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おはようございます。 今朝から教会はアドベントに入りまして、
12月の予定とした19日にクリスマスを迎える。 それまでこのアドベントのロウソクが一本ずつ火が灯されていくわけでありますが、
私は今朝改めてこのアドベントのロウソクの灯火を見ながら、
それこそ私も初めて教会に行ったときのことを、ふと思い出しましてね、
高校1年生だったと思いますから、67年か8年前になりますが、
初めての教会ですから、教会で行われている事柄が大変もの珍しく見えましてね、
もともとその教会は、スウェーデンから一家族が来られて、そして教会の働きを始めなさった。
ですから、スウェーデンというのはおかしなことをやるんだなと、教会という知識がありませんから、
何でもスウェーデンと結びつけて考える。面白い、珍しいことをやるなと思いながら、
そんな感じで、クリスマスツリーについては、多少何でもやはり、今から68年前でもそれなりに街は、
時にあるお店はそういったものを飾っておりましたが、ところが、その教会は教会の前にヒマラヤ寺院というのがありましてね、
そこに宣教師がよじ登って行って、今で言うような綺麗なものじゃないですよ、豆球のね、
そういうカラーのそれをずっと上から垂らして、そしてそれをクリスマスツリーということでやっておりましてね、
それの大きさにはもうびっくりしましたよ。
だから当時、東京のどこかで、一番これが日本で一番大きいクリスマスツリーだと書いておりましたけれども、
メーターですると、ここのクリスマスツリーの方が大きいなというようなことでですね、
変なところでもって威張ってみたりしたことを思い出しますが、それは確かに私にとってはもう大きなクリスマスで、
クリスマスってのはこういうことをやるんだな、中を開いてみたらこうやってロウソクを灯してやるでしょう。
普段見ないようなそういう景色って言うんでしょうか、様子がそこに来ましたんでね、クリスマスってのはこういうもの。
そしてまたそのクリスマスの礼拝が終わった後が良かったんですね。確かカレーらしさだったと思うんですよ。
そしてそこにケーキも付いてきたっていう、しかもそれがただなんですよね。
当時の教会は教会っていうよりも、やはり高校生のための集会でしたからね、
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今皆さん方が一緒にやっております礼拝のようなケーキもなければ何もないんですね。
ただ行けば、なんかそういういい目に合うっていうことで、そして私は教会ってのは本当にいいとこだっていうですね、
誘ってくれた友達にお礼を言いながら、ないしそんな思いを持ったのは、私にとっては最初のクリスマス。
そして、いざ今年で68回目のクリスマスを迎えていくわけでありますけれども、
私は改めてそうしたもろもろのことを思いながら、皆さんがよくご存知のこのルカニオル福音書の19章においての座会の物語、
座会の実に起きたこの一つの出来事を通して、私たちはクリスマスに備えていきたい、そういうふうに考えております。
ここに見られるこの座会の救いっていうのは、私は教会の一つの流れからいきますと、
この出来事はむしろアドベントに呼ばれるよりも、レントというイエス様が地難を迎えられるその頃によく呼ばれる箇所の一つであります。
しかし、これは確かカトリック教会に行く機会があって行った時に、そこの神父さんが、
毎週この非常にカラフルな、カラフルといった表現はおかしいんですが、いろいろとガウンを説明してくれまして、
私の乏しい記憶ですけれども、アドベントとやる地難集レントと同じ色のガウンを着るんです。
確か紫かなかったと思うんです。私はそういう牧師になりましても、そういうことにおいては大変理解が遅いものでありますから、
はあ、そうですかと聞いたことを思い出します。
つまりこのレントという地難集と、それからこのアドベントというイエス様がおいでなさるその向かっての時というのは、
そういう同じ意味合いをそこに持つ。
そうして見てまいりますとね、アドベントになったらここの歌詞を読むとか、地難集を迎えるんだったらこの歌詞を読むとか、
一応のそういう流れはありますけれども、しかしそうしないとならないということではない。
