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聖書をお読みいたします。新約聖書、使徒の働き、9章の15節から20節まで、245ページの上の段です。お読みします。
しかし主はこう言われた。行きなさい、あの人は私の名を違法人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、私の選びの器です。
彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを、私は彼に示すつもりです。
そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。
兄弟サウロ、あなたの来る途中、あなたに現れたシュイエスが、私を使わされました。
あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。
すると直ちにサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。
彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気づいた。
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
そして、直ちに諸カイドウで、シュイエスは神の子であると述べ伝え始めた。
以上です。
聖火体に賛美していただきます。賛美歌21-202です。
聖火体に賛美していただきます。賛美歌21-202です。
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聖火体に賛美していただきます。賛美歌21-202です。
本日は目から鱗と題しまして、内田牧師に説教をしていただきます。
皆さん、おはようございます。
天候の不順の中、こうして礼拝に来てくださったことを、心から歓迎し感謝をいたします。
今日も御言葉をいただきます。一言お祈りをして、今日のお言葉を取り付けさせていただきます。
あなたのお言葉は、我が足の灯火、我が道の光です。
恵み深い天の父なる神様、今日もこうして9月の第一聖日、あなたの導きとお恵みの中に、今ここにおいてくださっていることをありがとうございます。
この礼拝の主であるあなたを今心から拝して、そしてあなたを賛美し、またあなたに祈ります。
またあなたからいただくそのお言葉を心に受け入れて、あなたに従いゆくものとさせていただきますように。
それぞれの一週間の歩みは異なりましたが、また時と場所を一つにして、あなたを今礼拝しています。
あなたがここに臨在され、そして私たちをまた平安のうちにお使わしくださろうとしております。
その前にあなたのお声を聞かせていただき、そしてもう一度私たちの力となり、また励ましとなって私たちをお導きくださるそのお言葉を今からいただきます。
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どうぞ語るものをあなたの見てに隠してください。
こうして私たちが礼拝に来ることができたことを心から感謝をいたします。
少しの緊張とまた見た目の自由の中にあなたのお恵みを心いっぱいいただけるこのお恵みをありがとうございます。
どうぞ後の生産式を通してもあなたが私たちに秀吉様をもう一度心に覚えることができるように豊かに祝福してください。
今日いろんな事情や弱気を覚えてくることができない兄弟姉妹方のことをも覚えております。
神様どうぞ必要なまた癒しとあるいはその妨げを癒しを与え、妨げを取り除いて来たるときにはまた共にあなたを賛美また礼拝できるようにどうぞ導いてください。
今からの時全てを委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
聖書をよく読んでいない人たちのうちでも日常を使っている言葉の中に知らず知らずに聖書の言葉あるいはイエス様がおっしゃった言葉が入っている。
それぐらい多くの人々に馴染んでいる言葉というのがあるわけですね。
例えば豚に真珠という言葉ですね。
それはもう豚に真珠だこれは与えても価値がわからないから無駄だというそういうことを豚に真珠というんですがこれもイエス様がおっしゃったこと聖書に書かれてある言葉ですね。
それは猫に小判と同じですがそういう言葉があります。
あるいは狭き門、狭き門だ競争率が激しくてなかなか入れない。
でもそれは聖書の中にある狭き門から入りなさいとあそこから来ているわけですが意味が少しずつ変わってきております。
それとか十字架を追うという何か大変なことつらいことがあると十字架を追わされたという。
