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2024-02-04 19:36

2024/02/04:蒔き続けるイエス様

2024/02/04 聖日礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 8:4-15


サマリー

「種まく人のたとえを通して、イエスさんはすべての人に届くという愛を示してくださいます。イエスさんは効率的な収穫を求めず、心の状態に関係なく神の言葉をまかれます。私たちはイエスさんの愛と神の言葉によって結ばれ、変わることができます。そして、私たちは種まく人として召されています。」

種まく人の特徴
一言お祈りをさせていただきます。
天の父なる神様、今日も尊い皆を心から崇めます。
お一人一人を主の御前へと招き、また今朝は、富永先生を通して成してくださった主の御業をお聞きすることができ、心から感謝を致します。
そしてまた、先生を尊くお用いてくださった主は、また先生に新たな季節をお与えになって、日本へとまた帰ってくる機会を得ました。
しかしそれは、何も止まったことではなく、何かが終わったことではなく、全て主が先生を通して、なおも同じ目手をもって導いておられることと信じ、感謝を致します。
先生の御働きをなおも豊かに祝福し、先生に与えられたビジョンに、本当に先生が向かうことができるよう主が励ましてください、強めてください、お願いを致します。
私たちは今朝、またあなたの御言葉を聞こうとしています。あなたが御言葉を開き、私たちにあなたが悟らせてください。
主の御業を聞きます主をお語りくださいと、あなたをお送ることができますように、この一時を導いてください。
また、ここには集えない大勢の兄弟姉妹がいること、自宅で礼拝を守っておられる方々がいらっしゃること、施設におられる方々がいらっしゃることを覚えます。
お一人一人に今日も変わらず、主がお望みくださいますように、お願いを致します。これからの時を見てに委ね、イエス様のお名前によってお祈り致します。
アーメン。
富永先生、本当に選挙報告ありがとうございました。
私もお伺いしながら、御言葉の御奉仕だけではなくて、本当に女性の方々への教育、そのような尊い御働きもされていて、
選挙といいますと、私たちは聖書の言葉を伝えるということをよくイメージをするのですが、決してそれだけではないわけです。
イエス様の愛が伝わっていくこと、イエス様の姿がその人を通して伝わっていくこと、それは選挙、すでに選挙。
そういう意味で先生のお働きを聞きながら、本当に選挙をなさってきてくださったんだなということを覚えて感謝をしています。
今朝は種まきのたとえを御一緒に聞かせていただきたいと思って開きました。
イエス様は弟子たちに対して多くのたとえ話をなさったんです。比較的このたとえは有名なものでしょう。
皆さんもよくご存知かもしれませんが、さらっと内容を確認をしますと、種まく人が種まきに出かけたわけです。
この方は至る所に種をまきます。道端や岩地、茨の中、そして与一に種がまかれたということが言われます。
種は与一にまかれると100倍もの実を結ぶ力のある種であるとそのように書かれている。
しかしこのたとえの通り、まかれる土地によって実の結び方が全然違うということが言われるわけです。
与一にまかれればこの種は100倍もの実を結ぶ力があるのだけれども、最初の3つの土地には問題があって、上手に実を結ぶことができないということが言われている。
イエス様のたとえ話ってわかりやすいようでいつもわかりにくいなと思うのですが、この箇所に関しては例外的にイエス様の解説があります。
このたとえは何を語っているのか9節15節に書かれていますが、このまかれた種というのは神の言葉であると言われます。
そしてこのまかれた4つの土地というのは神様の言葉を聞く一人一人の人の心を指しているということが説明をされるわけです。
このまかれた種というのは心であると。そうであるならば言い直すとおそらくこういうことだと思うんです。
心が道端のようであるというのは神様の言葉、御言葉ですよね。御言葉を聞いて素晴らしいと一瞬感動するんだけれども、すぐにその感動に疑いや言い訳というものをサタンがささやいてくる。
それで感動した心がすぐに冷めてしまうということでしょう。心がいわちというのは御言葉を聞いて根付きをしようとする。真摯燃やされる。
先週新年正解で私たちも燃やされたわけですけれども、何かを決心するのだけど、でも帰ったらうまくいかない現実がたくさんあるわけです。
ここでは燃やされた。でも帰ったらいろいろなことがあって、それ以上根が深く根付かない、夢から覚めたように決心を手放してしまうということがある。
心が茨のようであるとは、聖書の言葉を聞いて、それこそ長い信仰生活の中で聞き続けて受け止めるのだけれども、書いてある通り、
