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2018-02-11 32:03

2018/02/11:潤った園のような教会

2018/02/11 聖日礼拝
尹善鎬牧師
イザヤ書 58:9~12

00:01
では一言お祈りいたします。
主は常にあなたを導き、良き者をもって、あなたの願いを満たらせ、あなたの骨を強くされる。
あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
主よ、私たちが一人一人が、家庭が、家族が、教会が、この御言葉のように潤った園のようなものになりたいです。
どうぞ、そのための主の御言葉、主の命よ、主の霊を、この朝集まっているこの群れの上に、主よ、一人一人の魂の中に、主が刻みつけ吹き込んで、主を本当に主のために生きるものとして下さいますように。
そのような、そのためのこの礼合いとなりますように、御言葉の時となりますように、神様どうぞ導いて祝して下さい。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、2018年度の教会の標語、それからその御言葉をもって、神のお恵みを共にお受けしたいと思います。
旧約聖書、それから新約聖書を読みますと、特にですね、拝家となるイスラエルのことでもありますけれども、
その、あるいは水、あるいは川、あるいは潤す、あるいは溢れるという言葉が旧約にも新約にも結構多く書かれて出てくるんですね。
その中の理由を深めてですね、考えてみると、日本と違ってイスラエルという国は、行かれた方もおられるかもしれませんが、
もう土と土地自体がとても枯れているんですね。乾いている。水分がないんです。
石みたいなものもですね、男性の大人であれば、逃げたらすぐに割ることができるほどカサカサしている。
一面中なかなか雨が降らないんですね。だから水が豊かではない国なんです。
だから雨がですね、何ヶ月ももし降らなかったならば、植物とか動物とか家畜とか、人間はその命を守ることが非常に難しいところであります。
03:10
今はね、水土のそういう考え、技術が発達しているから、そんな問題はないでしょうけれども、
旧約の時代、あるいはイエス様の少なこともね、イエス様の時代には、川とか特に水とか、そういったものは命と直結している言葉なんですね。
だからこの聖書を読むときにですね、イスラエル人の立場に取り替えて、水があるとは生きる、水がないとしてはもう死ぬということになるわけなんです。
今はですね、水がなかったらコンビニに行って買って飲めばいいんですけれども、聖書の時代はそんな時代じゃないですからね。
実際に私が聖地巡礼で生かしたときに、ヨルダン川からイスラエルの方を見てですね、旧約聖書の中でヤコブが父のところに帰ってくるんじゃないですか。
ラバのところに波乱に逃げてですね、帰ってくるときに渡った、そして神の人と格闘したヤボク川があるんですね。
そこをその近くに行ったんだけれども、ちょっと大げさに言えば、イスラエルのグランドキャニョンみたいなところでですね、とても深いんですね。
でも普段は水がないんですよ、川なんだけれども。
でも浮きになって雨が急速に降ってきたら、そこに結構の水流が流れていくわけなんですね。
そういう背景知識を持って考えていきますと、神様がこの世をつくりになるときに、今日まずですね、エデンの園のことを一緒にまず考えていきたいと思いますけれども、
エデンの園の最初の様子は、皆さんどんな様子だったと思いますか。
聖書ね、荘石を一緒にしたいと思います。荘石の第二章、十節です。九百の三ページですけれども、荘石の第二章の十節。
では一緒にお読みしましょうか。一つの川がこの園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた雨。
06:09
これを公語訳聖書にはこういうふうにあります。また一つの川がエデンから流れ出て、園を潤し、そこから分かれて、四つの川となったとあります。
つまり皆さんイメージをしてみてください。神様が最初お作りになったエデンの園、そこにはもう最初から川が流れて、園を多分潤しながら流れていくわけなんです。
そこには乾いたところではない。黄金や乾髪のところではない。命が枯れて乾いて死のところではない。川が豊かにもうあふれ流れて、そこが潤されて、そして命が躍動する、生きている場所がエデンの園なんです。
だからそこにいた植物や動物、あるいは人間のアダム、エヴァ、いわゆる川によって水によって潤されたところにいて、彼らの命も彼らの魂も彼らの生活も潤されたそのようなものだったのではないでしょうか。
