00:02
おはようございます。
今日、ひとつほっとしたことがあります。
録音がないみたいです。
知らんの?
それはまた大きなプレッシャーになりました。
精一杯やらせていただきます。よろしくお願いいたします。
お祈りいたします。
主が家を建ててくださるのでなければ、建てる者たちが働いても無駄である。
愛する君のお父様、
あなたが今、志希望を挙げてくださり、振り下ろしてくださいます。
主よ、どうぞ、あなたが書いてくださったこの歌を最後まで歌うことができますように。
あなたが全てを納めてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。
私の昔の商売は、
方々に教育をするということがひとつの大きなことでした。
ですから、また10年以上経って、こういう形で皆さんにお話ができるということは、
昔に戻ったような、10歳、15歳、若返ったような気分になっています。
その時はですね、スライドも全部一人でやっていたのですから、全然苦になりません。
またちょっと今日のスライドはね、入り組んだ形になるので、
独自に教えてください、教えてくださいというような形の説明もできませんでしたので、
全部自前でやらせてもらいますので、よろしくお願いいたします。
今日、2本立てになっています。
全体で25分で終わりたいなというふうに思っているのですけれども、
前半は、韓国の、
キム・ビュンさんという牧師が、小屋政界よりももっともっと大きな、韓国のダニエル気筒会、
この場合はダニエル青年気筒会なんですけれども、そちらの方で語られたものを、まとめたものですね。
それについて前半、後半はそれを踏まえた形で、私の明かしとい形でお話しさせていただきたいと思います。
話しても、なかなか覚えられないと思いますので、
今日、こういう形でスライド8枚ばかり準備していました。
私が語るのを落としてしまったらまずいなと思いましたので、ここに大事なことは全て書かせていただきましたので、
メモを取るなり記憶するなりしてください。
このキム・ビュンさん牧師というのは、ソウルの南側の郊外にあるベッドダウンですね。
ルンダンという教会の牧師さんらしいです。
今回はその方の種本がありまして、カエルアイドルマン、ノットアファンという、
03:02
そういうような本をもとにして先生の経験明かしを踏まえて紹介するという、そういうようなすり立ての講演でした。
7箇条というふうになっているんですけれども、実際、講演で言われたのは4つだけでした。
それここに書いてありますので、これが前半の結論になります。お読みしますね。
ファン化でしかその身勝てる基準というものは、
1番目、神様の心を知っているか。
2番目、口先だけか、それとも行動するか。
3つ目が、知識だけか、それとも親密さか。
4番目が、イエス様は多くの愛人の一人なのか、それともたった一人の愛する人なのか。
これがファンと弟子を見分ける基準になるという形でお話しされています。
では、前の結論に入るんですけれども、あなたはイエス・キリストのファンなのか、弟子なのかということを問うています。
コロナ前の証なんですけれども、先生の教会に若い夫婦の方が訪ねてこられました。
その方々たちが話したことが印象に残っているそうなんですけれども、
文壇、韓国はもう30%がクリスチャンですからね、ものすごくたくさんの教会があります。
文壇にも多くの有名な教会がありました。
その若い夫婦の方はぐるっとひと回りして、それから自分たちが行く教会を決めようとされていたそうです。
ただし、一つ心に思っていたことがあって、
どの教会であっても、見言葉を聞きながら心がつらくなる教会を与えてください、というふうに祈ったそうです。
それはこういうことですね。
私たちは、あれ?やっぱりひとりでは悪い。
私たちは心にあるものだけをつらく見言葉がある。
それが仮に清書の見言葉であっても、それを拒否してしまいます。
要は聞きたいことだけを聞くということですね。
それが私たちの本性だというふうにおっしゃっています。
で、今日は、これは私のことではなくて、リュウさんと私の話なんですけれども、
今日このメッセージを聞いて、心が痛くなる見言葉を教えてください、
ということを私たち、そしてひとりひとりに祈っていただきたいということでした。
06:01
