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皆さん、午後もお残りくださいまして、本当に心から感謝したいと思います。
本当にこの熱心さの頭が下がります。
うちの教会でやったら、ブーイングしか出ないなと思って、
羨ましいなと思ったりもしております。
さて、午前中にもお話ありましたが、
私は大阪の値上市、かやしまキリスト教会で牧場をしております。
それから、県牧で赤島の宇和住にあります、宇和住キリスト教会も勃開しておりまして、
月に1回はこの北神戸線というのを走ってですね、赤島の方に教会に行っております。
これからも皆さんといろんな形でお交わり、またお付き合いができるのかなと思って、
本当に楽しみにしております。
さて、新約聖書のマタエの13章のこの天の国、
ここで今読んでいただきました天の御国のお話であります。
先週ですね、小さな集会で天の御国ってどんなイメージですかと聞きました。
そしたら、ある女性の方がね、やっぱりなんかこのアルプスの少女ハイチじゃないけど、
雲の上でふわふわしてて気持ちよくて、なんかのんびりしてる感じしますっていうことを言いました。
みんなそれぞれこの天の国っていうのを想像しているわけです。
黙示録では本当に涙が拭われるのだと、そして悲しみも苦しみもないのだと、
本当にそれだけ逆に生きている間の私たちは涙、苦しみ、悲しみに満ちているということでもあります。
そのようにイメージは広がりますが、ここでキーになる言葉は宝という言葉です。
天の御国を考えるとき、この宝、これが見失った、それを見つけた人、
これをですね、表現しています。畑に隠された宝のようなものである。宝。
これは当時ですね、真珠のお話もここにつながっておりますけれども、
真珠というのもほとんど人々が目にすること、手にすることもできなかったぐらいの非常に貴重な話。
今もやってますね、タイタニック号じゃないけれども、
本当に世界中でそのトレジャーハンティング、隠れた埋蔵金、
もしかしたらこの妙谷のこの辺にもあるかもしれませんよ。
本当に不明になったものがいっぱいある。
特にこの日本が第二次世界大戦で敗戦した、
あの時に相当の財宝がどこかに行っていると。
巷でそれを探している方もいらっしゃるということで、
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私たちはこの宝物、これは隠れているものなんだ。
しかし聖書はそれを発見したときの大いなる喜び、そして聖書を見ますと、
それを自分のものにできるように、そんなふうに描かれております。
ある人にとっては宝というのは子宝です。
今日でなかなか赤ちゃんができないんだという方々と私たちも祈ります。
そして何年もかかって、いろんな手を尽くして本当に子供が生まれた、双子が生まれた。
そんな時はもうみんなで大いに喜んで、さっきの話じゃないんですが、
おじいちゃんおばあちゃんみんな、関係者集まってみんなでお祝いしましょう。
教会はこういう賛美を歌うんですね。
素晴らしいものは神が作るってあるでしょ。
その最後に何々ちゃんをっていう名前をみんな覚えておいてもらうんですよ。
だから今ね、鈴木さんのところでいきますとね、ゆうかちゃん。
ゆうかちゃんを守ってくださいます。
それを何回も繰り返しながら名前を覚えてみんなで祝福する。
本当に一人が生まれることがこれほど教会嬉しいことかって思います。
そしてまた一人の人が亡くなるときこれほど悲しいのか。
そういう悲しさと喜びを私たちはこの信仰生活の中でも何回も経験するわけです。
さてこの宝です。気になることがあります。宝を探すために必死になる。
宝を見つけたら自分の持ってたものはもう全部売り払ってでもそれが価値がある。
まあ確かに宝だからね。
明太にで徳川家の埋蔵機見つかったよって言ったらですね、みんなワーッとなる。
これが本当に気になります。なぜか。
そう私自身の信仰の中で、特に私にとって10代の時の信仰はこのようなものではなかったということを
聖書から突き刺さるような思いで受け止めています。
私の10代の信仰は習慣でした。
またある意味運命です。
牧師の家に生まれたという、当時から生意気でしたから、これも俺の運命なんだ。
