神の子羊の証言
ヨハネ1章29節から34節
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
「みよ、世の罪を取り除く神の子羊。私の後に一人の人が来られます。その方は私に勝る方です。私より先におられたからです。」と私が言ったのはこの方のことです。
私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。
そしてヨハネはこのように明かしした。
ミタマが鳩のように天から下って、この方の上に留まるのを私は見ました。
私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を使わせた方が私に言われました。
ミタマがある人の上に下って、その上に留まるのをあなたが見たら、その人こそ、精霊によってバプテスマを授けるものである。私はそれを見ました。
それで、この方が神の子であると明かしをしているのです。
以上です。
今日はこのところから、世の罪を取り除く子羊と対して、御言葉と言います。
皆さんおはようございます。
11月の第3週になりました。
新座市は暖かい日が続いておりますが、先ほども少し話したのですが、
今週の明後日ぐらいから、本格的に最高気温が10℃を下るような寒い日が訪れるようですが、
皆さん、風邪などひかないように、お互いに気をつけて参りましょう。
さて、これまで一生の一節からずっと、ヨハネの福音書を見て参りましたが、
今日のところでも、ヨハネの明かしが続きます。
皆さん覚えていますか?
ヨハネは、バブテスマのヨハネは、ヨハネの福音書の中で一つの役割しか与えられていなかった。
それは何か覚えていますか?
一つの役割だけ。
バブテスマのヨハネなのに、バブテスマを授けるということではなくて、イエス様を証言するということ、いわゆる一択ですね。
そのように、ヨハネは紹介されていました。
そしてその明かしの続きで、今日の冒頭の翌日というのは、先週取り上げたエルサレムから、
ヨハネの下に人が使わされて、ヨハネの正体を突き止めようとした、その問答の続きの翌日ということですね。
今日の箇所では、ヨハネがイエス様について新たな証言を行っている。
あるいは、ヨハネの福音書の中で、1章5つから、イエス様についていろんなことが語られてきました。
ダイヤモンドがいろんな輝きを持つようにと表現しましたけれども、
その中で新しい証言が、ヨハネの口からイエス様についてなされているのが、今日の箇所です。
1章34節に、ヨハネは、この方が神の御子であることを明かししていますと断言している通りなんですね。
彼が言うところの、あるいはヨハネの福音書が展開する新しい証言とは、
イエス様が世の罪を取り除く神の子羊であるという点です。
それには、罪を担うということと、罪を償うということの2つの意味があるんです。
ですから、今日最初の2点は、この1個ずつのことを取り上げていきます。
そして3番目の点として、イエス様が聖霊でバブテスマを授けるお方だという、
そのヨハネの証言について解説していきます。
それではまず最初。
罪を担う子羊。
今日の大事な聖句の一つを読んでみましょう。1章29節。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
みよ、世の罪を取り除く神の子羊。
ここで、まずいろんな大事な点があるんですけれども、
世の罪と言っている点が大事なんです。
それは、別の言葉で言うと、全世界の罪という意味なんです。
当時の人たち、特にユダヤ人にとっては、
この救い主は、狭い意味での神の民、
いわゆるユダヤ人だけの救い主がやってくると考えられていたんですね。
しかし、イエス様はそのようなメシアではなくて、
全世界のための救い主であるということが宣言されています。
なぜなら、1章1節から見てきましたように、
ロゴスなる言葉であるイエス様は、
全世界を作られて、そして全ての命の光であられるからです。
そのような全世界を作られ、全ての命の光であられるイエス様であるからこそ、
全世界の人の罪の贖いとなられたということが言えるわけなんです。
ある辞書によると、
取り除くというのは、今日見ていくまず1つ目、
罪を担うという意味があるんですね。
そして、ある国語辞典によると、
担うには、自分の責任として引き受けるという意味があるんです。
だから、罪を担って取り除く神の子羊というのは、
人の罪を代わって追うことを意味するんですね。
先日、私はラジオをよく聞くんですけれども、
