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2023-05-28 50:47

2023/05/28:風に吹かれ、夢を見る

2023/05/28 聖霊降誕際礼拝

加藤満牧師

使徒の働き -36


00:01
それでは一言、お祈りをさせていただきます。お祈りをいたしましょう。
しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。
天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今朝も私たち一人一人の名前を呼び、私の御前へと集めてくださったことを感謝をいたします。
あなたは限りない愛のゆえに、私たちをあなたの愛の御支配の中へと招き入れて下さいました。
主耶穌様の流された血潮と、死からよみがえられた復活の命によって、
私たちの罪を許し、神様と共に生かしてくださるその新たな意味を与えてくださったことを感謝をいたします。
神様、今朝は私たちはペンテコステを覚えています。
聖霊様が人たちに注がれ、聖霊様によって一人一人があなたの思いを思いとし、
あなたの身業を業として行い、実に二千年の間、あなたはこの世界に御自身の業を進めてこられました。
そして地の果てである日本にいる私たちもまたあなたを知ることができました。
その事実を思うと、ただ、本当に主は生きておられると告白せざるを得ません。
主よ、私たちも神様のことされ、あなたの業に連なっていることを感謝をいたします。
今朝はペンテコステの事実に目を止めてまいります。
御言葉をどうか主が開いてください。
命の言葉によって私たちに命を与え、この世界での使命に使わせてください。
ここに来ることができない方々、体や心が痛んでおられる方々、
また施設におられる方々がいらっしゃいます。
神様どうかお一人一人の命を覚え、守り、その信仰を支えてください。
今日は違う場所でまた礼拝を守っておられる方々もいらっしゃいます。
その一人一人も良き時が与えられますように導いてください。
神様御言葉を取り継ぐ者をどうか主が憐れんでください。
唇を清めあなたの御用を成すことができるように助けてください。
主イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
改めまして皆さんペンテコステおめでとうございます。
03:04
本当にこういう時にありがたいのは、聖火隊の方々の賛美を聞いてですね、
本当に心が上に上げられていくような気がいたします。
本当に満たしに満たしてくださいと、本当に心から思わされる気がしました。
教会は1年間を教会歴という流れの中で過ごしています。
特に私たちが属するプロテスタント教会というのは、
おおよそ共通して祝われる大切な祭りが3つあるんですね。
一つは、言うまでもないかもしれませんが、
イエス様がお生まれになられた高譚をお祝いする高譚祭、クリスマスです。
もう一つは、4月に私たちが祝いましたが、
イエス様が救いを成し遂げ、死からよみがえられた復活を祝う復活祭、イースターですね。
そして今朝、私たちはその3つ目、復活されたイエス様が天に昇られて、
その後、私たち一人一人に聖霊様を注いでくださった、
そのことを覚える聖霊降臨祭、ペンテコステを私たちは今覚えています。
関東に国際キリスト教大学高校、通称ICU高校という高校があるんですけれども、
そこの先生がミッション系の高校で、
学生たちにペンテコステについてお話をする、そういう記事があったんですけれども、
そこでとても興味深い指摘をなさっていました。
いわゆるキリスト教で祝われる3大祝祭、先ほど言いましたクリスマスもイースターもペンテコステもそうですが、
それらはよくよく見てみると、どれも奇跡について語っている。
奇跡について語っている。
確かにそうですね。クリスマスでは私たちは、
巫女イエス様が、諸女マリアから生まれるという出来事を見ています。
奇跡ですよね。
イースターではイエス様が死から蘇られた、それもまさに奇跡なわけです。
そしてペンテコステでは、精霊様が一人一人に注がれ、まさに人の心を作り変え、
大胆に死を明かしするものへと作り変えた、そういう出来事、それも奇跡を見ているわけです。
先生は高校生にこう語られます。
これらのことは実に、現在に生きている私たちからすれば、
おとぎ話のような、きっと信じるにはバカバカしいと思えるような話に聞こえるかもしれない。
06:01
けれども、もしこのペンテコステに、弟子たちに何かが起きていなかったとするならば、
あんなに仲違いしていた弟子たちはきっと、そのまま喧嘩別れをして、
