1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/12/23:聖日礼拝(旧音源)
2012-12-23 36:49

2012/12/23:聖日礼拝(旧音源)

2012/12/23 聖日礼拝(旧音源)


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ご着席ください。
聖書朗読をいたします。聖書箇所は、
ルカの福音書2章1節から12節までです。
新約聖書の109ページをお開きください。
ルカの福音書2章1節から12節、新約聖書の109ページをお開きください。
では、見放し前に、聖書朗読をいたしていただきます。よろしくお願いいたします。
聖書を朗読させていただきます。
ルカの福音書2章1節から12節まで、
その頃、全世界の住民登録をせよという勅令が、
皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリアの総督であった時の最初の住民登録であった。
それで、人々は皆、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフも、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ登って行った。
彼はダビデの家系であり、羊でもあったので、
苗もになっているイーナ付けの妻マリアも一緒に登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の産子を産んだ。
それで布にくるんで、貝羽桶に寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、この土地に羊飼いたちが野宿で夜晩をしながら、羊の群れを見守っていた。
すると、種の使いが彼らのところに来て、種の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。
恐れることはありません。
今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。
今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
あなた方は布にくるまって貝羽桶に寝ておられる緑羽を見つけます。
これがあなた方のための印です。
以上です。
聖火隊の賛美をいたします。
新聖火123番を賛美いたします。
賛美に続きまして、内田牧師より、聖なる夜の奇跡と題して、説教をしていただきます。
聖書を持ってくるな。
03:03
聖書を持ってくるな。
どれかしら、どれもいないですけど。
聖火が歌を響くを
三度読み止まり足が漏れに
泥に溺して共に喜べ
神よ、名もならさらげなよ
いつか行くと人は夢ばっかり
裏に押し寝て憎き静寂を宿しませに
よろずお旅の待ちわびししと
我らにすませ
栄えあれよといつか行くと
生まれき時を平和の日々を
受けのじかりと命の主より
学べる旅を生まれ変わらせ
永遠の命を分かれ
栄えあれよといつか行くと
市の皆をたたえます。
今日はこのようにして、ここでクリスマス礼拝を捧げることができますことを感謝しております。
06:00
今日は先ほど読んでいただきましたところからメッセージを語らせていただきます。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
神は実にその一人号をお与えになったほどによ愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。
恵み深い天の父なる神様、今日のこの喜びの時を感謝いたします。
この一年あなたが私たちとともにいてくださり、守ってくださり、また恵みを注いで導いてくださったことを感謝いたします。
またアドベントを通し、この日を待ち望んでいましたこの礼拝、
どうぞ主が望んでくださって豊かに祝福された礼拝となりますように、
そしてまた御言葉を通してこのクリスマスの意味を教えてくださり、
また主御自身を私たちが迎え入れることができる時としてくださいますように、
そしてこの日をもってまた新しい歩みをここから始めさせてください。
誰でもキリストともにあるならば、そのものは新しく作られたものです。
古いものは過ぎ去った、身を全てが新しくなりました。
この救い主を受け入れたその時からまた新しい世界が開かれて、
そして私たちはその神とともに歩むという素晴らしい恵みの中に入らせていただくことをどうぞ覚える時としてくださいますように、
今日こうして共にあなたをお祝いし、またあなたに礼拝を捧げるこの特権を与えられたことを感謝いたします。