ところがこの荘石二章の述説だけではなく、堕落以前の人間やその人間が生きていた舞台となるそのところは、このエデンの園のようにそういうイメージを持って描いているんですね。
他のいくつかの聖書を開きたいと思います。
伊沢賞を開きましょうか。伊沢賞の五十一章三説です。伊沢賞五十一章三説、1210ページですね。ここもご一緒にお読みしたいと思います。
伊沢賞五十一章三説、せーの。
まことに主は使用をなごさめ、そのすべての廃墟をなごさめて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。
そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
09:00
アメン。こうそうなんです。荒野を廃墟をエデンのようにしてくださる。砂漠を主の園のように、主の園、それこそエデンですね。主の園のようにする。
そしてそこに何がありますか、皆さん。楽しみと喜びと感謝と歌声がある。
だから最初のエデン、そこには廃墟がない。砂漠がない。楽しみと喜びと感謝と歌声があったわけですね。
もう一箇所、同じ伊沢賞六十一章十一説を開きたいと思います。私の聖書では1227ページです。
伊沢賞六十一章十一説を一緒に読みましょう。せーの。
地が芽を出し、園が撒かれた種を芽生えさせるように、神である主が義徒三人をすべての国の前に芽生えさせるからだ。
地が芽を出す。園が撒かれた種を芽生えさせるように。つまり主の園、エデンの園は、もう種が撒かれて命が生えてくるところなんです。
もう一箇所開きましょう。エレミア賞に行きましょう。エレミア賞の三十一章十二説。
おそらく伊沢もエレミアもイスラエル、特にユダの回復に対する同じイメージを持っていて、神から御言葉が語られたわけだと思うんですね。
今日の伊沢賞五十八章の十一説と、このエレミア賞三十一章十二説は、イメージが語っているところがよく似ているんですね。
一千三百一ページでございます。エレミア賞三十一章十二説。一緒に。
彼らは来て、四園の丘で喜び謳い、穀物と新しい葡萄酒とオリーブ油と羊の子、牛のことに対する主の恵みに喜び輝く。
彼らの魂は潤ったそのようになり、もう再びしぼむことはない。
いかがでしょうか、皆さん。
私たち一人一人が、我らの魂と精神と生活とあらゆる人間関係、何より我らの信仰が、
12:04
また、この創立二十五周年を迎える三谷教会全体が、はじめの主のそのように、
エデンのそのように潤ったそのようになり、そしてそこには命が躍動する場所、
魂の命が芽生えて、そして実を豊かに結ぶ場所、
そういう一人一人、そういう教会になりたいと切に願っている次第でございます。
何より神を喜ばせる教会、神の心にかなった教会を、我ら一人一人共に励まし合って、
祈り合って、助け合って、心を一つにして、共に立ち上げさせていただきたいと願うものであります。
ですから、主のその、エデンのそのとは、私たちの魂が変えるべき故郷のようなところであります。
なぜでしょうか。エデンのそのは、全能なる神様に、神様の全き御支配を受ける場所、
神様が誠の主となられる場所、すべての者が、すべての人が、神に向かって、
そして生かされる、導かれる、作られるエデンのその、
それこそ、我々の霊が、魂が、変えるべき、立つべき故郷ではないでしょうか。
そこには、去年、イザヤ書の58章の11節、あるいは今読みましたエレミア書の31章の12節、
今年ですね、これじゃなくて、今年、少なくともこの2箇所を、ぜひ皆さん心にも深く刻みつけていただいて、
覚えていただいて、そしてこの御言葉をもってですね、祈っていただきたいと願っております。
エデンのそのは、主のそのには、川があふれ流れるところ、乏しさがないところ、足りなさがないところ、
枯れたところがないところ、だからそこには争いや、妬みや、憎しみとか、葛藤とかないところ、
平和だけあるところ、神様が最初に人間に与えてくださった主のその、そこなんです。
15:08
ところがどうでしょうか。あのエデンのそのでは、アダムとエヴァが罪を犯して堕落した後、
人間たちの、我々人間の貪欲の罪、自己中心的な罪、妬みと嫉妬、嫉み、争い、いろんな欲望の罪の上に、
潤ったそのもような、あの主のその、エデンのそのから追い出されてしまいました。
つまり、潤ったそのもような、そこを失ってしまったからです。
罪によって取り上げられてしまいました。
つまり、罪の代価として、潤ったそのもような、平和や、愛や、賛美や、潤されること、豊かさを取り上げられてしまった。
だから、我々の人生には、この世界には、人間があるところには、実は潤ったそのもように生きるべきなんですね。
人間関係も、あらゆる人生も、生活も、信仰生活も、世界も、そういうようにエデンのそのようになるはずなのに、