教会などはきっと残らなかったでしょう。
そして教会が残らなければ、2000年後の日本で、このミッション系の高校のこの学校は立っていなかったことでしょう。
そう思うときに、私はこの話を単におとぎ話として割り切ることはできないと思うのですと言われる。
そして第一コリントの1章21節の言葉を先生が弾いて話されているのですけれども、
こういう言葉が聖書にあります。第一コリントの1章の21節。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることはありませんでした。
それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救おうとされたのです。
ちょっと難しい言葉ですね。でも神砕いてこういうふうに説明をなさっていました。
つまり神様は、人間の知恵、科学や哲学というものを通して神を知ることはできない。
それこそが神の知恵であると、そう言われたのです。
神様は科学的哲学的にご自分を理解されることを、この先生の言い方ですけれども、拒否しておられるのです。
神様は頭のいい人だけではなく、全ての人が頭ではなく心で、ハートで理解ができるようにご自分を表しておられる。
人間がいくら知力を使って学問的に探求しても理解ができないなんて、
それは人間からしたら実に愚かしいことかもしれません。
しかしここに神の深い知恵があるのです。神の愚かさは人よりも賢いのです。
どうぞ皆さんもキリスト教を頭で理解しようとするのではなく、心で、ハートで理解するようになさってくださいと、そういうお話をなさっていたのです。
これは国際キリスト教大学高校の細井則男先生という、もう召された先生なんですが、1990年頃に語られたお話です。
実に私なんかはこういう言葉を聞くと胸を打たれます。
というのも、私も実は今なお大学院で勉強し続けているものです。
時折勉強をしながら頭をかすめる誘惑は何かと言いますと、
09:02
これだけ神学の勉強をして、これだけ聖書のことに詳しくなったんだから、
私は神様ってこういうお方だと全体的に把握できたと思いたいのです。
神様って結局こういうお方でしょ。神様ってこういうお方だからね。
それで全部がわかりきれたようになりたいのです。
でもそれはおそらく違うんだと思うのです。
誤解をないように言いますが、人間にあたり当てる理性や知性というのはとても大事なものです。
それは神様が与えてくださった賜物ですね。
でも神を知るということはそういうことが全てではない。
神を知る、それは生きておられる神様はある種恐れるといいますか、
その神様の前にひざまずいて愚かと思えるおとぎ話のように聞こえる宣教の言葉、
神の言葉を素直に心で受け止めるというのですかね。
そういうことでしか、実は本当に神を知るということができない。
なぜなら、聖書にこういうことも書かれています。
種を恐れることは知識の始めだからです。
種を恐れることは知識の始めだからです。
今朝私たちはペンテコステを祝っています。
そしてご一緒に目を向けたいのは、
今日本当に長い歌詞を読んでいただいてありがとうございました。
14節からのペテロの宣説教と呼ばれるところです。
この歌詞は一聴すればまさにおとぎ話のような話に聞こえるかもしれません。
私はこれからペンテコステにおいて始まった神様のある種大きな世界観の話をします。
それも聞いたらおとぎ話のように聞こえるかもしれません。
でも先にお話をしたのは、素直な心で私たちは聖書の言葉に書いてあることを聞き、
ある種それゆえにご一緒に驚きたい。
それがおそらくペンテコステの出来事を祝うにふさわしい姿勢だと思うんですね。
ここでペテロは丁寧にペンテコステを通して何が始まったのか。
そして始まったことによって一体何が起きるのか。
そのことを語っています。
今朝はご一緒にこの二つの点を覚えたいんです。
ペンテコステによって一体何が始まったのか。
そして何が起きているのか。
今朝まず一つ目に見ていきたいのは、何が始まったのかということです。
今朝特に注目をしたいのはこの2章の17節の言葉なんですね。
12:02
お読みしますと、使徒の働きの2章の17節というところにこういう言葉があります。
神は言われる。
終わりの日に私は全ての人に私の霊を注ぐ。
あなた方の息子や娘は予言し、
青年は幻を見、老人は夢を見ると言われています。
この箇所は14節から今日読んでいただきましたが、ペテロの説教の中にあるわけです。
少しだけこの14節に至るまでの流れを確認しますと、
まさに彼らの家の中に天が開けて、天から風と炎のような下が下ってきて、
突如弟子たちは精霊様に満たされるわけです。
そして彼らは多様な地域の言葉でまさに語り始めるわけですね。