また成人になるまでの、いわば訓練と考えていましたし、
そして卒業、学校も卒業するまでは我慢するんだから卒業するまでの忍耐だ。
2代の忍耐は何かというと、嫌な親父の説教を聞かなければならない。
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ひたすら親父が説教をしたら旧約を読む。旧約を読めば牧師録を読む。
そういうつまらない反抗をしながらおったわけでありますが、ただ分かることは何か。
よく聞く、全てを捨てて従う。
でもあらゆることを越えて大地に、死を大地にするということはどうしても分からなかったのです。
それは私の中に私の国があったのです。
私なりのちっぽけな、ちっぽけなものなんですが、一応国なんです。
皆さんここで国ということをちょっと考えていただきたいと思っています。
平所でいう神の国、天の国、主の祈り天にまします我らの父を、天の国のことを祈っています。そして地のことを祈っています。
実はこれは加藤先生もお詳しいので、またさらに掘り下げていただきたいのですが、
このギリシャ語バシレイヤという言葉は、実は今日私たちが思っているような領土、
いわゆる線を引いてここが私たちの国ですよ、というようなものではありません。
あるいはまた主権、国には必ずトップがあり、また場合によっては天皇陛下があったり、また王があったり、いわゆるシンボルがあってその周りに国がある。
だから日本にとっての国とお隣の韓国の国というのは全く別の国ということになりますが、
聖書でもそのような主権という意味もありませんし、ましてや人民、日本人、韓国人、北朝鮮人、アメリカ人、フィリピン人、
そういう言葉もすらもこのバシレイヤという言葉は全部寄せ付けない。
神の国、それは何なんでしょうか。
聖書は言うのです。イスラエルの民がエジプトから出てきたときは何にもない、ただ救われただけの存在。
彼らはやがて求めます国が欲しいと言い出します。
国が欲しい、それを私たちはすっと読みますが、実はこの国を作ったことによってイスラエルは罪が深くなってきます。
人間というのは今日のお話の一つのポイントは、私たちは実は自分の国を自分の内側に作りたいし、
また周りにも自分の国を広げたい性質を持っているということを私たちは忘れてはなりません。
私ごときの10代の高校生が、それでも自分の国を作ってやろう。
自分が真ん中にいて、自分が王で、自分がここからは俺のもの、ここからは俺は知らないという、そういう自我が芽生えてくるその自分の国を作ろうとしたのです。
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聖書は言います。この国と国が争いを起こす。
この国と国が一人ぐらい犠牲になっても仕方ない。敵が攻めてきたんだから死んでも構わない。
英霊にしてですね、日本のために頑張ってくれてありがとう。今も靖国神社に行かれたことありますでしょうか。
靖国神社では本当にきれいに毎日こう参拝して、日本のためにありがとう。どうなんだろうそれは。
それはそれでいいかもしれないけど、彼らを犠牲にして国がある。
この国が繁栄したのは、犠牲に伴ってできたんだということが当たり前に言われている世界を私たちは疑わなければいけません。
皆さん、誰一人命を無駄にして国が成り立つということがあってはならない。それは聖書の理想なんです。
聖書ではそこの戦いが生まれてきます。
聖書は人間は本当に神の言葉をみんなが一人一人平等に聞いて、そして一人一人が公平で差別がなく、そしてみんなが神様に従うところに生まれてくる信仰の交わり。
それを私たちは神様の国の先駆けとして考えているわけでありますが、
そう、先ほども北朝鮮の陳さんのお話をいたしましたが、彼は本当に日本で一生懸命働きましたが、最後はさよならとされました。
そんなふうにですね、私たちはある意味この国ということをこの言葉から考え直さなければならない。
あのアブラハムでさえもですね、昨年びっくりしましたね、アブラハムが住んでいただろうという街のすぐ近くに世界で一番古い宗教施設が見つかった。
それがなんとあのピラミッド、ピラミッドから7000年前前だった。
私たちが教科書で読んでいたこの頃はね、猿みたいな人間が槍を持って魚をとったりしてたんだみたいな、あれ全部ひっくり返った。