アドベントに私たちはしっかりとイエス様のご受難というものをそこに見出していかなきゃいけない。
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クリスマスはクリスマスとして大変大切なことであり、また私たちはそれを祝うわけです。
しかしそのクリスマスもイエス様のご受難ということとこれを切り離して理解することはできないんですね。
クリスマスを迎えてもそこに私たちはイエス様が私たちの罪のために十字架に死なれたという、
この十字架の救いというものを見ずしては本当のクリスマスの意味というものをそこで理解することも見出すこともない。
ですからクリスマスという大変大切な、また非常に楽しいひとときでありますけれども、
しかしそこに私たちはしっかりとイエス様のご受難ということを見ていかなきゃいけない。
考えてみますと、イエス様がお生まれなさったそのときに、
塔から来られたこの数人の博士がそのお皿をイエス様に捧げたものの中に持つ役というのがありますよね。
やはりこれは誕生日のお祝いの印ではなくして、このお葬式と言いましょうかね。
弔うための、そこに用いるこの持つ役というのは、遺体の匂いを消すあるいは消毒するという意味合いもあったようでありますけれども、
それが捧げられた。
ですから他の二つの捧げ物は、それはこれからのイエス様のためには必要なものでもあったでしょうからいいんですけれども、
しかしなぜ誕生にこの持つ役が捧げられたんだろうかという、そこにやるクリスマスというお祝いのときに、
私たちはしっかりとイエス様が十字架にお月になる、そういうお方であり、
それがあってのクリスマスということを、しっかりと私たちの信仰の理解の中に収めていかなきゃいけない。
説明が長くなりましたけれども。
このザーカイさんというこの人ですが、ここには教科学科の先生をなさっていらっしゃる方々もおられますし、
ですからおそらく一度や二度はこのザーカイさんの物語を子どもたちに読み聞かせた、そういうこともあろうかと思います。
このザーカイさんというこの人は、お手元の聖書にありますように、
彼は主税人の頭、そしてまた金持ちであったということがそこに書かれております。
当時この主税人というのは、確かに彼は主税人の頭ですから、
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正確には違うか分かりませんけれども、分かりやすく身近なことでいうと、
税務署の省庁みたいな人かな、税金を徴収して、そしてそれを国に納める。
そしてそれは何らかの形で還元される。
ところが当時のこの主税人の仕事は、いかに多くこの人々の金を取って、
そしてそれを言うならばローマ政府に献上するわけですよ。
ところがそれだけじゃないんですね。上前を離れるわけです。
例えばこの家から1万円というなら1万5千円ぐらい請求しておいて、
1万円はローマ政府の方に送っておいて、それで5千円は自分のものにするという、
悪戯なやり方をしていた。
それを当時の人々は、主税人のそれをみんな言って、
そしてあいつはもうとんでもないことをやると言って、
表向き反対するようなことはできないんですね。
そんなことをやったら、今度は余計、とんでもない税金が降りかかってくるかもしれないですが、
ですから黙って静かにしているというような様子だったようですよ。
それを言うことに、彼はもう取るだけ、取れるだけ、
この税金として人々からそれを奪うようにして、
そしてそれを元にして金持ちになったというのが、
この出だしでの雑貨屋に対するところの一つの理解として見ることができようかと思います。
ただ彼には一つの問題があったんですね。
その次を見てもらいますと、背が低かった。
人それぞれ、その人にとっては、
本田浩二という先生がよくおっしゃっていたのは、先生も小柄な方ですよね。
それでこの教会を生み出した松津先生は、今の私よりももちろん大きいんじゃないかなと思うぐらい、
身長のある方ですよ。
私と松津先生では、雨の受け方が違う。
先生が背が高いから早く濡れる。
私は小さいからちょっと遅れるというような、
そんな冗談を説教の合間に入れなさったことだと思うんですけれども、
しかし本田先生という方は、それを一つの武器にして、
