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暑いですね。 汗が吹き出るほどの暑さとは、こういう日のことだなぁと思います。
前も申し上げましたが、ぜひ礼拝の時、しんどかったら楽な姿勢をとってください。
水分補給も遠慮なくなさってください。 本当に体が支えられて、ご一緒に礼拝が守られることを願っております。
一言短くお祈りをいたします。 天の父なる神様、
私たちを主の御前へとまた招いてくださり、心からありがとうございます。
暑い日が続いております。 私たちの心も体も、また礼も、祝われやすい中にありますが、
しかし祈ってくださったように、私たちの外側の人は衰えようとも、失る人は日々新たにされると、
あなたが約束してくださるように、 私たちが弱ろうとも、主が私たちの内に強く生きてくださることを励ましを与えてくださることを覚えてありがとうございます。
私たちを愛し抜いてくださり、あの十字架においてご自身の血を流し、命を捧げてくださいました。
その流された血汁によって私たちの罪が許され、神のことされ、三日目に生み返られた復活の命を私たちに与え、
永遠なる人と共に生きる新たな人生をあなたが開いてくださったことを心からありがとうございます。
主よ、私たちはあなたを主と告白し、あなたに従うものとされました。
御言葉を通し、私たちを慰め、励まし、また砕き、立て上げ、あなたご自身を仰ぐことができますように、
この礼拝の時を祝し導いてください。お願いいたします。 御言葉を主が開き、
精霊様が私たちに御言葉を悟らしめてくださいますように、お願いいたします。
祈られたように、ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えます。
施設におられる方、御自宅で礼拝を守っておられる方、また思いがあっても様々な理由で来れない方、心が痛んでおられる方、
主が全ての方々を御存じでいてくださいます。そのところにも主は共にいてくださいます。
どうかお一人一人を慰め、励まし、あなたを仰ぐことができるよう助けてください。お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。どうか主が私たちに語ってください。 イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。 今朝から8月の末までは、使徒の働きを順に読み進めていこうと思っています。
9月からはまた一転して、旧約聖書のヨシハシシキをこの秋は見ていこうと考えております。
使徒の働きは去年の夏ぶりですから、ほぼ1年ぶりです。少し使徒の働きはどういう所感であったのか、お話をさせていただこうと思いますが、
使徒の働きが言いたいことは何なのか、一章の8節を見ていただいたら、その要約が書かれていると言われます。
使徒の働きの一章の8節、有名な言葉です。 しかし、精霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで私の証人となりますと、よくご存知の言葉かもしれませんが、
使徒の働きというのは、ここに応枠が定められていると言われます。 いわば、この言葉がどう実現していくか、それが書かれているのが使徒の働きです。
そして、この言葉の約束の通り、使徒の2章では、ペンテコステの箇所ですね、精霊様が弟子たちの上に下られました。
精霊様というお方は、最初にちょっと簡単な確認ですが、精霊様というお方は、私たちに一体何をしてくださるのでしょうか、弟子たちに一体何をしたのでしょうか。
おそらく2つのこと、千日目でいろいろありますが、2つのことが言えると思うんです。
まず1つ、精霊様はイエス様って何者なのかということを弟子たちに示してくれました。
イエスキリストとは何者なのか。弟子たちよくわかってませんでした。
あの十字架でかかり、3日目に呼び帰り、弟子たちの前で天に昇っていったイエス様、これは一体何なのか。
でも、精霊様が下ったそのペテロが、基礎の働きの2章で詳細にイエスキリストとはこういうお方なんだということを大胆に語ります。
千日目で何を言っているかというと、イエスキリストはこの世界の誠の王となられたということです。
イエスキリストはこの世界の誠の王となられた。
天に昇られたのは、神の右の座、権威の座に指して、神と共にこの世界を新しく支配を始めた、そのことを意味します。
ですから、新しい王様が立って、新しい世界がこの時から始まったと言っているのが、実はペンテコステの演説です。