ただ今からの御言葉の時をもあなたが導き祝福してください。
今日ここに来られたお一人お一人の上に主の豊かな恵み祝福がありますように、
来れなかった者の上にもその場にあってあなたが望んでくださいますように、
全てを委ねて主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
開講一番にメリークリスマスというつもりが飛んでしまいまして、改めてメリークリスマス、クリスマスおめでとうございます。
このおめでとうという言葉を私たちは一年に、あるいはこれまでに何度も言ってきたと思うんですね。
あるいはこれからもおめでとうという機会があろうかと思うんですが、どういうときにおめでとうございますと言うんでしょうか。
例えば入学おめでとうございます。よかったね。
あるいは就職できておめでとう。そういうこともありますね。
09:00
そしてご結婚おめでとう。そういういわゆる祝福の言葉、そしてその祝福を一緒に喜びましょう。
そういう意味で私たちは祝福のお祝いの言葉をかける。
そして誰でもこの年に一度おめでとうございますと言ったり、あるいは言われたりすることがあります。
それはお誕生のときですね。新しく与えられたその命に対してももちろんおめでとうですし、そのご家族の皆さんにもおめでとうございます。
そしてその誕生日を覚えて、また次の年、毎年毎年このおめでとうを私たちは交わしている。
それと同じようにこの年に一度、このクリスマスこのときに私たちはおめでとうございます。
そして喜びお祝いし、そしてまた教会ではこのような礼拝が捧げられるということ。
これが一年の中で必ず行われている。
考えますとこのクリスマスをお祝いする礼拝、これは決してここだけではない。
隣の教会も、あちらの教会も、日本中の教会が今同じようにこのクリスマスの喜び、そしてお祝い、礼拝を捧げている。
もっと言いますと世界中の教会、ローマであってもロンドンであってもニューヨークであってもロサンゼルスであっても、
あるいはオーストラリアであってもアフリカンでもあっても、どこでもこのとき同じように私たちと同じようにこのクリスマスのお祝い、そして礼拝を捧げている。
これは考えますと圧巻と言えば圧巻ですよね。
実際に今はいけませんけれども、いけば捨てるわけですね。
みんながおめでとう、おめでとう、クリスマスおめでとう、みんなが喜び、そしてお祝いしている。
それがクリスマスであります。
ではこのクリスマスとは一体何でしょうかということですね。
私たちはそれをもう一度確かめるということもありますし、今まで知らなかったらそういうことだったのかということで、そこからまた新しい何かが始まるという、そういう幸いなときでもあろうかと思うんですね。
世界中の人たちがこの年に一度同じ思いでそのことを喜び祝うというのは、これは他にはないと思うんですね。
その意味を知っているもの、もちろんですけれども知らない人たち、かつても私も三十数年全然クリスマスとは何かわかりませんでした。知りませんでした。
12:09
あるいは誰も教えてくれませんでした。
でも年に一度、このクリスマスのときになると何か嬉しい、楽しい、そしてクリスマス、メリークリスマス、メリークリスマス。
神様は寛大なお方ですから、クリスマスの意味を知ってお祝いするものも、あるいは知らないでとにかく楽しいから、平和だから、喜びましょう、楽しみましょう。
そういう人たちもみんなこぞってお祝いする。知らなかった方は、またそのうちわかるようになるから、いつかきっとこのことがわかるようになるから。
そういうふうにして、みんなで世界中の人たちがこのことを喜び祝っているという、それがクリスマスであります。
先ほど読んでいただきました、部下の2章の、今日は11節のその言葉が中心でありますが、
今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。
クリスマスのメッセージというのは、大きく分けて2つあろうかと思うんですね。これ以外にもあろうかと思うんですが、大事なことは2つ。
そのうちの1つは、お生まれになりました。神の御子イエス・キリスト、このイエス・キリストの御後丹をお喜びお祝いする。
イエス・キリスト、これはイエスはキリストである。イエスは救い主であるという意味ですが、これは人類の歴史の中で起こった出来事で、神が人となってこの世に来てくださった。
そのアリス様は赤ちゃんの姿をとってきました。それは人間として私たちの同じような姿で来てくださったという意味なんですが、そこに隠されているメッセージは、神である方が人となって私たちのこの世に来てくださったということ。