韓国の教会は、史上、例を担うほどのリバレーションを生きています。
他の人たちに、逆に言うと、今の教会は、
それはリュウさんとして、若い人たち、
それは今の若い世代のリバレーション、
それらの若い世代が、ファンとして生きていることと、
生きることは、全く次元の違う問題である、というふうに語っております。
今朝、一番最初、ガリアの風、香るお風という歌、私が選んで賛美していただきましたけれども、
あのガリアで、イエス様は多くの奇跡をなされました。
5つのパンを咲き、2匹の魚を咲き、そして5000人以上の、
総勢2万人に泳ぐのではないかと言われる方々を助手にありました。
ペトロニーは、水の上を歩くということまで、させることができました。
もう熱狂的な形で、人々はイエス様のとに群がり寄りました。
でも、イエス様が本当の弟子の道を一つ一つ語られると、
一人去り、二人去り、三人去り、残った方はほんの少しになってしまいました。
09:05
これは一言ではなくて、私たちにも言えることです。
私たちは本当の弟子なのか。
あのガリラ屋の近辺にいた人々のように、ただ熱狂して、
イエス様から何かを言おうとする群衆の一人に過ぎないのではないかということを問われています。
本当に耳の痛い言葉ですね。
次に、ジョークかなと思うんですけども、一つ小話が入っていました。
50代になって体が痒くなるそうですね。
ビュンさん牧師はシャワーを浴びた後に、痒み止めのためにボディーローションを塗っているそうです。
ある朝のこと、いつものようにシャワーを浴びてローションを塗ろうかなと思ったら、ローションが切れていたそうです。
そこで、あ、そうだ、アメリカ見上げでいいローションをもらったんで、それを塗ろうということで使った。
香りも色も似ている。
でも塗ってみたら、何か変だなというふうに思ったそうです。
ちょっとベタつくし、そのベタつきは一日中続いたそうです。
そして夜になってシャワーを浴びたら、奇跡が起こったそうです。
水を体に当てると、次から次と泡が出てきて止まらない。
分かりました、ジョークという方ね。
実はそれは、ボディローションではなくて、ボディシャンプーだったんだそうです。
ここでおっしゃっているのはね、誤っているローションではなく、ボディシャンプーを塗ってしまいました。
似ているものはじっくり見ないとわからないということなんですね。
クリスチャンの持つ大きな問題の…
はい。
12:53
3つ叶えてくださいます。
3つだけなんですけどね。
それが叶った後、ジニーはすっとランプの中に隠れてくださいます。
もう二度と会うことはありません。
本当にシンプルな簡単な付き合いです。
イエス様はどうでしょうか。
イエス様は私たちの願いを聞いてくださることもあるし、聞いてくださらないように見えることもあり。
ジニーと違うのは、そうであっても私たちはイエス様とずっと一緒に生きていかなければならない。
ジニーに比べたらものすごくめんどくさいです。
願いだけ聞いていなくなってしまったらどんなにか、なんと思ったら罰がたるかもわかります。
私たちはイエス様をどのようにして見ているでしょうか。
信仰生活の深いところで、私たちは神様を人格的に見ていずに、
ジニーのように私たちの願い事を叶えてくださる存在、このように見ているのではないでしょうか。
私の言葉です。
恵みの自動販売機。
言葉ちょっときついですかね。
私はイエス様を信じています。
こんなに熱心にイエス様を愛しています。
というような熱心な自分の姿を見るのではなく、イエス様と人格的につながること。
これが弟子である。
ファンの関心は自分の祈りがどれだけ応えられるか。
でも弟子の関心は、イエス様のためにどれだけ多く私は手放すことができるか、というふうにおっしゃっています。
今までは口先だけが、今まで何度も言いましたが、常にほっとりイエス様を。
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イエス様は好きだけれども、絶対に損はしたくない。
じゃあイエス様のために損はできる。
損はできる。
一つあるのでは。
そして、逮捕され、叩かれ、石で打たれ、そして体に多くの傷を負いました。
パウロの体には、イエス様のせいで打ち打たれた跡がたくさんたくさんあったと思います。