新しい世界がこの時から始まった、イエスキリストを通して始まったということですね。
そのようなイエス様が王であり、この世界を新しい時代を始めたんだ、そのことを精霊様が弟子たちに告げました。
そしてもう一つ精霊様が弟子たちに与えたのは、イエスキリストを明かしする力と勇気を与えたということです。
使徒の働きの前編、特に3章から7章のことを思い返していただくならば、エルサレムの神殿の境内で弟子たちはイエス様を明かししました。
しかしそれは言葉だけではなく、力が伴いました。イエスの名によって病が癒され、イエスの名によって様々な印を行いました。
イエスの名によってって大事なんです。なぜかというと、名というのは権威を意味するからです。
あなた方は誰の名によって、誰の権威によってこのことをしているのか。使徒の働きの4章の7節にそういう言葉がありますが、まさに
あなた方は誰の名、誰の権威によってやっているのか。私たちはこの世界の真ことの王となられたイエスキリストの権威によってこのことをやっているんだ。
弟子たちに与えられたのは、そういうイエス様の権威が弟子たちに委ねられたんですね。
ですから使徒の働きの3章から7章というのは、エルサレム神殿の権威と真ことの王となられたイエス様の権威の衝突が描かれているんです。
そしてそのために何度も使徒たちはエルサレムの指導者たちに命を狙われますね。
その結果キリスト社で初めてステパノが殉教をいたします。弟子の中で初めてステパノが殉教をする。
しかしご存知の通り、最後まで彼は勇気を持ってイエスキリストは救い主であり、あなた方エルサレム神殿の指導者はこの救い主を否に殺したんだと批判しました。
けれどもこのステパノの姿というのはステパノだけではない。当時の、要は初代教会のまさにその姿でした。
人に従うのではなくて私たちは神に従うべきですと彼らは勇敢に戦っていきました。
ざっと前半を確認をしていきましたけれども、今日の8章というのはその続きなんです。
何かと言いますと、ステパノの殉教をきっかけにエルサレムではキリスト社たちは危ない奴だと思われて激しい迫害に遭いました。
エルサレムという街では宣教が続けられなくなりました。だから弟子たちは各地方に散らされていくんですね。
その散らされていった一人の人物が今日4節から読んでいただきましたがピリポという人物でした。
思えばステパノの殉教というのはおそらく弟子たちにとってはつらいことで怖いことだったでしょう。
イエス・キリストに従っていった結果死が待っているんです。死ぬかもしれない。
でも彼らは4節にありますが御言葉の福音を述べ伝えながら巡り歩いた。
聖霊様の力ってすごいなあということを思わされますが、
今朝このピリポの姿を通してもまた聖霊様って一体何をされるのかなあということをご一緒に少し確認をしていきたいと思っております。
ピリポの宣教活動
さて先ほども申し上げましたが、十二弟子の一人のピリポはサマリア地方で宣教を始めました。
サマリアという街はエルサレムから北ですね。ユダヤ地方の北にあります。
私たちはよく知っていると思うのは、福音書の中でイエス様がサマリアの地域を通るときに緊張感が走りましたね。
サマリアの井戸のところであった女性は、「あなたと私は喋っちゃダメなはずです。」
その通りにユダヤ人とサマリア人って当時本当にいがみ合っていました。
当時の文献では互いに虫けらだと呼び合っていたということです。激しい溝があったけれども、
そのことを思うならばこのピリポの仮初というのは実に驚かされます。
彼はサマリアの街に下って行き、人々にキリストを述べ伝えた。
ピリポが行ったのはイエス・キリストを述べ伝え、そしてまさにサマリアの街でイエス様の名によって印を行ったということがここで書いていますね。
そして七節八節にはそれによって悪霊が追い出されて、人々が病から癒されていく、
まさにイエス様が行ったような奇跡がこのピリポの手を通して行われました。
街の人たちはこのピリポを見ながら揃って感心を抱くようになったというのが六節に書いています。
感心を抱くようになったですね。
一方、このピリポが語った街にはもう一人すでに感心を抱かれている人物がいたということが九節から書いてある。
それが魔術師のシモンという人物でした。
彼の人隣が九節から十一節に書いていますので少しお読みしますと、八章の九節から十一節。
ところで以前からその街にはシモンという名の人がいた。
感心を抱かれた街
