00:00
それでは、今、またによる福音書と、そしてぬかによる福音書相互から、クリスマスの物語を読んでいただきました。
今日は暖かいので、私の長いクリスマス礼拝の中で、
おそらく、記憶するところでは、今日一番暖かいんじゃないかなと、そんな思いがいたします。
合わせて私は、クリスマスというと必ず思い出すのが、やはり皆さんも一緒だと思うんですけどね、
クリスマスになって初めてのクリスマス。
私は高校2年生の時でしたので、洗礼を受けて、そしてクリスマスを迎え、クリスマス礼拝を出席したんですが、
当時、それこそ60年余り前なんでしょうかね、
また私たちの今の寺田栄光教会ですが、その全身は宣教機関でね、
そしてこの礼拝堂の半分くらいの礼拝堂がそこに併設されていて、そこでね、主に高校生が集まって礼拝をする、あるいは集会をする、そういうところでした。
今でも忘れられないのは、それは24日、その24日がクリスマス礼拝だったんでしょうかね、うまく日曜日だったんでしょうか、
ちょっとそのあたり忘れましたけれども、覚えているのは24日、イブ礼拝を、これは神社さんの家でやりましたね。
そこでそのまま祖の家に寄って、朝3時くらいに炊き出しがありましてね、炊き出しのご飯、おにぎりをしっかり食べて、そしてキャロリングに出かけたんですね。
そんなに神社さんが多いところの教会じゃありませんから、すぐ終わっちゃうんですけれども、それでも歩いて回ったものですからね、朝4時くらいから回ったんでしょうか、帰ってきたらちょうど5時、6時くらいかな、じわん。
教会のそこでは宣教師がストーブを焚いて、そして温かくして、我々の帰りを待って、クリスマスの早朝礼拝というのが当時ありましてね、
私にとってはもうみんなが、一つ一つが珍しいものですから、こんなすんだな、あんなすんだな、と思いながらクリスマス礼拝を迎えました。
03:00
ただ、キャロリングから帰って、教会に間もなく着くというころに、ちらちらとね、それこそ東北のクリスマスですから、もう非常に寒いですね、明け方というのは。
そして見たらこの辺が白くなっているものですから、それを払って、それ入るんですけれども、ところがね、振り出したときにふっと見上げますとね、
明けの明星じゃありませんけれどもね、私がずっと寝ているんですよ、この雪はどこから降ってきたんだろうかなと、
ようそんな思いをしながら、そういうふうに体に溜まったそれを落として、そして礼拝に出席いたしました。
その礼拝も、24日の晩はイブ礼拝が終わってからいろいろゲームをやったり何かをやったものですから、ほとんど寝ていないんですね。
で、寒いところを歩いてキャリングして帰ってきたら、教会が暖かいですね。
まあいろんなところで状況がそうなっておりましてね、非常にその底でも、いつの間にか椅子から転げ落ちてね、寝ておりましてね、
さりとクルクルと言われて、目を覚ましたらもう礼拝が終わってたというような、何だかようけいこの最初のクリスマスを私はそんな印象で今でも忘れられないですね。
まあ私こそですから、そういうクリスマスは、雪が降って寒いというのが大体その通例ですが、
こんなに暖かいクリスマスは初めてだなと思いながら、今朝は越谷に向かってまいりました。
皆さん方も初めてのクリスマスなり、あるいはそういう思い出のクリスマスが終わりかと思います。
で、今朝見てきましたこのことですが、
またによる副印象を、あるいはるかによる副印象を見てまいりますと、それぞれの場所からそれぞれの人がこの別霊夢へ向かっているという、そういう光景がそこに見受けます。
私も2度ほど別霊夢に行きました。
最初に行くときには、エルサムからこんなに近いのかというような距離感だったんですね。
ところが教団の50周年か何かで再度行きましたときには、
やはりパレティナとそれからユダヤキンとのそこに大きな高い壁がずっと張っておりまして、
それで参るときはそのバスで乗り換えなしで入れたのが、今度はそのゲートのところで降りて、
06:06
