00:02
お祈りをお捧げいたします。
女はイエスに言った、私はキリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。
その方が来られる時、一切のことを私たちに知らせて下さるでしょう。
イエスは言われた、あなたと話しているこの私がそれです。
愛する天のお父様、あなたの限りない高な御愛と共に、私どもの罪を完全に許すために、
私どものお見舞いとなって、十字架におかかり下さり、その又とない大切な命を全部お捧げし、
尊い危機を最後の一滴までも、惜しむことなく余すことなく流し尽くして下さったことを心いっぱい感謝いたします。
そして、あなた様の尊い力強い権利あるお名前のもとに集まって、聖霊によってあなたを礼拝できます御恵みを感謝いたします。
御霊と共に御言葉によって今日も誠の神様の素晴らしい御心を悟らせて下さる御恵みを併せて感謝いたします。
父はトマスに、あなたは見たので信じたのですか。見ないで信じるものは幸いですと言われました。
トマスは我が主我が神よと誠の神であり救いにしてあるキリストに礼拝をお捧げいたしました。
私たちもこの肉眼では誠の神様そして聖霊キリストを満たせ祀ることはできませんが、
見たまと御言葉によってあなたをあたかも見ることができるごとく礼拝をお捧げすることができます素晴らしい恵みを心の底から感謝いたします。
03:18
どうぞ聖霊が今日この礼拝堂に充満して下さり、また兄弟姉妹たちの心の内も聖霊の喜びで満ち溢れさせて下さることを信じてお祈りいたします。
今日も尊敬いたしますユン先生ハンナ先生ご夫妻を主がどうぞ守って下さりお子たちの上にも主の御助けがありますように。
この三谷教会の信徒の皆様の中で病んでいる兄弟姉妹、痛みを抱えている兄弟姉妹、そのご家族の上に主の帰りみと慰めと平和をもって追い詰んで下さることを信じてお祈りいたします。
富永宣教師をはじめ国内外のすべての宣教師の先生とそのご家族の上に、またすべてのキリン宗教団体の働きの上に神様の豊かな祝福がありますように、すべての一丁が満たされてまいりますようにお願いをいたします。
非常に困難な時代でございますが、その困難な時代の中で私どもは見るべきお方を見、信じるべきお方をいつも信じ続けることができますように助けて下さることをお祈りいたします。
兄弟姉妹たちの切なる祈り、願い、感謝に合わせイエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします。
このイエス様とサマリアの女のお話ですが、この有名なお話の話題というものが、まず最初は世間話で始まっております。
水を下さいと。ところが世間話から次に道徳的な話に展開してまいります。そして道徳的なやりとりから今度は礼的なお話に展開してまいります。
06:20
そしてやがてサマリアの女の神聖、つまり彼女の救いへと話しと言いましょうか、出来事と言いましょうか、そこまで発展していくわけです。
私はこれまでも何回もこの歌詞を読んだりあるいはお話をさせてもらいましたけれども、イエス様という方は個人伝道のナンバーワンじゃないか、もちろん救い主ですから当たり前のことなんですが、
実に巧妙と言いましょうか、なかなか上手いですよねイエス様は。
例えば前章のニコデモとのやりとりの場合はニコデモの社会的な地位とか教育的な学問的なそういうことも絡めてイエス様はニコデモとのやりとりをしているのですが、
4章に入ってこのサマリアの女とのやりとりというのはニコデモとのやりとりとはまるで違うんですね。
こういうところはやっぱり私たちクリスチャン、私も含めて牧師も神道もやっぱりもっと学ばなければならないところではないかなと。
伝道ということに関してね、私なんかもうすぐに死にますかとかね、罪を悔やかれましょうとか、キリストはまことの神だとか、それは間違いないのですが、
自分自身はどうだったかなという反省を込めて今日の説教を準備させてもらいましたけれども。
このイエス様とサマリアの女との出会い、なんか不思議な感じが皆さんすると思うんですね。
一方は神のニコ、キリスト、一方は言ってみればちょっとこの曰くつきの女性という非常に不似合いな奇妙と言いましょうか、常識的には考えられない場面なんです。
09:18
聖画なんかで、聖画などで私たちはこのお二人の様子を見ますと非常に美しい光景ですね。
聖画は美しい、麗しい、もちろん麗しいのですが、非常に美しく描かれています。
しかし現実はそんなに美しい麗しい最初はですよ、出会いではなかったなと思いますね、見る目、見た目では。
