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アーメン
おはようございます。
おはようございます。
今日も名谷にお送りいたしました。
今、イエス様のたとえ話、私たちへの問いかけシリーズのメッセージをさせていただいております。
今日はその4回目で、畑に隠された宝のたとえ、畑に隠された宝のたとえというタイトルでございます。
先週に続きまして、天皇御国、神の国のことがしばらく続くと思うんですね。
このマタイノクイショの特にですね、この13章には、イエス様がいろんなたとえを持って、天皇御国はこんなものだと。
そして、あなた方は御国の民だ。だから、この地上で御国の民として、それにふさわしくこのように歩んでほしいと。
その御国の民のアイデンティティ、そして御国とは何であるか、そのことをいろんなたとえを持ってですね、イエス様が教えておられました。
今日はその44、それから48までですけれども、今日はその44節から46節の畑に隠された宝、それから良い真珠を探している証人、この2つに絞ってですね、お話をしていきたいと思います。
先週のメッセージの復習というか、もう一度ですね、思い出していただいて、確認していきたいと思いますけれども、この神の国、天皇御国とは、特にこのマタイノクイショとかですね、たとえでイエス様が語られているその御国とは、
私たちが亡くなってから行く天国、どこかの場所じゃなくて、今ここで始まった、もうすでに始まっている神の国、英語であえて言うならばキンガムオガですね、神の王国、神の国、それを意味するわけです。
つまり、亡くなってから始まる、どこかに入るんじゃなくて、今ここで、今ここに神の国が来た。望まれた神の国、その御国で、私たちはこの地上で、この日本で、この神戸で、神のためとして、今を生きる。
主のために生きる。御国のために生きる。福音のために生き、また主を礼拝していこうという話になります。
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確かなことはですね、私たちがイエス・キリストを救い主として信じて受け入れてね、救われたその時から、私たちはすでにですね、もう御国の民なんですね。
国籍は、この地上にあるかもしれませんが、私たちの国籍は、天にあるとね、シコ・パウロの御言葉通りに、神の御国の民なんです。
そしたら、その御国の起きてというか、御国の法律、御言葉ですね、その御言葉に従って生きるということなんです。
だからこのね、私たちの福音13章は、イエス様が、あなた方は御国の民だから、その名前にふさわしく歩みなさいというメッセージでありました。
今日は、もうとても短いね、2つの例えが続いて語られました。
1つは、畑に隠された宝、イコール天国御国なんですね。
それを探す人というより、畑に隠された宝のようなものなんです、天の御国は。
それから45節は、天の御国は良い真珠じゃなくて、良い真珠を探している証人ですね。
方法はちょっと違いますね。
これを適当に読んだら、天の御国は畑に隠された宝、良い真珠みたいに考えてしまうのか、そうじゃないんですね。
1つは、畑に隠された宝のようなもの。
もう1つは、良い真珠を探している証人のようなものだと話をしています。
今日はそこで、この2つの例えから、この天の御国の話を3つまとめて話をしたいと思います。
まず第1、天の御国、神の国はどんなものなのか。
それは、何にも変えられないその御国の値打ち、それについて教えています。
何にも変えられない、その御国の価値について話をしています。
まず44節の例えを見ていきましょう。
御国はどんなものでしょうか。
畑に隠された宝のようなものです。
ある人が、たまたま偶然、畑で仕事をしているのか、それは分かりますけどね、宝を見つけたんです。
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ところがその宝が、ものすごい高価なものなんです。
そしたらどうするか。
それを隠しておいて、大喜びで帰って、自分の持ち物も全財産を売り払って、お金にして、そしてその畑を買う。
どういう意味なのか。
それは、自分の全部を、持ち物を全部売り払って買うほど、いや、買わなければならないほど、買いたく、それほどの価値あるものが、天の御国ですよ。
それが、この地上で、私たちがアジアを経験する御国の価値ですよ、喜びですよ、恵みですよ、という話なんですね。
もう一つは、良い真珠を探している商人の話です。
素晴らしい値打ちの真珠を一つ見つけた。