そしてパスポートを全部ガイドさんにお渡しして、そしてそこから別霊夢に入る。
そしてそこからこのバスでその中心のところにまで行ったという、
別霊夢はこういう状況になっちゃっているんだなと、そんな思いをしながら入りました。
今はそういうふうに政治的な面とかいろんな点で、
このイスラエルとパレティナのその間にはそういう高い枯れが設けられております。
イエス様が生まれましたとき、確かに当時はローマがこの一帯を開いておりましたけれども、
本日のような壁でもって隔てられているというようなことはもちろんなかった。
このマカイオル区域の日を見てまいりますと、
ここでは東王からはるばるイダイ人の王としては生まれなかった方のその場所に行きたいということで、
そしてこの数人の博士たちがこの別霊夢に向かったわけですね。
おそらくこの東王というのはよく言われておりますように、今もイラク辺りじゃないかと言われております。
バビロンからの、当時はやはりバビロンが一つにはローマが支配しておったとしても、
このバビロニア文化というのがそれなりにありましたから。
そこで学問をおさめたこの数人の私たちが、
彼らは今日という天文学者みたいなものなのか、あるいは星座ないなのか、
そのあたりはその中ではありませんけれども、とにかく彼らの目にとまった一つの大きな星が、
これはただのことではない。
じゃあこの星はどこまでついているんだろうかということで、
彼らはその星の先、指し示す、そこに向かっていった。
彼らはそれまで気をとえてまいりました中から、
おそらくこの異様と燃えるような星の明かりはイダヤの方に向かっている。
王の誕生のしるしではないだろうか。
で、あるならばということで、彼らはまずエルサデに向かったでしょうね。
イダヤの王として生まれなさった方が、それ以外の場所に生まれるということは、
09:03
彼らの想定の中にはありませんでしたから、まずこのイダヤの王宮を訪ねていった。
ヘロゼのもとに行って、覚悟したということで、彼らが今まで見つけた言葉をそこで告げた。
驚いたのはこのヘロゼですよね。
彼はうまく当時のローマに入って、そしてイダヤの権力を自分の手に持ったものですからね。
そしてまたその権力を維持するためには、自分の奥さんも子供もこれを担いするなということを平気でやるような男ですから。
ですからイダヤの王ということに、彼は驚きながら非常に不安に感じた。
今自分がローマを通して、過労死でここで元を収めているけれども、
そしていろいろとエリサルやそういったところのイダヤ人たちの起源を変えるために、
この神殿を立派にしようというようなことでもって、この財を費やしたりなんかしたり。
けれどもあまり自分の人気はそういうことではない。
イダヤ人にとっての正当なダビデ王教を継ぐようなそういうものではないということによって、そういう反感がありました。
ですからそこへイダヤの王としてということを聞いたこの王は、
どこにそのダビデ王教を継ぐところのものが生まれたんだろうかということで、
早速この大使とか学者たちに、一体そういうことが実は起こるのかあるのか、どこなのかということで調べさせた。
そこは専門ですから、この学者たちはこの旧約聖書の二箇所に、
それはきっとベスレームではないでしょうかということで、
彼らはその場所をそこでもって王に紹介しました。
王はベスレームならば自分のこの勢力の届く際にないですから、という思いがすぐに彼の心の中にあったでしょう。
だから彼は表向きはね、あなた方がハルバル統合から拝みに来たほどの方を私も拝みたいから、
ぜひその場所についたら、もっと詳しい情報を教えてくれ、私もぜひ行きたいと。
小島一介先生の説教の中だったか何かですね、
言うならばこのヘルデ王の私も拝みに行くという、
これはね、そんな経験に私たちと同じような思い出を持って行くんじゃなくて、
言うならば、暴力団のお礼参りみたいなもんだって。
12:02
そこを居場所を突き止めたらですね、
