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2018-02-04 36:25

2018/02/04:ヨハネの福音書講解説教(21)真の信仰を持つ者の幸せ

2018/02/04 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 ~24

00:00
私の教えは、私のものではなく、私を使わせた方のものです。アーメン。
主よ、人間の知恵によって生きるのではなく、神の知恵によって、天の知恵によって歩むものとさせて下さい。
この朝も、真の信仰を持つ者の幸せと委ねにして、このヨハネの福音書の御言葉から、神様に学びたいと願っております。
神様に語っていただきたいと切に願っている、この群れの上に、主よどうぞ、一人一人の魂の中に、その霊の中に、主よ、命の言葉を、希望の言葉を、信仰の御言葉を語って下さいますように。
そして、教えられて、また御言葉によって立ち上がって歩む日々となりますように、主よ祝して下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
ヨハネの福音書の公開説教が続いています。もう二十一回目となります。感謝致します。
今日は七章のこのところから、真の信仰を持つ者の幸せという題にして、御言葉の恵みを共にしたいと思います。
真の信仰を持つ者は幸せです。なぜなら、その人は神様の心にかなった人だからです。
そして、その人は神の心を知っているからであり、その人は神の知恵を受けているから、その人は幸せな者です。
これはですね、クリチャンであるならば、みんなが、誰もが望む恵みではないでしょうか。
私たちクリチャンが世の人々と異なる点があるならば、それは求めるものが異なるということなんです。
一概には言えないかもしれませんが、大体世の人々が求めるもの、欲しがるものなんでしょうか。
それは、成功とか、お金とか、あるいは健康とか、あるいは幸せ、そういったものなんでしょう。
ところが、作り主なる神様を信じている私たちは、それよりはるかに高くて価値あるものを求める。
つまりそれは、誠の信仰を求めるもの、それがクリチャンであるということなんです。
今日、三つで誠の信仰を持つ者の幸せということを、共に考えていきたいと思います。
03:07
このように誠の信仰を持つ者は、なぜ幸せなんでしょうか。
その一、それは天皇知恵を持っているからです。
イエス様の話、今日の御言葉の話をしますと、イエス様が宮に登って、そこで大勢の人々に教えられたわけなんですね。
ところが、ユダヤ人の中では、イエス様がどこの出身で、どこの誰々さんの息子なのか、分かっている人がいるわけなんですよね。
だから、今日の十五節を見ると、ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いても驚いたんですね。
あんなに素晴らしいことを語るなんてすごいなと、もうびっくりして、あるいは感心して、感銘したかもしれない。
それで彼らはこういう話し合っていました。
この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか、どうしてこんなに素晴らしい教えができるんだろうかと。
さあ、そのときにイエス様が何と答えられたのでしょうか。十六節一緒に読みたいと思います。
十六節一緒に、せーの。
そこでイエスは彼らに答えて言われた。私を使わした方のものです。
今日第一ポイントは、皆さんここにあります。
イエス様でさえ、ご自身が教えるこの教えは、自分のものではない。人から来たものではない。
あるいは、どこどこの学問の素晴らしいラビ先生に教えられたものではなくて、私を使わした方のものですよ、ということでした。
つまり、この教えは人間の教え、人間の教えではなく、神の知恵、天の知恵ですよ、という話なんですね。
このイエス様のお話から教われる大事な教訓があります。
それは、誠の信仰を持つ者は、天の知恵をいただいております。
そして、天の知恵によって、神の御言葉を悟ります。
また、ものを言うときにも、天の知恵によって言います。
人間関係を持つにも、天の知恵によってします。
06:02
神の知恵によって、神の教えによって歩むから、幸せなのです。
では、私、みんなには、この天の知恵、神の知恵が必要なのではないでしょうか。
一箇所、聖書を開きたいと思いますが、新約聖書の「やこぶの手紙 一章五節」を開いていただきまして、一緒に読みたいと思います。
「やこぶの手紙 一章五節」、私の聖書では、四百四十五ページです。
四百四十五ページ、「やこぶの手紙 一章五節」。
