。
この、
あってあるもの、
存在するもの、
というのを旧約聖書では、
あの、
ヘブン語ですけどね、
アドナイという言葉が使われているのですね。
アドナイ。
もう一つ、エロヒム。
できましたら皆さん、
この二つぐらいの言葉は、
知っておいてほしい。
重要な言葉ですね。
アドナイ、エロヒム。
このアドナイという言葉は、
どういう意味かと言いますと、
神の超越性、
統一性、
どこにも矛盾、間違いがない。
エロヒムというのは、
神の創造力、
創造力というのは、
クリエイトね。
何もないところから創造したという、
30:01
その創造、クリエイト。
神の創造力と、
全能性を表す言葉、
これがエロヒム。
ですから、
皆さん、私たち日本人というのは、
神様と言っても、
ほとんどの人は、
神様はどんな神様ですかと、
分からないですね。
一般的には、
神様ってね。
例えば、
ヘブル語の、
エロヒムというのはもう、
皆さん、
エロヒムというのはもう、
他の神々なんて考えられない。
絶対、
唯一の創造の、
誠の神、
唯一の神である、
エロヒム。
ユン先生に大変お世話になったということは、
何回もお話していますけれども、
ユン先生の、
韓国では、
やっぱりこの、
あどないとこ、
エロヒムに、
何ていうんですかね、
ほとんど同じだと思いますけど、
そういう言葉が、
ハングルであるんですよね。
前はパッと言えたんですけどね、
ハングルも、
いくつかの言葉、
今は出てこないんですよね。
韓国では、
日本とはまた違ってね、
この言葉というのはもう、
他に神って考えられない、
という言葉があるんですよね。
素晴らしいなと思って。
アイアム、ザット、アイアム、
その方である。
ヨハネの黙示録に、
例えば五章に、
この皆さんまたお家で、
その時、
呼んでいただきたいんですが、
黙示録というのは、
なかなかわからないところばかりで、
私もいまだに、
ほとんどわからないところが多いですね、
黙示録を呼んでいて、
五章のような表現、
言葉がいっぱい出てきますから、
例えば、参考の部分に申し上げますが、
数字が出てきます。
その数字を、
私たちは無理やり、
これはこうであると、
表現しては危険ですからね。
申し訳ないですけど、
そういうときは、
そーっとしておいた方がいいと思うんですよね。
わからないな、
なんでこんな難しいことを、
ヨハネは神様から啓示を受けたんだろうな、
そのぐらいで、
ストップしていった方がいいと、
私は思うんですけどね。
ところが、
ヨハネ黙示録の五章に、
実は世の罪を取り除く、
神の子羊という、
33:01
そのね、
神の言葉が、
実は出てくるんですね。
あがないの子羊。
ここに出てくる、
実は、
子羊というのは、
ひとつは文字通り子羊ね、
もくもくと語らない、
ほふりばに惹かれている子羊、
ほふわれる子羊のように、
いいザクザクとして、
ガバーっている。
ところが、
もう一面ね、
この子羊は、
獅子のごとく、
たてだけしく、
悪しさがあると、
それに追随する悪しき者を、
打ち滅ぼしてしまうという、
それに出てくる、
ヨハネの五章、
黙示録の五章にはね、
僕の妻のヨハネは、
私はこの方を知らなかった、
知らなかったというのは、
この方が、
まことのメシア、キリスト、
救い主、主、
そういうことを、
私は今までは知らなかった、
で、
一章のずっと、
三十三、三十四節あたりに来ると、
分かってきた、
実は皆さん、
バフテスマンのヨハネとイエス様が、
親戚同士でしょ、
ご親戚です、
知らないわけではなく、
少年時代は一緒に遊んだかもしれません、
これは私の想像ですが、
有名なラファエルという方が、
聖家族という絵を描いています、
聖家族、
それは、
母親のマリアさんに抱かれた、
幼いイエス様を、
少年のバフテスマンのヨハネが、
指さしている絵ですね、
聖家族、
皆さんもご覧になった方があるかもしれませんが、
素晴らしい絵ですよね、
あれが、
イエス様だった、
その当時バフテスマンのヨハネは、
あれがキリストであると言ったかどうかは分かりませんが、
彼は指さしている、
キリストに、
もう一つの絵は、
アレナのヨハネ、
これは同じ少年バフテスマンのヨハネが、
今度は、
天に向かって指をさしている、
大作曲家のヘンデルが、
メサイアを作曲した時に、
死の十字架と死を歌う、
第二部の始めに、
こう歌って、
こう歌うところがある、
36:07
一生二十九の御言葉ですね、
身を、世の罪を取り除く、
神の恋する、
という合唱で、
二部が始まっているわけです。
私は、
つくづくと思いました、
これはキリストのことですけどね、
私たちは、
世の罪をと、
こう言っていますが、
この世の罪というのは、
ここで言う罪というのは、
