00:00
聖書をお読みいたします。
ルカニオルフクイン書19章の1節から10節まで、新約聖書の154ページです。
ルカニオルフクイン書19章の1節より拝読いたします。
それからイエスはエリコに入って町をお通りになった。ここにはザーカイという人がいたが、彼は主税人の頭で金持ちであった。
彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので群衆のために見ることができなかった。
それでイエスを見るために前方に走り出て、一径上の木に登った。ちょうどイエスはそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはちょうどそこに来られて上を見上げて、かえに言われた。
ザーカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから。
ザーカイは急いで降りてきて、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見てミナは、あの方は罪人のところに行って客となられたと言ってつぶやいた。
ところがザーカイは立って主に言った。
主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、誰からでも私が騙し取ったものは四倍にして返します。
イエスはかえに言われた。
今日救いがこの家に来ました。この人もアボラハムの子なのですから。
人の子は失われた人を探して救うために来たのです。
では聖火隊の方に聖火を賛美していただいて、
内田牧師より急いで降りてきなさいと題してメッセージを語っていただきます。
マッシュキリストが落ちた同じ跡は
どんな低いものも愛しい代わり
03:04
どんな罪とかをも挑められ
苦しがりついても愛し続けて
天使を求められた
愛しい我らの母国
生きておかと人
慰めたい
おはようございます。
今日もまた御言葉をいただきたいと思います。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
神は実にその一人号をお与えになったほどによ愛された
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく
永遠の命を得るためである
天の父なる神様
今日の良き日をありがとうございます。
今日もまたイエス様の復活を記念しての
この聖日の礼拝を
あなたが最後まで伴ってお導きくださいますように
私たちもまたこの礼拝を通してもう一度
御前にひれ伏しまた杭改めて
十字架を仰ぐものとさせていただきますように
どうぞ導いてください。
毎日暑い日が続いております
そういう中にありましても
ここまであなたがお支えくださり
今日あることを心から感謝をいたします。
日々私たちは
主の憐れみの中に生かされておりますけれども
その神様の御愛と
またその御救いを忘れがちな私たちであります。
どれほどあなたを呼び求め
また十字架を仰いだことかと問われると
本当に申し訳ないそのようなものであります。
今日もう一度そのことも悔いて
06:00
そして今日この礼拝を通して
もう一度十字架をしっかりと仰ぎ見て
またこの8月を締めくくり
新たなる9月新しい月を迎える備えとすることができるように
また今日あなたをもう一度心から
あがめることを通して
主を愛しまた隣人を愛するその思いに
あなたが導いてくださるように
礼に燃え主に仕えるその思いを
どうぞもう一度新たな思いとして
与えてくださることをお願いいたします。
今日も御言葉を通してあなたの御心を教えてください。
鈍き者でありますから
どうぞ精霊様がお助けくださって
あなたが御言葉を通して
私たちに示そうとしておられることを
十分に悟り得ることができるように
またしっかりと御言葉を受け入れて
あなたに従うものとさせてくださるよう
お願いいたします。
子どもたちの夏休みも終わりに近づいておりますが
どうぞあなたが愛されるその幼子たち
子どもたちを守ってまた健康を支えて
そして新しい学期を迎えていくことができるように