でもそれは聖書にある言葉なんですがもともとの意味は死刑手この貼り付けにされる十字架ですね。
イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかってくださったそれが元の意味ですね。
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十字架という死刑の道具そういう意味の十字架を追うというこれも日常で使われる言葉になっています。
あるいは禁断の実を食べるとかこれもアダムとイブの神様がこれを食べてはならないというそういうものを食べてしまった。
あそこから来ているんだと思うんですね。
もう知らず知らずのうちにそういう言葉が日常生活の中に入っている。
それほど聖書というのは日本ではそれほどではないにしろ世界中の人々はこの聖書の言葉に親しんできたということの表れであろうと思うんですね。
映画のタイトルでも例えばエデンの東とか最近ではバベルとかいう映画もありました。
それをみんな聖書から来ております。
人の名前もそうですね。
マリアさんとかサラさんとかルツさんルツ子さんとかそういうのをみんな聖書の中に出てくる人の名前をあやかっているわけです。
ポールさんポールさんもパウロですね。
あるいはジョンはヨハネ。
マイケル。
どこから来てもマイケルさん。
マイケルさんもミカエルですね。天使ミカエル。
聖書に出てくるミカエルのところから来ているわけですが。
今日説教のタイトルに挙げましたこの目から鱗。
これも首都行での九章の十八節に出てきる言葉。
目から鱗のようなものが落ちて。
目から鱗が落ちたんじゃないんですね。
目から鱗のようなものが落ちてという。
そこから目から鱗という言葉が多くの人の日常生活の中に入ってきている。
それは何か急に物事の実態とか、あるいは本質、道理がわかったという。
そういうときに目から鱗、NHKの試して合点のことですね。
そういうことかという。
それが目から鱗。
そういうふうに言うわけですが。
この十八節のそこに目から鱗という言葉が出ている。
でもこれはこの九章の中にあって大変重要な言葉であります。
一人のサウルという人物にとって、このイエス様との出会い、
そして彼が以前どういう人物で、そしてイエス様に出会ったその後、
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それこそ目から鱗が落ちて彼はどうなったのかという。
そのちょうど人生の分岐点のその中で起こった出来事。
非常に使徒の働きの中でも九章は大事なことでありますし、
聖書全体にとりましてもこのことは非常に重要な意味を持っておるわけです。
目から鱗のようなものが落ちて見えるようになった。
ある人が何か目から落として探しておられてそれはコンタクトレンズを落とされたんですが、
目からコンタクトレンズを落とすと逆に見えなくなってしまいますので気をつけないといけません。
そういうふうにしてこの九章の中で一人の人物サウル、このサウルという人物が登場します。
この一節二節を読みましてサウルという人がどういう人かというのがわかります。
そして後彼はどういうことをしていたのか。それが二十二節からまた書かれてあるわけです。
一節にサウルはなおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて大祭司のところに行き、
ダマスコの書会堂宛の手紙を書いてくれるよう頼んだ。
それはこの道のものであれば男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサリムに引いてくるためであった。
サウルという人物は迫害者、当時のキリスト者あるいは新しい運動に加担するそういう人たちを値返しにするために
縛り上げてというようなそういうことをしておった。脅かしと殺害の意に燃えていた。これがかつてのサウルでありました。
ところが飛んで二十二節。サウルは同じサウルです。
ますます力を増しイエスがキリストであることを証明してダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
多くの日数がたってのちユダヤ人たちはサウルを殺す相談をしたがその陰謀はサウルに知られてしまった。
彼らはサウルを殺してしまおうと昼も夜も町の門を全部見張っていた。
教会を迫害しキリスト者を殺害しようとして意に燃えていたこのサウルが今度は彼が殺されようとするまでにこのイエスはキリストであるということを証明して明かしをして
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そして選挙活動をしていた。全く違う人物のように見えるほど様変わりしている。