それでは、ご一緒に、あなた方の中に、知恵の欠けた人がいるなら、
その人は、誰にでも欲しげなく、とかめることなく、お与えになる神に願いなさい。
そうすれば、きっと与えられます。
アーメン。
皆さん、この通りなんです。
本当に、若者であれ、少年であれ、婦人であれ、みんな、私たちには生きていく中で、
本当にいろんなことのために、知恵が必要なんじゃないでしょうか。
ところが、感謝のことは、あなたの中に、あなた方の中に、知恵の欠けた人がいるなら、
その人は、心配することはありませんよ。
なんででしょう。
誰にでも欲しげなく、とかめることなく、こんなものも知らないのか、神様にね、
とかめられるんじゃなくて、お与えになる神に願いなさい。
そうすれば、きっと必ず与えられますよ、ということで。
皆さん、神様に知恵を求めてください。
ところが、ここで、誤解しないでほしいことがあります。
だからといって、何かを学ぶこと、勉強すること、いい先生にいい本を読んでいい先生に、
学ぶことは無駄ですよ、いらないんですよ、そういう話ではありません。
それこそ傲慢なんですよね。
学ぶべきことは学ばなくてはならないです。
勉強すべきことは勉強しなくてはならないことです。
ところが、同時に、知恵は神様から与えられるものだから、
聖書を正しく、また深く知って悟るための知恵を求めましょう。
また、神の御心をもっと深く正しく知るための知恵も求めようではありませんか。
09:01
あるいは、何か大事な決定を下さなくてはならない時、
あるいは何か正しい判断をしなくてはならない時、
そのための知恵を神様に求めようではありませんか。
あるいは、何かのプランを立てて、そのことを推進するための知恵も神様に求めようではありませんか。
自分のことを、私はですね、自分のことをいくら考えても本当に愚かで、
知恵が本当に欠けているものだなと、もうついつい思わされるところであります。
まずは僕として、僕会社として、本当に知恵が必要であります。
この方に、あの方にどうせすればいいのか、このことはどう解決すればいいんだろうか、
この問題というか課題というかトラブルはどういうふうに解決するのが、
神様に喜ばれることなんだろうか。
それを全部知っていたら楽なんですけれども、全てを知っているわけではありませんし、
人生にはですね、生きている限りあらゆるパターンのことが起きるわけですから、
それに対処して恵みのうちに、神の心を通りにそれを解決するためには、知恵が必要です。
それで本当にいつも、僕としていつも感謝しているのは、今日も役員会がありますけれども、
役員の6人の方々にいつも本当に心から感謝しています。
毎回ですね、教えられることもたくさんありますし、本当に支えられて、
助けられていることは本当に感謝なことであります。
皆さんいかがでしょうか。
クリスチャンとして信仰生活を営んでいくために、
またこの終わりの時代にはいろんな誘惑や窓橋がですね、たくさんあるんです。
その中で正しく見分けるために知恵が必要であります。
また家庭のためにも、個人のことのためにも本当に知恵が必要であります。
その時に今日のね、先のエコブの手紙の御言葉のように、
おしげなく、とがめることなくおはたになってくださる神様に、
天の知恵を求める我らでありたい。
そして求めて知恵をいただいて、その知恵を持って歩む人は、
誠の信仰を持っているから本当に幸せなのでは。
二番目に移りたいと思います。
誠の信仰を持つ者はなぜ幸せなんでしょうか。
12:02
それは信仰の形ではなく、信仰の形、上辺だけではなく、
信仰の本質を持っているからです。
今日もイエス様とパリサイピーと、あるいは立法学者たちの、
イエス様は彼らと出会うたびに論争をするわけなんです。
彼らから言いかかりをして、イエス様を試そうとしたり、
恥を吐かせようとしたりするわけなんです。
ところがイエス様は彼らのことを見抜いておられるわけなんですけれども、
私たちから見ても、例えばパリサイピーとか立法学者たちとか、
彼らは何が間違っているんでしょうか、何が悪いんでしょうか、みなさん。
彼らの知識そのものはとても優れた家物なんですよね。
ところが彼らは、例えば安息日、福音書に特に安息日のことで、
イエス様と揉めるような論争のことがたくさん出てきますけれども、
安息日とかいろんなことに対する立法に対する形式、形はとても大事にして守っていました。
ところがその立法の本質、例えば安息日の本質、信仰の本質を
彼らはわかっていないようであります。
今日のセルではありませんが、他の福音書にこういう話がありました。
イエス様が安息日に人が穴に落ちています。
そしたら、それが安息日ですよ。
そしたらパリサイピーとか立法学者たちはこう言います。