それを喜びお祝いする。それがまず1つです。もう1つは、何のために神がわざわざ人間の姿をとってこの世に来てくださった。御後丹なさったのか。
それは先ほどありました、この方こそ主キリスト、救い主。人間が罪とサタンの支配から救われて、そして解放されて、そしてそこに平和がもたらされるために、そのために神が人となってきてくださった。
15:02
このことを私たちは改めてこのクリスマスのときに覚え、またこれを人々に聖書を通してお伝えさせていただいている。そのことをまず聖書から皆さんにお伝えしたいと思うんですね。
それを踏まえて今日の箇所をもう一度見ていきますと、聖書の中に全ての営みには時があるというふうに書いてあります。
イエス様が選挙を出されたときにも時が満ちた。神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。このときにも時が満ちた、時が来た。私たちも何か望み、待ち、そして備えています。
でもこの時という時があるんだ。聖書の中には生まれる時があり、死ぬ時があり、いろいろな時がある。全てに時があるんだ。そのように言っているわけですね。
ですから神の御子が降誕されるその時もあったわけですね。いつでもよかったのではない。それがこの先ほど読んでいただきました二章のそのところに書いてあるわけです。
全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストから出た。これが時なんですね。それまでにイスラエルの民は長い長い年月、この救い主がいつか来る、いつか現れるんだ。
予言者を通してその救い主、誠の救い主がこの世に現れるんだということを待ち望んでいたわけですね。待って待って待って、今日だろうか、明日だろうか、いつだろうか。そしていよいよその時が来た。それがこの時であったわけですね。
この住民登録をせよという勅令、これは税金を徴収するための目的の人口調査であったわけですが、しかしここに神様の大きな御計画があったというわけですね。
人口調査のために、ヨセフとマリアはナザレからユダヤのベツレヘム、彼らの自分の登録しなければならないところに向かって行ったという、そういうふうに書かれてあるわけです。
18:10
そこで彼らは男の子を産んだ、七節で男子の産子を産んだ、そのように書いてあるわけですね。この神の御子がこの世に来られる、御好談されるという時があった。これがまず神様の御計画であった。
それともう一つの神様の計画、それはベツレヘムという町でなければならなかった。どこでもよかったのではない。それはすでに預言書の三ヶ所というところの五章の二節、そこに書いてあるんですけれども。
ベツレヘムエフラタヨ、あなたはユダの種族の中で最も小さい者だが、あなたの内から私のためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは昔から、永遠の昔からの定めである。救い主が来られるという、必ずそのことが起こる。そしてその時があるんだ。
それともう一つはベツレヘムよ。ベツレヘムというところでその救い主がお前になる。そのように預言されていた。それがここに成就したということ。それが今日の箇所であるわけですね。
すべてを作りすべてを支配なさっている神ご自身が、この歴史の中で自分が計画したことを成就なさった。これが今私たちが生きるこの二十一世紀から約二千年前の出来事。これがここに記されてあるわけですね。
この二章の三節四節五節。住民登録のためにヨセフとマリアがそこに向かって行った。それで人々は皆登録のためにそれぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼はダビデの家系であり血筋でもあったので、身をもになっている稲づけの妻マリアも一緒に登録するためであった。
このナザレという小さな村からベツレヘムというところに彼らは向かって行ったわけですが、約百四十キロメートルぐらいの道のりと言われているんですけれども、この箇所から私たちはどんなことを思い描くでしょうか。
21:03
あるいはこれまでこの箇所を読んで人々はどんなことをイメージしたでしょうか。それが絵になったりあるいは音楽になったりあるいは劇になったりそういうふうにしているんですけれども、この短い数節の中でこれまで多くの人がそれぞれに思い描いていたことがあったわけですね。
マリアの体内には子がいます。その子供が無事に生まれるようにと願うマリア。そしてその身をものマリアを気遣うヨセフの姿であったり、それをどのようにして旅していったのか、そんなことが書かれてあるわけですね。