またこの教会学校も祝福してくださるよう
お願いいたします。
また私たち教会の尊い働きとして
あるいは主に救われた者としてのその働きとして
この福音先教の働きを
これからも成していくことができるように
教会に力を与え精霊を注ぎ
そして一人でも多くの人が
このみすくいに預かることができるように
どうぞお導きください。
そのためにもまず私たち自身が
もう一度主と向き合い
そして御言葉に忠実に歩み
そして聖霊様の助けをいただいて
使わされていくことができるように助けてください。
今日いろんな事情があったり
あるいは夜明けを覚えてここに集えなかった
兄弟姉妹方のことも覚えます。
どうぞあなたがそれぞれを行きめぐって
その場にあってあなたを拝することができるように
また来たる時にともにあなたを礼拝する
その時が来ますように
全てをお祈りして
主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン
暑い日が続いておりますが
この8月もここまで守られてきました。
本当に感謝であります。
もうしばらく残暑といいますか
暑さが残っているようですが
着実に秋に向かっていることは
間違いありませんので
また楽しみにしながら
日々過ごしていきたいと思います。
09:02
人生は出会いで決まるということが言われます。
皆さんはこれをどう思われますか
信じますか
人生は出会いで決まる
この出会いということを
時々考えることがあります。
この出会いと言いましても
2種類あると思うんですね。
自分がそこに置かれた
そこにいる人たちとの出会いですね。
そういう出会いというのは
選ぶことができない
そういう出会いがあります。
それは親兄弟なんかもそうですね
これは私たちが選んで
出会いを求めたということではありません。
そういう出会いと
もう一つの出会いというのは
そういう自分が置かれている
そういう生きている人々との
関わりの中で選んでいく
それも一つの出会いだと思うんですね。
私たちが出会うというのはただ
言葉を交わしたり
何か買い物に行って
その人たちとお話をしたり
そういうのは
出会いではないと思うんですね。
やはりそういう中で
この人が
そういう人たちとの中で
さらに親密になっていく
そういう人を私たちの側で
選んでいく
神様はそういう私たちに
選びの自由意志を
与えてくださったわけですから
そういう中で私たちが
選んでいく
出会いですね
それが非常に大きな意味を持ってくる
ということで
人生は出会いで決まる
出会いがその人を
作っていく
そしてその人はそういう人たちの
交わり
そういう中で生きていくわけですね
ですからよく言われるように
その人を知りたければ
直接知ることができない場合は
その人がどういう人たちと
あるいはどういう世界に交わって
どういう人たちと交流していくのか
その人たちを見れば分かる
というのがまさに
人生は出会いで決まるということも
意味していると思うんですね
私たちはそういうふうにして
何を選ぶのか
あるいは誰を選ぶのか
それは非常に大事なことでありますし
その出会いが
選びがその人を
作っていく
その後の人生を
作っていくという意味では
12:01
大変大事なことだと思うんですね
しかし私たちは
自分が選んだ
そして自分が
その出会いを選んで
その交わりの中に
生きていくわけですが
それじゃ
その選んだ
そこから一歩も出ないで
その中で
全てを
まかない
そして過ごしていくのか
そうではないですね
やはりその中からも出て
そして世の中の
いろんな人とも
関わりながら
そして
特に私たちは
そういう人たちに
福音を届けていく
そういう使命があるわけですから
決して
そういう人たちとの
関わりを全部切ってしまうという
そういう意味ではありません
いわば私たちの
ホームグラウンドを
どこに置くかということでしょうね
私たちは
皆さんは
そういう中で
この教会の交わりというのを
選びなさって
そこを
自分のホームグラウンドのような
形にして
そこでまた
養い交わりをいただいて
それでまた
今日も礼拝終わったら
それぞれの世に
使わされていくわけですね