炎の分かれた下というのがまさに多様な地域の言葉を語るということにつながっているのだと思いますが、
この箇所はちょっとまたいつか詳しく見たいですが、
創世紀のバベルの塔の裏返しなんですね。
神が傲慢によって人々の言葉を散らしたけれども、
でも人々がまたその言葉によって分かり合うことができるようになったということを言っている。
そういう出来事だと思います。
ただですね、それを見て人々は言うわけです。
彼らは武道士に酔っているんだと。
それほどまで当時の人々から見ても、
このペテロたちの状況というのはまともではない、ありえない出来事だったわけです。
そのようにゆぶかしんでいる人々に対してペテロは実に冷静に答えていきます。
皆さん耳を傾けてください。酔っているのではありません。
ペテロが言うのは、ここで何か異常なことが起きているように見ないでください。
むしろこれは神様が長年約束されておられた、神様の約束が成就したことなのですとペテロは言い始めるわけです。
ペンテコステの出来事というのは第一義的にそれは旧約聖書の成就です。
そこでペテロが引いたのが預言者ヨエルの言葉なわけですね。
17節の前半をちょっと見ますと、さっきも言いましたが、
終わりの日に私は全ての人に私の霊を注ぐと言われるわけです。
まずこの言葉に注目をさせていただきたいと思うんです。
というのもペテロたちは当然酔っ払いではないわけですね。
15:01
彼らには精霊様が注がれたのです。
ただしそれは預言者ヨエルの言葉によるならば、終わりの日が始まったということを言っているわけです。
終わりの日が始まったということを言っている。
ペンテコステって何の日ですかと聞かれて説明できる言葉はいろいろあります。
精霊様が人々に注がれた日なのだとも言えますし、
言い方によってはそれは教会のお誕生日なんだという説明もよくすることができます。
間違っていないわけです。
しかしペテロが最初に説明した言葉は何かというと、
これを通して終わりの日が始まった、終末が始まったというわけです。
終末や終わりの日と聞きますと、
私たちはまだまだ先のことだなと考えるイメージがあるかもしれませんけれども、
実は聖書の世界観、聖書の言葉にのっとって言うならば、
実は終末はすでに始まっています。
2000年前から実はこの世界は終わりの日が始まっているんです。
もう少しだけこの終わりの日という言葉について触れていきたいと思います。
これはユデイ人たちにとってどういう日だったかということをちょっと考えたいと思うんですね。
このユデイ人、まさにペテロがここでエルサレムにいるユデイ人に向かって語っているわけですけれども、
ユデイ人にとっての終わりの日というのは、まさに彼らが待ち望んでいた日でした。
詳しい歴史的な話をちょっと語ると長いので、簡潔に申し上げますと、
彼らにとっては、彼らは今エレメア州をやっていますが、南ウダ王国が崩壊した後に、
その後いろいろな国の支配の中に彼らは置かれるわけです。
バビロン、ペルシャ、エジプトですね。そういう国々の支配に置かれて、今はローマ帝国に置かれている。
しかし彼らは望みを見ていたわけです。それは終わりの日が来る。
終わりの日が来るならば、それは終わりの日が来ると、
神様はダビデのような王、メシアを使わせてくださってゼカリア州に書いていますが、
主が地のすべてを治める王となられる。またゼカリア州の14章の9節というところに書いてあります。
メシアが使わされ、その国の王となってくださるということは、
まさにローマ帝国であったり、自分たちを支配する国から自分たちは解放されるんだという願いがあるわけです。
解放されるということを望みを見ている。
そしてもう一つ言うのは、予言者ヨエルが語るように、その日にはメシアが立って、
そしてメシアや特別な予言者にしか注がれなかった、
18:02
あの精霊様が私たちすべての人に注がれるんだということを彼らは信じていた。
そういう日が来るんだということを彼らは待ち望んでいたわけです。
しかしながらですね、新約聖書を見ていくとよくわかるかと思いますが、
ユデイ人はメシアとして来られたイエス様、救い主として来られたイエス様を、
まさにメシアとは認めることができませんでした。
先月の受難集や復活祭で見てまいりましたけれども、
イエス様がエルサレムに入場されるとき、人々は歓喜の喜びの声を上げるわけですね、バンザイと。
でも、イエス様を迎えた人たちは途中で手のひらを返します。
イエス様王がローマの支配から自分たちを解放してくれると思っていたのに、
逆にイエス様はローマに捕まってしまうわけですね。
がっかりするわけです。
あ、この人はメシアではない。