なぜかと言いますと、今申し上げましたように神の御御子と罪深い女。
二つ目は真っ昼間に男性と女性が一対一、当時の聖火習慣から非常にこれは珍しいと言いましょうか、ともすれば非難の的になるような光景なんですね、一人の男女と一人の女性。
その三つ目はこれが一番大きな理由になると私は思いますが、
ユダヤ人とサマリア人というのは複雑な歴史的民族的背景があったというのはちょっと歴史的なお話になりますが、
ヴィーシーつまり紀元前の722年に北イスラエはアスリアに滅ぼされた。
そのアスリア人とそこで残ったユダヤ人が結婚したとね、そこで生まれてきたのがサマリアの人だった。
つまり雑婚という表現はどうかと思いますが、非常に純粋性を重んじるユダヤ人にとってはそれはもうあってはならないことだった。
ですから南ユダ、南王地はユダといいますが、その正当性、純粋性を重んじるユダヤ人にとってはもうサマリア人というのは身の毛がよだつというのはもう顔を見るのも嫌だという、できる限り避けていたわけですね、両者は。
12:18
それでサマリア人たちはゲリジム山という小高い山に独自の神殿を建てまして、そこで彼らなりに礼拝を始めた。
それは南ユダの方々にとってはもう耐えられないことだった。
ですからイエス様がサマリアを通って、どうしてサマリアを通って行かれたのか、わざわざ、実はいくつかの理由がありますが、
一つはこのガレレアへ行くルートには三つのルートがありまして、一番安全で短距離なルートがサマリアへを通って行く道であったと、これは文献で教えてもらったのですが、
私はそれだけでイエス様はサマリアの通る道を選んだのかというと、そうではなかった。もっと深い理由があった。
それはイエス様はサマリアの女性も含めて、サマリアの人たちへ神の御国の福音を伝達するということがあったのではないかと。
今までは前置きなのですが、今日のメッセージの第一のポイントは、私に水を飲ませてください。
イエス様は毎日のように電動から電動に行き巡っていましたから、ヘトヘトに疲れていたということは事実です。
喉が乾くだけではなく、体全体がカラカラになっていたのではないか。
ところが、肉体的な渇きだけではなくて、イエス様は一人の滅んでいく魂に対する渇き、
15:12
何としても一人でも多くの方に神の御国の福音を伝えて救いに導きたいという切なる渇き、
ということを私たちはここで教えていただけるのではないかと思います。
そして、人間の魂の渇き、後で少し詳しく申し上げますが、
人間の魂の渇きというものは、自信のある神様以外には100%絶対に癒されません。
私たちを含めて罪深い人間、全ての人がそうですが、このオサマリアの女性に限らず、
天の父なる神様から命の増し水をいただかなければどうすることもできない。
ですから、イエス様が私に水を飲ませてくださいという、
ごく一般的な話をお願い、オサマリアの女に持ちかけたのですが、
実は本当の満足、本当の幸せというものは、天の父なる神様だけにしかできないんだということを
暗に示されたような気がします。
命の水、それは神様が私たちにくださる本当の愛、本当の喜び、本当の希望、本当の平安ではないかと思います。
永遠の命のことであります。命の水。
永遠の命というのは、神様の賜物です。
賜物というのは、元の意味は、ドーレアという言葉、ドーレア。
これはどういう意味かと言いますと、無料、ただ、無料という意味。
この無料という、ただであるという、これはもう一つの意味がありまして、
ブラッチェという、ブラッチェ、これはもともとはラテン語なんですけど、
18:04
ラテン語からイタリア語に変わったと言いましょうか。
ブラッチェ、ブラッチェというのは、英語で言えばサンキュー、
サンキュー、ありがとうという意味。
無償の喜び、つまりその神の賜物は、無料であり、ありがとうであり、また喜びである。
イエス様が聖書の中で、あなた方はただで受けたんだから、ただで与えるべきであるというようなことをおっしゃってますよね。
この生きる命の水、永遠の命、賜物、無料、ありがとう、無償の喜び、私だけではないと思いますが、
おそらくほとんどの現代人は、その人生においてもう渇ききっているのではないかなと。
多くの現代人はまさにこの聖書に出てくるサマリアの女性、現代のサマリアの女性、
もう渇いて渇いてどうしようもないから、あれやこれや世のものを求めるわけですね。
二つ目のポイントは、私が与える水は渇くことがない。
4章11節でこのサマリアの女性が、この井戸は深いんです。
その生きる水はどこから手にお入れになるのですか。