そこで
関わる人たちと
また交流していく
そしてまた
この教会に
帰ってくる
そんなことであろうかと思うんですね
ですから
私たちが
それこそ
出会う人たちが
あとは
例えば日曜日
どういうふうに
過ごして
おられるんですかと
聞かれたときに
私たちは
皆さんは
その日曜日の
特に午前
の過ごし方というのを
決められたわけですね
私は
日曜日は
礼拝に行くのだ
ということを決められた
ですから
そういう
その選びの中で
毎日が
進んでいくわけですが
ですから
そういう
人は
この人は
日曜日の
午前中は
教会に行って
礼拝を捧げる
そういう
一週間
を
過ごしておられるんだな
ということが
わかるわけですね
あるいは
そのことを通して
その人は
私たちを
どう見るんでしょうか
それは
その人に
聞いてみないと
わかりませんが
そんなことだと思うんですね
ですから
私たちが
何を選ぶのか
特に
どういう人を
選ぶのか
そして
そういう人たちと
どういう出会いを
していくのか
ということが
私たちの
この生涯
人生において
大きな影響を
持ってくる
そんなことが
言えるかと思うんですね
さらに
もっと大事な
出会いと
この選び
ということを
考えるときに
どんな
神を
選ぶのか
これは
特に
15:00
日本でのことですね
もちろん
一神教
ただ神は
一つ
であるという
そういう世界に
選びも
何もないんですが
日本は
八百万も
あるかどうか
わかりませんが
たくさん
たくさんの
神々が
ある
そういう
中で
どの神を
選ぶのか
ということが
その人を
決定付けて
しまうわけ
ですね
そんなことを
考えるときに
この
神との
出会い
あるいは
その
出会いの
中で
どの神を
選んでいくのか
これも
その人の
生涯を
決めていくんだ
そんなことを
考えさせられます
それは
一神教
一神教
一神教
それは
今日
開いていただきました
ルカニオク
よる福音書の
十九章の
その
話とも
関わってくるわけです
この
ザーカイという
人が
出会った
何に出会ったのか
誰に出会ったのか
そして彼の
その後の
生涯が
どういう風になっていったのか
彼の
これまでの
生涯が
どういうものであって
その後
彼は
どういう風になったのか
その前後は
そんなに詳しく書かれていませんし
その後彼がどうなったのかということも
書かれてありません
これは
私たちの
いわゆる
想像に
委ねられているんですが
彼は非常に幸いな
生涯を
送ったということは
言えます
私は
この
記事を読んで
絵になるなということを
思います
皆さんもそうだと思うんですね
絵になる
あるいは
この
映像にしても
十分間に合うような
そういう
お話ですね
これは
フィクションじゃなくて
実際の
話でありますね
ですから
この話を
どういう風に
皆さんと
読んでいくか
説教を通して
こういう話を
皆さんと分かち合うという
それも一つだと思うんですね
ただ
説教にも
いろんな説教があっても
いいんじゃないか
というのを
私は常々
考えさせられています
あるいは
この
今日も
教会学校で
紙芝居がありましたね
こういう
絵になるような
お話というのは
紙芝居にしても
いいわけですね
子供たち向けですけれども
こういうような
紙芝居が
ありますよね
18:00
ここに
雑貨屋が
木の上に登って
イエス様が
雑貨屋を
急いで降りてきなさい
今日私は
あなたの家に
泊まることにして
あるから
こういうのを見ると
分かりやすいですし
私たちの
イマジネーションが
高められていく
ある説教者は
このOHP
ここに写してですね
そして
それこそ映像を写したり
もちろんこの見言葉を
見言葉を写して
目で見ながら
あるいは頭で
想像しながら
そして話を聞きながら
そういう
説教
そういうのも
ありです
と思うんですね
説教は
本当に
いろんな形が
あってもいいと思いますし
あるいは
決して
講談で
説教しなければいけないか
という
それも
そういうことは
聖書に書いていないわけですね
ある説教者は
ハンドマイクを
持ちながら
ずっと歩きながら
皆さんの回収の中を