結果的にイエス様は十字架で死んでしまいます。
彼らは思いました。十字架で死ぬようなメシアはメシアではない。
しかし、この箇所でペテロは明確にそのことに反論し始めるわけです。
今日長く読んでいただいたのは、この後半の箇所がちょっと大事だからなんですね。
2章の22節、23節というところ、
24節まで読んでみたいと思いますが、こういうことが書いてあります。
イスラエルのみなさん、これらの言葉を聞いてください。
神はナザレジンイエスによって、あなた方の間で力ある技と不思議と印を行い、
それによってあなた方にこの方を明かしされました。
それはあなた方自身がご承知のことです。
神が定めた計画と神の余地によって引き渡されたこのイエスを、
あなた方は立法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
しかし神はイエスを死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。
もう一つちょっと進んで、32節にも同じようなことが書いてあります。
このイエスを神はよみがえらせました。
私たちはみなそのことの証人です。
ペテロが22節から書いていたのはまさに私がさっき言ったようなことですね。
イエスは来た。でもあなた方はそのイエスを立法を知らないローマ兵によって殺したでしょう。
でもイエスは死んだままではない。死からよみがえったと彼らは言う。
この神はイエスを死からよみがえらせましたという言葉は本当に大事なんです。
それは何かと言いますと、ユダヤ人はこの言葉に何よりも驚くんです。
21:03
それは死人から人が復活したということ自体も驚きなんですよ。
それも驚きなのですがユダヤ人にとってもう一つ特別な意味がありました。
それは何かというと、神がその人を死からよみがえらせるということは、
神がその人を忠実なものと認めたということを意味するんです。
ちょっとややこしい話をしていますけれども、
神はその人を忠実なものと認めた、神はその方の忠実さを認めたということを意味します。
ですからユダヤ人の人たちがそれまで十字架で死ぬようなメシアはメシアではないと思っていたわけですが、
しかし神はイエスを復活させ忠実なものと神があの方を認められたんですということをペテロたちは言う。
するとどうなるでしょうか。
彼らはイエスは間違いなくメシアであるということを認めざるを得ないんです。
間違いなくイエスはメシアである。
ああ、そうか、神があの十字架で死んだイエスを忠実なものとして認めたのだということ。
人たちがまさにこの32節で私たちは復活の証人ですとはっきりと言いますが、
彼らがなぜここまで復活が大事だと言ったのか。
それは復活こそがイエスは間違いなくメシアであるということの確証なんです。
イエスは間違いなくメシアである。この世界を救うために来られた救い主である。
そしてイエスはメシアであるということだけをこの歌詞で言っているのではありません。
もう一個大事なのはこの29節から31節も読みますけど、こういうことを言っている。
兄弟たちフソダビデについてはあなた方に確信を持って言うことができます。
彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座につかせると神が誓われたことを知っていました。
それで後のことを予見し、キリストの復活について、
彼は世に捨て置かれず、その体は朽ちて滅びることはないと語ったのです。
ここで書かれているのはイエスはメシアであるということだけではなくて、
そのメシアであるイエスは王座につかれるということを言っている。
この王座につかれるというのはこの33節にも書いていますが、
ですから神の右に挙げられたイエスがという言葉があります。
使徒の働きの1章の9節から11節というところにありますが、イエス様は天に挙げられていくわけです。
でもイエス様が天に挙げられたということは一体何を意味しているのかというと、神の右に挙げられたのです。
24:05
それは神が天で治めておられる神と共にこの世界を治め始める、
まことのこの世界の王になられたということを言っているのです。
イエスはこの世界の王になられた。
そしてこの神の右に挙げられたイエスが約束された聖霊を御父から受けて、
今あなた方が目にし耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
そういうことが言われている。
ここまでちょっとややこしい話をしたので、少しだけ整理を。
でもこれでもややこしいですね。あまり気にしないでください。
起きていることは実にシンプルなのですが、言葉にするとちょっと長かったらしいということです。