ですからこの一節二節と二十二節以降に何があったのかということですね。
全く逆の立場に転換している。これを百八十度の変換というわけですね。
それは行き過ぎて三百六十度をいってしまうとまた元に戻りますので必ず百八十度の転換ですね。
彼に何が起こったのか。それはイエス様との出会いがあったということなんです。
三節。彼が道を進んでダマスコの近くまで来たときに突然天から光が彼をめぐり照らした。
彼は地に倒れサウロサウロなぜ私を迫害するのかという声を聞いた。
彼がダマスコに行く途中で天から光が射してきて彼を打ったわけですね。
ですから眩しいというそういう程度でない強い光線のようなものが彼をバーンと照らしそして打ったわけです。
彼はその光に打たれて地に倒れます。
ここでいうこの光あるいは聖書の中に出てくる光というのはこれは神を表します。
ですからここではイエス様が彼に現れてくださったということの象徴であります。
イエス様がサウロの前に現れそして光を持って彼を打って地に倒れさせた。
ここにありますように彼が主よあなたはどなたですかというと私はあなたが迫害しているイエスである。
ここでサウロはイエス様との出会いをするわけです。
このサウロという人物彼はこの時どういう人物であったのかということなんですが
彼は当時あの地域にはヘレニズム文化いわゆるギリシャ文明の影響を受けたそういう文化が栄えていたわけですね。
それが一番先端の文化であったわけです。
そういう町タルソという町で彼はユダヤ人の家庭に生まれてそしてローマ帝国の市民権も与えられていた。
立派な教育を受けてそしてギリシャ語にも通じておったしギリシャ哲学も学んで何不自由ないそういう生活をしておったようですね。
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そしてユダヤ教のパリサイ派のそういう厳しい訓練を受けていましたからその教えに反するようなことを言うものはとても許せないそういう思いを持っていたわけですね。
ですから立法においては日の打ち所のないほど彼は立法に忠実であったわけです。
ですからその立法を侵すようなもの神を冒涜するようなものはもう許せない。
ですからこの最近起こった神の国運動イエスキリストを中心とするそういうキリスト社たちのその言うこと訴えていることもそれには彼はたまらないわけですね。
ですから何とか彼らを値台師にしようとそうして脅かしと殺害の意に燃えてそういうものを見つけ次第縛り上げてそして引っ張っていった。
これが彼の当時の人となりであったわけです。
要するに教会を迫害することが自分の使命あるいはもう生き甲斐のように思っていたわけであります。
そのサウルがイエス様に出会った。あるいはイエス様がサウルに現れてくださった。
そして光に打たれて彼は目が見えなくなってしまった。
ここに書いてあります6節7節。
誰も見えないので物も言えずに立っていたと書かれています。
8節もそうですね。サウルは地面から立ち上がったが目は開いていても何も見えなかった。
目は開いていても全く何も見えないというそういう状態が3日間続いた。
そういうことがここにあったわけです。
そういう中で彼は不自由な生活を強いられたわけですね。
彼にとって今までの生活というのは何不自由ないあるいは何か失敗するというようなこともなかった。
そして全てが順調にいく。
ただ最近起こっている神の国運動それに対してはどうしても許せない。
ですから自分の思い通りにそういうものを縛り上げて牢に入れるなりあるいは殺害をしておった。
そういうことがあるわけですね。
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そこに起こったイエス様との出会い。光を通して自分が撃たれた。そして目が見えなくなった。
彼は初めて味わった挫折というんでしょうか。あるいはそのような撃たれるということ。
そういうことは今まで彼は経験したことはなかったんだろうと思います。
いつもいつもいわば光の中に彼はいたわけです。
多くの人も注目し、そして自分は褒めたたえられ、そしてサウロ様、サウロ様と言われておったのだろうと想像します。
そういう中で彼は皆の前で地に倒れ、そして目が見えなくなる。
そして自分の思い通りにいかない、そういう生活を強いられた。
そんな中で彼は目から鱗のようなものが落ちたということ。これは彼に起こった出来事です。
彼は自分は目が開いて何でも見えていた。そして自分は何でも知っているんだ。道理も何もすべてわかっているんだ。神様のこともわかっているんだ。
自分は目が見えているんだ。
ところが実際に彼はこのイエス様との出会いによって暗闇の中に放り込まれたわけです。見えなくなってしまったわけですね。