安息日に自分の体を使って何かのことをしてはいけないんだから、
人やあるいは牛がその穴に落ちていても、それを救ってあげてはいけない。
もう助けてくださいと叫んでももう仕方がない。
自ら登られて生きられたらいいんだけれども、そうできなくても仕方がないと。
ところがそのときにイエス様はそのルールを守ることより、
命を救うのが大事なのではないかと。
だからイエス様は安息日に多くの病人を癒してくださいました。
困っている人々を助けてあげました。
何ででしょうか、皆さん。
形とか形式とかより命が最も大事である。
形より上辺より人のほうがはるかに大事であるからなんです。
15:07
パリ裁人とか立法学者たちの何が間違っているんでしょう。
彼らはその形を大事にしすぎていて、いつの間にか本末転倒になって本質を失っているんですね。
だからいつの間にか本質はなく、中身はなく、空っぽの形ばかり守っているわけなんです。
彼らの罪は何でしょうか。
それはいわゆる自己傲慢なんですね。
私たちはこれほど立法を徹底に守っている。
でもあなたたちは守っていないんじゃないかと。
それで責めでとがめるわけなんですよね。
だからイエス様は彼らにそれは偽善者だと。
中は腐っているのに、上辺だけはきれいにペンキを塗っていると。
形ばかりの信仰をイエス様はとがめられました。
皆さん、まことの信仰とは本質をつかんで、そしてその本質によって生きることです。
形よりは中身が大事である。ルールよりは命が大事である。
人が大事であるということであります。
例えば信仰の教会生活の奉仕のことについて考えていくならば、
みんなにそういった誘惑があるのかもしれないんですね。
例えば奉仕をする。
そしたら人に見せたいんですね。
そして人にすごいねって言われたい。
奉仕も見せたくて奉仕をする。
私はこれくらいできるよと。
あるいは私もあなたくらいできるよと。
そういう誘惑に陥りやすい我々だと思うんですね。
ところが皆さん、まことの信仰を持った人は、
そういったことにはそもそも関心も情熱もないんですね。
ただ神様だけをいつも考えるんです。
神様の心だけを考えるんです。
また魂の救いにひたすら関心がそこに向いて、
そこに情熱が一人一人をケアして、愛して、あるいは助けて、
あるいは兄弟のため、姉妹のため、心から愛して取りなしの祈りをする人であります。
18:07
こういう信者の元には、兄弟誰々さん、誰々さんの祈りの課題がもうゆっしり書かれていて、
そのために祈っているその人こそ、まことの信仰を持つ人ではないでしょう。
このような信者の口からは、教会のため、兄弟姉妹のための日々の涙による取りなしの祈りがその口に入ります。
祈るが責める恨む心じゃなくて、愛する心を持って、憐れみの心を持って取りなして祈る。
こういう信徒は形式より本質を大事にする、形より命を大事にする、
恵みを大事にして返す信徒ではないでしょうか。
皆さん、今まで何十年も信仰生活をしておられるでしょう。
ある方は私の年以上信仰生活を持っておられる方もおられるかもしれない。
ところが、よく今まで皆様が出会った先生方とか、兄弟姉妹、
あるいは天に召された信仰の先輩の方々の中の顔を浮かんでみてください。
こういうふうに形より中身を大事にして、一人一人を愛して祈って、
何とか助けたい、良い信仰に導きたい、そのために使える方々に出会って、どうだったでしょうか。
幸せだったでしょう。恵まれたんじゃないでしょうか。そうなんです。
こういうような信徒と共に信仰生活をしていくならば、自分も幸せになりますし、周りの人にも幸せになります。
このように、兄弟のため、姉妹のため、あるいは求働者のため、あるいは子どものため、
あるいは年寄りの方のために心からお使いして水、雲、霜、雨として使える方、
あるいは祈る方には、例えば祈っているうちに自分自身がまず一番恵まれるんですね。
そして、自分が本当に幸せの中で信仰生活を送ることができる。
そうするならば、その恵みが、幸せが自分からあふれ出て、あふれ出て、周りの人々にもその恵みが与えられる。
だから、そういう信徒と共に信仰生活をするのが本当に幸せなんです。まるで潤った園のようなものであります。
21:09
三つ目に移りましょう。真ことの信仰を持つ人は、なぜ幸せなんでしょうか。
それは、真ことの信仰を持った者は揺れ動かされないからです。動揺しません。
どうでしょうか。それは一番と二番とその結論であります。
真ことの信仰を持った者は、天の知恵を持っており、信仰の形ではなく本質を握りしめているから、どんなことが起きてもびっくりともしない。
動揺しない。だから不安がなく幸せなんです。世の人々はいろんな不安を感じています。