でも実にシンプルなことです。
神様はまことのメシアであるイエス様をこの世界に送ってくださいました。
イエス様がなさったのはまさに終わりの日が来たときに起きると言っていたことを、
イエス様はお一人でいろいろされるのです。
人々はイエス様こそメシアだと期待し始めました。
しかし途中で人々はイエスがメシアではないと、
手をひらを返し十字架で殺してしまいました。
しかし神様はイエス様を三日目によみがえらされました。
そのことを通し、イエス様は確かにメシアであることが神様によって確証されたのです。
天に昇られたイエス様は王座に着座され、世界の新しい支配を始められました。
まさにこれはゼカリア書の14章の9節が予言の上司です。
主が地のすべてを治める王となられた。
そしてイエス様のもとから精霊様が注がれた弟子たちは、
新たな王であるイエス様の支配を生きる者として、
イエス様を明かししていく。
イエスの業をこの世界で行っていく。
私たちが今学んでいる主の祈りというのはまさにそのための祈りなんです。
そしてメシアが到来をした。
そしてすべての人に霊が注がれるという出来事が今ここに起きた。
何が始まったのか。
終わりの日が始まったと言ってくる。
終わりの日が始まった。
あなたたちが待ち望んでいた終末が今この時に始まったと
ペテロはここで演説をしているわけ。
以前、世界は新しくなるという本を皆さんにご紹介をさせていただいたことがありますが、
まさにタイトルの通りなんですね。
ペンテコステが意味すること、それは
27:00
2000年前のペンテコステの日から決定的に世界は新しい段階に突入したということです。
世界のルールが、世界の支配が全くその時から変わったということです。
この世界に新しい王の支配が始まった。
世界の王は神とともに術を収められるイエスであると。
私たちは賛美でありますが、イエスこそ王の王、主の主と賛美をいたしますが、まさにその通りです。
王の王、主の主となられた。
そしてこの支配は、聖霊様を注がれた弟子たちを通してこの世界に現されていく。
聖霊なる神様の働きというのはそのための働きである。
まさに私たちが主の祈りで学んだ通り、御国が来ますようにという祈りはまさにその祈りです。
そしてこれは神様を信じていないという人たちにとってもとても大事なことなのです。
先ほどコリントの言葉を読みましたけれども、まさに人たちが伝える宣教の言葉、宣教の愚かさと言いましたけれども、
まさにこの世界から見るならば、聖書で書いてあることは馬鹿馬鹿しいわけですよ。
復活をした諸女高譚があった。
でも聖霊様がそこに働かれ、そして愚かと思われる宣教の言葉、神の言葉を通してこの世界にイエス様こそ主なのだということを明かしする。
そのことを私たちは愚かだなと普通に考えたそうなんです。不思議とそれを信じるタイミングがあるんですよ、みんな。
ここにいらっしゃる皆さんもそうじゃないでしょうか。不思議と信じている。
それは知性や理性の延長線上じゃなくて、ハートでどこかで神様に触れられるという時がある。
その時に私たちは不思議なように信じさせられることがあるんですね。
まさにイエス様こそ私の主です。
2000年前に王子になられたイエス様こそ私の主なのだと告白するもの。
そのものをイエス様、神様はあなたも私の子なのだということに気づかせてくださる。
あなたも神の子として生きるのだと招いてくださる。
今日の2章の21節にも言われていますが、
しかし主の皆を呼び求める者は皆救われるという言葉が書いてあります。
主の皆を呼び求める者は皆救われる。
それは今も変わりません。神様を信じるというのは実にシンプルなことです。
主の皆を呼び求める者は皆救われる。
30:06
1つ目のポイントをもう閉じたいと思いますが、
ペンテコステを通して何が始まったのでしょうか。
それはこの世界に新しい支配が始まったのです。
終わりの日が始まったのです。
2000年前からこの世界の王はイエスキリストご自身です。
そして私たちはその民とされているということなんですね。
さてもう一つ見ていきますけれども、
そのように新しい世界が始まった。
その新しい世界で一体何が起きていくのでしょうか。
先ほど新しい支配が始まったそれは、
終わりの日が開始したのだとお話をいたしました。
では終わりの日には一体何が起きるのでしょうか。
終わりの日だとか週末と聞きますと、
私たちは何かハリウッドのパニック映画の光景を想像するかもしれません。
何かもう世界がどんがらかしちゃんと崩れていくような世界を想像するかもしれませんが、
タウロの言葉を借りるならば、
彼はこの世界に新しい支配が始まったことを様々な言葉で表現をしています。
