新庄明浄教会での奉仕
それでは一言、お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、
あなたを仰ぎ礼拝ができます幸いを、心から感謝をいたします。
主よ、本当に祈られたように、今世界の本当に色々な場所を見れば、戦争があり、
異星者たちの思惑があり、その中で本当に言葉が軽くなっているような、
様々な力に加工をつけては争いを始めるような、
そしてそれをもう止められなくなるような、人間の愚かさを目の当たりにします。
しかし主よ、そのような中、人間には主の名を呼ぶことを始めたと呼ばれる、
そのような人々がいることを覚えます。
その中で、あなたの名を呼び、祈るものの大切さを聖書は対比して描いています。
神様、私たちが本当にこの時代の中で、あなたを仰ぎ主の名を呼ぶこと、
それがどれほど大切なものであるのか、改めて思わされることですけれども、
主よ、どうか私たちに勇気を与え、信仰を与え、あなたの礼で満たしてくださり、
あなたに手を挙げて、祈るものとならしてくださいますように、
私たちがすべきことは聖霊様が教えてくださいますが、それに従うものとならしてください。
今日も私たちは、あなたに愛されてここに集っています。
イエス・キリストの十字架の父王により、私たちの罪を許され、あなたのものとされ、
そして三日目に甦えられた復活の命、永遠の命が、今私たちにあり、
永遠なる死と切り離されない、死をもっても切り離されない、
その命の中を歩んでいることを感謝いたします。
どうか主が、私たちを今生かしてくださっているその恵みの豊かさに目を開かせてくださいますように、
そしてなお、主の御言葉に応える勇気と力を私たちに与えてくださいますように、お願いをいたします。
祈られたように、ここに来たくても来れない方、心が痛んでおられる方、
施設礼拝を守っておられる方がいらっしゃいます。
お一人一人を覚えています。どうか主も覚えておられます。
お一人一人を慰めてくださり、そしてまた主がお一人一人の上に現れてくださいますように、お願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。どうか御言葉を開き、私たちにあなたを教えてくださいますように、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
誓いの重要性
今からほぼ10年ほど前の話になります。
この7月から8月にかけて、私は1ヶ月ほど山形県の新庄にあります、
新庄明浄教会というところで泊り込みで奉仕をさせていただきました。
1ヶ月ほど礼拝の御用をさせていただきました。
行かれた方いらっしゃるでしょうか。本当にきれいな町ですね。
鶏もつラーメンがおいしいので、そういう町でして。
ただ、私はその教会に行く前に、あるお話を聞いていました。
その新庄の教会は、先生が着任してはすぐに転任をするということが繰り返されてきた経緯があって、
教会はそのことで痛んでいるということを聞いたんですね。
私はそういう教会にどういう心ぞないをして行けばよいのかということを、
当時、教団委員長をされていました川原牧先生にアドバイスを求めました。
その時に先生に一言、こう言われたんですね。
加藤さん、ただ誠実であってくださいと言われたんです。
加藤さん、ただ誠実であってください。
器用な言葉は必要ない。その人たちを上辺で慰められる器用な言葉を言う必要はない。
ただ、その人たちの痛みに真摯に耳を傾け、心を込めて祈ってくださいということを言われました。
なるほどと、仏会というのは器用さではなくて、向き合う誠実さなのだということをその時に教わりましたが、
ただ、いざ取り組もうとすると、これほど難しいことはないということに気づかされるのです。
相手の言葉に耳を傾けながら、いかに自分の眼鏡ですでに相手を判断しているかということ。
そして、いかに私自身の言葉、そこで語っている言葉は、その場つなぎの言葉が多いか、その場しのぎの言葉が多いかということを自覚させられたのですね。
器用であるよりも誠実たれと。
しかし、それが牧師の法師ならば、本当に私はこの仕事が務まるのだろうかということを真剣に悩まされた夏でした。