そういう実に麗しい二人の姿を思い浮かべることもできますが、しかし現実は厳しかったということがここにも書かれてあるわけです。ところが彼らがそこにいる間にマリアは月が満ちて男子の泳ごうを生んだ。それで布にくるんで貝場桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
このベツレヘムの町に近づいたんですけれども、さてマリアが月が満ちてしまった。そして急いでどこか宿を探さないといけない。しかしもうベツレヘムは人口調査、住民登録のために町はもう混雑している。
そういう中で急いで宿を見つけなければなりませんでしたけれども、どこもいっぱいで泊まれる場所がなかったというふうに書いてあるわけですね。
私たちは今この二十一世紀に生きておりますけれども、今や時代が変わりまして、インターネットでどこでも予約できる。日本だけでなく世界中のどの宿もどのホテルももうネットで宿を確保できる。
そういう時代に生きておりますから、こういうところを読んでもなかなか今の若い人はピンとこないかもしれませんね。私たちのまだ若い頃はあまり予約するとかそういうことはなかったわけですけれども、とにかく便利になりました。
便利になったはいいんですけれども、何か失われていくものもなきにしもあらずのような、そんな気がすることもあるんですね。
便利さを追求する側ばっかりに何かそこに起こるハプニングも何か心に残るような、あるいは思いがけない出会いがあったり、そしてドラマが生まれたりという、そういうこともかつてはあったわけですね。
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私も若い時にフラッとどこか行ってみたいなと思って、何を思ったのか、鳥取の方に行ったんですけれども、そして夕方、あそうだ、泊まるところを探さないといけない。
そして探したんですけれども、それこそもうどこも空いていないというようなことで、とにかくいろいろあたってやっと民宿というんでしょうか、お家を開放してそこを泊まるようにしている、そういうところを見つけていただいて、そこにお世話になったわけですね。
そのご家族の方がお世話してくださって、こんな時に来ても宿はないですよと、ここでとにかく休んでいきなさいということで、そうですか、本当に家族の中に入れていただいて交わりして、そして帰りがけにはこの大きな梨を5つほど持たせていただいて帰ってきた。
そういう思い出はずっと残っていますよね。思いがけない出会い、そしてドラマがある。便利ではない時代、不便な時代、そういう時代だからこそ味わえる、そういう思い出もあるんだろうと思うんですが、とにかくこのヨセフとマリアもそういうことであったわけですね。
ましてや子どもが生まれる、そういう時にどうしよう、そういうことが起こったわけですが、そして先ほども12節の中で書いてありました。
あなた方は布にくるまって貝羽桶に寝ておられるミドリゴを見つけます。これがあなた方のための印です。あるいは7節にもありました。布にくるんで貝羽桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
貝羽桶というところから連想して、おそらく家畜小屋ではなかったろうか。彼らが休み、そして子を産むための泊まれるまともな場所がなかった。
やっと与えられた、それが家畜小屋だと想像するわけですね。これがこの二人、あるいは幼子と合わせて三人に与えられた現実であったわけです。
27:14
しかしこれが神の御計画であったわけです。時があり、そして場所も備えられ、そしてこのような状態で彼らがこのミドリゴを産んだ。男の子を産んだということ。これが神様の御計画であったということ。
それはここにあります。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになりますという、この方こそ主キリストです。このキリストというお方がどういうお方なのかということを誰でも見てわかるように神様はこの時を選び、
このベツレームという町を選び、そして宿屋が見つからなくて仕方なく与えられたその家畜小屋であろうと思われるそこで宿を休み、そしてそこに男の子を産んだ。
それが神様の御計画であり、そのことを通して全ての人がこの方こそ主なるキリストでありどういうお方なのかということを示そうとされたわけです。それはすなわちこの方が謙遜であり減り下ったお方であるということを示そうとなさったわけです。
本来なら神の国というそこの王であるお方、そして強く偉大なるそういうお方であるんですけれども、このお方は小さく弱く幼子としてお生まれ下さった。それほど減り下った謙遜なお方であるということを示そうとなさったわけですね。
そして本来なら良き香りのするそういうところで部屋で寝かされるべきお方、しかしこの男の子は家畜の匂いのするそういうところで生まれ寝かされた。