もうアブラハムの数千年前から宗教と祈りがあったって言うんですよ。
これぜひ皆さんこれから注目してほしいんですけども、要するに人間がだんだんと進化してきて宗教を作ったっていうその常識もひっくり返っちゃった。
いや最初からある、いやもっと昔からある。
ピラミッドなんて古い、新しい、ピラミッドの7000年前にちゃんとしかも完全な宗教施設が整えられてるって言ってるんですよね。
それをアブラハム影響を受けてる。
だからアブラハムっていうのはメソポタミアの宗教、そしてエジプトの宗教にのまれ影響を受けてた人が、何がアブラハム違うんですか。
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皆さん、何が私たちの信仰とそのメソポタミアやそういう宗教とどこが違うんですか。
そうなんです。
彼らは自分の国を作る人は自分の神を作るんです。
私も10代の頃生意気に自分の国を作り、自分の神を求めました。
それは少なくともイエス様ではなかった。
コロコロ変わりますね。小さい子供の時はとにかく自転車が欲しいとか、お金もないから自転車が欲しいとか、野球が好きだったから野球の道具買ってくれとか。
そのたんびに国主の父親にね、屈辱でしょ。
お金ちょっと買いたいんやけど、いくらや。
いやこれこれお前高い。大人になって買えって言われるけど。
本当のことはお金ないんです、父親は。あるような顔してたんです。
屈辱だったんですよ。
俺もいつかね、こんなもう貧乏な日々やめてお金稼いでやるぞ。
でもその延長にいたら僕ここにいないんです。
皆さん覚えてください。偶像願ではならないってあるでしょ。
その偶像というのは国に必要なんです。
そして人間というのはみんな自分の国を作りたいんです。
その国というのはややこしいことに、ここからはあんた、ここからは私、入ってこないでおいでという国なんです。
それを聖書を信じる私たちは壊していく。
壁を作るのを壊していく。
あなたと私がどっちが上かということを壊していく。
なんでそんなことができるか。
まことの神様だけを神様とする時にのみそれは可能なんです。
私はある時、自分は明らかにキリスト教の中にはいるけれども、
ちょっと距離ができているなということは思いました。
はっきりと分かりました。
賛美歌を歌っても聖歌を歌っても全てを捨てて従いまつらんできんよなと思いました。
イエス様はしたかもしれないけど、俺はできないし、俺はちょっとそれは関係させてもらいたくないなって思ってました。
じゃあそんな私がなぜここに立っているんでしょうか。
分かったんです。
この必死になって宝物を探して、それが見つかったから喜んで全部捧げてでも宝物を手に入れるという話、これひっくり返そう。
そうじゃない。
私は宝だと思ってないけど、シューエスが私を宝だと思って、
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全てを捨ててでも私を見つけ出そうとしている物語だということに奇跡的に気づきました。
私にとっての宝を求め私の国を作るのではなく、
あの方が私を宝と呼び何があっても見つけたとたんに自分の命さえも捨ててでも、
私は分かった。
自分が選んだ神様ではない。
自分がこれがあったら都合がいいという自分の国の神ではない。
あの方が私を選び、あの方が私を宝と呼び、それほど喜んでくださるんだということを本当に知ったときに、
私は本当に心が開放され、自由を経験したのです。
皆さん方も生きている中で、すでにこの二本に生きるものとして一つは、
この二本が今も罪を犯し続け思いやがっているということです。
何もできない牧師だけどもフィリピンにある私たちのグループのカガヤンデオロというところにある教会と和解の親睦を進めようとしてプロジェクトを進めていったときに問題が起こりました。
そこの教会の人が日本人には恨んでいる、日本人と会いたくないという声が出てきたのです。
私たちはそこで祈りのミーティングをしながら考えました。
そうだ、何でそう思っているのか、それは日本が昔そこに行っていろんな悪さをした。
日の丸をあげて万歳万歳した。
そうだ、それだということで私の仲間の牧師二人と、そして浜名さんという当時フィリピンで伝道していた私の親友と四人でジャングルのような教会に入り込んで、