命を断ち切ろうというようなすごい恐ろしい企みがこのヘルデは持っていたということを教えたことですね、
あまり重要ではないようなところなんですけれども、それが印象に残っています。
あたかすとも遠からずですよ。
これはそういう思いで持って、
自分の権力を脅かす者は、自分の妻であれ息子であれ誰でも容赦なく殺戮したような男ですから、
ダビで王家を継ぐような、自分の権力を自分の王座を狙うようなものがあるならばそれは許しください。
もう早速これをですね、この増殺するという思いで持って、
そういう従心を託して、そして博士たちについたのならばこうこうこう言う。
私もぜひその方を産みたい。
そういう内部事情は知らずに、この王はそこからあの学者たちが示したレスルヘムへ向かった。
そして彼らはそこで持って、お生まれなさって数ヶ月は経ったでしょう。
そのお子さんをイエスの前に示して、彼らが手にしたところのこの贈り物をそれぞれ、
黄金入稿を持つ役をこの献上したという、そういうところですね。
どれだけの基本な時間がこの東王からこのヴェスレヌまでかかったか。
遠方ですから、それの日数が時間がかかったかと思います。
もう一つのこのヴェスレヌに向かったもう一段は、それはこのルカニョル福井賞の方ですね。
そこを見てまいりますと、体をまた、自分たちの思いの中には真の召し上がりがおいでになるだろうという期待はあっても、
七次会たちにとってはあまりそういうことはですね、大して重要なことではない。
彼らはジプシーのように、あっちに行き、こっちに行きという生活をしていました。
これも横道ですけれどもね。
ヴェスレヌに来ました時に、その年寄りもそうですが、ベトヨニの人たちが羊を飼って、そしてこうやっているんですね。
いまだに、現代のこういう文化というものとは全くそれにして、テントを張って、そして一見真っ白に見える生活をしている。
15:06
そしたら一緒に行っていた中の一人は、ベトヨニの人たちはあっち行ったりこっち行ったりしているけれども、
定住するところがなければ、そういう資金権とか納税義務とか、そういうのは何だろうか。
固定資産税とか、そういう税金の関係はどうなっているんだろうかという、これは冗談ですけれども、そういう話をしておりました。
それぐらい羊飼いというのは、一定の場所に留まるということではなくして、いろんなところに行くという。
そういう印象で考えてみますと、この羊飼いたちは、羊たちにとって良い場所を見つけて、
そして彼らに、この羊たちに餌を提供しながら、そこで狐や狼や、とにかく獣から自分たちの財産を襲われないようにということでもって、
交代でネスドバンをするのが当時の羊飼いたちの義務だった。
そうしているときに、この羊飼いの雰囲気を見てまいりますと、非常にこの辺りの光景というのが、今のきかきやかなクリスマス、デコレーションしました、
そういう光景でしょうか、そういうまばゆいばかりの夜空に輝きが出て、一体何事だということで、交代でネスドバンをした仲間も起こして、
そしてやっていると、最先端の天使たちが来て、そして賛美がそこで捧げられている。
そして彼らがそこで聞いたのは何か、それが先ほど呼んでいただいた発説からの、そういう光景です。
彼らがそこで持って耳にしましたのは、京和崎での町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ救急所です。あなた方は布にくるまって貝場家に寝ておられるみどりんごを見つけます。これがあなた方のためのしるしです。
そういう知らしを彼らは、そしてそれを追いつむように天使たちの賛美がそこで持って捧げられた、その光景です。
彼らはそれを聞いて、急いでそれらしきところへ向かうわけですね。
そして彼らは、おととこの別屋へ戻って、見つけ、この聞きました通りの、この主キリストの誕生の場に彼らは出くわして、
18:12
そして彼らはそこで、心の根拠を進めている。
お生まれさせたイエス様を一番最初に、今でいうこのクリスマスを迎えたのは、この数人の博士たちやこの審議会たちだろう、