皆さんも何か不安を感じておられるでしょうか。世の人々にはいろんな不安がありますね。
例えば何か物価が安定していなくて、物価が高くなったら、それで心配します。
あるいは、このごろ北朝鮮のミサイルのために心配しています。いろんな事故や事件が起きていて心配します。
戦争のために心配します。あるいは事故や病気のために心配します。あるいはお金のために心配します。
本当にもう心配ことが絶えないような気がするんですね。
ところが皆さん、天の知恵によって生きる信者は揺り動かされない、びっくともしない、動揺しない平安がある。
まだでしょうか。それは自分にもね、そういう心配事が起こるわけなんですよ。
ところが、なぜ心配しないの。なぜ動揺しないのか。それは神の主権を信じるから。
天の父なる神様、私を愛する神様、その神様の主権、すべてをすべて収めておられる神様。
ご自分の思い通りにすべてを進めてくださる神様、その神様を信じて、その神様が私の良きお父さんだから心配します。
一箇所、聖書を開きたいと思います。
新約聖書のピリピビトへの手紙、第四章、六節、七節を開きたいと思います。387ページです。
新約聖書の387ページ、ピリピビトへの手紙、第四章、六節、七節です。
24:16
それではご一緒に読みましょう。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにやって守ってくれます。
アーメン。
何と幸せなことなんでしょうか。
神の主権を信じている人は、人のすべての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにやって守ってくれるから、これを信じるから、びっくりすることもしない。
動揺しないのです。
むしろ、動揺して不安で不安でどうしようもない、その人々を励ますことができる、導くことができる、それが誠の信仰の力ではないでしょうか。
例えば、世の人々、神様を知らない人々も何かがあって、不安でどうしよう、どうしよう。
でも、私は神様を信じているように同じくどうしよう、どうしようとしたら、何も変わらない。
みなさん、すべての持ち主である神様がくださるならば、受ければいいです。
神様がくださればあります。でも、神様がくださらなかったら、ないです。
健康をくださるんですか。そしたら感謝しましょう。
健康でないでしょうか。それも神の御心であるならば、それも感謝しましょう。
成功できていますか。それは神様の助けで、神様の主権です。
でも、失敗しても、神様の思いであれば、神の御心であれば、それも感謝すべきではないでしょうか。
神様の主権を認めて信じているから、心配しないのです。
みなさん、大体私たちはどんなときに心配するんでしょうか。みなさん、どんなときに心配しますか。
大体、自分が思ったとおりに事柄がそうならないときに心配しますね。
思ったとおりに大学に合格できなかった。就職ができなかった。
27:02
思い通りにいい男性に、いい女性に出会って結婚できなかった。
思ったとおりに年取って幸せに暮らしていない。
思ったとおりに何かがうまくいかないときに、我々は大体心配するんですね。
ところが、よぶきの御言葉を見ますと、こういう御言葉があります。
ちょっと開けたいと思うんですね。旧約聖書のよぶき第一章二十一節です。八百五十ページです。
旧約聖書の八百五十ページ。旧約聖書八百五十ページ。よぶき第一章二十一節。
それではご一緒にお読みしましょうか。せーの。
そして言った。私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私は貸子に帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の皆は保護べきかな。
アーメン。私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私は貸子に帰ろう。
そしてよぶがそとったことは何でしょうか。主は与え、主は取られる。主の皆は保護べきかなと歌っているんですね。
皆さん、これこそ神の主見を認めて信じている人の口から出てくる告白神言なんです。
主は与え、主は取られる。だからびっくともしないんです。これを悟ることこそ神の地位なんですよね。
最後に一つのお分かしをしてメッセージを終わりたいと思いますけれども。
先ほども近藤姉妹に載っていただきましたけれども 先週の月曜日から木曜日までですね
ソウルのサパンという教会の僕先生一人と長老さん6人 全員ですね その教会の長老さん100人のような方が大阪と神戸に訪ねてくださいました
感謝のことは私からご支援をお願いしたわけではないんですけれども