歩きながら
皆さんに問いかけながら
説教する
そんなんも
いいんじゃないかなと思うんですね
それは私が
子供の頃に見た
テレビの
アメリカの
特に西部劇の
ああいう
一つのシーンの中で
必ずその町に
教会があったわけですね
そこに
皆が
日曜日集まって
そして牧師が
ずっと
回収の中を
歩きながら
聖書を片手に
解いていく
そういう場面を
今でも覚えています
ああいうことが
できたらいいんですけれども
皆さんが
先生何を
ボロボロしてるんやと
言われると
困るので
それは
しないようにしてますけれども
この箇所は
そういう絵になる
あるいは映像にしても
十分間に合う
そういう箇所ですね
皆さんも一つ
想像してほしいんですが
ある一人の
年老いた人が
ずっと
画面の中から
画面の中に
現れてきます
その人は
少し小柄な
お年寄りで
そしていかにも
乳話で
そして穏やかな
皆から愛されている
そういうものが
滲み出ている
一人の老人が
たーっと
歩いてきます
そして
一軸側の
木の下に
来ると
立ち止まって
そして
おもむろに
上を向いて
何か
遠くを
見つめるような
そういうことを
したかと思うと
今度は
手を合わせて
何か
祈りをしているような
21:00
そういう
静かな
静かな
そういう一時
そして
また
顔に
笑みを浮かべながら
帰っていく
そういう
シーンですね
それが
この
お話の
初めに
そういうイメージを
持っていただきたいと思うんですね
この中で
一人の
雑貨居という人が
いたということ
雑貨居という
これを
ひらがなで
雑貨居で
売って
返還しようとしても
雑貨居という
カタカナでは
なかなか出てこないですよね
日本人にとっては
何という
おかしな
名前であろうか
雑貨居
ギリシャ語で
ザカリアス
とかいう
だそうですが
この
雑貨居という人が
エリコの町に
住んでいた
ということですね
そして
そこの
エリコの町に
イエス様が
来られた
ということ
今や
この
イエス様という
方は
この当時
もう
人気絶頂で
みんなから
慕われ
群衆が
イエス様の
行くところ
どこにでも
ついていく
そういうような
人
そして
イエス様の
噂が
みんなの耳に
届いておった
という
そういう
状況の中で
この
雑貨居という
人が
この
イエス様を
見たいと思った
そう書いてあります
今日は
この
十九書の
一節から
十節の中で
四つのことを
私たちは
見てみたいと思うんですね
一節から
この四節の
ところで
この雑貨居の
イエスへの
関心
そして五節には
今度は
イエス様の
雑貨居への
関心
そして八節に
雑貨居の
信仰告白
そして九節
十節で
イエスの
救いの
宣言という
この十九書の
一節から
十節の中で
一人の人物が
出会って
そして
救われた
ということが
証として
書かれてある
先ほど言いました
この雑貨居という
一人の人物にとって
その生涯の中で
出会いがあったわけです
これが
イエスキリストとの
出会い
そして
今までの
自分の
生涯と
そしてその出会いの
後の
生涯
彼は
どういうふうに
なっていったんだろうか
その
大切な
時
雑貨居にとって
その生涯の中で
ちょうど
転換
する
そういう
一コマ
それが
この
ところに
書かれてあるわけです
24:01
私たちは
この
与えられた
この生涯
一生の中で
この雑貨居のような
いわば
この
マラソンでいう
この
折り返し点のような
そういう
時が
一度はないと
いけない
いや一度でいいんです
一度は
そういう
時が
ないといけない
それが
聖書の言っていること
なんですね
もちろん私たちは
一つのこの
与えられた生涯を
ゴールに向かって
進んでいっているわけですが
ただ
まっすぐに
行く
それは当然なんですが
必ず
折り返し点
今まで自分が歩いてきた
歩んできた
その
ところから
もう一度
回れ右をして
方向転換をして
そして
さらに
ゴールに向かって行く
決してゴールはここにあるだけとは限らない
こちらにもあるわけですね
そういう
転換のとき
それが
今日のこの箇所であります
ある方は
自分を
この座会に