幼いイエス様、貝場家の中でもって休んでらっしゃる。
別連に行きますと、その聖山教会という教会がありましてね、
一時はここがね、パレシアのアラファトさんですね、あの人がこのイスラリルに攻撃されて、そこで立てこもったところですよ。
で、やがてそこが解放されたときは、もうそこでかなりの人数ね、アラファトさんたち、パレシアの人たちが避難し、そこで立てこもったところですから、
ずいぶん汚れたそうです。しかし私も行ったときにはもう全部それがきれいにされましてね。
そしてイエス様がお生まれなさった場所と言われている、そういうところがですね、この一箇所ありましてね。
イエス様はこういうところにお生まれなさったのかなと。
で、もう一箇所は、そこから少し離れたところにね、やはりそれこそ羊飼いたちが羊を飼っていたのではないかというようなそういうところに、
この辺りが一回も飼育ですけれども、小さな教会堂を建って、そしてそこに持ってミサが捧げられておりまして。
で、私もそのミサをその中に入って、そして見せてもらいましたけれども、
まあ雰囲から言うとね、その生産協会よりもこちらの郊外のその木造の協会の方がいかにも生産協会かなと思われるようなそういうところでありました。
それぞれが東方の国から、あるいは近くはあっても福祉会たちが野宿をしておりましたそこに知らせがあって、そして東方からセシルエムに向かう。
あるいは郊外で質疑をかっていたこの質疑会たちもその知らせのもとでもって、この今生まれなさったその方を訪ねてそこに向かう。
私はこういう二つの光景を見ながら、神様の知恵というのは素晴らしいなと思いましたね。
21:05
私たちがイエス様にお会いして、そしてイエス様を信じるというところに行かれるために、ある人にとっては長い時間を引き起こせる人もおりますし、またある人にとっては、
じゃあいませんよ!というそういう人もおります。
私が前の赤城人丸教会のときに、その両方のケースを見ました。
一人は、新年連輩に来られた一人の青年が、終わってから私に先生、お話したいことがあります。
言うことで聞きましたがね、彼はクリスチャンホームの青年なんですけれども、自分は親の方向とは違う方向で勝手なことをやってきた。
そういう子の生活に疲れて、そしてもう自分は行く場所がない。
おばあちゃんが東京におりましたから、けれどもその時はおばあちゃんが亡くなっておりましたので、その家があったの。
そこへ行ったそうです。
そして休んでいるときに、まあ夢なくなっていることではないでしょうけどね、
なんかそのおばあちゃんがね、いつまでそんな生活をしているのか、
それこそイエス様がね、私のもとに来なさいと言わんばかりのおばあちゃんの声がそこで聞こえた。
幼いときに、子供のときに親に連れて教会に行ったことがあったけれども、長いこと教会がゴロゴロと出してきている。
彼はそういう経緯がありましたけれども、全くそういう子の信仰とそれと全く違う道を歩んでおりましたが、
彼は疲れて、そして親元に戻ってきた。
そして親と一緒にひと丸教会に見えたんですよ。
そのときの私の閉教は、アブラハムの物語の話をしていたんです。
彼はアブラハムと自分のそれとが二重移しのように見えた。
そして今自分は当然アブラハムのことになることはできないけれども、
しかし、イエス様を信じられるならば、今私も信じて、これからどうなるかわからないけれども、
しかし、アブラハムを導かされた神様が私を導かされるならば、こういう道をやりたい。
そして上司に話をしましたら、喜んで、先生、こういうことが二度と起こらないと思うから、早いことを宣伝させてください。
24:03
それから、その日の日ではありませんけれども、準備会を言われてね、そして宣伝をさせてくれた。
その礼拝でわかって、そして信じられた。
そういう彼のケースと。
もう一人は、今たぶん97、8歳になると思うんですけれども、もっと言ってるかな。
ちょうど私が赤城人丸教会を辞める最後の礼拝。