これは人間の心のこと、もっと言えば人間の魂のことを言っているよ。
この井戸は深い。人間の心というのは本当にはもう計り知れない。
そしてしかも人間の心、人生、不可解なところがいっぱいある。
もうだいぶ大昔の話ですが、キリスト社学生会から出版された
人生の謎という本を読んだことがあります。
人生ほど謎めいたものはないんだ。そして人間の心ほど複雑なものはないんだ。
21:09
私、自分のことを思いますとね、時々、皆さんどうでしょうかね。
自分のことを、私は時々、私って人間ってものすごく複雑な人間だなと感じる時ありますもんね。
本当に複雑な。さっきにこにこ笑っていたら、今度は何かちょっとしたことで怖い顔になったり。
それはもう、ちきんな例ですが、人間って本当に不思議な生き物とおかしいですけども、
不思議な本当に存在だなと。
ですからさっき少し申し上げましたように、この世のものでは人間の深い心には100%届かない。届いてるようで届かない。届いてないです。
神様が作られた場所、肉体だけじゃなくて、一番大事なところ、
つまり神様が命の息を吹き入れられたというお話が出てきますね。
漱石の2章7節。
神がその人の鼻から息を吹き入れた。
ルアハと言います。
そこで人は生きたものとなった。
この生きたものとなったというのは、体が動き出したということよりももっと深い意味がありますね。
人は生きたものとなった。
つまりそれは、まことの主なる神様を信じて、その神様を礼拝することができるようになったという意味が、人が生きたものとなったということになる。
ですから神様が作られた一番大事な魂、その一番の大事だと言いましょうか、素晴らしい場所が、
人間の神様への廃止によって堕落した。
それ故に神様が作られた一番大事な場所、神様がいらっしゃるべき場所、そこがもう空洞になってしまった。
24:01
私の記憶に間違いなければ、人間の魂には大きな深い空洞があるといったのは、正アウグスティヌスではなかったかなと間違っていたら勘弁してほしいんですが、アウグスティヌスだと思います。
だからその神様の作られた、まあわかりやすければこういう丸円があるとして、決してそうではないでしょうか、まあわかりやすく。
この空洞を本当に満たすものは、神ご自身以外にない。
神様が作られたものですからね。堕落した人間、その命を失ってしまった、放棄した。
そこに皆さん、この世のどんな代物を入れても、あれを求めても代替はできない。
だから人は次から次へと、本当の満足や幸せを、つまり言ってみればその空洞になった魂を埋めて満足させるために、一生懸命必死になって求めるわけです。
でも本当の満足は得られない。相変わらず空っぽになっている。
だからイエス様が、この水を飲む者は誰でもまた渇くというのはそういうことなんです。
しかしとイエス様が、私が与える水は、水を飲む者は決して渇くことがない。
私が与える水は、天の水、永遠の命、神の賜物、貞でいただける。
そのアウグスチムスが、人は誰でも神の身元に立ち帰るまでは本当の平安を得ることができません。
ですから、神抜きにしては、このまことの主なる神を抜きにしては、私たちは絶対と言っていいほど本当の幸せや平和、本当の喜び、希望を獲得することはできません。
27:06
イエス様が、ヨハネ7章の37節と38節でこう言われました。
誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖者が言っている通りに、その人の心の奥底から、いける水の川が流れているようになるのです。
ヨハネ4章でイエス様が言っていることとして、そこまで来たわけですが、イエス様が今度はね、道徳的なことに話題を進めている。
彼女が、その前にイエス様が、これを申し上げたいことです。
私が与える水を飲む者はいつまでも決して渇くことがない。
私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水を沸きている。
15つ目、彼女はイエスに言った。
主よ、私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくても良いように、その水を私に下さい。
主よ、彼女がね、イエス様に、19節の主よと言っています。
これは、マイロードとか、マイガード、そういう意味ではないですよ。
これは、一般的に男性に対して、尊敬の気持ちを込めて呼びかけている言葉なんですね。
主よ、と。
だから、この時点では、まだこの女性は、心の根が開かれていないんですね。
まだ、ウォーター、そのそこにある、目の前にある水、ウォーターの、まだそのことに関心があるわけですね。