よく言葉のあるメッセージを取り継がれたことを思い出します。
人にはそれぞれ、私はこうなりたいとか、ああなりたいとか、
こうなったらどうなるだろうかというような、そういう思いがありますよ。
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しかしそうなりたくないというのもありますよね。
ザーカイという人は、持って生まれた、どうも身長が低かったようで、
ですから肝心な時に、みんなが集まっている、
イエス様がおいでになったんだから、私も見に行こうという、
そういう好奇心でもって言ったんですけれども、
時を阻止で、誰も私を前の方に押し出して、
そしてイエス様の話が聞けるようにするというような、
そんな心温まる人はいなかったようです。
むしろザーカイとわかったら、みんなして前に出すことを妨げたんじゃなかろうかと、
この聖書に書いてありますように、
群衆のために見ることができなかったんですからね。
よほどその人々とザーカイさんの関係というのがですね、
そういう冷たい関係。
人々はいつか仕返ししてやろうというような、
ザーカイさんを見たらそんな思いでやっておったんでしょう。
その時にザーカイさんは、私はどっちかというと体が大きい方ですからね、
そう見に知恵が回りかねるかなんか言われて、
大きい人でも見かけ直しで、何回も言われたことがありますけれども、
ところが小柄な人というのは、そういうところが非常にきちんとんで、
パッパッと行動する。
ザーカイさんはそういうタイプだったんでしょう。
彼はイエス様がここからどの道を通って行かれるかということを、
そこで思ってパッときらめいて、
そして行く先にソリナリのこの一時空間の木がありましたから、
彼はいち早くそこへ行って、
そしてそこはもう小柄ですからね、
ささっと木の上に登って、イエス様のおいでになるのを上から待てた。
そういうことがこのところから想像つくかと思います。
そこにザーカイさんが思ったように、
自分の足元をイエス様が通る。
私は二度ほどこのエリコに行ったことがあります。
最初に行ったときには、
これがザーカイさんがイエス様を待ち受けたこの一時空間の木です。
そのところずっとこのバスが一周するわけですね。
大きいなと思いながら、
これだったら少々あれでも危なくないだろうなと思うような、
しっかりと枝が張っておりました。
日本で一時空間の木はこんな小さいものですけれども、
大きな一時空間の木がそこにあった。
ですから大変イメージとしては、
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ああ、これがそうかという思いを持ちましたけれども、
イエス様はそこを通りになった。
この通られてそのまますっと先に向かわれるというのが、
このときの光景として考えられます。
ところがこのときにイエス様はふとそこで立ち止まって、
そしてこの聖書を見てまいりますと、
上を見上げて彼に言われた。
ザワカイ、急いで降りてきなさい。
私は今日あなたの家に泊まることにしているから。
おそらくザワカイさんにすれば、
今まで面識のない全くの他人、
そういう人から直に名前を呼ばれるという。
彼はそれこそ驚いたでしょう。
しかもザワカイという、
自分の名前がこの方の口から自分に向けられたというのは、
おそらく彼は生涯初めてのことではないかなと。
小さいときは小さいときでね、
チビチビとか言われたりなんかしてバカにされて。
一発の音になって成功して、
そして皆の前に立つようになったところが、
その時には彼は何と言われたか。
この少し後に書いてあるんですけどね。
この7節に人々が皆これを見て、
あの人は罪人のところに行って客となった。
あの人は罪人のところに行った。
これが世間一般のザワカイに対するところの
非常に強烈な言い方表現。
また言い方だけではない。
当時はこの種税人は、
どんなに成功していても自分たちの国を売るような、
そういうあくらつな人間。
しかもそれをもって自分の宿を肥やして、
いかにも成功したみたいな、
やるけれども、しかし彼の、
それこそ出場は誰もが嫌うような、
本当にこの罪人でどうにもならないという、
そういうふうに世間一般はザワカイさんを見ていたんですね。
この19章の前の18章というところに、