ラジオの街頭インタビューのコーナーで、
今の日本はお年寄りに優しいかどうかというのをインタビューしたんですね。
その方法の1つとして、若い子、10代、20代の子に、
あなたはお年寄りに優しいですか?とインタビューしたんです。
そこのラジオのパーソナリティ、2人男女いるんですけど、
80代のお2人なんですね。
それで、簡単に言うと、ある20代の男の子はコンビニの店員さんか何かなんですけれども、
いや、優しくしてますよと、
お釣り出すのがゆっくりの時にはゆっくりでいいですよとか、
他の人にやらないんですけども、荷物をちゃんと持って行ってあげたりしますよとかですね。
そういうことがいくつか出てきて、それを聞いた2人のコメンテーターがですね、
すごいねーって感動して涙が出ちゃうなんておっしゃってたんですけどもね。
その中である20代の女の子はですね、私はなりにしてますよ。
例えば近所で、特に知り合いの高齢の方がいて、
荷物を持っていると必ず持ってあげますよと言うようにしてます。
日本だとなかなかないんですけど、韓国なんか行くとね、バスに乗っていると、
立って荷物を持っていると、座っている人がですね、荷物を取るんですよ。
何か言ったら、私が持ってあげるから膝の上に置きなさいと言って、
知らない人でも立っている人の荷物を取って自分の膝の上に置いたりするんですね。
このようにですね、誰かの荷物を持ってあげる、担ってあげる、
そういうようにですね、罪をあがなう、罪を担うというのは、
誰かの罪を自分の責任として持って引き受けるという意味があるんですね。
だから、罪を担って取り除くは、
人の罪をその人に代わって背負うこと、追うことを意味するわけですね。
ここで考えてください。
罪ある人間は、自分の罪の責任を引き受けることで精一杯なんですね。
けれどもイエス様は神様の御子であられ、罪がないお方です。
自分自身の罪の責任を担う必要が一切ないんですね。
ですから、誰かの罪をイエス様は担うことができるということなんですね。
また、この罪を担うの罪、世の罪にはですね、全世界の罪という意味があるんです。
で、全世界の罪の責任を身代わりになって担うことができる人など、この世界に存在しないですよね。
でもイエス様はなぜそれをできるのか、それは思い出してください。
1章の1節から言われているように、イエス様は全宇宙、全世界を作られたお方であって、
全ての人の命の源である、そのようなお方であるからこそ、
全ての人の罪を身代わりとして担うことができるお方だということが分かるわけなんですね。
何気なくイエス様は人の罪を担うと聞いてますけど、その根拠は、
イエス様がそのような神であられて罪がなく、そして全世界を作られたお方であるからこそ、
全ての人の命であるからこそ、全ての人の罪を担うことができたということを改めて覚えておきましょう。
全世界の罪を取り除く
そのことを表す二言葉ヘブル人の手紙9章28節にこのようにあるので、一緒に読んでみましょうか。
キリストも多くの人の罪を負うために一度御自分を捧げ、
二度目には罪を負うためではなく、御自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてください。
二番目の点。
世の罪を取り除く神の子羊ということには、
罪を贖う子羊だという意味があるんですね。
繰り返しますが、前後しますが、取り除くという言葉は、元のギリシャ語ではハイローという言葉なんですね。
それにはですね、罪を償うという意味、今二番目で見ている罪を償うという意味もあります。
よくね、昭和の世代ですとね、円下で償いなんてね、疑われそうかと思うかもしれませんけども、
この償いという意味があって、この言葉の背後には宗教的な当時の儀式との関わりがあるんですね。
そしてそれにはどういう儀式かというと、
生贄を捧げて、その生き物を殺して、罪を取り除くという意味が込められているんです、この言葉の中に。
ですからこの神の子羊、世の罪を取り除く神の子羊には、大切な意味があるということを確認していきましょう。
その祭壇の前にですね、子羊だけじゃなくていろんなものが捧げられていくという旧約聖書の贖いの儀式のことをちょっとイメージしていただきたいんですけども、
その生贄の動物が罪の贖いとして殺されてしまいますけども、
本来ならばですね、その罪の償いは、罪を犯した本人が命をもってするべきなんですね、償うべきなんです。
しかし、いわゆるその罪滅ぼしを、動物の犠牲がその人に代わってしてくれている。
それがこの生贄を捧げて罪を贖う儀式の本質なんですね。