罪の上に、そういったものは消え去って、人間の貪欲、妬み、憎しみ、傲慢、裁き、それらに一般になってしまいました。
皆さん、ここで立ち止まっていただいて、考えていただきたいと思います。
皆様が今まで歩んで来られた人生の道、あるいは信仰の道、それは最初のエデンのような、潤ったそののようなものだったのでしょうか。
それとも、渇いたその、乏しいその、妬みと憎しみと争い、裁きのそのだったのでしょうか。
あるいは、我々の夫婦関係はどんなそのだったのでしょうか。
あるいは、教会の兄弟姉妹たちのこの関係はどんなそのだったのでしょうか。
あるいは、牧会者との関係はどんなそのだったのでしょうか。
潤ったそのだったのでしょうか。
かさかさしているそのだったのでしょうか。
18:07
あるいは、今のまま満足して来ていらっしゃるのでしょうか。
あるいは、今のままを神様が見られて非常に喜ばれると思うのでしょうか。
もしも、すぐにそうですと答えにくい方がもしもおられるならば、それは誰それさんのせいではあり、
すべては我々自分自身のせいなのです。
それは自分自身を責めましょうという話ではありません。
私たちは、自分のこと、その貪欲、あるいは妬み、あるいは争い、人を裁くこと、
そういったものを自分にはそれを処理できない、自分には解決できない、どうしようもない罪人であることを我々が悟るとき、
自分では自分を潤すことすらできない、人を潤すところか、人を苦しめることがしょっちゅうある我々。
人を豊かにしてあげる、潤してですね、共に潤される、そのようなものにするよりは、
時には、たまにはでしょうけれども、妬んだり、恨んだり、裁いたり、そして潤った園のようにするのではなくて、
枯れた砂漠のようにしてしまう、そういうところが自分であることを我々が悟るとき、
そしてそこから抜け出ていきたいと、そのものが神を求めるようになる。
そして神を主体求めて主よ、私の人生を、私の信仰生活を、これからの将来を主よ、
今日の御言葉のように、潤った園のように、水の絶えない泉のようにしてくださいと、祈るようになるのではないでしょう。
そしてそういうふうにして、自分自身が変えられていくときに、自分自身が先に変えられていくときに、周りが変えられるんですよ。
奥さんが変わり、主人が変わり、家族が変わり、兄弟姉妹が変えられていく、そのうちに教会が潤った園のように変えられていく。
ここに、私たちに向かう神の望みがあります。
それは今日のイゼア書の御言葉、それからさっき読みましたエレーミア書の御言葉のように、
21:03
乾いた砂漠のようなイスラエルの魂を、主の園、エデンの園のように、潤った園のように作り変えたい、そうしたいと。
もう新創造を成したいと神様は願っておられる、熱く願っておられるというところに、我々に対する希望がある。
そしてそれはイスラエルにだけではなく、我々一人一人にも同じ、この祝福の御言葉が宣言されているんですね。
だからアーメンと昭和して受け止めさせていただきたい。
そうなりたくないんだけれども、乏しい魂、乾いた魂、水があまり流れていなくて砂漠のような自分の魂。
時には罪のゆえに、妬みと園みと争いと傲慢によって穢れた自分の魂を、主が潤った園のように作り変えてくださる。
それが神様の熱心であるということなんですよ。
もう一度、守法の礼拝順序の下に、交互訳の箇所を、イザヤ書58章11節、交互訳箇所を書かせていただきましたので、
そのところを一緒に読みましょうか。
主は常にあなたを導き、水の絶えない泉のようになる。アーメン。
皆さん、このようになりたいですか?アーメンでしょうか。
神様は決して私たちの魂が乏しくなっていて、枯れて砂漠のようなそのままほったらかす神様ではない。
それを神様は決して望んでおられない。
では、どうしたら我らの魂が、生活が、人生が、境界が、潤った園のように、水の絶えない泉のようになることができるのでしょうか。
この地区域を応援するには、二つをお願いしたいと思います。
まず一つ、それはまず私たち自分自身、あるいは私たちの間にある汚れを取り除かなければならないんです。
24:02
それは今日の五十八書、五十八書の九節なんです。私が読み出します。
今日の五十八書、五十八書、九節。
その時、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫ぶと私はここにいると教えられる。その次ですよ。
もし、あなたの中から茎を除き、後ろ指を指すことやつまらないおしゃべりを除き、
植えたものに心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は闇の中に輝き昇り、あなたの暗闇は真昼のようになる。
そして十一節が続くわけなんですよね。