重ね合わせて
自分も
あのとき
こういうことがあった
こういう出会いがあった
そして今があるんだ
そういうことを
思い
起こしていただけたら
幸いだと思います
この
座会という人が
どういう人であったのか
あるいはどういう
これまでの生涯を
歩んできたのか
ということを
垣間見ることができます
それは
彼は
主税人の頭で
金持ちであった
これ以外に
彼の
人となりを
知る手立てはありません
しかしよくよく
調べてみますと
当時
この
地方は
ローマ帝国の支配にありました
そして
この
ローマ帝国は
ユダヤ人の
例えばこういう
主税人を
雇って
そして
彼らに
同胞のユダヤ人たちから
税金を
取り立てる
そういう役目を
押しつけておったわけですね
そして
金持ちであった
というのは
この
ローマの手下として
なったこの
座会のような
主税人は
この
税金を
搾取する
あるいは
少し上乗せをして
取り立てて
力で取り立てて
そしてその
リザイアを
自分の懐に
入れておったわけですね
給料と
そして
みんなから
騙し取った
そういうもので
私服を肥やしておった
だから
金持ちであったんだ
ということ
当然彼は
同胞の
ユダヤ人たちからは
嫌われていました
みんなは
27:00
この
座会のことを
嫌いであったし
誰一人
座会の
友達になりたいとも
思わなかったし
みんなから
煙たがられていた
でも
座会は
それでいいんだ
自分は
友達なんかよりも
お金
金さえあればいいんだ
自分は
ローマの支配下で
税金を取り立てる
そういう
ものとして
今
豊かに
過ごしていれば
それでいいんだ
そういうふうにして
生きてきた
座会であろうと
そういうことは
想像できます
しかし
この
全体を読んでみるときに
おそらく座会の心の中に
表面では
これでいいんだ
自分は
お金持ちだし
友達なんか
必要ないし
これさえあれば
生きていけるんだから
とは
言うものの
おそらく
心の
奥深いところで
これでいいんだろうか
こんなことをしていて
いいんだろうか
自分も
アブラハムの子孫
と言われる
そのものが
本当に神様の
御心に
背くような
こんな生き方をして
いいんだろうか
自分はこれまで
生きてきたけれども
残りの生涯
このまま過ごして
そして
自分は
本当に神の国に
入ることは
できるんだろうか
神様の裁きはないだろうか
そんなことが
時には心の奥底で
うずいたり
あるいは頭を
よぎったり
そんなことが
あったのではないだろうか
しかし
人と会えば
お前たちなんか
俺はこんな
すごいんだぞ
自分はこれでいいんだ
と
豪語している
そんな
座会では
なかったろうか
なぜ
そんなことが
言えるんですか
説教者自身が
そういう
ことを
感じた
ことが
あったからですね
その座会という人は
そのようにして
そこまで
生きてきました
それは
そういう
ことをしてきたのか
ということは
分かりませんけれども
ある時まで
そういうふうに
生きてきたわけです
そういう中で
イエス様が
自分の住んでいる
エリコという町に
来られるという
そのところで彼は
このイエスという人が
どんな人か
見ようと思った
耳で聞いて
大体のことは
分かるんだけれども
実際に
見てみたい
これが
座会が
イエスという
お方に
対して抱いた
30:00
関心ですね
これが
一つの
出会いの
きっかけで
あったわけです
おそらく
なぜ
座会は
このイエスに
関心を持ったのか
その一つの理由は
やはり
自分にないものを
持っている
それが
理由の一つだ
と思うんですね
私たちも
誰かに関心を
抱くとき
それは
自分にないものを
持っている
そんなことが
言えるかと思うんですね
ですから
自分はこういう生き方を
してきた
それでいいんだ
と思っている
でも心の中で
これでいいんだろうか
そういう中で
このイエスキリスト
という
お方の
噂を耳にした
そういう
お方って
どんな人だろう
どんな見なり
あるいは
どんな風貌を
しているんだろうか
もういても立っても
いられない
とにかく
実際に
見てみたいと
そして
見ようと
したんですけど
もうそこには