その3月の31日がクリスタのイースター礼拝でしたね。
そこで宣伝を受けるケースになった。
私はその人丸教会に行ってからは、よくその人と個人的な交わりもしてきました。
いい加減もっているけれどどうですか、と言うと、私は死ぬ直前に受ける。
死ぬ直前に立って、直前に。それを自覚できるかどうかわからないじゃないですか。
そんなやり取りもしたことがあるんです。
この方は、私は長いことこういう教会にお世話になっているけれども、何年ですかと。
中島明先生の時代からだからと言ってね。
辰巳教会にご夫婦で行っていたそうですよ。
そうすると今からもう60年70年近くなんですよ。
その頃から教会から奥さんを通して礼拝していた。
私が人丸教会に行った時、ご夫婦とも赤城に行かれていたんですから、そこで礼拝に来られたんですが、
奥さんが具合があると、そのおじいさんだけをちゃんと礼拝に来るんです。
いろいろな点で、私の信仰生活よりもその方の求道生活の方が長いわけですからね。
使徒信条でも何でもよく知ってらっしゃる。
両県だからややこしい。
私は使徒信条の中のね、あまりストレスが信じられないんだっていう。
どこですかっていうことでやり取りもしたことがあるんですけれども、もう理屈ばっかり言って。
それでとうとうこの方は九十歳ですから、求道生活70年って言うでしょうかね。
でもその最後の時に決心なさって、そして3月の31日のイースター礼拝で宣言を受けなさったんです。
まあ教会の人たちにとってはね、
あのおじいちゃんがよくぞここまで来たのを長く、そんな求道生活を守ってこられたなっていうくらい、
感心するくらい長いことを離れず使ってもってやってこられた。
だから人にとってはね、短時間の中でもって信じれるケースだ。
長い歳月をかけてやっと信じれますっていう。
27:02
私がこの2つのケースを、このマサイによる福音書、ルカによる福音書を見てもらいますとね、
なんかそういう感じがするんですね。
東北の人たちはある期間、長い時間かけて遠くからやってきて、そしてイエス様にお会いした。
菊池会たちは今晩来て、そして早朝参上されてイエス様にお会いして、
そして彼らはその知らせを町中に知らせた。
時間をかけたからいいってわけじゃないし、短いからだめだってわけではないんだなって。
しかもこの東北の博士たちっていうんですからね、それぞれのこの知恵と、
そういうタイプであるもの、学問の世界に育って生きてきた、そういうタイプですね。
ところが菊池会たちは日々の労働の中でもって今日まで生きてきた人。
しかも菊池会というのは、いずれは社会においてはあまりそう高くはない。
言うなら一番立場の低いそういった人たちだと言われておりますけれども、
工学を収めてきた、学んできたそういう人も、
それこそそういう学問的な知識や理解力が遠しいかわかりませんけど、
しかし本当に知らせを受けた。
そしてその時、この菊池会たちは単純にそれを受け止めて、そして逃げるという光景。
いわゆる学問を通してイエス様にお会いしてきた博士たちと、
あるいは天使の賛美を聞いたそういう経験を通してイエス様にお会いするという、
それぞれ違う見つけ方がそこにありますけれども、
しかし最終にはこのイエス様のところに彼らはやってきて、
そしてそれこそこのクリスマスを迎えなさった。
ベスレヘムへの道を彼らはしっかりと辿ってきた。
だから私はそういう中で改めて思いますことは、
ヘノではベスレヘムへの道を彼はどういうふうに理解したのか。
自分の権力を立場を奪うものとしてこれを殺戮するという、
それが彼の心に野望としてあったベスレヘムの道ですよ。
それからまたそれを取り巻くあの立法学者や大使たち、
30:02
彼らはすぐに聖書を開いて、そして聖書のここにベスレヘムだと書いてあります。
彼らは宗教に生きる人ですけれども、この人たちはただそれだけのことであってね。
じゃあ本当にその方のところに私たちもお会いに行こう、礼拝に行こうという、そういうんじゃない。
彼らにとって宗教というか、それこそ彼らにとっては立法でしかないんですよ。