この場合、商人が真珠を見つけるんですよ。
そして、素晴らしい値打ち、この言葉が御国の価値を表している言葉です。
これだけでは十分ではありませんが、素晴らしい値打ちの真珠を見つけた。
そしたら、この商人もどうですか。
同じく、全く一緒ですね。
持ち物を全部売り払って、その素晴らしい値打ちのある真珠を買うんですね。
この二つの共通点は何ですか、皆さん。
同じく、自分の全ての持ち物を売り払って、そしてそれを頂く。
それを所有するほどの価値あるものなんだ。
何がですか。天の御国が、神の国が。
皆さん、皆さんが考える天の御国、神の国の価値はいくらぐらいなんですか。
計り違えないんじゃないですか。
これは一つの例えであって、自分の全財産を売り払って、
でもそれでも買わなくならないほど、それよりもっと遥かに値打ちのあるものが御国ですよ、
天の喜びですよという話ではないでしょうか。
そう考えると、私たちはイエス様を信じて、救われて、
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魂が死から命に移されて、滅びから命に光に移されて、
その時に、実は私たちはこれほどの犠牲を払っていないんですよ。
自分の全財産を捧げて、それで戦に受けた方いらっしゃいますか。
誰もいないんですよ。
その後から感謝金を捧げられた方はおられるかもしれませんが、
お金とか全財産とか、それと宿意を買えたけど誰もいない。
ある意味で、ただかったんですよね。
ある意味でもゼロ円でした。
だからそこに私たちは価値を、時にはこのイエス様の十字架の価値、
我々の救いの価値、私たちが主を礼拝しなければならないこの価値を、
時にはたまに忘れてしまうことがあるんじゃないかと。
それでイエス様より、それで礼拝より、それで主を愛するより、
自分を愛してしまう。楽しみを愛してしまう。
そういうところが時々あるんじゃないでしょうか。
憎みはですね、私たちの全てを売り払って、犠牲してもそれでも価値があるものが憎みになった。
その喜びを、その価値を、その素晴らしさを、
主は私たちがこの地上でですね、今ここで味わって楽しんで喜んで生きることを主は願っておられるんです。
本当に私たちはそのために祈りを求めていきたいと思うんですね。
私にはこういう証があります。
主よ、まずこのものが憎みの素晴らしさを、美しさを、偉大さを、
もう日々味わって楽しんで喜んで生きるようにしてください。
そして自分自身がまずこの味わったこの憎みの素晴らしさを証して、
それを伝えて、もう本当に誰から見られても、
あの人は本当にこの地上の人じゃないように見えるんだと。
喜びに満たされて、美しさに満たされていて、
何か人とは違ったその素晴らしさがあの人にあるんだと言われるほどのものにしてくださいと、
日々そういう上影を持って祈りを求めております。
皆さんいかがでしょうか。
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そういうふうに求めていこうではないでしょうか。
主よ、この地上で憎みの喜びを、その素晴らしさを味わいつつ、
愛のものにしてくださいと、祈っていきたいと思っております。
2番目は、価値あるものを得るためには、決心して行動をしなければならないということです。
何かの値打ちのあるものを、自分がそれを得るためには、もう決断をしなくてはならない。
そしてそれをもう行動に移さなくてはならないんですよね。
44節の御言葉を見ますとね、畑に隠された宝のこれを見つけた人はですね、どうしましたか。
大喜びで帰って、そして持ち物を全部売り払って、その畑を買ったんです。
そして真珠を探していた商人も同じなんです。
持ち物を売り払って、それを買ったんですね。
ここにですね、この両方とも共通点がある。
それは、価値あるものを得るために決心をしなければならない。
そして行動するわけなんですね。
皆さん、何かのAとBがあるとしましょう。
Aの方を選ぶためには、B、C、D、E、他のものを諦めるということなんです。
今日皆さん、この日曜日、2020年6月21日の日曜日の朝、私たちは首脳協会に集まってリハースしています。
今11時過ぎてますけど、この11時に他にできることがあると思うんですね。
テレビも見れるし、ソファーで横になれるし、公園に散歩に行けますし、
他のおじちゃんみたいにゲートボールもできるし、どこかにいてゴルフもできますし、遊びに行けるし、何かできるわけなんです。
それを私たちはしなかった。
それを諦めて、この礼拝よ神様を選んだわけなんですよね。そうでしょう、皆さん。