一つ一つでは、ものすごく痛みを伴ったものだろうと思います。
イエス様に使わされた人々には、損をした傷、そして信仰を固くする傷がある、というふうにおっしゃっています。
イエス様を信じ、自分の人生に傷を負うこと。
キリストの傷跡を持つこと。これが大人の生徒、弟子の特徴であると、このようにおっしゃっています。
人生の基準はお金ではありません。もっと大切なことがある。
信仰の傷跡を持って生きること。これが弟子である。これがなければ弟子ではない。
犠牲と十字架を負わない時、ただのファンの死。行動のないところ、犠牲はありえません。
3番目は、知識だけか、それとも親密さか、ということなんですけれども、神様を知る知識だけでは、絶対に弟子にはなれません。
ファンは何でも知っています。そして知ることに犠牲を払うことは厭いません。
しかし知識は知識。聖書をどれだけ勉強して多くの知識を持ったところで、イエス様との親密感を持たずして弟子ではありません。
主の知識、イエス様について口で言うだけ。先ほどの行いは伴いません。知識は信仰にルールを与えるだけです。
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イエス様との親密感、親密でありますからイエス様の心を知らなければなりません。そして主との親密感は既存のルールを破ります。
私たちは知識を多く持っています。毎週毎週日曜日、私たちはどのような態度で出会うをしているでしょうか。
新たな知識、感動する話に満たされるために来ているのではないでしょうか。
この知識は私たちを既存のルールの中に閉じ込めてしまいます。その既存のルールの中にはイエス様はおられません。
立法学者とパイサイ人の人々、一生懸命線を引きました。そしてその線を守ることをユダヤの人々に求めました。
イエス様はどうでしょうか。神様の心はどこにあるのですか、というふうに語りかけてくださいます。
故にイエス様とパイサイ人、立法学者はぶつかり合うということになりました。
二つ目の証なんですけれども、ユンサム先生を仏師、仏会されている教会の私術礼拝、一人の青年が訪ねてきました。
礼拝が終わった後、その青年が仏師を訪ねてきました。そして衝撃的な言葉を言いました。
仏師先生、生きたいのです。生きる死ぬの。生きるですね。そのようにつぶやきました。
仏師は彼を抱きしめ、祈り、そして精霊に悟され、仏師師父に招きました。
彼は酒を飲んでいました。体から臭いをプンプンさせるので、エレベーターの中で口ごとを隠していました。
ユンサム仏師は言いました。大丈夫だよ。手を下ろしなさい。すると青年は言いました。酒を飲んだのに、教会に来てもいいんですか。
仏師は大丈夫だよ。来なさいと言いました。そう答えた理由の一つ、イエス様だったらどう答えるだろうかということです。
知識から言えば、お酒を飲んで教会に来るなんてありえないということですよね。
イエス様が礼拝の講談に言われたらどう話すでしょうか。
君はお酒を飲んでここに来たのか。出て行きなさい。まったくお酒なんか飲んでしょうがない。これがイエス様の気持ちでしょうか。
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教会のルールは大切です。立法知識も大切です。でもイエス様の御心、父なる神の御心を見落としてしまったら、何が残るのでしょう。
神様も信じ、礼拝を捧げています。私たちはそうです。しかし、主の御心を知ろうともしなかったら、私たちは不安でしょうか。弟子でしょうか。
知識が増えても、主との親密さを失ってはいないでしょうか。知識として知っているイエス様ではなく、イエス様との親密な関わりがどれだけあるか。
先ほど言いましたけれども、イエス様、父なる神の御心を見落とすと、私たちはどうなのか。
四つ目、イエス様は多くの愛人の一人か、たった一人を愛する人なのか、ということです。
誠の関係というものは献身を伴います。自己中心的な関係は利益だけを栄養とします。
ルカ14章の25節からお読みいたします。
もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありません。
これはどういう意味でしょうか。イエス様を大事におきなさい。
これだけではないというふうに金牧師は言っています。