ですから皆さん、これを簡単に申しますと、自分の家にある、私たちの間にあるこの汚れを取り除いていただく。
取り除く時に、そして清い衣、清い精霊の衣を着させていただく時に、我々の魂がうるおったそのように変えられていくという。
時々自分自身のことを変えてみますと、いつもではないかもしれませんが、動欲があったり憎しみがあったり、
寝覚めから通されていない、争いがある、生きどおりがある、頑固さがある、裁きがある、そういった汚れが自分の中にあるんだなと思うわけなんですよね。
それを御霊様によって清めていただいて、そして清くされた時に、私たちの魂が、人生が、生活が、主の境界が、うるおったそのように、最初のエデンのように、
一箇所ですね。聖書を開きましょう。新約聖書のヘブル人への手紙、十二章一節を開きたいと思います。
ヘブル人への手紙、十二章一節です。聖書を開いて一緒に読みたいと思います。ヘブル人への手紙、十二章一節、新約聖書の四百四十ページです。
それでは一緒にお読みしましょう。
こういうわけで、このように多くの聖人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも一切の重荷とまつわりつく罪と捨てて、私たちの前に置かれている狂騒を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
27:11
この道理なのです。狂騒をしたいのです。潤った園のようになりたくて、主に向かって福井に向かって走っていきたいのです。
でもその前にやるべきことがあるのです。何でしょうか。一切の重荷とまつわりつく罪と捨てて、切り捨てて、狂騒が始まるわけです。
皆さん、素晴らしい狂騒、信仰の狂騒がしたいのでしょうか。主に褒められたいのでしょうか。何かがしたいのでしょうか。主の心にかなったクリスチャンでありたいのでしょうか。そういう教会を共に建て上げていきたいのでしょうか。
一切の重荷とまつわりつく罪と切り捨てて、御霊様によって清められて始めた。それがスタートできるということであります。
この十二書の一節から言いますと、つまり過去のことを、良いものは持ち続けていくでしょうけれども、捨てるべきものは生産しなければならない。
捨てなければならない。生産しないまま、捨てないまま、前に向かって走ろうとしたら、決して前に進むことができないわけです。
良いものは保って持っていく。しかし、生産すべきもの、捨てるべきものは、自分の中にある罪とかそういったものを捨てさせていただいて。
そしてその時に、潤ったそのような主による新しい自分のストーリーが、物語がそこに始まるわけであります。
もう一つ、潤ったそのような神と家庭、教会となるためにはどうしたらいいでしょうか。
二つ目として、神によって満たされるとき。私たちの魂が全人格が神によって満たされるときに、そのようになるのではないでしょうか。
皆さん、我らの魂は、生活は、思いは、すべては、神様によっていっぱいでしょうか、皆さん。何によっていっぱいでしょうか。
最近の皆さんの思い、考え、生活、その中に神でいっぱいなんでしょうか、皆さん。
まるでですね、風船に水を入れて大きくして、針で刺したらパーンと水が出てくるようにですね、
我らの人生をですね、何から刺したら神様、神様、イエス様が出てくるんでしょうか。世の物が出てくる。
エベンの園のように、潤った園のようになる方法は、水の絶えない泉のようになるには、もう神様にしか方法がありません。
30:18
ですから、私たち一人一人が、神でいっぱいになること。
思いにおいても、言葉においても、行いにおいても、生活においても、すべてにおいて、そこに神でいっぱいであること。
満ちあふれること。神の霊によって満たされていること。
そのためには、御言葉と祈り、祈りと御言葉に生きることであります。他には方法がないんです。
ですから皆さん、この新しい年、いかがでしょうか。御言葉と祈りに専念していらっしゃるんでしょうか。
御言葉と祈り、その中で生きる神様にお会いして、その方によって満たされる霊的経験をしていただきたいんです。
メッセージは終わりたいと思います。
生きている種によって満たされましょう。そして常に祈り求めましょう。
種を、私の人生はこのままだめで、種を、潤った園のように、水の絶えない泉のように、種を作り変えてください。
新しい創造を、我らの人生に、種の境界に成し遂げてくださいと、祈って歩んでいこうではありませんか。
そういう恵みを、そういう霊的経験を、祝福を、今年こそ共にさせていきたいと願います。
潤った園のような生と家庭、境界を目指して共に歩んでまいりましょう。お祈りいたします。
32:03

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