というのは、価値あるものを得るためには、他のものを諦める、犠牲する、そしてそれを決心する、それが大事なんです。
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今日も皆さんが多分分かりませんが、体の調子がちょっと良くないとか、機嫌が悪くなっているとか、
いろいろ何かがあったのかもしれません。歩きにくいとか、いろいろあったかもしれませんけれども、
でもそういったものを全部剥げて、それでも私は師匠を礼拝する、それを選んで、
今ここに皆さん来ているんじゃないでしょうか。そうでしょう、皆さん。
たまたま起きていたら、教会に来ている方はいらっしゃらないと思うんですよね。
天皇御国の偉大さ、その素晴らしさを経験するためには、この地上で、今ここで、私たちは御国の民として生きる道を選ぶ、選択する、
そのために決心をする、そのために他のものを諦めるということが常に行わなければならないんです。
畑に隠された宝を買うために、自分の持ち物を全部売り払った人のように、
素晴らしい値打ち神像を見つけてそれを買うために、自分の全財産を売り払ってそれを買った人のように、
御国を選ぶためには、その御国の民としての生き方を選ぶためには、この世の生き方を私たちは捨てる、諦めるということなんです。
あるいは、主に捧げるためには、自分のためにすることを諦めることなんです。捨てるということなんです。
何でも諦めなくても得られるものはないと思うんです。何かを諦めて他のものを得るということなんです。
御国もそうですし、その素晴らしさもそうですし、イエス・キリストも救いも同じなんですね。
なかなか私たちは祈ってですね、家族のために知り合いとか友達の助けのために本当に祈っていますけれども、
そこにはこういう理由があると思うんですよ。人々はなぜイエス・キリストを受けるのが難しいんだろうか。
それはイエス・キリストを選ばないということなんですね。
というのは、イエス・キリストを選ばない代わりに何かを握りしめている、自分自身を諦めていないからでしょう。
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あるいは自分自身の考えや知識や経験や判断やそういったものを諦めていないから、イエス・キリストを選ぶことができていないわけなんです。
あるいは自分の宗教を諦めて、諦めることができないからイエス・キリストを選ぶことができないわけなんです。
結局ですね、全ては一つに絞られると思うんです。
それはもう自分自身の意思、自己意思を諦められないから、キリストを選ぶことができないわけなんです。
そう考えるとですね、私たちは何と幸せなことなんでしょうか。
不思議にも、もう何もなかったんだけれども、不思議にイエス・キリストを選ぶことができた。
ある方は病気のゆえに、ある方は何かの事故があって、ある方は何かがあって、辛い経験をして、
そしてこの真珠を見つけた教人みたいに、畑に隠されていた宝を見つけたように、イエス・キリストを見つけて、
皆さんはイエス・キリストを選んで、今ここにいるんじゃないでしょうか。
身国の民として生きる道もそうなんです。
世の中の人々の生き方を諦める、捨てる、そして御言葉通りに生きること。
普段も皆さんがですね、本当に主を愛して、主の教会を愛して、いろんな見えるところを見えないところで奉仕をしておられますし、
また本当に身国のために、主の教会のために精一杯の捧げ物を捧げておられること、
それによって僕主の家庭が、あるいは教会が、神の国が支えられていることを本当に心から感謝しておりました。
この前もですね、選挙中のためにですね、富永選挙中のために、コロナに軽く関わっているかもしれませんし、
その国の状態が非常に悪いという話を、それが起きてしまったあの時点が、この礼拝堂に集まって礼拝できない時期だったんですね。
その時に、水曜日、人会は開始した時でしたから、そういう事情を先にお話しした時に、そこでですね、何も言いませんが、
本当にそこでもう即座でですね、快快に選挙をするために捧げてくださった方もおられました。
あるいはね、この前の5月の選挙献金デーでもですね、皆さんが喜んでですね、多めに捧げてくださいました。
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それは本当に御国のためなんですね。
それを捧げたというものは、それがね、いくらであろうが、それを自分のために何かの他のものに使うことを諦めたから捧げることができたわけなんですよ。
そうでしょ?