そして時間をいただきましたら30分ください。
そしてこれ私の提案だけど土下座しよう。土下座ですか。やりましょう。
罪を悔い改めて、皆さん本当にごめんなさいね、本当にごめんなさいねと言って。
そしたらそこの牧師さんが出てきてね、この人たちを許す人は前に出てきてくださいと。
150人か200人くらいおるんですよ。うわーと出てきて、恐ろしかったです。
一人ずつ立って、みんな私たちの前に立ってね。
私のおじいちゃんは日本へに殺されたけどイエス様によって許します。
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私のこれこれはね、日本人にひどい目にあったけどイエス様によって許します。
なんか映画みたい。みんな本当にそれをしてくださいましたよ。
私たちの国というのは、皆さん日本って繁栄してほしいですか。
日本ってこの競争に勝って経済上にいってほしいですか。
そりゃいいんですよ、大事なんです。
でもね、犠牲が起こったり争いが起こったり踏みにじったりしていく、矛盾に満ちてるんですよ。
本当に私たちは繁栄するために、祝福されるために、
いつの間にか誠の神様にお祈りしてるようにしながら自分の偶像を作って、
この偶像のもとに作り出すその国のことを、この例え話はひっくり返してるんです。
あなたの神じゃない。
私があなたを宝と呼び探し、私があなたのために、もう全てのものを用意しているじゃないか。
イエス様の代価を払ってでも私たちはあがない。
そしてイエス様ご自身がそのあがないの座にいてくださるんだ。
そのように私は、あ、イエスキリストがそのように私たちの世界に、
今なお国を作り出そうとするこの力誘惑から解放してくださっていることを心から感謝します。
日本人として日本のために祈りますし働きます。
でもこの国を神の国と呼ぶことは決してありません。
じゃあ隣の国がいいんでしょうか。決してそうではありません。
全ての国は国を維持するために罪を犯し続けます。
そして全ての国は必ず犠牲をも仕方ないと言います。
イスラエルのあの歴史の中で戦争ばっかりのとこ、皆さん失望するでしょう。
読んでください。犠牲が出てくる。
そしてイスラエルの民、あのダビデの王の奇跡のような戦争に勝ちまくるグループが何をしたか。
そう、ご存知でしょう。仕方ない。戦いだって戦った。勝った。
負けた方の財産をちょろまかし出した。書いてるでしょう。
戦って終わりだね、じゃなかった。
必ず戦争とか争いとかは問題を起こして相手のものを奪います。
もしあなたが自分の国を作ることに一生懸命生きているなら、それは必ず犠牲が出ますよ。
教会ってそういうことを気づいていくところ。
どれだけ自分が偶像感でないと言いながら、偶像がないと国が成り立たないから国を作っていく。
それが人と人とを隔てていく。
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最後に、私は実は引きこもりとかDVとかね、ちょっとそういうことも色々地域のことやっています。
今私が勉強していること、3年くらい前からやっているんだけど、人との関わりの中で使ってはならないことっていうのがあるんですよ。
これ使っちゃうと断裂が生まれる、分裂が生まれる、会話が成り立たない。
だから今日ぜひ皆さん覚えてください。
何かというとですね、ファイナルワード。
ファイナルワードを使うなっていう。
ファイナルワードって最後の言葉。
何かあったとしても、あ、あの人は私と違う、これファイナルワード。
当たり前のことなんですよ。
私と加藤先生ね、僕氏ですけどね、ちょっと多分違うと思います。
あなた半信半疑じゃないでしょ。
これ一つとても違うんです。
ファイナルワードを使いたがる。
ファイナルワード。
私たちは日本です。
ここは兵庫県です。
これファイナルワード。
別に当たり前のこと。
だけどそれをわざわざ使うことによって、相手との関係が欠裂してしまう。
いわばファイナルワードというのは相手との線を引くこと。
これを徹底的にやめましょうという学びあってちょっとやってるんですよ。
さっき言ったアルチューの人。
あなたアルチュー、私飲まない。
これもファイナルワード。
でね、これを強い人が使うことで問題が起こるんですよ。