そういう中で彼は目から鱗のように本質通りの真理、すべてのものがはっきりと見えるようになったというわけです。
ということは彼自身が自分は見えていた、自分は何でも知っているんだ、わかっているんだと思っていた今までの自分、その自分は本当は見えていなかったわけです。
目から鱗のようなものが落ちた時に彼は見えるようになった。
このことを私たちは、ヨハネの福音書の中でイエス様がある一人の盲人の目を癒されて見えるようにされた時に、こんなことをおっしゃっているんです。
ヨハネの福音書の九書の三十九節からですが、そこでイエスは言われた。
私は裁きのためにこの世に来ました。それは目の見えないものが見えるようになり、見えるものが見えないようになるためです。
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そして、もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。
しかしあなた方が今、私たちが見えていると言い張るところにあなた方の罪があるのです。
見えているものを見えないもののようにし、見えないものを見えるようにするためです。
イエス様も何か全問答のような感じもいたしますが、これは一体何を言っているのか。
まさにサウロの上に起こったこと。それが見えていたものが、実は本当は見えていなかったんだ。
その見えていなかったものが見えるようになった。
これは私たちが実際に肉眼の目で見ているということと、私たちの心やあるいは魂のうちで何かを見ているということをイエス様はおっしゃっているわけですね。
実際に見ていてもわかっていても、本当はわかっていなかった。盲目であったんだ。
しかし、パウロがこの目を実際に閉じられて、暗闇の中に放り込まれて、そしてどん底のようなところに突き落とされた、そのときに初めて見えるものがあった。
それが光であったわけです。光なる神様は、そういう暗闇に落とされて、そしてどん底の中に現れてくださった。
これはまさに聖書のいう真理ですね。光なる神は暗闇の中でこそ輝いている。
ですから私たちは見えている見えている、何でもわかっているんだ。この光の中、明るみの中で神様を見ると言っているが本当に見えているんだろうか。
むしろ、このサウロにされたような本当の目が閉じられて、心の真っ暗な中で置かれたときに、一切のものから解き放たれて、そこで初めて神というものがわかり、そして十字架を合うことができる。
それをイエス様は見えているものを見えなくし、また見えないものを見えるようにしてくださる。そういうことをここでも言えるわけですね。
サウロの上に起こったこと、それは彼は自分が見えているんだ。何でもわかっているんだ。自分のしていることは間違いないんだ。
そう言い張っている限り彼は盲目であったわけです。何にも見えていなかった。しかし彼が暗闇の中に落とされたときに初めてはっきりと、このお方こそ主であり、そして彼につき従おうとして一生懸命に福音を説いている弟子たちのあの姿、
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そしてステパノのあの姿、あのことが今はっきりとわかったわけです。目が見えなくなり、そして暗闇の中で彼は誠の神と、そしてこの福音というものの本質というものをはっきりと見ることができた。
それがサウロの目から鱗のようなものが落ちて、彼は見えるようになった。何が善で何が悪なのか、彼は全くわかっていなかった。見えていなかったから。
何が神が喜ばれることなのか、神がお嫌いになることなのか、彼は立法を守ること、それが神様が喜ばれるんだ、そう思っていた。なぜなら彼の霊の目は開かれていなかったから。
しかし今ここではっきりと神様が何を喜ばれるのかということが見えるようになった。はっきりとその神の御心というものをそこで見させていただいた。これが彼の上に起こったこと。
それはイエス様がサウロに現れてくださり、そして彼を光で打ってくださったから。そのサウロはやがてパウロとして世界選挙に出ていくわけです。彼はイエス様との出会いを通して全く変えられていくわけです。
そしてここから世界選挙が進んでいくわけです。このサウロという人物、そういう人物を神様は備えていてくださり、そしてそのサウロさえも変えて、そして福音選挙の技に彼を用いなさった。これこそ神様の技であります。
誰でもキリストのうちにあるならば、そのものは新しく作られたものです。古いものは過ぎ去ってみよう、全てが新しくなりました。誰でも、どんな人でもキリストのうちにあるならば、キリストと出会ってそして作り変えられるならば、その人は新しい歩みをそこからしていく。