生活における思い患い、富や快楽で塞がれて、心に絡みつく、離れられないものに御言葉が絡み取られるということです。誘惑であったりプライドでしょうか、実績という経験、そのような偶像でしょうか。
手放せないものがある。そして最後の心が良い土地というのは、立派な良い心で御言葉を聞いて、それをしっかり守り、忍耐してやっと実が結ばれるということがここに書いてあるわけ。
この例えを聞くと、私たちみんなこう問われるような気がするのです。さあ、あなたの心はどうでしょうかと。どのような土地でしょうか、どのような心でしょうか。
皆さんは今どうですかと、私たちは問われるような気持ちになる、そのような例え話です。ただ、私自身の告白をさせていただくならば、情けない話ですが、私はこの例え話を聞くたびに、私の心は良い土地ですと堂々と言えた試しがないです。
むしろ、この例えを聞くたびに、私の心の中にあるカラスの攻撃が思い当たります。根づかせないような固くななイバチというものが私の中にあることを見せられます。心を覆うイバラなんか、あれもこれもと思い浮かびます。そういう存在が思い浮かぶ。
いろいろな土地の心
それがむしろ鮮やかに示されるような気を私はするのですけれども、皆さんはどうでしょうか。もしかしたらこの話を聞いて、私はこうだ、私はああだということを思われるかもしれません。
けれども、イエス様はこの例え話を語ったときに、ほら見てごらん、あなたはちゃんとした良い心で御言葉を聞けないから、だからダメなんだみたいなことを言うためにイエス様はこの話をされたのでしょうか。
あなたはダメだ、あなたもダメだ、あなたもダメだ、だからもっと良い地になりなさいということを言うためにおなじをなさったのでしょうか。私はそうではないと思っています。
むしろこの種まきの話というのは、マタイにもマルコにもルカにも書かれているのです。おそらくイエス様が何度も何度もよくお話しされた話なんですよ。
それはなぜよく話をされたかというと、人々の前で私はこういうものだと自己紹介をするために話された話なんです。私はこういうものなんだ、この土地はダメだということではなくて、
イエス様は私はこういうものだと自己紹介するために話した話なのではないかなと思うんです。
なぜかと言いますと、実はこの話に出てきます種まく人、5節に種をまく人が種まきに出かけたとありますが、この人は実に変わった人物なんですね。そうではないでしょうか。
彼の行動を見ていますと、実に非効率的と言いますか、無駄な巻き方をするわけですね。私はほんの少しだけですけれども、昔野菜を育てた経験があるんです。
種を植えて、そこから芽が出ていくための作業というのは、ものすごく繊細な作業なんですよ。ちゃんと丁寧にその度に水をあげるだとか、種によっても水をあげる頻度が違うだとか、
実に丁寧な作業を要するわけですね。種がそういうものであるならば、言うまでもなく道端であったり岩地であったり、茨の中に何か種をまいても芽なんか出るわけないんです。
収穫だけを見込むならば、そんな場所にまいても無駄なんです。けれどもこの種まく人は、良い地にまいたのと同様に見栄えなく種をまくんですよ。
見栄えなく種をまいていく。道端にも岩地にも茨の中にも種をまいていく。収穫だけを見込むならば、無駄遣いです、種の。
この種まく人は無駄遣いをするんです。荒唐するかのように種をまく。気前よく種をばらまいていく。効率的な収穫などを気にすることもせず、まるで種をまくこと自体が楽しくて仕方がないかのように。
この人は種をまき続けていく。子供のように無邪気に楽しく種をまいていく。実はこの種まく人とは誰のことでしょうか。先ほども言いました。これはイエス様のことなんです。イエス様です。
イエス様はこの種まく人と同じように、とても気前よく神の言葉をまいたお方なんですね。そうではないでしょうか。
イエス様は例えば、当時の人たちが身向きもしなかった病人であったり悪霊好き、そんなところに関わって一体何の意味があるのか。そう思われるような人たちにも関わり、神様の愛を示されました。
またイエス様は最初イエス様に親しげに近づきながらも、後にはイエス様を妬み、裏切り、訴え始める、パリ西派や立法学者という人たちにも同じように神の言葉をまき続けました。
ある人はその言葉を聞いて信じましたし、ある人は同じ言葉を聞いて妬み、イエス様への殺意に駆られました。しかしイエス様ご自身は結果などを気にすることのないかのように、イエス様は神の言葉をとことんばらまいていかれたんです。
神の言葉を語り、とことん神様の愛で両者に関わっていかれたわけです。なぜでしょうか。効率的に身を結ぶ、効率的に選挙を成功させるだけなら、神様を信じそうな人だけを相手にすればいいのではないでしょうか。
でもイエス様はすべての人を愛しておられたんです。すべての人を愛しておられた。そしてご存知なのです。その人の心が道端であろうとも岩地であろうとも茨の中であろうとも、どんな土地の心の人であっても、神様の言葉が神様の愛が供養な人など一人もいないんです。