表現だけちょっと拾っていくだけにとどめますが、
彼は例えばこういう言い方をしますね。
パラパラ開いて申し訳ないのですが、
第2コリントの5章の17節。
皆さんよくご存知の言葉かと思います。
第2コリントの5章の13節。
失礼、17節です。
第2コリントの5章の17節。
ゆっくりお読みするのでまた聞いていただければと思いますけれども、
5章の17節というところに有名な言葉ですね。
こういうことがあります。
ですから、誰でもキリストの内にあるなら、
その人は新しく作られたものです。
古いものは過ぎ去ってみよ。
すべてが新しくなりました。
これは私たちはよく、
私たち個人的にイエス様を信じて新しくされた、
神聖のことをここから聞くわけです。
それは大事で間違っていないのですが、
しかし、タウロがイメージしているのはもうちょっと広い世界なんです。
この世界全体が古い時代から新しくなったと言ってみます。
すべてが新しくなったんだということを彼は言う。
そしてもう一つタウロの言葉を聞くならば、
これも有名ですが、ガラテア書の6章というところ。
6章の15節というところにこういう言葉があります。
ガラテア書というのは、
滑稽派の人たちとのいろいろないざこざがある
そういう手紙ですけれども、
33:02
6章の15節にもこういうことを彼が書いています。
滑稽を受けているか受けていないかは大事なことではありません。
大事なのは新しい創造です。
新しい創造ですと彼は言います。
タウロはこの世界に始まった神様の新しい御支配を指して、
新しい創造と彼は表現をします。
実はこの言葉はですね、
ちょっと早くしゃべっていただいていいですか。
新しい創造が始まったんだということを言う。
この言葉は実は今日読んでいただいた2章の、
使徒の2章の19節から20節という言葉と関連で見るとよくイメージがつきます。
2章の19節から20節を読むとこういう言葉があります。
パラパラしてすみません。
使徒の働き2章の19節から。
また私は上は天に不思議を、下には地に印を現れさせる。
それは地と火と立ち昇る煙、
種の大いなる輝かしい日が来る前に、
太陽は闇に、月は地に変わる。
この言葉を聞いてなんとなくイメージがつくのは、
これは創造のことを変えているんだなということです。
でもこの2章の19節から20節で言っている創造の働きというのは逆転しているんですね。
神様がこの世界をよいように作られたのに、
それは地と火を立ち昇る煙が上がり、
太陽は闇に、月は地に変わる。
エレメィア小祈祷会で読んでいますけれども、
それを読んでいる方々はまたちょっとイメージがつくと思います。
この世界にはびこる罪が、神様がよいと言われた世界が、
神様がよいと言われた秩序ある世界をだんだん破壊しているということです。
それは破壊が止まらない。
罪の世界によって破壊は進んでいくと言っている。
しかしですね、それにある種逆行するかのように、
神の支配が始まり、神の民とされた私たち、
いやこの世界に神を通して新しい創造を成していくんだということをパウロは語る。
実はここには2つの力が働いているということがよくわかります。
一方では世界にはびこる罪の力があるわけです。
それによって世界は破壊され続けている。
罪という言葉を端的に表現すると、
私はそれは神と人との関係が、人と人との関係が破壊され、
そしてそれ故に自分自身をも受容できずに傷つけ合ってしまう世界と、
私はよく言いますが、そういうことだと思います。
36:01
神の愛の言葉が聞こえない創造の破壊が続く、そのような世界が一方である。
しかし一方でペンテコステはそのような世界の中に
イエス様の新しい支配が始まったというわけです。
新しい支配がもたらすのはまさに第2コリンとの五章の続きにも書いていますが、
神との和解が始まるのであり、
そして互いに愛し合うことが実現していくのであり、
それを通して、神のことされることを通して、
まさに自分自身もまた神の愛する、神の喜びであるということを知る世界が始まった。
そのような世界が始まった。
この2つの世界は今なお、ある種の緊張関係の中にあると言えるのです。
まさにこの世界は光と闇が交差している世界であると、そういうことができるのです。
私も時々友達に言われることがあります。
神様が愛であるならば、なんで世界に戦争なんかあるんですかと。
確かに私自身もそう思わされることがあります。
今ネットの世界で、いいも悪いもわかりやすくなりました。
嘆き叫んでも救われない命がある。
そういうことを私自身が知らされるたびに、
本当に神はいるんだろうかと私自身も悩まされることがあります。
しかし、聖書の長いストーリーから同時に知らされることは、