たくさんの人が
いて
もうかき分けても
なかなか
自分は
前に出て
イエス様を
見る
余地がない
ということですね
その中で
彼は
もう仕方がない
もう帰ろう
イエス様
見ることも
できないんだから
とは
彼は思わなかったんですね
もう何とか
イエス様を
見たいと
彼は
この時を
逃したら
もう自分は
一生
おそらく
今のままで
このままで
この生涯を
終えていくんだろうな
というのを
感じたんだと思うんですね
私たちの
生涯の中で
必ずそういう時が
あるということ
それを
示しているんじゃないか
彼は
どうしたら
イエス様を
見ることが
できるんだろうか
たくさんの人たちが
今
群がっている
そういう中で
彼は
そうだ
もう少し
行ったら
やがてイエス様が
行くだろう
あの
先回りして
そこに行って
そしてちょうど
そこに
イチジクグワの
木があるから
そこに
登れば
たとえそこにまた群衆が来ても
上から
イエス様を
じっくり見ることができる
そういう
知恵が働いたわけですね
そして彼は
さっと行って
たたたっと
イチジクグワの
木に登って
そして待っていたわけです
彼は
背が低かったので
群衆のために
見ることができなかった
背が高い
背が高くて
大きい人
そういう人は
そういう人で
たとえば高いところを
取るのに便利ですね
しかし
少し
小回りの利く
小技には
33:00
ちょっと不利なところがあります
背が低い人
小さな人というのは
高いところを
取るのは
なかなか
不利ですけれども
小技とか
あるいはこのように
木に
たたたっと登る
そういうのは
なかなか
得意なわけですね
ですから
ザハカイも
そういう
背が低くて
群衆がいて
見ることができなかったんだけど
木に
登るということは
彼は
得意であったわけですね
これが
幸いをしたわけです
そして
待っていると
イエス様が
そこを
通り過ぎようと
なさった
これが
あのイエス様か
そういうふうに
彼は
ずっと見ていたわけですね
そうすると
なんと
イエス様の方が
今度は
ザハカイの方を
見て
そして
声をかけてくださった
ザハカイ
急いで降りてきなさい
今日は
あなたの家に
泊まることにしてあるから
ザハカイは
もう木から
転げ落ちそうな
そんな
驚きを
したんだと思うんですね
まず第一に
何で
私の名前を知っているの
ザハカイ
急いで降りてきなさい
私の名前を
確かにこのイエスは
お呼びなさった
何で私の名前を知っているんですか
二つ目に
なぜ
このイエスという
お方が
今や
みんなの注目の的
私たち
私には到底
この
お出会いしたり
あれやお話したり
そんなことは
到底できないであろう
今は当時の
偉い人の一人
そういう人が
私なんかに
声をかけてくれる
そんなことは
あるんだろうか
三つ目に驚いたのは
今日
あなたの家に
泊まることにしてあるから
私の家に来て
泊まる
ザハカイにとっては
驚きの
連続であります
なぜかというと
ザハカイは
みんなから嫌われ
そしてのけものにされ
今までに
誰とも
食事を一緒に
したことはない
あるいはしてくれない
じっくり話を
することも
しなかった
あるいは誰かが
泊まりに来たり
あるいは自分が
誰かの家に
遊びに行って
泊まるような
そんなことも
なかっただろう
そういう中で
イエス様が
ザハカイ
木からおじってきなさい
今日
私は
あなたの家に
泊まることにしてあるんだから
そう
36:01
言ってくださった
ザハカイにとっては
驚きと
そして
嬉しさで
急いで降りて
そして
イエス様を
自分の家に
連れて行ったんだろう
そういうふうに
考えられるわけです
マザハカイにとって
この日
この時
自分の生涯にとって
どんなに
大きな出来事であったか
自分の
これまでの
生き方が
全く
変えられていく
そういう
瞬間で
あったんだろう
と思うんですね
この
時は
そんなことも
考える余地もない
ただただ
イエス様が
降りてきなさい
今日
あなたの家に
泊まることにしてあるから
そしてその
嬉しさのあまり
イエス様を
どうぞ
私の
家に
来てくださいと
そして
彼は
大振舞いをして