彼は魔術を行ってサマリアの人々を驚かせ、自分は偉大なものだと話していた。
小さいものから大きいものまで全ての人々が彼に感心を抱き、この人こそ大能と呼ばれる神の力だと言っていた。
人々が彼に感心を抱いていたのは長い間その魔術に驚かされていたからであったとあります。
シモンが使う魔術がどういう類のものかはわかりません。
ただはっきりしていることは、彼は自分自身を偉大なものだと豪語していた。
しかもその彼の魔術の力を見て、街の人々はこの人こそ大能と呼ばれる神の力だと言っていた。
大能という言葉はこれは本来神様に対して使われる言葉です。
いわば、この人は神のようだと言われていたわけです。
魔術師シモンってちょっと出てくるだけの人なので、さらっと読み飛ばしがちですが、多分彼の影響力はすごく大きかったんです。
ユダヤ地方で神の子はイエス・キリストだと叫ばれていたように、おそらくサマリア地方では魔術師シモンが神の化身だと言われていたのかもしれません。
そのぐらい、おそらく影響力があったのではないか。
街の中には奇跡を起こすピリポと、一方で奇跡を起こす魔術師シモンという二つの感心事がこの街に集まったということですね。
信仰の確認とバプテスマ
そして、この二つの感心事は一体どのように決着をつくことができるのでしょうか。
先日めて言うならばそれは、どちらが本物であるかということです。
どちらが本物であるか。
見るならば、すぐに群馬はピリポに上がったようですね。
十二節を読みしますと、その要因が書かれています。
しかし人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について述べ伝えたことを信じて、男も女もバクテスマを受けた。
シモン自身も信じてバクテスマを受けると、いつもピリポに突き従って印と大いなる奇跡が行われるにては驚いた。
何が言われているかというと、まさにこれは精霊様の働きだと思いますが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について述べ伝えたところ、
その町の人たちが関心を持っていただけじゃなくて、イエス・キリストを信じた。信じた。
そして町の人たちだけではなくて、魔術師シモンまでもがイエス・キリストを信じた。
ああ、これは本物だと彼は思ったのかもしれません。
そして双方ともバクテスマを、洗礼を受けたということでした。
これは屈しい精霊様の働きですね。
ただ少しだけ注目をしたいのは、この十二節の言葉です。
ピリポが語ったのは、神の国とイエス・キリストの名について述べ伝えたと、ここで聖者は語ります。
サマリアの人々への宣教
この言葉によってサマリアの人々も魔術師シモンも信じたわけですけれども、
神の国とイエス・キリストの名についてというのは、一体具体的には何を語ったのでしょうか。
そのことはこの使徒の働きには書いていませんね。
けれどもおそらく類推するには、当時の初代のキリスト者たちが、これがイエス・キリストだと述べ伝えた言葉、
専門用語でケリュグマと言いますけれども、それが残っている言葉がここじゃないかと言われる聖書の箇所があります。
一緒にお読みしたいと思いますが、ピリピリとへの手紙の2章の6節から11節というところをちょっとお読みしたいと思います。
聖三式のときに私読む箇所ですが、この6節から11節というのは、おそらく初期のキリスト者たちがイエス・キリストを述べ伝えるときに基礎とした言葉ではないか、そういうことが言われる箇所です。
お読みしますと、このような言葉ですね。
ピリピリとへの手紙の2章の6節から11節。
キリストは神の身姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を虚しくして、下辺の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神はこの方を高くあげて、すべての名に勝る名を与えられました。
それはイエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての下がイエス・キリストは主ですと告白して、
父なる神に栄光を期するためですとあります。
これは勝手な想像ですが、おそらくピリポがサマリアの街で語ったのは、こういう宣教の内容であったのではないか。
おそらくまず彼は言ったのです。
イエス様というお方は、神の在り方を捨ててご自分を虚しくし、人間と同じようになられたお方なんです。
それは貧しく痛む人間の苦しみを分かち合い、共に生きるために創された主なのです。