例えば、嘘をついたとか、
騙したとか、誤魔化したとか、
何かの法律を破って、
罪を犯したということを、
もう去ることながら、
もっと深い意味があるということを、
皆さん知ってほしい、
それは、
あなたも私も、
生まれる前から、
罪を持っている、
罪を持っているから、
罪を犯すの、
お母さんから生まれてきて、
おぎわいと生まれてきて、
いろんな罪を犯してきたから、
私は罪深い人間である、
というのではない、
私という人間は、
お母さんの体の中にいるというから、
罪を持っている、
おぎわいとなって、
おぎわいとなって、
かわいいなと、
抱っこされているときも、
私は罪人なんですね、
今もそうです。
そういう罪が、
キリストの十字架の、
あの姿を思うときに、
聖書を通してですが、
果たして、
自分の生まれつきの罪が、
イエス・キリスト、
あんなに残酷なまでに、
あの十字架で、
恥ずかしめたのか、
というところまで、
私は本当に、
理解しているのかどうか、
分かっているのかどうか、
はっきり答えを申し上げますと、
私は分かっていないんです。
感じていない。
ああ、イエス様って、
ひどい目にあったんだな、
大変だったな、
あんな恥ずかしい姿で、
最後まで苦しんで、悲しんで、
ひとりぼっちで、
弟子から裏切られて、
ああ、もう、
たまらなかっただろうな、
という程度で、
あの、
イエス様の十字架の
醜い姿や苦しみ、
痛みが、
私の罪そのものであったということを、
私自身は、
恥ずかしいですけれども、
39:00
そこまでは分かっていない。
残念ながら、
そういう、
罪の悶えとか、
苦しみとか、
イザヤは五十三章で、
そのことを言っていますね。
で、皆さん、
イザヤ書の五十三章というのは、
もちろん、
イザヤがイエス様の十字架の様を
表現した言葉ですが、
あれね、
あの五十三章は私のことなんです。
皆さんのことです。
それを忘れないでほしいですね。
自分のことだ。
自分の醜い罪の姿が、
あのイザヤ書の五十三章で、
あのような表現で、
皆さん、許してくださっているんですね。
恥ずかしいですけれども、
こんな私でも、
イエス様は、
死は全面的に、
全部許してくださっている。
本当にありがたいなと、
感謝せずに終われない。
旧約時代には、
イスラエルの人たちは、
多くの動物を生贄に捧げました。
しかし、
どんなにナンマントという動物を
最大に捧げて、
煙も、
それはあくまでも、
一つの雛形であった。
動物の血や、
煙が人間の穢れた、
あの、
魂や、
罪を許したり清める、
そんな力は、
もうとうない。
しかし、
そういう儀式を通して、
遥か来るべき、
救い主、
十字架にかかって、
死んでくださる、
信仰を持って信じて、
見ていた人もあった。
その一人がアブラハム。
イサクを捧げなさい。
ステーションがすんなりと行きますね。
捧げなさい。
はい、わかりました。
モリアの山に行く。
でも、かなり葛藤があったんじゃないかなと、
私は想像します。
せっかく、
サラとの間に生まれた年寄り分の、
もう目の中に入れても痛くない、
宝の中の宝、
イサクを捧げよ。
はい、わかりました。
そうはいかなかったんじゃないかなと、
思いますが、
とにかくモリアの山に生きて、
彼はイサクを捧げた祭壇に、
火切りの燃える上に、
イサクを捧げて、
まさに今、
剣でほふごうとした時に、
42:00
天からの声があった。
待ちなさい。
アブラハムは、
おそらくね、
イサクは生きて返してくださる、
まあ言ってみれば、
復活信仰がすでにあったんじゃないかな、
はるか、
将来の、
メシアキリストの十字架と、
復活を彼は信仰を持って、
見ていたのではないだろうか、
と思いますね。
最後のポイントに入りたいと思います。
罪を取り除くキリスト、
ミオという言葉、
ミオ、
エッケホモという言葉が使われています。
エッケホモ、
エッケホモというのは、
穴が開くほど、
じーっと見つめよう、
という言葉です。
穴が開くほど、
寄せ見せてはなりません、
という意味なんですね、
エッケホモ。
鳩居明先生が、
今日の支援、
明日の支援の中で、
明かされておりまして、
ある時、公衆トイレに入った。
入ったら正面の壁に、
右を見ようと、
左を見た。
左を見たら、
左の壁に上を見ようと、
上を見た。
こんな場所で、
ケロケロするな、
先生は思わず吹き出したんですけれども、
非常に反省させられた。
神様、イエス様、
教会、キリスト、聖書、
お祈りと言いながら、
自分は、
やっぱり世の中のあれやこれやのことにね、
気がとらわれている、
心が奪われている、
それはそうです。
私は、そこを読みながらね、
私はそれ以上に恥ずかしいものだな、
と思いました。
もう本当に何か、
ケロケロしすぎじゃないかな、