こういう皆さん方もご存知の二人の人が、
今風に言うと教会に行ってお祈りをする。
神殿に行ってそしてお祈りをする。
一人は人々の尊敬を受けて、
18:00
そして人々を導く立場の、
そういうパリサイ派の熱心な、
そういう指導的な人が一人、
教会の前で、その前の方のそこでお祈りをしている。
ところが後でコソコソと入ってきた人がおった。
彼は衆税人だったと書いてある。
最初の人は、神様たちは一週間に二度も断食し、
自分の位置を捧げて、
そして神様に喜ばれることをして、
今日まで来ました。
彼は、やほら後ろを振り返るか、
とにかく祖におった衆税人をそこに差しながら、
あんな人間ではないことを感謝しますと言って、
彼は言うならば、
そういう立場というんでしょうかね。
人を人を比較して、
そして自分がどんなに優位なものかということにおいて、
いつも誇りと満足と、
そして自信を持っていた。
そういう時に必ず槍玉に上がるのが、
その衆税人なんですよね。
このパリ祭の人は、
どうして彼がこの聖なる場所に、
あんな仕事をしているのか、
みんなからそれこそ馬鹿にされているような人が、
こんなとこへ来てお祈り、
私と一緒にお祈りするなんて、
そんなことあり得ないと思いながらね、
彼は自己満足でもって神様にお祈りをしたんですよ。
そしたらイエス様が、
その二人の祈りを通して、
そこで教えなさったことは、
このパリ祭人の祈りと、
衆税人の祈り、
方や自分の一人を捧げ、
衆人にでも何をし、
そして人を尊敬を受けるような立場におる、
そういうお祈りを聞いた後に、
その衆税人は、
もうお祈りできなかったんじゃないかな、
ただお祈りできない中でもって、
彼がいつも神様に向かって思っていたことは、
本当にその通り、
あんな立派なことは私はできません、
私は本当にご覧の通りのつまらない人間です、
彼は一言、
どうぞ罪人の私をお許しください、
お祈りをしている。
イエス様は、
どちらの祈りを、
神は良しとされたか、
聞かれなさったか、
それは、
あの衆税人の祈りです、
ということを、
そこでこの教えられたんです。
あんなパリ祭の、
もうこの聖書の言葉に立って厳粛にやっているような、
21:00
そんな人が、
一番お祈りとして、
ふさわしい祈りを捧げ、
また神様がその祈りこそが、
一番大事な祈りだとして、
これを喜びなさる、
はず、
そこまで人間の考えです。
ところがイエス様がおっしゃったのは、
彼の立派な祈りよりも、
罪人の私のお許しください、
私は忘れることができないのは、
進学生の時に、
佐村五郎という先生が、
私たちがやがて召されて、
そして主の前に立つでしょう。
そして私たちがそこで、
本当にお祈りできるその一言は、
この主税人の祈りだと思う。
罪人の私お許しください、
お許し下さったことを感謝します、
というその祈りだろう。
その祈りが、
私たちにとっては最高の祈りであり、
またその祈りを、
主は私たちに求めていらっしゃるんだ、
ということをおっしゃったことを、
いろいろ習いましたけれども、
他の言葉も忘れちゃいましたけれども、
そのことはいろいろ残っているんですよ。
そして私は本当だなと、
そこから私の心の中には、
罪人の私をお許し下さったことを感謝します。
何を許し下された、
何を許していただいたという、
そういういろいろあります。
けれども、そういう一つ一つのことの中において、
結局はこんな人間なのに、
私のために、
イエス様は十字架について、
そして私の全ての罪よりしか去った。
これこそ私にとっては唯一の誇りであり、
感謝であり、
その祈りこそが、
やがて召されて死の前に立ったときに、
お祈りできる唯一のお祈りなんだろうな、
と教えられましたよね。
私は地上において何をしました、
何をしました、
こういうことをやりました、
こんな人も、
イエス様があなたを本当に見つけました、
というようなことは、
そういうことよりも、
ここで見られるように、
罪人の私をお許し下さい。
まさにイエス様の目から見ると、
人々は雑開をしてね、
イエス様が何で、
あんな種税人、
あんな住人のところに行って、
お泊りになるんだろうか、
やっぱりイエス様も、
そういう富と地位とに弱いのかな、
というような、
そういう噂を立てたかも分かりませんよ。
しかしイエス様は、
雑開?