そして本来ならふかふかとしたこのベッドに寝かせられるべきお方が、この貝場桶をこのベッドの代わりにしてそこに寝かされているという、そういう状態、これは全てこのお方が謙遜であり減り下ったお方であるということですね。
30:02
そしてなんとこのお方はやがて大きくなり、そして私たちは生まれたら必ず死ぬように、この神が人として生まれたお方はまた死を迎えるわけですが、
それが人の罪を全部背負って、そして極形と言われる十字架形に命を捧げるという、そのことでこの生涯を終わられるという、その謙遜、減り下りの極みを全ての人に示されなさったわけであります。
これは、いわゆるこの当時の人たち、あるいは今もそうですが、どんな状況の中にある人も、どんなに虐げられている人も、どんなに貧しさの中に苦しんでいた人も、今いる人も、このお方を救い主として受け入れることができるように、
この謙遜と減り下りの極みまで降りてくださったということ、これが今日ダビデの街で私たちのために生まれなさった救い主イエスキリストであるということ、このことを聖書として私たちは今日もう一度覚えたいと思うんですね。
しかし、この時、ヨセフとマリアとこの幼子は決して寂しい思いはしなかった。決して惨めな思いはしなかった。なぜかそれは神様御自身がそういう思いをさせなかったということを、この聖書からも読んでわかるわけですね。
なるほど、状況は厳しい。そして、こういう中でミドリゴは生まれたわけですけれども、しかし祝福と喜びと恵みで満たされていた。
まず一つは、密会が彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。密会は彼らに言った、恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。
もうその場は、輝かしい神の栄光で満ちていた。眩いばかりの光で照り輝かされていた。神の臨在の光、そして恵みの光、希望の光が満ちていた。そんなことがここに書かれてあるわけです。
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それともう一つは、多くの軍勢が来て、そして賛美していた。意図高きところに神に栄光があるように。先ほど賛美しました、Glory in Excelsis Deo。それはラテン語ですけれども、その意味はここにあるわけですね。意図高きところに神に栄光があるように。
そして地の上に平和が御心にかなう人々にあるように。天の軍勢が、あるいは天使たちが声高らかに、彼らの周りから賛美したと言うんですね。素晴らしい天使の歌声。
家畜小屋がまるでコンサートホールのような天使たちが素晴らしい歌声で神をたたえる歌。そしてこの三人を祝福する賛美の声で満ちていた。そんな光景がここに書かれてあるわけですね。
そして決して彼ら三人ではない。羊飼いたちがみんなあそこに救い主がお前になった。みんなで見に行こう。そしてお祝いしよう。多くの人が彼らのところを訪れた。
それだけではない。遠くの東の国から博士たちがわざわざ黄金入庫を持つ役を持って、この救い主を探し当てて、この方こそマクトの救い主だと言って礼拝しに来た。これがその夜に起こった出来事。
この出来事をそれから後、約二千年、毎年毎年毎年お祝いし、そして今日に至っている。これは永久に続く祝福の時であります。
私たちがこういう恵みと祝福の中に加えられたということ、このことよりも感謝して、私たちもこの天使に負けないように心からの賛美をお捧げさせていただきたいと思います。お祈りをいたします。そして聖三式をいたします。
天の父なる神様、この聖なる日の出来事をもう一度覚えたことであります。聖なる夜、ホーリーナイト、その主がご拝談された日の出来事は、この歴史において偉大なる日であることを覚えて皆を挙げます。
世界中がこの御子の誕生をお祝いしています。そしてこの時にこの救い主を我が神、我が救い主として受け入れる恵みの時であることも覚えます。
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決して一年のこの時ではなく、今日からこの素晴らしい恵みの喜びの時が、毎日毎日このお方とともに歩むことのできる幸いを与えてくださったことを感謝をいたします。
このお方を我が救い主と信じるお方に、お方を信じて歩む人たちの上に、恵みと、そして祝福と、そして平安と平和がありますように、信じて主キリストのお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
36:49

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