しかも私たちの罪の身代わりとなられるために、あの十字架にまでイエス・キリストは従われたのです。
しかしこのイエス・キリスト、イエス様を神様は忠実なものと認めて復活させてくださいました。
それだけではなく、今は天に高くあげ、すべての名に勝る名、いわば王となさいました。
このイエス様こそ全知の王となられ、このお方は罪深く矛盾がある私たちを今も心から愛し、私たちを今も招いてくださっている王様なのです。
あなた方はこのお方を知っていましたか、でも知らないのであれば、ぜひあなた方はこのお方をあなたの主として、王として迎え入れることができるんですよ。
この愛と恵みに富んでいる誠の王イエス様の民となり、あなたもこの王であるイエス様にならい、イエス様の愛と恵みに生きる新しい人生を始めませんか。
シモンへの警告
それはあなたがイエス様を主と告白するその時から始めることができるんですよ。
おそらくそういう宣教ではないかな、そういうことを思わされます。
ちょっと長々と言いましたが、説教原稿を置いていますので、また見ていただけたらと思います。
イエス様を信じる信仰というのは、先ほども言いました、新しい王がこの世界に立った、新しい主がこの世界の王となって、この世界に新しい秩序と新しい世界を始めた、
それを弟子たちを通して今言い広めている、その誠の王があなたの王でもあるのです。
こんなに優しく私たちのために、ここまで捧げてくださる王であるイエス様のために、あなたもなりませんか。
それに、はいと答えることが救われるということです。
はい、私はイエスを主と告白します。
十字架に命を捨ててまで、罪深い私を救い、愛してくださる、愛し続けてくださる、そんな王がこの世界にいるのか。
いる。いるのであれば、私もその民になりたい。
イエス様を信じるというのはそういうことですね。
このイエス様の姿というのは、実に衝撃的で感動的だと思いませんか。
でもこの王であるイエス様の姿というのは、実はマルコの福音書にも出てまいります。
ちょっと後とも重なりますので、あえて読ませていただきますが、
マルコの福音書の十章、四十二節から四十五節というところ。
マルコの福音書の十章の四十二節から四十五節。
これも有名で大切な箇所ですが、お読みいたします。
マルコの福音書の十章の四十二節から。
そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。
あなた方も知っている通り、違法人の支配者と認められている者たちは、人々に対して王兵に振る舞い、
偉い人たちは人々の上に権力を振るっています。
しかしあなた方の間ではそうであってはなりません。
あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
あなた方の間で先頭に立ちたいと思う者は、皆の下部になりなさい。
人の子も、使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。
イエス様という王様は、この世界の王様とは真逆だとこの箇所は言っている、というか言いたいのです。
この世界の王、余談かもしれませんが、最近アメリカのいろいろな選挙のことであったり、戦争のことで支配者たちの顔がありますが、
世の王というのは、持っている力を王兵に、そして人を支配するために持ちたい、そういう思いがあふれている。
それが、この世界の王としての当たり前の姿なのです。かつて昔から変わらない王というのは、そういうものなのだ。
そして人々を支配し、自分が王兵に振る舞うためにそのように力を用いるのだ。しかし、あなた方はそのような王の姿を求めてはならない。
なぜなら、誠の王として立つ私はその王とは真逆だからだと言われるのです。
イエス様という王様は、使えられるためではなく、使えるために来られた。
多くの人のために、贖いの代価として自分を与えるために来られた。
それに倣ってあなた方も、私のように戦闘に達したいならば、下辺になり偉くなりたいと思うならば、使えなさい。
シモンの偶像崇拝
平べったく言うならば、偉いというのはそういうことなんだよと言われるのです。偉いというのはそういうことなんだ。
イエス様という王様は、そのような偉大さであったり偉さという価値観をこの世とひっくり返しました。
そしてペンテコスが語るのは、そのような王がこの世界の王になられたのだから偉大さのルールが変わったと言っているのです。
この世界の偉大さの価値観はひっくり返った。