イエス様を大事におくのではない。イエス様のほかに異番目を作らない。
私たちはファンであっても弟子であっても、人生の決定的な瞬間を迎えます。
もうどうにもならない。絶対絶命という時は必ずやってきます。
そんな時、誰の名を叫びますか。
イエス様は私たちにとってどういう存在ですか。
最後の令和になるんですけれどもね。
ある女性と結婚するという場面を考えてください。
愛の告白をする時、君だけを愛すると言いながら、財布の中に、ここに君の写真があるでしょう、という形で写真の束、一番上を見せたとします。
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一番目は結婚しようとしている女性の写真なんです。
二番目以降に十枚二十枚と過去付き合った女性の写真があったらどうでしょうか。
いやもう二番目以降は終わった関係なんだよ。君だけだよ。
もしそういう風に言ったとしても、その女性の方はどんな気持ちになるでしょうか。
大事なことは、下の人たちが跡形もなく消えていること。
その女性の写真だけが残っているというのが、愛の証ではないでしょうか。
もう言うまでもありません。
これがイエス様の他に二番目を作るなということです。
長くなりました。
リュウさん牧師の講演、これ実は一時間近くあるものなんです。
それをこれだけにまとめたので、なかなかついてきづらいと思いますけれども、
結論は最後に書いてあります。
主が呼ばれ、主の弟子とされ、十字架の恵みに生きていく。
この恵みがとても大きく、ありがたく、私にとって何者にも変えがたい恵みです。
このように告白できるとき、私たちは弟子になるのだろう。
証拠は残らないようにしたいと思います。
これは役員会でも言わなかったオリジナルの部分なので、役員の方はよくお聞きください。
コロナで3年目が過ぎつつあります。
私の信仰はどうかというと、教会で例外がなくなった、教会が閉じられたといったときには、
どうしよう、私の信仰は大丈夫かな、なんていうふうにちらっと思ったことがありました。
幸いうちには相方がいますのでね、
二人で信仰を楽すということは、一人で信仰を持つよりも力だったんだろうというふうに思います。
ソフトのプログラムがバージョンアップするときに、1.0とか2.0だとか、色々上がっていきますけれども、
私の信仰は1.0だったものが、このコロナの感染を通して2.0にバージョンアップすることができました。
どういう意味?
祈り、御言葉、礼拝、ユン先生の三点セット、これが身にすみる、身にすくということが、
27:05
信仰2.0という形で、私は勝手に提起しています。
そういう時になって、私は自分の信仰を振り返ってみました。
1.0の時、何が足りなかったのか、何が弱点だったのか、
それは悔い改めと祈り、この二つが極めて弱かったことだというふうに思いを与えました。
悔い改め、これは先ほどのリュウさん牧師の話にもありましたけれども、
聞きたくないことの第一なんですね。
教会に来ても悔い改めはもう大っ嫌いです。
この教会のメッセージでも、なかなか悔い改めのことを語ってくださる牧師は、そんなにそんなに多くはおられません。
ゼロではありませんけどね。
こういうような形で、私は自己弁解と言いますかね、自己正当化をしました。
セレを受けた時に悔い改めたはずだよ。
それで私の罪は全て帳消しにされているんじゃない。
日々罪は犯しますよ。
でもそれはイエス様が神様の下で取り成していてくださるんでしょう。
なぜそんなに悔い改め、悔い改めって言うんですか、というふうに私は思っていました。
国を伝えなさい、伝導しなさい。
私の若い頃は一生懸命思っていました。
イエス様が備えてくださった素晴らしい恵み、それはもう目の前に地平線がないくらいに大きな大きなものでした。
その恵みを一つ一つ数え上げ、味わい身につけるためには本当に時間が足りませんでした。
そして人々に伝導する福音を伝えるためには何も悔い改めなんてことは言わないで、
教会がすごいところだよ、イエス様は素晴らしいよ、来てみないという方がはるかに人を誘うためには魅力的です。
私はその罠の中にとっぷりと落ち込んでいました。
2番目、祈り。
これもまた弁解ですね。
イエス様は祈る前にすべてはご存知なんでしょう?
1時間も2時間も祈るのも、1分2分祈るのも同じじゃないの?