イエス様にお会いしたならば命への道をそこで持って見出すことができたでしょうけれども、
しかしただ立法でよってガジガラめ。
ですから知的な面においては人にあそこです、ここですと言って教えることができる、
差し示すことができても、彼らがベスレヘムに行ってこの方にお会いするということにおいては、
彼らにはベスレヘムへの道はなかった。
後にイエス様からも、あなた方は立法をかざす、そして人々を裁くだけの白く塗られた墓にしげないと言われた。
さすが立法であってもね、中は何も命もない、そういう墓みたいなもんだ。
これしかないじゃないか、命がないじゃないか。
そうイエス様から休断されて、それこそ彼らは命もつけなかった。
彼らは立法においては詳しかったかもしれません。
しかし本当の立法というのはね、その示すところにおいてイエス様にお会いする道へと向かわせない。
パウルはそういう人でした。
彼はもう立法の中の立法に来た人ですよね。
その立法は自分に何を与えたか。
それこそ自分の偽善の衣物ばかりを立法は着ている。
自分が立法の衣物を着て、そして二重三重の鎧をしたわけでしょう。
しかしパウルはまた、その立法はそういうふうに自分を苦しみたけれども、
しかしながらその立法のゆえに自分はやがてね、
この場所から言うならばベスレーヌの道、彼にとってはダマスクの道でもって、
その立法を破って復活されたそのイエス様にお会いするという経験をしています。
パウルは立法を極めた人です。
33:03
そして立法の本来の狙いは、やがてこの立法を成就するところの救い主がおいでになる。
パウルはそういう経験をしたわけですね。
しかしひろとあんぱな立法を守るだけの、大権だけの生きたこの立法学者たちは、
このパウルのような道を進むことはできなかったです。
いずれにせよ私は、このベスレーヌへの道という態度に致しましたけれども、
私もお互いそういうベスレーヌの道をしっかりと今日いただいて、
イエス様にお会いし、またこの方を礼拝するという、そういう付け入りに扱いましたから、
私たちはそのベスレーヌというのが、私たちにとってどんな秘密がある素晴らしいものか。
最後に私は、神聖歌の84番の、「ああ、ベスレーヌよ!」というこの歌があるんですね。
これは、作詞はフィリプス・ブルックスという方が作りなさっている。
このフィリプス・ブルックスという方は、
これはヘレン・ケラーをサリバン女子に頼まれて、そして導いた人です。
フィリプス先生は、当時のこのヘレン・ケラーを紹介を受けたときに、
サリバン女子から、自分がいろんな方法を持って、このヘレン・ケラーとの会話ができるようになった。
教えることもできてきた。
彼女の中にも、そういうことの一つ一つを理解するようになってきた。
ただ私にできないのは、神様をこのヘレン・ケラーにどうして教えたらいいだろうか。
それが、物であれば触らせて、あるいは口にさせて、
その人間の五感に頼らせて、そして教えることができても、神様を教えることができない。
その尋ねた先が、このフィリプス・ブルックス先生だった。
紹介を受けた先生は、そこでこのサリバン女子を通して、一つ一つこの聖書から、このヘレン・ケラーに教えていったそうです。
さがて、ヘレン・ケラーが踊ることを言われた。
それは、私のこの世界には、一般の人々の知らない世界がある。
知らない世界だけども、しかしそこにも神様がおられるということを今わかりました。
神という言葉は使っていないけども、しかしそういう絶対的な方がおられるということを私は心の中で持って知っておりました。
36:09
今その方がイエス・キリスト様であるということを初めて知りました。
彼女の信仰、告白ですよ。
そういう、このベスレムという賛美歌の背景には、そういう一つのエピソードもあります。
ですから本当はこの歌を歌いたかったんですけども、それは入っていないんですよ。
選べます?
84番。
それを献金の歌にして、献金を少し捧げたらどうでしょうかね。