そしてその主を告白し主に従う者たちの中でもまた、その価値観はひっくり返っていくんだということになる。
王とは偉いとは何かを逆転させた世界。
聖霊様によってこの新しい時代が始まった。
使徒の働きが語るのはそういうところですね。
さて、ここで先ほどの使徒の働きの8章の箇所に戻りますけれども、
まさにこのピリポの宣教によって多くの人々が信じました。
そしてバクテスマを受けました。
イエス様を信じるというのは、私たちも経験があるでしょう。
それはイエス・キリストは私の主ですと告白することです。
イエス・キリストは私の主です。
そう告白することです。
そしてバクテスマというのは、この新しいイエス様の民として新しくここから生き始めますという告白ですよね。
でもここで一つ問題が起きました。
多くの人々が救われて、エルサレムからペテロたちが駆けつけて、
そしてそこにはバクテスマを受けたけど聖霊を受けていない人たちがいるから、手を置いて聖霊が下るように祈った。
この箇所は難しいので今日は割愛します。
この箇所はすごく解釈を丁寧にしなければならない箇所だと私は思うので、ちょっと今日は飛ばしますが。
ただ、そのようなことを始めたペテロたちに対して、先ほど救われた魔術師シモンが一つの話を持ちかけます。
十八節。
シモンは使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持ってきて、
私が手を置く者が誰でも聖霊を受けられるようにその権威を私にもくださいと言い始めるのです。
この魔術師シモンもイエス様を信じてバクテスマを受けた人物ですね。
イエスを主と告白した人物です。
しかし彼はペテロたちに授けられたイエス様の権威をお金で手に入れようとします。
なんでこんなことをするのでしょうか。
おそらくそれは、イエス様を信じてなお、この魔術師シモンの中には依然として一つの思いに縛られていたのだと思うのです。
それは何かというと、自分が偉大なものになりたいということです。
自分が偉大なものになりたい。
かつて大能と呼ばれて、神のように振る舞うことが許されて、それで関心を買うことのできた、
あの時のように、私はあなたのその賜物が欲しい。
お金で買えませんかと、持ちかけてきたということではないでしょうか。
しかしペテロは、このシモンに対してとても厳しく注意をします。
二十節からペテロの言葉があります。
ペテロは彼に言った。
お前の金はお前と共に滅びるがよい。
お前が金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。
お前はこのことに何の関係もないし、預かることもできない。
お前の心が神の前に正しくないからだ。
だからこの悪事を悔い改めて、主に祈れ。
もしかしたら心に抱いた思いが許されるかもしれない。
お前が苦い悪意と不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだと彼は語ります。
ペテロに委ねられたのは、神様の権威ですか。
それは賜物と書いてますね。賜物なんです。
賜物というのは、神様が与えたいと思うものに与える、神様の主権的な、神様の持ち物です。
ですからそれをお金で手に入れることなんか、到底はできない。
いや、神の賜物をお金で買って関心を買おうとする、自分の都合を満たすために、
神の力を求める時点で、あなたは神を侮っている。
神の前にあなたは正しくない。
ただ、ペテロは指紋を休断するだけじゃなくて、悔い改めをここで促します。
それは23節にありますが、ペテロには指紋の中に、
お前が苦い悪意と不義の束縛の中にいることが見えるのだ。
この苦い悪意と不義の束縛という言葉は、実は両方とも旧約聖書の中で偶像崇拝を意味する言葉なんです。
偶像に心が囚われているということを意味する言葉です。
いわばペテロは、この言うのです。
指紋よ、あなたの中には偶像がある。偶像がある。
イエスを主と告白し、バプテスマを受けて新しく、あなたの世界が新しくなって、新しいスタートを切った。
しかし、元として指紋の中には固いものがある。
それは何か、先ほども申し上げましたが、おそらく自分が偉大なものになりたいということです。
自分が偉大なものになりたい。自分が大きくなりたい。
いいえ、おそらく本音では、イエスよりも私が偉大であればいいのにです。
私の大きさを願う私がいる。
いや、私がこの子にいる誰よりも大きくて、ちゃんと力がなければ不安で仕方がない。
私が大きくなることを願う。