そして、これはずっと私の中でもテーマとして続いています。
器用であるよりも誠実たれ。
ただ、果たしてお前はそうなのかということですね。
今朝、参上の説教を見ていますけれども、イエス様というお方は、言葉の誠実さをとても大事になさいます。
何を言っているかではなくて、あなたはその言葉を守るのか。
あなたのその言葉に果たして重さはあるのか。
そのことをイエス様は注意される、気になさる。
その言葉が今朝の箇所だと思います。
少し好み言葉に聞きながら、私たちは言葉の誠実さをご一緒に覚えたいと思うのです。
さて、今日33節から読んでいただきましたが、3つのポイントでまた見ていきたいと思います。
イエス様がおっしゃられたまず第一のこと、それは、偽りの誓いをしてはならないということです。
偽りの誓いをしてはならない。
今朝の箇所をまずご一緒に確認をしていきたいと思いますが、
イエス様は参上の、まさにその当時の普通の群衆の人たちに向かって、
33節、このような言葉を引き合いに出して言われますね、33節。
また、昔の人々に対して、偽って誓ってはならない。
あなたが誓ったことを主に果たせと言われていたのを、あなた方は聞いていますと。
実は調べますと、この言葉はそのまま旧約聖書に出てくる言葉ではないのですね。
どちらかというと旧約聖書をパリサイ派たちが立法の解釈として生み出した言葉だと思います。
それが定着したものだと思いますが、ただ旧約聖書にはこれに似た言葉というものはありまして、
一つだけ引くならば、箇所だけお伝えしても、レビキの19章の12節というところにこういう言葉があります。
ちょっとお読みしますが、レビキの19章の12節。
あなた方は私の名によって偽って誓ってはならない。
そのようにしてあなたの神の名を怪我してはならない。
私は主であるという言葉があります。レビキの19章の12節ですね。
あなた方は私の名によって偽って誓ってはならない。
そのようにしてあなたの神の名を怪我してはならない。
私の名は主である。
神の名によって誓ったことを偽って誓ってはならない。
言い方を変えるならば、神の名によって誓ったことは必ず果たしなさいということですよね。
必ず、神の名によって誓うならば必ず果たしなさいと。
これは旧約聖書5書でも共通理解でしょう。
神様に対して誓う。
であったり、もしくは神の名によって人間の間で誓いを立てる。
これを破るということは、あなたは神の名を怪我するんですよという。
言い方を変えるならば、神の信用を落とすんですよと。
そういうことですね。
それ故、神の名によって誓う誓いというものは恐ろしく重たいものです。
教会という場所はいくつか神の名によって誓いを果たしますね。
皆さん、結婚式の聖約をなさったと思います。
止める時も辞める時もその人を愛する。
あれは神様の名によって誓ってますね、私たちはね。
洗礼式もまさにあなたはこの神を主導しますかという告白。
これも神の名によって誓っていますね。
実に重たいものです。
このような神の名によって誓うということの重さ、
これは重たいんだということはイエス様の時代でも共通をしていました。
しかしこの33節からイエス様が言いたいことは、
この当時神の名による誓いは重たいんだということを悪用する人たちがいたということですね。
どういうことでしょうか。
信頼の重さ
例えばこの背景にある話を少しだけするならばこういう話ですね。
少し皆さん想像してみていただきたいのですが、
ある教会の兄弟姉妹が家にやってきたとしますよ。
そして例えば私に対して、先生困っているんです。
10万円ほどお借りできませんかって言ってきたとします。
結構長くですね。私なら少し躊躇しますし。
でもその人が言うんです。
お願いしますと。
天にかけて誓うのでどうか貸してくださいってことを言われたとします。
すると、私であればそこまで言うならと思います。
天にかけて誓う、それは神にかけて誓うことなんだろうと。
その言葉の重みを知っているからこそ、
そこまで言うならあなたはお返しになるんですねと言って、
お返しするということはあるかもしれません。
しかしその後ですね、その人はなかなか返してこないわけです。
事情を聞きに行きます。
どうしてですか?なんで返してくれないんですか?