イエス様は常に最善を成してくださるんだから、
1時間、2時間、3時間、4時間、祈ることにどれだけ意味があるんですよ。
それよりはもっともっと勉強し、イエス様の前に働く。
30:01
そっちの方がもっと大切だ。
そういうような罠に私は陥っていました。
聖書66巻、学ぶべきことは山ほどある。
奉仕のためには時間がどれだけあっても足りない。
そして私がキス教に入ったきっかけというのは、
人を完全に作り変えてしまう神の力、それは何なのか、
これを極めるために私は教会に来ました。
そのためには悔や悩や祈りに割く時間はありませんでした。
知識最優先の道、先ほどもありましたけれども、
その道真っ白に突き進めました。
結末はどうなったんでしょうか。
神の御心を知らない、神との親密さに触れた、
神より自分の正義を優先する、
知識に膨れ上がったクリスチャンが、
独りよがりのクリスチャンが誕生しました。
これが皆さんが見てくださった私の姿です。
クロス兄弟はすごい熱心だ。
よく学んでいる。
でも実は、バージョン1.0の取るに絶えない欠けたクリスチャンだった。
その結末が、5年間この教会から離脱したということになってしまいました。
今からもう十二、三年前になりますかね。
5年間教会を離脱しました。
今だから5年間と言えるわけですけれども、
離脱した時には、もう一生この教会には戻ってこないだろうなと思っていました。
私にとっては地獄の5年間でした。
今68、今年の8月で69になるんですけれども、
人生のどん底、最も苦しんだ期間、それが5年間だったろうなと。
これがあるかもわかりませんけれども、今はそう思っています。
その教会を離れて、おもにから解放されて、私は何のために生きてきたんだろう。
私が生きた証、後というものをこの人生に何を残していったらいいんだろうかということを考えました。
それで二つのことをしたんですね。
最近の私をよく知っている人は、はがんと思うんですけれども、
マラソンと合唱、42.195キロのゴールの向こうにどういう世界が見えるんだろうかということが私の一つの興味でした。
33:00
59巻マラソンを始めて、40以上のフルマラソンを完走したので、
当たり前な人には当たり前なんですけれども、知らない人にとってはすごいことをやりました。
ただし、私にとって価値あることは、42.195キロの向こうの世界ではありませんでした。
30キロを過ぎると、誰も走れなくなります。
もう苦しみにもがきながらゴールを目指すんですけれどもね。
そんな時に祈りました。
神様、力を与えてください。ゴールをさせてください。
神様はその願いを叶えてくださりました。
神様と走ったフルマラソン。
それから合唱の方は、もう若い時からおだてられました。
いい声してるね。
自分はね、ハエルがうなっているような声しか頭の中では聞こえないんですけれども、
他の人にはそうではない声が聞こえるようで、それは幸いなことではあるんですけれどもね。
そこで、声学、発声、発音、ハーモニーを教えていただきました。
才能に磨きをかけていただきました。
でも学んだことはこうです。
指揮者の指揮棒を見ること。
自分が一生懸命練習し、難しい歌を歌えるようになることは、これは当たり前のことなんです。
でも指揮者がタクトを振った時に、その指揮棒を見て、その通りに声を出す。
どんなにいい声でも、どんなに大きな声でも、指揮棒と全然違う声を出したら、これはもう継続でも何でもなくなってしまうんですね。
教会を離れた5年間、私の自分自身のために生きた5年間なんですけれども、このことを教えていただきました。
5年間、堂々と冷静の訓練の機会ではあって、今考えると恵みの時ではあるんですけれども、その5年間は先ほど私が言いましたように、地獄のトンツホの5年間でした。
創世紀50章20節にヨセフの言葉があります。
あなた方は私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。
それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。
私が教会を離れたのは、私の悪、身から出た罪のゆえです。
しかし、そういうようなことで歩んだ5年間だったのですけれども、神様はユン先生が不在になった今、地理魅力ながらも私をこの教会で用いてくださるために呼び戻してくださり、5年間訓練してくださったのではないかなと思い上がり、うのぶれかもしれませんけど、そのように思っています。
36:12
5年間この教会には来ませんでした。
でも、2つの教会に行っていました。
その教会に行った時には、いやだなと思うんですけれども、明太に家帰りなさい、明太に家帰りなさい、ということがしつこくしつこく胸の中に、頭の中に響きました。
繰り返し繰り返し、何度も何度も響きました。
でも私はもう失敗ですからね。
湯種教会には帰らないという形で固くなり、すっぽんでいたのですけれども、ある時に節子が教会からトラクトを持って帰ってきました。
今井会館で行われるフルート演奏会ですね。
私はフルート大師だということをユン先生は知らなかったそうなんですけれども、
どうもそれで招いてくださったみたいです。
明太教会がないんだったらいいかなと思って、今井会館に向かったんですけれどもね。
今井会館とテニスコートの間の細い道、ご存知ですか?