そして、いよいよイエス様が、申し上げましたように、道徳的な話に進めていくわけです。
イエスは彼女に言われた。
行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。
彼女は答えた。私には夫がいません。
イエスは言われた。自分には夫がない。と言ったのは、その通りです。
ここまで来ると、このサマリアの女性は、ドキッとするわけですね。
30:07
ちょっと、この人、ただの男性ではないな。
彼女が、過去どういう女性であったのか、詳しいことは私たちは分かりませんが、
やはり、ある意味で罪深い性格をしていたということは、間違いない。
どういうことかと言いますと、
彼女は、5人の夫があった。次から次へと男性を変えていったというよりも、
何かの事情で結婚するために、その相手のご主人が何かの事情で亡くなったか、
じゃないかなと私はそう思いますね。
それでまた男性、2人目も亡くなった。何かで。3人、4人、5人と。
でも彼女は、本当の幸せとか満足を男性に求めていたということは、これは間違いないと思う。
でも、私は思いますが、この彼女、このサマリアの女性は、
ある人は売死者だったと言っている人や、私は決してそうは思わない。
非常に不死だらな、次から次へと男を変えた、けしからん女性だとは思わない。
でも彼女は、ここまで来ると、やっぱり自分の過去というものは、決してまともではなかったなと。
やっぱり罪深い生活をしていたなということを、うすうす感じ始めるわけですね。
それで彼女が、私はあなたは預言者だと思い受けします。ただ者ではないなと。
そして彼女の方から、礼的なお話を持ちかける20節。
私たちの先祖はこの山、ゲリジム山で礼拝をしましたが、
あなた方は、礼拝する居場所はエルセレムにあると言っています。
33:04
南王朝のユダヤ人、ユダヤの方々はそうしています。
イエスは彼女に言われた女の人よ。
皆さんここまで来たら、表現は乱暴ですけどね。
ここまで来たら、イエス様はもう私のものであるというような、
そういう段々とですね、本格的に礼的な、信仰的な話に進んでいくわけです。
救いはイダヤ人から出るんですから、22節。
私たちは知って礼拝していますが、あなた方は知らないで礼拝しています。
ですから、礼拝はゲリジム山でもエルセレムの神殿でも限られた場所ではありません。
時間、空間を超えて、どこででもシノミナによって、誠の神を礼拝することができます。
なぜか、その答えが、23節と24節。
真理の御霊の働き。
クロソイキュー兄弟が司会の中でお祈りされていました。
その中で、精霊のことを盛んに仰っていました。
私はそれを聞きながら、本当にその通りだなと。
私のことですが、何十年、救われたからクリスチャンとして何十年、
教会生活をし、しかも牧師生活を何十年かしてきましたけれども、
精霊の存在は信じていますし、精霊が働いていることも信じていますし、
信じてきましたし、今も信じていますけれども、
本当にその精霊の働き、知識ではない、頭ではない。
本当に教会を通し、私を通して精霊が本当に溢れるほど働いていらっしゃるんだという、
そういう経験、どうかな、させてもらってきましたけれども、
それで十分だったのかなというと、精霊が十分だったとかどうか、
そうではない、自分自身は精霊に対する信仰とか姿勢はどうだったかな、
兄弟のお祈りを聞きながら、私は非常に心を刺されたんです。
リエス様がこの23、24で、初代教会以来、その後の歴史を通して今もずっと、
36:08
世の終わりまでずっと精霊は働いておられますし、
存在でも働いておられますし、また精霊は私たちを通して御業をなさっておられる。
礼と誠によって、これは真理となっていますが、これは御言葉のことですね。
神の御言葉、精霊と神の御言葉によって礼拝をすべきである。
知事なる神、子なる神、精霊の神、キリスト教の中心的な主題である三名、
三名一体の神理解がこの御言葉の中に集約されているように思います。
神は礼ですから、神を礼拝する人は、見た目と真理によって礼拝しなければなりません。
そして今日の、呼んでいただいた最後の御言葉に入ります。
ここまで来ますと、サマリアの女性は、ただの男性ではないというどころか、
この方は、もしかしたらキリストと呼ばれるメシアであるのではないかなと、
皆さんそこまでこのサマリアの女の心が開かれてきて、
これは皆さん不思議というのも不思議ですけれども、
やっぱりイエス様を通して精霊がここで働いているということ、