罪滅ぼしを代わりに生贄の動物がしてくれているということです。
そしてまた前後しますけども、この先ほど見た世の罪を取り除く神の子羊の世の罪の罪という言葉、
実はですね、日本語でわかりにくいんですが、単数形なんです。
世界中の罪って言ったらですね、複数形じゃないですか。
でも一つの丸っとした世の世界の罪を取り除くと言っているんですね。
この意味はどういうことかというと、神の子羊は世界中の誰であっても例外なく、
罪の贖いを必要としている人の罪を取り除いて救うことができるという意味なんですね。
単数の罪が全世界の罪ということを表す例をちょっと考えてみたんですけども、
これはですね、フレミングという博士です。
フレミングは1928年に伝染病の治療薬であるペニシリンを発見したんです。
ペニシリンの発見というのは今でも最大の医薬的貢献をした、歴史的医学上一番大事な発見だと言われているんですね。
どんな病気でも治せなかった当時ですけども、肺炎とか破傷風、伝染病ですね、あっという間に治したという薬だったんです。
奇跡の薬だと言われていたんですけども、その時にこのペニシリンは当時病を癒すと言った時に、
1個の病ではなくて、当時知られていた、知られていたところの伝染病の全てを治しますというニュアンスが。
Aさんの病気だけじゃなくて、BさんもCさんも、世界中誰であってもこの治療に預かることができる病気の治療薬ですという時に、
全体的にこの一つの病気、さっき言った一つの罪というような言い方ができるわけですね。
余談になりますけれども、彼は発見はしたけれども方法がわからなくてですね、後々フローリーとチェインという2人の研究者が大量にこの薬にすることを発見して、治療薬のペニシリンとして世界に広めることに成功したんですね。
この3人は、3人ともノーベル医学賞を受賞したわけです。
このように、病気の治療薬といった時に、当時考えられていた病気の全てをそこに含んでいたように、イエス様が世界のこの世の罪を贖うといった時に、全部の罪をまるっと贖うという、そういうニュアンスがあるということをぜひ覚えておいてください。
そしてその、自分がですね、イエス様は罪滅ぼしのためにこの命を捧げるということがこれから出てくるわけです。
罪を取り除く神の子羊
このイエス様によってやがて成就する、この神の子羊ということが旧約聖書のイザヤ書の53章7節から8節に書かれていますね。
読んでいますね。
彼、受難のメッシャーって言っていいと思うんですけど、予告されて、
彼は痛めつけられ苦しんだ。だが口を開かない。ほふり場に惹かれていく羊のように。毛を刈る者の前で黙っている女羊のように、彼は口を開かない。
彼の時代のもので誰が思ったことか。
彼が私の民の園木の家に討たれ、生きる者の地から立たれたのだ。
みんなそう思わなかったけども、この彼、子羊は、私の民の園木の家に討たれ、生きる者の地から立たれた。
罪の身代わりとなって、その帳消しし、罪滅ぼしをするメッシャーであるということが、ここに予告されているわけです。
最後3番目。
聖霊によってバプテスマを授ける方というイエス様についての証言について見ていきましょう。
1章33節でヨハネはこう述べています。
私自身もこの方を知りませんでした。
しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を使わせた方が私に言われました。
ここから読んでみましょうか。
三玉がある人の上に下って、その上に留まるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授けるものである。
今日の新しいイエス様についての証言、最初の一つというか二つというか一つは、イエス様が世の罪を取り除く神の子一人だということでした。
2番目は、聖霊によってバプテスマを授ける方だというダイヤモンドの輝きのもう一面が出てきます。
聖霊のバプテスマ
これがどう意味を持つかというと、先週見ました。
ヨハネは自分のことを証言して、キリストではありませんという中で、私は水でバプテスマを授けていますが、私から後に来る方は偉大な方です。
私より先に存在しているからですと言って、そこまでで話を終わらせていました。
その続きで、ここに水じゃなくて聖霊でバプテスマを授ける人がいよいよ来たんですよという紹介の方法になっているわけなんですね。
イエス様がヨハネより勝っている理由が、この聖霊によるバプテスマということにあるということなんですね。
なぜそれが良い知らせなのか。