その博士先生 私が武山の須与の教会に2004年から2008年 奉仕しているうちに その先生は1年半ぐらい
須与の教会の同じ時期に 副牧師として奉仕をしていたわけですけれども
30:04
本当に10年ぶりに連絡が 偶然つながって そしてまた幸いにその教会も
今までは世界選挙にあんまり その先生は関心を持っていただけれども まだ時が満ちていなくてですね
海外選挙に手を出すことがなかなか難しかったですけれども 今年から本格的に海外選挙をしましょうということで
まずは大阪の西ナリップで ホームレスの働きをしていらっしゃる ヤンという先生がおられるんですね
向こうで火曜日に私も行かせていただきましたけれども 18年 毎週の火曜日 区のビルの2階の一室を借りてですね
ホームレスの方々が150人ぐらい集まって 賛美して礼拝して そしてまたフードバンクがありますよね
ポストコとかね そういうところからパンとかもらって あるいはかごこら お米とかいろんな金々を捧げられるので
おにぎりもたくさん作って そういう方々にコップラーメンとかですね 差し上げる働きを
そしてその中で何度か福音をですね 毎週語って その働きをしているヤン先生が
そのパク先生の教会から20年前 そこの福牧師でやって 日本で働いておられて
そしてその先生を正式に派遣選挙士にしましょう 月々生活費や献金を捧げましょうと今年決めてですね
またそれに加えて我が家のこともですね 今年からご支援をいただくことに決めていただいたんですね
本当に不思議なことなんで 私からは一言も言ったことはないんです
無語から連絡がきて これは本当に神様の恵みでありますが 明かしたいのはそれじゃなくて
その来られた役員さんの中で一人 その中で分かる 51歳か22歳ぐらいの長老さんがおられました
チムさんですけれども 24年間 韓国の大手の製粉会社で コムイコスクル会社で仕事をして
ちょっと早めに退職をなさったところが そこには理由があったわけなんですね
それは彼の心の中には夢があった それは金持ちになる夢じゃないです
それは自分が今まで積んできた経歴とか経験 あるいは人間関係 あるいはいろんなビジネスのノウハウとか
それを用いて残りの人生を50年 一歳としたら70歳前で働けるんだったら
だいたい20年間 この残りの自分の人生を神のためにお捧げしたいと
33:07
それでまずは事業を立ち上げました
それでこれから主が満たしてくださって 成功させてくださるならば
教会の建築のために全てを捧げたい それから海外選挙のためにもできるならば
献金を捧げていろんな形でサポートをしたい
また 韓国にもまだまだ高齢者の 貧しい人々がたくさんいるんです
そういう いわゆる救済と言いましょうか その働きもそのためにもしたい
そして もちろんいい食品を作って 消費者に提供することはもちろんでしょう
それで2年前か3年前に 韓国に なぜかたくあんの食品会社を始めました
そこから始めていくんですよ ところが不思議にそれがいい噂が広まって
よく売れているらしいんですよ
それで来る前には 韓国にも刑務所がたくさん 50何ヵ所あるらしいですけれども
そこに納品できる最終の契約までの決定だけ 待っているという話を聞きました
それで彼のいろいろお茶しながら 明かしを聞いたところは
正直に最初は不安を感じて事業を立てたわけで 韓国にもたくさんの会社がたくさんあるわけですから
その中で神様は不思議に 神のために自分の人生も全てを捧げたいという思いで始めたら
神様が反応と言いましょうか 取引先も主が結べてくださって 付けてくださって
路上にずっとそれが広がっている 新聞にも記事になってなっていたと
私は思いました 今はもうすごい大手会社には なっていないかもしれませんが
本当に立派だなと 素晴らしいなと思いました
自分の今までの経験 貯めたお金 そういったものを 神のために全てをお捧げしたい
そのために自分の人生を 捧げたいという夢を持って 事業を立ち上げた彼の信仰
柏先生もその方のことを とても褒めておられましたけれども
その神のための純粋で パッションと言いましょうか 情熱 信仰は本当にまことの信仰ではないのかなと
私は感動を受けました メッセージを終わりたいと思います
皆さん まことの信仰を持った者は 信仰の本質を握りしめて
36:00
神の心にかなった道を歩むから その人生が幸せなのです
飛んでいるから たくさん持っているから 成功したから幸せなのではなく
神様のゆえに幸せなのです
みんながこのようなまことの信仰を持つ クリスチャンでありますように お祈り申し上げます
お祈りしましょう
36:25

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