そのような偶像が彼の中にはあった。
私はこの歌詞を読みながら、実に一言ではないなと思わされました。
私が大きくなりたいと思っています。どこかで。
イエスキリストの偉さの価値観
しかし、これはそう思うときに、危ないなと同時に思わなければならないと思うんです。
なぜならそれは、この思いはイエスを主と告白して生きる生き方とは真逆だからです。真逆ですね。
イエスを主と告白することは、その告白によって救われ神の民になるという立場の変化を意味するだけじゃないです。
イエスを主と告白するというのは、このお方は私の主人だから、このお方の生き方に私は従って、このお方に習って私は生きていきますという、
イエスがこの世界の新たな王になったんだったら、私は新たな神の民としてこの世界で生きるという、そういう告白ですね。
イエス様によって偉さの基準も価値観もひっくり返りました。
あなた方の間で偉くなりたいと思うものは、皆に使えるものとなりなさい。皆の先頭に立ちたいと思うものは、皆の下辺になりなさい。
イエスを主として仰ぎ始めたあなたたちは、この世の偉さを同じように求めてはいけない。
イエスキリストの偉さの価値観、新しい王に使える新しい民としてこの世界に生きなければならない。
ただ、おそらく私たちが感じるのは、そこにある古い私との衝突ではないか。
でも忘れてはならないのは、私たちは新しい王に、新しい価値観に生きるように招かれているということです。
その価値観はいつもどこに帰るのか、イエスキリストはどのように生きたかです。
もう終わりますけれども、今朝ご一緒に受け止めたいことは一つなのです。たった一つです。
それは、聖霊様は私たちのうちにイエスキリストを形作ってくださるということです。
指紋の中にありました、自分が大きくなりたいという思いは、おそらく私だけじゃなく、私たちみんな思っているかもしれません。
けれども、マルコの十章でもそうでしたが、イエス様があらわされたのは、十字架に至るまで神に従われた、
イエス様が願われたのは、神に従われたということです。
十字架に至るまで神に従われた、イエス様が願われたのは、神様が大きくされることですね。
神様が大きくされ、私はその主に従っていくんだ。
なぜなら、この世界で生きていることも、私がこの世界で力を持っていることも、
それは私が神ではなくて、神であるこのお方によって生かされているからです。
私たちは互いに、イエス様を主と告白し、バクテス様を受けました。
聖霊様は私たちのうちに働いてくださいます。
それは具体的にはどういうふうに働くのか、ケテロがしたように働くんじゃないでしょうか。
指摘されるんです。
お前が苦い悪意と不義の束縛の中にいることが、私には見える。
聖霊様は神様は見える。
あなたの中にも偶像がある。
けれども、そのところを指摘をされながら、私たちはいつもここで別れるんです。
いやいや、そんなことはないわいって、弾き返すか。
もしくはザビデのように、砕かれし砕けし心を持つかどうかです。
砕けし食いし心、あなたはそれをさげすまれませんでしたと、四辺の言葉は語りますね。
私たちの中にイエス様の生き様とは真逆の固い偶像はないだろうか。
聖霊様はある種、私たちを砕き立て上げながら、私たちが真の偉大さに生きることができるようにと私たちを導きます。
私たちが求める生き方
まことに偉大なものというのは目立たないんです。
でも粛々と使えながら、誰かを奪うのではなく誰かを生かすために粛々と生きていく。
でもそれは神の前に真に偉大なものなんですよ。
私が大きくなることを求めず、むしろ愛なる神様が私の存在を通して大きくなりますように、大きく表されますように。
多くの人のために使え、そしてこの下辺は小さくそれでもいいですと思える。
それは人の関心を買う道ではないかもしれませんが、しかし私たちは主がそれをあなたは偉大だと言ってくださる。
私たちが求めるのは聖霊様によって生かされるということは、私たちはこの主が新しく始めたこの世界の基準に、イエス・キリストのまことの王の基準に私たちは従っていく。
砕かれながら、聖霊様によって取り扱われながら、しかしこの生き方を互いに求めていくのがおそらく使徒の働きの語る新しい私たちが今生きている世界です。
聖霊様が働いてくださるようにと願います。私のうちにもあります。
私たちの中にでもいつも固いものがあるときに砕かれながら主よ、あなたのように生かしてください。あなたが気づかれるようにしてください。そのことをご一緒に願いたいと思います。
一言お祈りをして今日のメッセージを終わります。