するとその人が言うんです。
いや、その誓いは果たせません。
なんでですか?あなたは神に誓ったではありませんかと私は言うでしょう。
すると彼はこう言い返します。
いいえ、私は神に誓ったのではなく、天に誓ったのです。
あなたはどう歓迎になるかわかりません。
あなたは神と天を同じように考えるかもしれませんが、
私にとって神と天は別物ですと。
もうなんかギャフンというか返す言葉がないみたいな、
もうトンチみたいな話ですね。
ただ嘘のような本当の話です。
当時これがこの社会で流れていたというか、起きていたことですね。
そんなん奇弁じゃないか、詐欺じゃないかと思いますけれども、
でもその通りなんです。
神の名が詐欺魔害の方弁に利用されていたというのですね。
だからこそ34節から36節イエス様はこういうことをおっしゃるのです。
しかし私はあなた方に言います。
決して誓ってはいけません。
天にかけて誓ってはいけません。
そこは神の御座だからです。
地にかけて誓ってもいけません。
そこは神の足台だからです。
エルサレムにかけても誓ってはいけません。
そこは偉大な王の都だからです。
自分の頭にかけても誓ってはいけません。
あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
天にかけても地にかけてもエルサレムにかけてもというのは、
当時そういう方弁で使われた言葉なんです。
エルサレムにかけますから。
でも天にも地にもエルサレムにもかけて誓うな、
自分自身にかけても誓うな。
天にも神はおられる。
地は神のものである。
エルサレムも神のものである。
あなた自身も神のものである。
あなたが天にかけて誓いました、地にかけて誓いました。
どう言おうとも、
それは神にかけて誓っていることと何ら変わらないんだよということを言っているわけです。
何ら一緒である。
あなた自身も神の名がかたどられている。
ここで起きている問題は何かと言いますと、
神の名にかけて誓う誓い、
それは重たいはずです。
必ず果たすべきものですね。
しかしその誓いの言葉、まさに誓いの重さを
天であったりエルサレムであったり、
そういう言葉に言い換えて、
誓うことの重さ、誓いの言葉の重さを軽くしようとする。
実はそれが偽りの誓いということです。
誓うのはどっちにしろ重たい。
でもいろいろな言葉を使って、その重さを軽くしようとすることですね。
これをしてしまうことの問題点はどこにあるかと言いますと、
簡単にそんなことを言う人はもう信用されませんね。
人との信用関係を損なうのです。
先ほどと同じ人がもう一度私のところに来て、
先生、今度は神にかけて誓うので貸してくださいと言っても、
私は貸さないですよ。
もうその人のことは信用しないですね。
信頼しようとする努力はするけど、その人に対する疑念ははれないですよ。
それはなぜかというと、
その人はもうその言葉の重さを失ってしまっているからですね。
でも私たちもあり得る言葉は重さを失うんですよ。
そのような無責任で空虚な誓いをしてしまうならば、
決して誓ってはならないとイエス様は言われるんです。
決して誓ってはいけない。
これは誓うこと全般を禁じているのではないです。
できないことは約束してはいけないということです。
そして言い換えるならば、約束したことは誠実に守りなさいということですね。
ただ二つ目のポイントに入っていきますが、
私たちはなかなか誓いに対して誠実であれない現実があり、
それに反して神は誓いに対して誠実であるということです。
誓いの言葉の重要性
私たちも、これは私自身にも重ねてもありますが、
結婚のことを出されてまた重たいですけれども、
誓いの言葉を守れということを言われて、
それを守りたいと大事にしたいと願いながら、
いかに約束を耽えてしまうことが多いかなということを
つくづく思わされることがあります。
旧約聖書の歴史を思い返していただくならば、
実は旧約聖書も一貫してあるのは神と人間の約束の物語です。
いわば契約の物語ですね。
しかし旧約聖書が描くのは、神様は契約に忠実なんだけれども、
人間は神様の約束をずっと守れないという連続の歴史ですね。
時にそれは神様の言葉への配信という形で現れます。
旧約聖書はイスラエル民族が分裂したこともいえ、
まさに今テーマになっています。
イスラエル、そのイスラエルの大元の国は南ユダですけれども、
2500年以上前ですね、南ユダの国が崩壊したことも、
それは神の言葉への配信が原因だということを聖書は語ります。
南ユダの末期、国の中には盗み殺人、関印、偽りの近い偶像礼拝があふれたということが
エレミア書の7章に書いてあります。