急いで降りてきなさい。
私は今日、
あなたの家に泊まることにしている、
24:01
とおっしゃった。
雑開は、
この後見てまいりますと、
そんな雑開が、
どんどんどんどん変わっていくわけですよね。
それまでの雑開を申し上げましたように、
自分の富、
自分の地位、
自分の力をそこに蓄えるためには、
それこそ自分の利益になるのなら、
自分がどんなに嫌われても、
それよりも地位を得た方がいい、
財産を得た方がいい、
名声を明くした方がいい、
そういう、
非常に強欲なタイプの人間、
問題のない人はいませんけれども、
しかし雑開は、
自分に降りかかるその問題を全部、
人に合わせて、
自分はいいとこだけを取るという、
これまでの彼は人生を歩んできたわけですが、
イエス様に出会うまでの雑開は、
まさにそういう雑開。
もともとこの雑開という名前は、
清いという、
それこそ人々が神様の前に、
生きるかということにおいて、
清い人生を歩むような、
そういう人になるようにということで、
親は雑開という名前を付けたと思うんですけれども、
しかし雑開は、
親が自分に願って、
そしてこの自分を、
そういう人として成長するようにとして、
付けてくれた名前とは裏腹な人生を、
もう歩んでいるわけです。
しかしイエス様は、
そんな人間を、
改めて雑開とお呼びなさって、
そして、
今度は私はあなたの家に、
泊まることにしているから、
という、
そこから彼は変わっていったわけですね。
イエス様に出会うまでの雑開は、
まさにこの後に出てまいります、
失われたものだったんですね。
失うということは、
あるべきところから離れた存在。
こんなことがありました。
それは私がまだ平方におるときですが、
福岡の横田先生をお招きして、
そしてある集会をしまして、
翌日午前のそれが終わって、
先生が帰られた。
夕方、電話がありましてね、
江田先生もう着きなさったんですか?
と言ったら、
着いたが着いたんだけど、
27:00
着いたのは、
どうも私の大切にしている電子辞書をね、
その頃はそういう時代だったんですね。
今はみんなスマホでもってくることができますけれども、
電子辞書を持って、
そしていろいろこうやってました。
それをね、
どうも平方に忘れたらしいんで、
先生ちょっと回路の中を探して、
それから対戦しておりましたが、
それですよ、探しましたね。
出てこないんですよ。
いや、先生のおった部屋にもないし、
礼拝堂にもないし、
と言って、
この電話をしようとしましたら、
その後、先生から電話がありました。
いや、さっき言ったことはね、
あれもう解決した。
持っていったバッグの一番下の方に入れとった、
それがわかったんだ、と言ってね。
それでよかった。
それで答えは済んだんですけれどもね。
しかし私は、そんなことをふと思い出しましたね。
この電子辞書という当時にするならば、
いろんなことでもって役に立つそれですけれども、
これをどこかに置き忘れてしまったとかね、
失われてしまったならば、
その持っている機能を何も使われないままに、
失われたものとしていっちゃうわけですよね。
けれども、それが見つかって、
そして自分の手元で持って、
それが使われるようになったときに初めて、
この電子辞書は、
電子辞書として持ち主のところで持って、
この機能をするわけですよ。
私たちとイエス様との関係も同じだなと、
ふとそのことを思い起こしました。
失うということは、
結局どんなにいい価値を持っていましても、
その価値は先生そこで持っては認められない。
どこかその辺のロジカ、
あるいは何かに落としてしまっておったならば、
せっかくいい機能を持っているのにということでしょう。
しかし、失うということは、
持ち主との関係が失われるということです。
そしてそれは、