神様がこの世界を癒やそうとされるときに、
回復しようとされるときに、そのために取る手段は、
神様が直接的に何かをするということ以上に、
神様は人をそのために選び出されるということです。
神は人をそのために選び出される。
そして神様は、人と共にこの世界を癒やすという処方をどこまでも取られるのです。
それはアブラハムやダビデ、多くの預言者たち、
そしてミコイエス様がそうであったように、
神様はそのような処方を取られる。
この世界の人間と共に、この世界に神様の愛を伝え、
この愛に生きることによってこの世界を回復させる。
神様はそのようなことを願って、
人を選び、人を救い、回復をさせる。
私たちは神様が本当にいるのか、そうであれば神様が見えればいいのにと思います。
でも神様は直接的にご自身をお見せになることはほとんどないですね。
39:06
私も告白しますと、神様を直に見たことはないですよ。
神様を直に見たことはない。
でも神様をもしも見ることができるとするならば、
それは神様がご自身の聖なる神を与えた方々、
神の愛に生かされる人を通して、この世界に神様ご自身を表されるんです。
そしてこれはまさに耳を傾ける言葉だなと思いますが、
ヨハネの福音書の1章の5節というところにこういう言葉があります。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。闇はこれに打ち勝たなかった。
先ほど光と闇の緊張関係と言いますが、ちょっと正確に表現を変えるならば、
光の勝利は決まっているんです。
ただ、その中で光を表していくことは実に苦痛があります。
ある意味、2000年前から光と闇のそのような緊張関係が続く中で、
多くのキリスト社もまた苦しんできました。時に加害者にもなりました。
しかし、闇が光を滅ぼすことができないからこそ、
精霊様に導かれた人々が伝えた福音が、2000年の時を超えて今、日本に届いているんです。
今、私たちがここで書を礼拝しているという事実自体が、
闇は光に勝たなかった、その事実を明かししているんです。
そして今朝、ご一緒に覚えるべきことは、
ここにいる私たちのすべてが、精霊様に導かれている一人一人なのだということです。
私は精霊なる神様について考える時に、好きなイメージが一つあります。
それは、風というものです。
聖書の中で精霊様って色々な表現がなされます。
時に精霊様は炎のようであると言われます。
時に精霊様は水のようであると言われます。
同時に精霊様は風だと表現をされる。
どれも大事なんですが、一つ風という表現に今朝注目をさせていただくならば、
まさにこのペンテコステの時も風が吹きました。
2章の2節にありますが、すると天から突然激しい風が吹いてきたような響きが起こると。
風というのは精霊なる神様を表現する比喩なわけですね。
比喩というのはよく使われます。神様は実際には表現できないんです。
でも神様はこういうお方だと表現するために、さまざまなこういうものだよと表現するわけですが、
精霊なる神様は風そのものではないですが、風のような特徴を持っているお方である。
42:06
それは言い換えるとこう言えると思うんです。
それは精霊様は目には見えないんです。私もそうです。風は目には見えない。
でも風はそのものを動かす力があるということです。
風は目には見えない。しかし風はものを動かす力がある。
精霊なる神様はそういうお方である。風は目には見えません。しかしものを動かす力がある。
同様に精霊様は目には見えません。しかし人の心を動かす力がある。
私たちは目に見えない風を見えるようにするには風車とか使ったらよくわかりますよね。
風車が回っている。風がここにあるんだと可視化することができる。
精霊なる神様とキリスト社の関係もそのようなものなのです。
精霊様はこの人に働いている。あ、そっか、こういう人なんだ。神とはこういう方なんだ。
私たちを見て人々は神を知るんです。
それはおそらく、先ほど最初に言いましたが一章八節の
まさに私たちがキリストを明かしするものになるという言葉とつながっていくんですよ。
風に吹き出されて、風に押されて、私たちはキリストを明かししていく。
そして精霊様を風のようだと表現するならば、
この精霊様の風は二千年前から絶えず吹き続けているのです。
神の新たな創造の技は今なおこの世界に吹き続ける。
精霊様の風によって吹かれ続け、神の民を動かし、世界を今なお癒し続けている。
私たちもそういう経験をしますよね。
風は時に優しく吹いて、私たちの心を慰めてくれます。
精霊様は私たちの傍らに居続ける慰め主、癒し主です。
風は時に私たちを強く押し出します。
精霊様によって祈りが導かれますし、私たちは精霊様によって使命に押し出されます。