諦めることなしに、神の栄光をかく得できるものはないんです。
諦めること、自分のためのことを諦めてから、私たちは主にお使いすることができるということなんです。
そういう信徒さんがですね、いろんなところにいらっしゃると思うんですよ。
このお話は、水曜ゲート会議のときにお話をしたかと思いますけれども、
日本もですね、神戸市もそろそろ給付金が支給されると思うんですけれども、
皆さんが、それで何をしようかな、洗濯機を買えばよいかな、テレビを買おうかな、どこか旅行に行こうかな、
いろんな考えを持っておられるかもしれませんけれども、一つ美しいお話をしたいと思います。
韓国もですね、特にテゴという町、前に来てた二人の遺産たちが住んでいる町がテゴで、
そこからものすごくコロナが、患者さんがたくさん出て、
その市、国とは別で、その市だけの給付金が支給されたみたいなんですね。
私は全然知りませんでしたけれども、それでね、誰かに連絡したわけでもありませんが、
一つの教会と一つの婦人の神戸さんから連絡が突然来たんですよ。
一つの教会は私の知り合いの先生で株分けした教会の、そんなにもめちゃくちゃ大きい教会ではありませんが、
その教会で神戸さんがですね、その市から給付金がもらったわけですから、
結構な献金が捧げられたみたいなんですね、普段と違って。
そしてそれをその教会の長老会で役員会ですね、
金がたくさん捧げられたから、これを私のために使うんじゃなくて、
これをまたね、ただ与えられたんだから、ただ与えましょう、みたいにですね。
それでいろいろ審議をして、そしたら海外選挙したために、この金金を全部ね、
もうお果たししましょう、そういうふうに決まったみたいなんですね。
それで先生、でも久しぶりでしたけれども、2年前か3年前、韓国にいたときに一度お会いしましたが、
連絡をかけてですね、こういう事情で、
ユン先生のことも思い出してですね、選挙献金を送りたいんですからと連絡が突然来たんですよ。
私が先生、給付金もらったでしょう、献金しませんかと連絡したことはありません。
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もう私は覚えてもいないんですからね、でもそういうふうにして献金が送られたんですよ。
またもう一人の婦人の方ですけれどもね、その方も毎月少しずつ献金を送ってくださっていますけれども、
その婦人の方もね、先生、今月は給付金もらったから、
今月はもう少し足して送りますねと連絡が来たんですよ。
それを見てですね、お金の問題じゃなくてですね、
神の国のために、この日本のために考えて祈ってくださっている方がおられる。
そしてそれ金額がいくらなのか、それとは別として、
御国のために捧げるその心がもう本当に尊くて美しいなと思って感謝しておりました。
皆さんはどんな思いで今御国のために歩んでいらっしゃるでしょうか。
御国の素晴らしさ、その喜びさはですね、私たちが自分のことを何も諦めない、
全部握りしめて、ただ口さえ開けていれば落ちてくるリンゴみたいなものではないでしょう。
自分を諦めて、自分がしたいことを諦めて、
時には自分の楽さも諦めて、時には自分の健康も諦めて、
自分の楽しみも諦めて、そしてそれを主に捧げ、
お使いする時に主から与えられる、また満たされるものが御国の素晴らしさということであります。
どうか皆さん、今日ももっと素晴らしい値打ちのある御国の素晴らしさ、
その喜びさをもっと味わうために、決心していただきたい。
そして決心したならば、もう行動に移していただきたいと願っております。
3番目に移りましょう。
今日の例え話をよく見るとですね、
畑に隠された宝のようなものは、この人は宝を探して探して、
そしてその畑で見つけたわけではないんですね。
いろいろ解説書を読みますと、畑の仕事をしている人がいたわけですし、
また昔は、この時代はたまにですね、
自分のいろんな、この江様の時代はローマとか、