持ち主が使おうと思っていた本来の目的というものからも、
外れてしまっている。
私たちは失われたもの。
それこそイエス様と神様との関係から、
私は全然離れたところにおった。
けれどもイエス様は、
ザーカイとお呼びなさって、
そして彼との関係をそこで、
元通りにすると言いましょうか。
本来のあるべきところにザーカイが導かれていったときに、
ザーカイの中に、
イエス様と出会うまではなかった、
新しいものがそこで持って、
彼の中に生まれてきた。
私は、
30:02
クリスマスというのは、
そこまで、
それまで自分は神様から離れて、
失われたような、
そういう本来大切な使命というものか、
あるいはその人の価値というものが、
そこにありもからず、
それを別なことのために、
用いようとしている。
神様から離れて、
どんなに成功しているかに見えても、
それはただそれだけのことです。
ザーカイが主税人の長として、
一見成功しているように見えますが、
しかしながら、
ただそれはそれだけのことで、
しかもその上、
人々から、
次だというような、
せめて集中を受けなければいけないような、
そんな関係だった、
このザーカイ。
けれども、
ザーカイ、
急いで降りてきなさい。
この6節の、
5節の状況を見てまいりますと、
物理的にそうなんですけれども、
ザーカイさんは木の上に登っている。
そしてその下を通られたイエス様が、
上を見上げて、
そして、
ザーカイさん、
降りてきなさい。
イエス様の方から、
ザーカイを見上げているという、
これも考えてみますと、
関係が全く違っていたんです。
本来私たちは、
イエス様のもとに来て、
そしてイエス様を見上げるという関係。
人間というこのギリシャ語は、
上を見るという、
そういうところから来ているそうですよ。
神様との関係において、
神を見上げる。
それがアンスローブスという、
人間というその言葉だ。
ところがこの関係においては、
イエス様が下において、
そしてザーカイが上におっている。
まさにザーカイの、
イエス様に本当に出会うまでの関係というのは、
そういう関係。
考えてみますと、
自分もなんか偉さのことを言って、
そして宣教師を困らせたことがありますよ。
少女が生まれたとか、
なんだかんだ言ったって、
そんな信じられないとか言ってですね、
日明かしみたいなこともありましたけれども。
けれども、何か私たちの思いという中にはね、
じゃあ信じてみようかというような、
上からの目線でもって、
このイエス・キリストを見る。
あるいはイエス・キリストを信じてみようか
というような思いを持つ。
そうじゃなくて、
私はイエス様の足元に座して始めて、
イエス様は信じますという、
33:01
本当の告白というのがそこに生まれてくるものになって。
先週のユン先生のメッセージに、
フィリピンでの手紙の2章が開かれました。
イエス様は神と等しくあられた方。
しかしながら私たちの救いのためには、
人となってはそして地上においでになり、
しかも単なる人ではない、
仕える下辺奴隷として、
イエス様はその生涯を、
人々に全部自分のものを与え尽くして、
そして十字架に向かれた。
人を愛しい人に使え、
人のために何もかも提供なさったこの方が、
そこで人から得たものなんですか。
やっぱりイエス様があって、
私たちは救われたんですという、
それは私たちの側の喜びがありますけれども。
イエス様は何もかも私たちのために放棄して、
そして私たちから受けなさったのは、
十字架の死という、
これですよね、歌にもありますように。
何一つ地上において報われたものはない。
イエス様に報われ、
このイエス様の音に私たちが提供したのは、
イエス様をいかに十字架につけるかという、
私たちの罪の支払い報酬をイエス様が受け止めて、
そして私のために支払ってくださったという、