精霊が働いて、またイエス様のお口から出た言葉によって、つまり見た目と真理によってとありますが、
知らず知らずと言いましょうか、このサマリアの女はここで真実の神、主なる神を礼拝している。
イエス自身は、そのサマリアの女の言葉に対して、
そうだ、私はメシアであるとはおっしゃっていないんですね。
どうしてここでイエス様が、そうだ、あなたが言うように私はメシアであると自分の口で告白しなかったのかな。
今日の時点では私はわからないんです。
なんでイエス様がここで、我はメシアであると、
39:03
我はキリストであると具体的に言葉に出して言わなかったのか。
言わなかったのか。
けれどもね、
案にイエス様は、私はメシアである、神の御子である、キリストであるということを明らかに示している言葉が、
二十六節のこの言葉なんです。
イエスは言われた、あなたと話しているこの私がそれであろうという、
ここ皆さん、ここ非常に大事で素晴らしいところですね。
私はキリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。
イエスは言われた、あなたと話しているこの私がそれであろうという、
この私がそれであるという言葉の中に非常に素晴らしい意味がある。
というのは、この私がそれであるという、元の意味はエゴエイミと言います。
エゴエイミ。
つまりその、訳すると、私はあるという。
これ以上訳されないの、日本語では。
私はある。
英語では、I am who I am。
私である、私である。
訳すると。
I am that、thatを使う場合もありますが、私はI am who I amの方がいいな。
I am who I am。
私である、私である。
エゴエイミ。
昔あり、そういう聖者の言葉がありますね。
昔存在し、現に今も存在し、この後々もずっと存在する存在者である。
皆さん、こんな方はいないでしょう。
長い世界史、歴史において、近隣歴史において、こういうことは皆さん、なぜならイエス様だけです。
皆さん、思い出してください。神がモーセに答えた、神の答えね。
モーセが言った、あなたは誰ですか?
どなたですか?ってなった時に、主はどう答えましたか?
I am that I am。
私である、私である。
あの十字架のお前にして、大祭司かやぱが、皇帝でイエス様を質問しますね。
42:11
あなたは本べき神の御子であるか?キリストであるのか?そうならそう答えてほしいと。
かやぱはイエス様に迫ります。
その時のイエス様の答えが、I am who I am。
私がそれであるとイエス様は答えた。エゴエイミ。
この27冊以下をご覧いただきますと、サマリアの女は、はっきりとキリストを信じて救われたよ。
そしてサマリアの人々に、証をした、伝道したようであります。
確かに彼女は的外れの生活をしてきましたけれども、イエス様によって今度は的得た。
イエス様によって新しく生まれた。
彼女の新しい人生が、キリストと共にここから始まった。
皆さん、人間にとって一番恥ずかしいことは何だと思いますか?
神を神として認めないこと。
自分が罪深い恥ずかしい存在であるということを認めない。
いや、認めないどころか、そのこと自体も恥ずかしいとは感じない、思わない。
それが人間にとって一番恥ずかしいことだと私は思います。
この朝、私をはじめ皆さんも、自分の罪を素直に認めて欲しいと思います。
クリスチャンである方も、そうでない方も、初めての方も、誰も、みんな。
自分は罪深い、気がれた人間だな、神の前に頭を上げることができない。
心の底から罪を認めて悔い改めて欲しい。
私も皆様方も。
いや、もうこれまで何回も何十回も悔い改めて来ました。
いや、今朝新しく。
今朝新しく。
45:01
そして、イエス様の十字架の父親によって、アーメン。
トマスのように、我が神を見ないで信じる者は幸いである。
幸いになるから私たちは、見たてまわせることができません。
だから幸いだとイエス様は言われました。
もう一度申し上げます。
クリスチャンの愛する兄弟姉妹も、そうでない方も、みんな。
今一度、神様のもとに立ち帰りたい。
イエスとヨハネは目白くんの21章を6節でこう言いました。
乾いている者には、命の水の泉から、値なしに飲ませよう。
いい言葉ですね。イエス様の言葉と一緒だよな。一緒です。
乾いている者には、命の水の泉から、値なしに飲ませよう。
皆さんのお手元にあると思いますが、この目白くんの21の6を3日にした方がいらっしゃいます。
命の清水という、だいぶ前の3日ですけれども、皆さんとご一緒にお歌いしたいと思います。