いろんな国から募集されたり、搾取されたりしている時代だから、
家になかなかお金を持っているのが危なかったから、
自分の畑に掘ってですね、それを入れとく、
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そういう場合もよくあったそうなんですよ。
いずれにしてもこの人は、たまたま偶然この宝を見つけたわけなんですね。
しかし、その神獣を探している商人は、
もう素晴らしい値打ちの神獣を探して探して、それで見つけたわけなんですね。
両方ちょっと違うんですよ。
というのは、御国の発見というものは、両方、両面性があるんですね。
一方は受動性があって、一方は能動性があるわけなんです。
一方は受け身なんですよ。
自分がもう見つけようと思ってですね、もうそれは探そうと探しかけて、
まるで御国が自分の心に来る、ポーンとね、来る。
イエス・キリストはその福音が、不思議に自分に来るわけなんですよ。
自分が何かね、ものすごく急動したとか、もう本当に神がいるんだろうかと思って、
もう神をもう見つけようとして、もう探して探して探して探して探せたんじゃなくてね。
自分は何もしていないのに、御国が、その福音が、その力が、
その偉大さが、救いが自分に来たということなんです。
もう受け身的なんですよね。
おそらくね、皆様の中でも救われた時の色々見るとですね、
もう本当に受け身的に、自分は何もしていないのに、
いつの間にか救われて、神の子供になっている。
そしてイエス様が不思議にも、もう信じられるようになっているという人もおられるかもしれません。
そう考えるとですね、人が救われること、神の民のものとして生きるということは、
ある意味で受け身的な部分もあるんだなと思うんです。
ものすごい熱心な宗教心を持って、いろんな宗教を調べてね、行ってみたりして、
そして見つけたことでもなくですね、不思議に。
身国が自分のところにポーンとね、来たということ。
そういった働きも神様にはできるわけなんですね。
そういう意味で人を救うことも神様はできるわけなんです。
ところがそれと違って、その証人はどうですか。
いい信者を見つけたくてね、あちらこちら回っていたと思うんですよ。
イスラエル全国をね、この国まで行ったかもしれません。
そういうふうにですね、もう見つけよう見つけようと思って、
わー見つけた、とみたいにね。
それで自分の全財産を売り払って、それを買ったわけですから。
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時には皆の中でも本当に宗教心を持って、すごく急動された方もおられたかもしれません。
それでやっと本当の神に、キリストにね、たどり着いて、
あーここに本当の神様がおられたんだ、とね。
それで救われた方もおられることでしょう。
そういう意味でですね、神様はある意味で私たちが救われるためには、
実は私たちは何もできないものなんですよね。
神様は一方的に、もう見つけるようにしてくださる。
もう気づくようにしてくださる。
目を、なぜかその時に目が開かれて、
イエス・キリストがわかるようにしてくださる。
信じられるようにしてくださる。
そしてそれを受け入れられるようにしてくださる。
全てはね、神の働きでありますね。
メッセージを言われたいと思います。
皆さん、天の御国、その偉大さ、その素晴らしさ、その美しさは、
私たちが自分の何かの、自分を諦めて、
素晴らしい価値あるものをいただくためには、
自分を諦めて犠牲して使える。
あるいは選ぶ、あるいは捧げる時に、そこに御国の素晴らしさが、
今ここに私たちに臨まれます。
どうかこの地上で、私たちの日々の進行の歩みがですね、
毎日毎日、神のためとしての喜びに、その素晴らしさに、
その偉大さに満たされてですね、歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りいたします。