いろんなことが気になる。
もちろん、僕会社として、
あの人のことやこの人や家庭や、
そういうことを気にかけて、
祈ることは祈りますけれども、
いや、それはそれとして、
何かね、しょうがないことに何か、
時間をかけたり、
エネルギーを使ったり、
しているんじゃないかな、
45:00
つまり、エッケホンもじゃなくて、
何かよそ見している時が、
やっぱりあるな、と。
でも、何回も申し上げますが、
そんな恥ずかしい私でも、
主は受け入れてくださっている、
というのを熱く申し出すけれども、
ありがたいなと、
いつもそう思います。
もうお話を、
だんだんと終わりに近づきましたけれども、
もうちょっとだけ時間をください。
すみません。
あの、ペペロという人は、
脱炭して、失望して、
ガリレアに帰るわけ。
もう私は、あの、
イエスキリストの弟子としては失格だと、
クリスチャンとしては失格だと、
元の漁夫、
あの、魚取りに、漁師に戻ろうと、
がっかりしていたら、しかし、
イエス様が声をかけてくださって、
ペペロよ、と。
そして、復活のイエス様、
彼はよみがえったの。
ああ、イエス様がいつも一緒だ、
夜の終わりまで、
その言葉も思い出して、
ああ、イエス様は一緒だ、
もう、いつでも、どこでも、
どんな場合でも、ずっと一緒だ。
もう、それから、彼は思い出変わったように、
精霊に致されて、
仙峡に走り回った。
もうちょっとだけお話しして、終わります。
千尋子先生の、
榎本先生が、
鳥取県の、
殿堂に行った時に、
その町の小さなパン屋さんに寄った。
何で寄ってたかと言いますと、
そのパン屋さんの看板に、
千尋子という看板がかかっていた。
千尋子、あれ?
千尋子って、私のことじゃない。
入ったら、
そのパン屋さんのすぐにがね、
ああ、榎本先生、
よく来てくださいました。
私は、不審子なものでありましたけども、
先生の千尋子の本を読んで感激して、
もう、イエス様は死にて、
クリスタルになりました。
ああ、よかったですね。
そのお店の方々に、
喫茶店があって、
そこに鳥取大の学生が、
よく出入りして、
パンを食べたり、
コーヒーや紅茶を飲んだり、
食べたりして帰っていった。
ところが、その鳥取大の6人の大学生が、
洗礼を受けて、
クリスタルになった。
クリスタルになって、
彼らはですね、
僕たちは、
お医者さんのいない、
無医者に行きたい。
ある学生は、
診察で治療してもお金払えない、
貧しい村の方々のところで、
僕らは行きたいと言って、
みんなクリスタルの学生たちが、
48:01
そういうところに行ったそうです。
それを聞いて、
千尋子先生、
もう、感激の涙で、
何ていうのか、
泣き濡れた、
お喜びと感謝。
ところが、
そのパン屋さんの矢西さんも、
実はクリスタルだということを聞いて、
早速、
この日、
千尋子先生は、
矢西さんのところに行った。
矢西さんは救われているから、
喜びで溢れているだろうと思った。
とんでもない、
泣きの涙で、
泣きながら、
自分の悩みや苦しみを、
千尋先生に話した。
私はあまり体が弱くて弱くて、
いまだに一人ぼっちなんです。
先生も、
クリスタルと言っても、
寂しくて寂しくて仕方がいません。
千尋先生は、
むらい泣きして、
そうですか、そうですか、
言うだけで、
何にもお話しできなかった。
それでお祈りして、
矢座屋に帰って行った。
ところが、
矢西さんの姿が、
まぶたに浮かんできて、
見れない。
どうしようか。
もう一回お尋ねしようかと思って、
あそこにまたお尋ねしたそうですよ、
矢西さん。
そしたら、
矢西さんは、
先生、
先生、
もう感謝でいっぱいです。
千尋先生は、
どういう気持ちで言ったらいいのかと思ったら、
その、
パレルヤ!
どうしたんですか?
先生、わかりました。
何がわかったんですか?
もうイエス様は、
私とどんな時でも、
いつも一緒で、
一緒で、
一緒で、
一緒であることがわかりました。
もう泣きながら、
今度は嬉しい涙で、
感謝です。
十字架のイエス様、
復活のイエス様、
やがて来るサイリンのイエス様、
万歳パレルヤ!
先生、ありがとうございます。
何も言わないけれども、
とにかくパレルヤと感謝して、
二人で泣きながら感謝して、
お祈りしたという。
イエス様は、
やがて来られる。
イエス様は、
必ず来られる。
間もなく死は来られる。
確かに死は来られる。
短い歌ですが、
これを歌って終わりたいと思います。
確かに死は来られる。
51:02
間もなく死は来られる。
時は近づいてる。
御救いの良い知らせを、
国々に告げ知らせよう。
歌え踊れ叫べ忍みなお、
高く掲げ道を備えよう。
山よ海よ全て作られたものを、
栄光を力賛美捧げよう。
栄光を力賛美捧げよう。
お祈りいたします。