あそこを歩いている時に、小柄な黒ずく目の女性とすれ違いました。
その方は私の前で立ち止まるとね、目をうるうるとしているんです。
誰だろう?浦田さんじゃないよな。私の知らない人だと思っているんですけれどもね。
あれだと思います。小柄な黒ずく目の女性。
半野先生だったんです。一度も会ったことがないんですよ。
どうも私を写真で見て覚えてくださっていたみたいで、私のことがわかったみたいで、
来てくれたんだということで目をうるませていてくださいました。
それが私と半野先生の最初の出会いでした。
私と半野先生のメッセージというのは生で一度も聞いたことがありません。
すべて節子がボイスレコーダーで録音したものを家で聞かせていただいただけなんですけれども、
半野先生との出会いは私の言い方を大きく変えました。
そのメッセージはまさに衝撃。
先ほどユン先生は、祈り、見言葉、出会い、三転生と言いましたけれども、
半野先生の三転生とは、精霊、叫び、悔い改め。
39:03
私は信仰2.0のバージョンアップというふうに言いましたけれども、
真髄はこれかなというふうに思っています。
悔い改め、先ほど聞きたくもないという話をしましたけれども、
悔い改めとは自分を癒しめることではないということですね。
土暮れにすぎぬ自分を認識すること。
そして思考の神を認めること。
そして神がすべてを通し、その方に委ねるというのが本当の姿。
それが悔い改めの意味であるということを、
半野先生の生き様、メッセージを通してもらわせていただきました。
もう一つの弱点、祈りについてはどうかということですけれども、
神様と時間と場所を共有する祀福の瞬間である。
地上にあっても天上にあっても、
クリスチャンが用いる最高の祀福の瞬間、
それが祈りであるということを悟りました。
神様は祈るために私たちを創造してくださいました。
マルチン・ルターは1日1時間祈っていたそうです。
そしてある日、聞かれたことあるでしょう。
今日はものすごく忙しい。
だから今日は4時間祈らなければならない。
考えられないですよね。
忙しいんだったら祈り15分にして、
あとは一生懸命仕事をした方がいいと思うんですけれども、
その心は私はこういうふうに思っています。
人間の知恵でやったってたくが知れています。
間違っています。
あとからやり直しなんだかんだで、
ものすごく時間がかかってしまいます。
それなら最初から一発で神様の御心を成す。
最高の解決策を直接神様から4時間祈っても与えられて、
それを実行することは最高である。
こういうことなのかなというふうに最近思っています。
で、今朝、金平山牧師の奨励がありました。
弟子となるための道ということで、
結構長かったですけど、紹介させていただきました。
私のように、家主か夫婦と弟子となるための道、
それは祈りの中に秘訣がある、こういうふうに思います。
神の願いを知り、神が求めることを知る。
そしてそれを実行する。
神の中に自分を埋める。
神様しかおれない。
42:02
神様と親密な時を過ごす。
イエス様だけがただ一人の愛する人。
祈りが弟子になるための道である。
今時点でそう思っています。
ダニエル書6章10章に、
ダニエルはその文章に署名されたことを知って、
自分の家に帰った。
その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。
彼は以前から知ったように、日に三度下まづき、
自分の神の前に祈って感謝を捧げた。
これが信仰、神への祈り。
このようにありたいと思います。
その結果、6章26、27節には、
私はここに命じる。
私の支配する王国においては、どこでも、
ダニエルの神の前に震えおるわけ。
この方こそ生ける神。
永遠におられる方。
その国は滅びることなく、
その主権はいつまでも続く。
この方は人を救い、助け出し、
天においても死においても、
しるしと奇跡を行われる。
実に、死しの手からダニエルを救い出された。
こう語っている方は誰でしょう?
クリスタンではありません。
日本人の王、ダリオスです。
では、ダニエルように祈るとき、
神様を知らない人たちが、
私たちの姿を見て、
このように告白して下さるか。
言えないかも分かりませんけど、
神様に祈っていきたいと思っています。
最後の祈りなんですけども、
自分がしなければならないことを、
全部してしまったら、
私どもはつまらぬ仕事です。
成すべきことをしただけです、と言いなさい。
神様が全てを支配する試験者であって、
私たちは死の上に責めないのだ、
ということを信じるところに、
生きた本物の信仰は、
神様の皆を称えます。