そしてイエス様を
迎えて
来たわけですね
もちろん
七節で
それを見ている人たちは
なぜ
イエスが
あんな罪人の
主税人の
ザーカイのところに行って
客となったのか
それは
良くないことだ
私だったら
あんなザーカイなんか
絶対に
食事もしないし
話もしないし
泊まるなんてことは
絶対しないんだ
どうしてイエスは
そんなことを
なさるんだと
つぶやいたわけですね
イエス様は
このザーカイに
特別に
そういうことを
なさったのかというと
決してそうではありません
以前に
このマタイという
同じ主税人にも
私に
ついてきなさいと
そういうふうに
声をかけられたわけですね
この主税人マタイも
その時
何かこの方に
魅力を感じ
そしてこの方に
ついていこうと
そういう決心をして
ついていったことがあります
それを見た
周りの人たちが
なぜイエスは
あんな主税人
罪人たちと一緒に
飲み食いするのか
そんなことを
つぶやいた
あるいは
非難したことがあります
その時イエス様は
このように言われたんですね
医者を必要とするのは
丈夫なものではなく
病人です
私は正しい人を招くためではなく
罪人を招いて
食い改めさせるために
来たのです
私が今ここにいるのは
私は
正しいもの
このような主税人のような
罪人ではありません
私は貧困法制
立法も全部守って
何ら人から指をさされるようなことは
しておりません
そういう正しい人はもう
私は
必要ないでしょう
自分で
自分は健康ですと
丈夫なんですと
言っている人に
医者はいらないでしょう
39:00
でも
このまたいにしろ
ざあかいにしろ
こういう罪人は
いわば
魂が病んでいるんです
だからその
病を
癒すには
医者が必要でしょう
私はその魂を
癒すための
医者であり
そして
この人たちを招いて
そして食い改めさせて
そして
本来あるべき姿に
本来あるべき姿に
魂を健全な姿に
戻すために
私は必要なんです
彼らにとって
私は必要なんです
だから私は
またいも招くし
あるいは
このざあかいをも
招くのです
そのように言ったわけです
だから
このエリコの中に
住んでいた
一人の
罪人
このざあかいを見たときに
これは
私の
愛すべき
魂だ
そう思われた
イエス様は
このざあかいに
目をとめて
急いで降りてきなさい
そして
私は
あなたと
交わりがしたいのだ
そう
イエス様は
おっしゃってくださったわけですね
それが
このざあかいにとっての
自分の
生涯の中に
起こった
イエス様との
出会い
想像しますに
このざあかいと
イエス様
お家に入られて
食事を
共にしたことだろう
そう思います
そして
イエス様は
何を
ざあかいに
話したんだろうか
そうではない
私が想像するには
ざあかいが
イエス様に
話したんだと思うんですね
イエス様は
ただ
ざあかいを
お前が
今まで生きてきたこと
あるいは今考えていること
あるいは
これから
どうしようと思っているのか
ざあかいを
お前が
今考えていること
思っていること
今まで
生きてきたこと
それを
話しなさい
イエス様は
ただただ
そうか
そうだったのか
ああそうなのか
聞いてきてくださった
私はそう思うんです
そして
その
話終わった
その時に
一緒に祈りましょう
イエス様は
そうなさって
くださったんじゃないか
そう思うんですね
そして発説
ところが
ざあかいは
立って
主に
いた
この立って
ということは
彼は
座って
食事をしていたのでしょうね
椅子に座っていたのか
床に
座って
当時の習慣として
床に座って
食事していたのか
そこから
立って
そして主に
いた
この
立ってということは
42:01
象徴的であります
もちろん
座っていた
のを立つという
何かの一つの
決断のような
感じがいたします
もう今まで自分は
座り込んでいた
そういう
生涯
今までの生き方の
それを
今
やめて
そして
きっぱりと
それこそ
立って
だんですよね
だん
断絶のだん
立っては
立ってに通じる
要するに
もう今までの生き方を
自分は立って
そして
これから
新しい生き方を
するんだ
という一つの
宣言
決断
それを
ざあかいは