イエス様の愛と神の言葉
誰しもが神の言葉によって身が結ばれ、神様を知る必要がある。誰しもがそうだと。その愛の広さ、長さ、高さ、深さ。神様が、イエス様が、あなたをどれほど愛しておられるかということを知る必要があるわけです。
このことをイエス様はよくご存知なのです。だからイエス様は種をまかれます。どんな人の心にも。そしてそれは今も変わらない。イエス様は今も生きておられるわけですよね。
そして今も私たちの心に神の言葉を、それを通して示される神様の愛というものをきまいよく巻き続けられる神様、イエス様なんですね。私たちがこの例え話から知らなければならないのは、自分の心の状態、自分の土地はどういう状態か。
確かにそれも大事かもしれませんが、それ以上に大事なことは、そういうような健康診断的なものではなくて、むしろ今私の心がイワチのように固まっていても、茨が生い茂り、カラスが展開をしていたとしても、御言葉に力がないとそういう実感に苛まれる時であったとしても、
イエス様はそれでも今私たち一人一人に神の言葉を語っておられるということです。どんな心であろうとも。そして私たちがそれを今聞けないな、実感がないなと言って、イエス様は変わらないんです。語り続けて、関わり続け、愛を表し続けて下さい。
私たちが知らなければならないのは、そのような神の愛を語り続けておられるという事実です。今も神は変わらずに、私たちに語り続ける。私たちの心は変わります。時に素直に聞ける良い土地の時も、なんかあるんです。あるんですけども、茨にもイワチにもなるし、変わりやすいのです。
でも知らなければならないのは、変わらないのはイエス様は変わらないということです。イエス様は変わらない。イエス様は変わらずに私たちを愛し、響かない私の心に、気前よくも恵み深く御言葉を語りかけ続けて下さる。その事実は変わらないし止まらない。
そしてこの種は良い地にまかれると百倍もの実を結ぶ力がある種です。神様の言葉には力があります。聖書の言葉には力がありますし、でもこれは聖書の言葉もそうなんですけれども、先ほども先生のお証を聞いて思いました。
神の言葉となってキリストの愛を表す一人一人の関わりを通しても、神様は働かれる。そこにも人を変える力が、そこにまかれる種が確かにあるんですね。そして神様の言葉は実を結ぶと百倍も成長します。
どんなに今、良いものが自分に見出せなかったとしてもです。私たち時々そんなのあるんですけど。もうなんか私なんかダメやって、御言葉も響かへんっていうのがあるわけですけど。どんなに今自分の中に良いものが見出せなかったとしても、神様が私の中に実を結び始めて下さるならば、変われない人間なんかいないんですよ。私たちはいつからでも神の言葉によって作り変えられることができる。
最後にもう一つだけ確認をしておきたいことがあります。
御言葉によって実を結ばれた私たちは今度は種まくものになるように召されるということです。でもそれはイエス様のような種まくものになりなさいという召しです。
効率の良い選挙というものがあるのでしょうか。私はあまり詳しくはありませんが。あるかもしれませんが、ただイエス様はおそらくそうはなさらなかったんですね。そこにまいて何になる。そんなところにまいても無駄だ。
そう言われるところに出向いて喜んでイエス様は種をまかれたんです。まけば実を結ぶかもしれないけれども、先生がおっしゃってくださいました。まかないところは決して実を結びません。
そして良い土地に落ちれば私ではない神様が実を結んでくださる。良い土地かどうかなんてまいてみなければわからないと言わんばかりに。いいやここにも種は必ず必要なのだと言わんばかりに。
応答するかのごとく種をまいたイエス様の姿を私たちは今朝見ます。私たちはこのイエス様の足跡についていくようにと招かれるんです。このイエス様の足跡。なぜなら神様の言葉、神様の愛、この種が不要な人など一人としていないからです。一人としていない。
実が結ばれなくていい人間など一人としていないからです。そしてまくと、いつかはわかりません。どこかはわかりません。でもまかれた種はどこかで必ず実を結ぶ。そのことを私たちは信じてよいのです。どこかはわからない。いつかはわからない。
でもイエス様がそうなさったように私たちは喜んで種をばらまきたい、愛したいという言葉を伝えたい。そのようなお互いであらせていただけたら幸いだなと思うのです。
種はよい地に落ち、成長して百倍の実を結んだ。神のまかれる種、神の言葉、神の愛があらわすそのかかわり、それには力があります。私たちはいつか結実を見るのです。そのことを信じ、励まし合いながら種をまき続けたいと思います。一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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