もう過去のことはそこで終わったんだ。新しく作り変えられて、またそこから新しい神のみむねに従う、そういう生き方をしていく。それが聖書の約束であります。誰でもキリストのうちにあるならば、そのものは新しく作られたものです。古いものは過ぎ去ってみよう、全てが新しくなりました。
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新約聖書の十三の手紙、新約聖書のほぼ半分近く、これはパウロが書いた手紙で締められています。もしこのサウロ、パウロがいなかったならば、私たちはどうなっていたでしょうか。
このパウロが書いた手紙、それがこの新約聖書の中に組み込まれて、私たちはそれを神の言葉として今いただいているわけですね。サウロ、パウロが言ったこと、書いた手紙がまさにそれは神が彼に霊感を与えて書かせた神の言葉なのだ。
それほどまでに彼は新しく作り変えられて、神のものとして使わされる、神の尊い器として神様がサウロを用いなさった。そのためのイエス様との出会い、私たちにはこれはもう想像もつきません。
あのサウロがあんなに迫害していた、あんなサウロがやがて神の福音を述べ伝える宣教者、そして素晴らしい働きをした、そういう人物になるということは誰も想像しなかった。それが神の御業であります。
私たちはアメイジンググレースという素晴らしい歌を賛美します。あんな素晴らしい綺麗な歌を作るのはさぞ清い心の、そして品工法性な立派な生き方をしてきた、そういう人が作ったんだろうなというのが私たちの偽らざる思いですね。
ところが実はそうじゃなかった。かつては奴隷を理解するような奴隷戦の船長、極悪非道なあのジョン・ニュートン。ジョン・ニュートンを神は作り変えなさって、彼を通して素晴らしい賛美歌を書かせた、そういうことを神様はなさるわけです。
私たちには到底思いもつかない、そんな神様の業をここでも見るわけです。サウロはイエス様と出会って、そして何も見えていなかったサウロにはっきりと見えるようにしてくださった。
そのことを今日私たちもこのところを通して見たわけです。21世紀にもサウロ、パウロがきっとどこかにいるはずです。
私たちの想像を超えたところに、あんな人が、あんな、今と悪さをしている、どうしようもない、あんな人がと思う人が、神様のその働きと、その人がイエス様と出会うことによって、またそこから作り変えられて福音宣教の働きに出ていくような、
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そういう人物がきっとどこかにいるに違いない。もう一度私たちは、自分自身はどうだろうか。自分の心に、あるいは魂に鱗のようなものがかかっていないだろうか。一つでなく二つ三つ四つも折り重なって、全く見えないようにしていることはないだろうか。
自分では信仰を持ってイエス様をいつも仰いでいると思っていても、実は全く見えていない、そういうものであったならば、精霊によってその私たちの見えていない心と魂から鱗を一枚二枚三枚と剥がしていただいて、そしてはっきりと十字架を仰うことができるように、神様を仰げるように。
そして聖書の言っている神のお言葉がすべてわかるように、そしてそれにしっかりと従っていけるように、そういうふうに私たちは祈りたいと思います。
聖三式を通しても、私たちはこのお方がどういうお方であるのかを、しっかりと心の目で、魂でしっかりと見て、そしてこのお方に従っていきたいと、そう願うわけです。
それではお祈りをして、聖三式に入ります。
サウロの目から鱗のようなものが落ちて、彼は目が見えるようになった。
天の父なる神様、私たちも信仰いただいて、そしていつしか自分は何でもわかっている、聖書のことも全部知っているんだ。
そして十字架をいつも仰いでいるんだと思ってきましたが、実は見えていなかったかもしれません。
どうぞそのようなものをどうぞ許してくださり、もう一度御霊を通して、しっかりとあなたを仰ぎ見ることができるように、そして私たちの心にかかっているもやのような、あるいは鱗のようなもの、そんなものがかかっているならば、どうぞそれを取り除いて、
もう一度主の前にひれ伏し、御言葉を仰いで、このお方にしっかりと従っていくものとさせてくださいますように、自分は見えているんだという、そのところにあなたの罪がある。
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神様どうぞ、あなたの前に謙遜な思いで、何も見えていないものですから、どうぞ主を見えるようにしてくださいと、あなたに恋願うものとして、どうぞこの祈りを受け入れてください。
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。
それでは。