そこですよね、イエス様という方は。
それこそ自分を引っ越して、
私たちの救いのためには足元に座すぐらいの気持ち。
いや気持ちだけではない、
まさにそういう生涯をイエス様は歩みなさった。
イエス様が誕生されたと言われる、
聖誕教会という教会に参りました。
イエス様がお生まれなさった場所というのは、
その一角に、一番低いところに、
私たちのイメージとしては馬船ですからね、
そういうなんですけれども、しかしそこではなくして、
本当に一番低いところにイエス様がお生まれなさったという、
それが記念としてあるわけです。
そこに降りていかなくちゃいけない。
そしてそれを河岸でこうして見る、初めて、
ああイエス様という方、こういうところにお目なさったのかな、
聖書では馬小屋と書いてあるけれども、
ここは昔は馬小屋だったんだろうかというような、
いろいろな想像もするわけですけれども、
私はイエス様を信ずるというのがね、
そのイエス様との関係においては、
36:00
一番低いところに私たちの救いのためにおいでなさった、
その方を信ずるために、私たちもそこまで降りていって、
そして終了。
罪との私を許しくださいという祈りがそこで捧げられる。
初めてイエス様が最も低いところにお生まれなさったことによって、
私たちとの関係というのがね、神の栄光の中におられたならば、
私たちは到底ですね、そこに望む、そこへ行きたいと思っても、
それはできませんよ。
栄光の前に私たちは、勝手の旧約の生徒たちがそうであったように、
もう目がこの目もをくらむような、
そしてそこで持っていったならば、私こそが滅んでしまうと言って、
あのイゼヤが祈りましたけれどもね。
私はけれども一番低いところにお生まれなさった、この方のところに、
ただ一つの私たちも本当にへり下って、そして終了と言うときに、
イエス様はそこで雑貨屋との出会いがあったように、
私という人間とイエス様の関係というのはそこで初めて結ばれていく。
ですから私は、この雑貨屋の物語の中に、
イエス様は子の旧説でもって教主がこの家に来ました。
この人もアブラハムの子ですから。
そして人の子は失われたものを探して、救うために来たということをおっしゃったこの言葉。
これがクリスマスの出来事であり、
私たちへのクリスマスのメッセージであり、
雑貨屋のクリスマスはここで彼の中に、それは恵みとなって訪れた。
私は雑貨屋が、
昨日から今日の雑貨屋に帰られたというこの素晴らしい出来事、
これが彼のクリスマスであり、
クリスマスはそこに雑貨屋の変化というものをもたらせた。
今日私たちはクリスマスを迎えてまいりますけれどもね、
本当にクリスマスを通して、
自分もまたこんな風に帰られたという恵みをしっかりと受け止めていきたい。
このルカニオル福音書の2章の19説、
そこには有名な教ダビデの町に、
39:00
あなた方のために救い主がお思いになった。
この方こそ主なるキリストである。
教ダビデの町に、
雑貨屋はここで教救いがこの家に来ました。
文字数としては少ないですけれども、
しかしイエス様が、
あのルカニオル福音書の2章においておっしゃった、
教ダビデの町に、
あなた方のために救い主がお思いになった。
この方こそ主なるキリストである。
私たちもこの今日という大切な恵みの日が、
このクリスマスを通してそれぞれに与えられている。
そのことを本当に心に留めていきたい。
さらに言うならば、
イエス様という方は、
昨日も今日も、
いつまでも変わることなく、
私たちと共におられる。
そのことをヘブルビという記者はそこに述べております。
このクリスマスという大切な時に、
その日を迎える私たちに、
この今日という恵みの祝福の日が備えられていると感謝したい。
そしてまた、私たちはそれをしっかりと受け止めていきたい。
お願いいたします。