それはですね、全ての人に聖霊が注がれる新しい時代が始まったという、その始まりを始まらせ、その到来を告げるのがイエス様だったからなんですね。
これは旧約聖書の中で皆さんご存知かと思いますが、旧約聖書の時代は特別に選ばれた人にしか聖霊が下りませんでしたよね。
預言者とか、孟聖とか、王様。でも終わりの時代には全ての人にこの神の霊が下るという、その時代がいよいよ来る、それを始めるのがイエス様だというメッセージがここにあるんです。
その聖霊の時代の到来を旧約聖書のエゼキエル書というところで予告しています。
これを成就するのがこの方だということなんですけれども、ちょっと長いんですが読んでいますね。
私、神様。私が清い水をあなた方の上にふりかける。その時、あなた方はすべての穢れから清くなる。私はすべての偶像の穢れからあなた方を清め、あなた方に新しい心を与え、あなた方のうちに新しい霊を与える。
ここから読んでみましょうか。私の霊をあなた方のうちに授けて、私の掟に従って歩み、私の定めを守り行うようにする。
この聖霊が授けられる。その聖霊を受けた人、神の霊を受けた人は律法に縛られるんじゃなくて、神の律法を守るようになる。心の中から私は神様に従いたいという、そういう思いが与えられるという約束です。
いよいよその時代が、おもたらすお方がこのお方ですと、ヨハネは言っているんですね。
例にもれず、今日の箇所もなんとなく表面で意味がわかるんですけれども、その意味がよくわからないということはいくつかあると思うんですね。
その中の一つに、このヨハネが何度か、私はこの方を知りませんでしたが、私を使わせた方がこれこれこう言ったので私は知りましたというくだりなんです。
私なりにわかりやすく言い換えてみますと、どういうことかというと、実はここに書いてありませんが、ヨハネはこの前にヨロダン川でイエス様にバブテスマを授けたんですね。
その時に、ヨハネはイエス様のことを見ていました。私はこの方を知りませんでしたがということがどういう意味かという議論があるんです。
つまり、ヨハネはバブテスマを授ける前からイエス様を知っていたのか。イエス様とヨハネはそれぞれの母親同士が親戚だったから知っていたのかもしれませんね。
そういう仮説があったり、あるいは本当にバブテスマを授けるまで2人は知り合うことがなかったという説があるんですが、よくわかりません。
でも、はっきりしていることがこういうことなんですね。ヨハネは、私を使わせた神様が、と言って、自分の証の真正性を暗に証明しているんですけれども、私を使わせた神様がこの証拠を見ると言ってくださった。
どんな証拠を見るかというと、その人の上に天から鳩のように精霊が下って、その精霊がその人の中に上に留まるのを見たら、その人こそ正に精霊でバブテスマを授ける、いわゆる救い主だよと、私は神から直接啓示を受けましたとヨハネは言っているんです。
そしてまさに、神の子羊と言って、ここに来たこのお方がそのお方なんですよと、皆さんに紹介しているのがこの場面なんですね。
ヨハネもとにかく、昔彼のことをイエス様のことを知っていようがいまいが、初めてその時にイエス様だったのであろうが、とにかく精霊が天から下って、イエス様の上に留まるのをまさに文字通り見た。
そして、この方が神の言うところのメシアだ、精霊によってバブテスマを授ける方だということを確信したと、そしてこの方こそ神の子であると私は証言していますと、こう言っているわけなんですね。
そういう意味なんです。出るのが遅くなりましたけどね。こんなイメージかもしれませんね。ちょっと消えちゃいましたが、ここに鳩が書いてあるんですけど。
実はこのヨハネの証言は壮大なドラマの予告編のようなものなんですね。つまりイエス様が神の子羊としてどうやって人の罪を担っていくのか、どうやって人の罪の身代わりになって償いをするのか、また精霊を人々に授けて人を新しく生まれ変わらせるのがどういうことなのかということを、
これからまさに映画やドラマが展開していくように、この福音書の中でそれが描かれていくんですよという予告編のような、今日は箇所なんですね。そのことを私たちが見ていくこと、知っていくことを期待していきましょう。
第一ペトロの二章二十四節で、このようにイエス様の贖いについてまとめているので、読んで終わりにしたいと思います。ちょっと長いんですが、最後頑張って読んでみましょうか。キリストはから3、はい。
じゃあ、黙祷しましょう。失礼しました。お祈りします。
お祈りします。
それではそれぞれ神様にお答えして、1分ほど黙祷する時間をお持ちましょう。