強い人、立場の上の人、力のある人、権力のある人がこのファイナルワードでまとめあげて、
物事こういうことでしょって、特に頭のいい人達やりがち。
私牧師だからもうファイナルワードバンバン使えるんですよ。
だけど何で使わないか。
イエス様が使わなかった。
あなたはもうダメですって言わなかった。
いや使ったとしてもそれを自分から消してくださって、彼に近づいていってくださった。
会話というものがこの時代本当になくなりました。
そして会話がなくなるときに、その人との間に恐ろしいことが起こります。
さっきも言いました、恐怖です。
何を考えてるからわからんから怖い。
殺されるかもしらん。
きっと私のことよく思ってない。
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何を言っても無駄。
怖い。
よく聞く言葉が怖い。
私実はカナエと旅行って言ったけど、韓国に行った時に
北朝鮮との軍事協会に行きました。
すごいカナエは震えてましてね。
その時にTシャツにプロパガンダで
北朝鮮に自由豪なんて書いてたら撃たれますよって。
それで撃たれたら責任、相手に問えませんよみたいな
そんな制約書までわーっと書かされてね。
センスがあった?ありましたね。
いよいよ北朝鮮に入って行きますっていう時に
ちょっと端っこにお祈りする場所があるんだよね。
あそこで韓国の人たちがお祈りして。
で入って行った。
そしたらこっちは韓国の兵隊がサングラスして構えて。
違反、ちょっとでも違反したら撃たれます。
走ったら撃たれます。
だから走ったら撃たれますよって言われてるんですよ。
怖いでしょ。走らないでください。
で向こうの兵隊もこっち見てこう上、一応上向けて。
何かあったら撃ちますよ。
うわーすごいな緊張感。
人間が人間との間にそれを作ってるんですよ。
私はガンジーっていう人は好きです。
彼は無抵抗でした。
しかしキリスト教の罪は国と結びついたことです。
ハプスブルグ家って見に行ったことありますか。
ハプスブルグ家のお城行ったら
その家の上にわしが地球浴をつかんでました。
これどういう意味ですか。
世界を私たちが支配してるっていう。
そしてハプスブルグ家専用の礼拝堂があり
ハプスブルグ家専用の祭祀があり
人と距離を取り
上に立ち国を作り栄えさせようとするものは
必ず滅びます。
クリスチャンは分かるんです。
自分が自分の国を作ってるな。
今日皆さん方に正解だから申し上げますけど
どうか自分の国を作り自分の神を選ぶんじゃなく
あなたが選ばれ
あなたが自由にされ
あなたが本当に満たされていく
そして満たされたものとして
この世界が作ってしまう
本当に国は宝だ。
日本人同士じゃないと結婚ダメだ。
いまだに教会のクリスチャンから聞く言葉ですよね。
27:00
先生どう思いますか。
そうなります。難しい時代です。
今男女も言ってはいけない時代です。
近所の親しくして伝導し続けている
おじちゃんおばちゃんたちに言います。
キリスト教的にどうなの。
僕たちもあれいいと思ってる。
男性が手術して女性になる。いいと思う。
本人が決めたならいいと思う。
女性が手術して男性になったらいいと思う。
そういう人僕も関わってますから。
いいと思う。権利でしょう。
人が決めたんだからいいでしょう。
違うんですよ。
それをしちゃった人がその後で
どれだけ苦しんだり悲しんだりしているか。
あなたの自由です。
あなたの人生はあなたがチョイスして
決めていけばいいんです。
そういう価値観と今私たちは
真っ向から戦っています。
あなたを宝と思っているというところに
立ってください。
そしてあなたの神はあの神であり
そしてあなたの神は
シューエスであり
そしてシューエスがあなたの人生に
深く深く関わって
神の御国が現れてくる。
イエス様が一度たりとも大きなやしろに
すまなかったことを感謝しています。
イエス様が一度たりとも自分の城を作って
みんなを越させある人を
追い返したことがないことを感謝します。
その当たり前のことを私たちはしてしまいます。
イエス様が一度たりとも
人との間に線を引いて
お前は俺にふさわしくないと言わなかったことを感謝します。
なぜか、そう、あの方が私たちを選んでくれているから。
今日、あなたもあの方に選ばれています。
お祈りいたしましょう。