ここでしたんです
その一つの
あらわれとして
立ったということ
そして主に
言った
これは
信仰告白
祈りであろうかと
言えます
主よ
ごらんください
私の
財産の半分を
貧しい人たちに
施します
また誰からでも
私が騙し取ったものは
4倍にして返します
これは
このざあかいが
この杭改めと
そして
新しい生き方を
しようとした
その決断の
一つの
あらわしとして
けじめとして
そういうことを
彼は
イエス様に
言ったわけですね
別の
人が
決断して
何か
けじめを
つけるときは
また別の
ことを
イエス様に
言ったかもしれません
しかし
彼が今まで
生きてきた中で
このことが
いつも
彼の
幸いを
蝕み
そして自分の
生涯を
駄目にしてきた
そしてこのことが
人々を遠ざけ
そして自分も
金さえあれば
と言いながらも
一人ぼっちの
寂しい日々を
過ごさなければ
ならなかった
だから
貧しい人たちにも
哀れみの心
あるいは自分が
してきた
その騙し取ったものも
返すことによって
今までの
その償いを
させていただきます
その決断を
ここで
彼はしたんですね
そして最後に
そのことを
聞いた
イエス様は
救いの宣言
今日
救いが
この家に来ました
この人も
アブラハムの子
なのですから
人の子は
これは
自分のことですね
イエスキリスト
失われた人を
探して
救うために
来たのです
この宣言を
持って
ザー会は
また
ここから
新しい
生き方を
始めていくことに
なったわけです
ザー会にとっての
イエス様との出会い
これが
その後の
ザー会の
生き方を
決めた
そう言えるわけです
どういう
障害を
彼はその後
45:00
送ったんだろうか
また私たちは
目を閉じて
もう一度
この映像の
中に
入りたいと思うんですが
やがて
この一つの
ストーリーが終わって
最後
また一人の
同じ
その老人が
歩いていきます
そして
一軸上の
木の
ところに来ると
また立ち止まって
おもむろに
木を
眺め
そしてまた
遠くを見つめるような
そういう
目をして
そして
顔には
笑みを浮かべ
そして
目には
涙も浮かべて
そしてやがて
また
祈りの姿勢をとって
そして
帰っていく
その男は
来る日も来る日も
そうして
後の障害を
こう過ごした
おそらくしよう
あの時
ここで私は
イエス様に出会ったのです
あの時から
私は
帰られたのです
あの出会いがなければ
今の私はありません
そんな
思いを持ちながら
彼は
いつも
一軸上の
木のところに来ると
感謝の
祈りをこう
捧げる
そんな
日々を
彼は
過ごしていったんではないか
そのように
思うのです
今日は
十九章の
一節から
十節を通して
一人の
人物
ザーカイが
イエス様に出会って
救いを得たという
そのことを
見たわけであります
イエス様というお方が
失われた
人
魂を
探して
そして
その人に出会ってくださり
救ってくださるんだ
ということ
そして
私たちを今
その出会いのゆえに
ここに
置かれているんだということを
改めて
感謝し
またこの
お方を
このイエス様を
一人でも多くの人に
お伝えしていこう
そう決心するものであります
お祈りをいたします
今日
救いがこの家に来ました
この人も
アブラハムの子なのですから
人の子は
失われた人を探して
救うために
来たのです
天の父なる神様
一人の
人の
魂が救われることの
喜びを
今日もう一度
覚えることができて
ありがとうございます
私自身の
生涯の中にも
イエス様との出会い
また
聖書との出会い
誠の
神との出会い
そして私たちが
何を
選ぶのかという
48:00
そのことの大切さを
もう一度覚えて
感謝をいたします
どうぞ
それぞれに
与えられた
その
選びの意思を
私たちは
この
救い主
イエスキリストを
選んで
そして
この尊い
神様の
見救いと
その神の
祝福に
預かるものとして
この生涯を
生きていくことができるように
またそのことによって
永遠の命が
与えられるという
その幸いに
預かることができるよう
どうぞ
導いてください
ゆだねて主キリストの
皆によって
お祈りをいたします
アーメン