時に風は激しく吹き、動かし得ないものをも動かす時があります。
鉄の扉が開くという時があります。
精霊様によらない場合、人はイエスを主と告白することはできません。
でもそれは精霊なる風が吹く時に起きるんですね。
イエスはイエスを主と告白することはそういうことでしかできない。
そのような多様な精霊様の風の働きがあります。
45:01
私たちはまさにペントコステの記事を見ますと、
なんと言いますかね、天から吹き荒れる激しい風を求めがちなんだと思うんです。
精霊様は確かに私たちをそのように激しく取り扱い、解放し、癒してくれるということもある。
そういう経験を皆さんもされているかもしれません。
しかし今朝、あえて申し上げさせていただくならば、
私たちが気づかなければならないのはむしろ、
精霊様の風は常に既にあなたに吹き続けているということに気づいていますかということです。
そうであれば、私たちが問われるのは、精霊様の風にあなたは今気づいていますか。
神があなたの心を押し出そうとする方向に、
あなたを導く風が今吹いていることを、あなたは気づいていますか。
今朝の17節の続きを見ますと、こういう言葉がありました。
精霊が注がれると、あなた方の息子や娘は予言し、
青年は幻を見、老人は夢を見る。
特に後半に注目をしますと、青年から老人という至る世代の人たちですよね。
至る世代の人たちが、これは神様の心を知り、
神様が世界を癒さそうとされているその幻や夢を一緒に見るものになるということです。
一緒に見るものとなる。
これはすごく私の偏見に満ちた表現かもしれませんが、お許しいただけると、
私たちが年を重ねていくときに見る夢というのは、もしかしたら過去を振り返るかもしれません。
私たちはあの時代がよかった、ああいうことができた時代はよかった、
過去のことを振り返るかもしれません。
でも精霊様が見せる未来とか夢というのは、これからのことなんです。
皆さん、ごめんなさいね、老人だって皆さんのことを言っているわけではないんですが、
でも問われるのは、あなたの夢は何ですか。
あなたが今から見れる夢は何ですか。
精霊なる神様があなたに吹きかけ、あなたがこれから見ることのできる夢は一体何ですか。
いや、精霊なる神様はそれをなすことができると言っているわけ。
私たちは時に吹く風を遮断するということもあるでしょう。
その原因はおそらく、私たちの知性や理性、もっと如実な言い方をするならば、
神が私に吹かせてくれる、私を押し出そうとしてくれる風の方向を感じつつも、
いいえ、その方向は違います。いいえ、その方向は間違っています。
48:03
そのように自分自身が拒む、神の知恵の上に自分を置こうとする知恵、
神の知恵の上に自分を置こうとする知恵というものがあるのかもしれません。
それはサタンの声なのでしょうか。
いいえ、きっとそれは私たちの内なる声なんです。
知性や理性は大事です。しかし、主を恐れることが知識の始めです。
2000年前から、精霊なる神様の風を感じたならば、それは動き出すときなんですね。
私たちが心の中にふと、私たちの知性や理性を超えて、ふと神様がこうしろと言われることがある。
そのときは動き出すときなんです。
私たちは主を恐れるお互いでありたいと思います。
2000年前から世界が新しくなりました。世界の王はなおもイエス様です。
そしてなおも闇が晴れない世界の中に、2000年前から精霊様の風は吹き続けています。
そして、それは今、私たちの心にも吹いている。
私たちをその世界の癒しへと押し出すように、私たちの心にも吹いている。
主を恐れ、主にひたまづきつつ、精霊なる神様の言われるままに進みましょう。
私たち一人一人が生きる場所で、何度も言いますが、神の国を築くというのは大それたことではない。
私たち一人一人が生きる場所で、家族の中で、仕事の場で、友との交わりの場で、学びの場で、
精霊様の風があなたの心に吹くときに、押し出されて、神の愛の心をその手であらわしていきましょう。
私たちが精霊様と共にいる場所こそが、神が世界を新しく創造される最前線の現場です。
私たちが行くところこそが、新しい創造の現場なんです。
今朝の御言葉をお読みします。
神は言われる、終わりの日に、私は全ての人に私の霊を注ぐ。
あなた方の息子や娘は予言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
恐れずに行きましょう。
吹かれるままに夢を見ましょう。
あなたは世界を癒す精霊の器なのです。
一言お祈りをして。
50:47

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