その結果として神は裁きを下され、南ユダは滅亡したということを聖書は語りますが、
ただ、後にこの南ユダが回復していく過程の中で、
神様がその民に語った預言の言葉があります。
ちょっと一箇所を開きたいのですが、
イザヤ書の45章の22節というところを開きいただけるでしょうか。
イザヤ書の45章の22節から25節というところ、旧約聖書の1245ページの下の段にあります。
お読みいたします。
イザヤ書の45章の22節からお読みしますが、こういう言葉ですね。
地の果てのすべての者よ、私を仰ぎみて救われよ。
私が神だ。他にはいない。
私は自分にかけて誓う。
言葉は義の内に私の口から出て、決して戻ることはない。
すべての膝は私に向かってかがめられ、すべての舌は近い。
私について、ただ主にだけ正義と力があるという。
主に向かって生き立つ者は皆、主のもとに来て恥を見る。
イスラエルの子孫は皆、主によって義とされ、主を誇りとするという言葉があります。
このイザヤ書の45章というのはまさに回復の過程の予言ですけれども、
そこで神様は至る形でその回復のイメージを描かせる。
その一つはまさに近いという言葉で描かれる。
神様はご自身にかけて誓われる。
そしてその近いの言葉、まさにご自身が語られた近いの言葉、
それは口から出て決して戻ることはないと語られるのですね。
神の言葉が戻らないということは、その語った言葉に対して神は責任を負われるということです。
語った言葉に対して神は責任を負われる。
神はご自身の言葉を必ず守られるということです。
そしてその神の誓いの固さに向こうしてか、まさにこのイザヤ書の最後のこの後は、
全ての膝は私に向かってかがまられ、全ての舌は近い私について、ただ主に正義と力があるというのは、
まさに神の誓いの言葉、その誠実さ、それに対応するかのように、
神は皆神に対して誠実に神こそが正義であり主であると告白をするという、そういう光景が描かれる。
神の国は誠実で支配される。まさにそのような光景ですね。
神様というお方は誠実なお方なんですね。
それはヘブル語で哀れみという言葉を皆さん何度も聞かれたかもしれませんが、
旧約聖書よく出てくる、哀れみ深い神、神は哀れみであるという言葉、あれはヘセドというヘブル語でして、
ヘセドが意味することは、神の契約に対する忠実さを意味します。
なぜ哀れみというか、人間がどれほど神に対して不忠実であろうとも、神はその契約に忠実であられるから哀れみ深いんですね。
イスラエルの民も、いいえそれは私たちも、人との約束や神の名によって誓う約束を守りたくても守れないという現実に直面する時に、
空虚な言葉で言い訳を作っては、言葉の重みを失ってしまう私たちに。
しかし、神の言葉は重いんですよ。重い。神様は契約を、御言葉を必ず守られる神である。
そして私たちが招かれることは、まさにこの神の言葉の重さにある種、順次ながら、
あなた方も自分の言葉の重さを取り戻しなさいということではないでしょうか。
そして三つ目のポイントに入っていきます。私たちが、だからこそ今朝ご一緒に問われますことは、私の灰の重さです。灰の重さですね。
今朝参上の説教に戻っていく時に、誓いの言葉に誠実であるようにとイエス様は民に求めます。隣人のためにそうしましょう。
当然その通りです。隣人のために、家族のために誠実でありましょう。
しかしそれ以上に、神ご自身が誠実なお方だから、誠実な神であられるから、あなた方も誠実さを身につけなさいと招かれていく。
37説の言葉というのは、まさにそういう言葉なのですね。
マタイの五章の37説、今日の中心指定訓にさせていただきましたが、37説。
あなた方の言う言葉は、ハイはハイ、イイエはイイエとしなさい。それ以上のことは悪いものから出てくるのです。
ハイはハイ、イイエはイイエとだけ言いなさい。それ以上は言わなくていい。
それは天にかけて誓いますとか、エルサルミにかけて誓いますとか、そんな何かの意向をかさにきて、それによってあなたの言葉の重みをごまかそうとしなくてもいい。そんなことをしてはならない。
あなたの言葉の重み、それはハイと答えるあなたにだけのしかかっている。あなたの言葉の重さを取り戻すのは、あなた自身の誠実さしかない。これは重たい事実ですね。
しかし、私たちはそれが可能なのです。なぜなら、神は誠実なお方だからです。
そして、聖霊様は私たちをそのような神に似せるために、様々な気づきを私たちに与えてくれるお方なのではないでしょうか。
誠実に歩みましょうという時に、この一個一個の言葉が誠実かしら、私たちはそんなお互いに誠実じゃないですね。
でも、それはきっと、これまで、もしかしたらこれまで、その場しのぎの言葉で武装してきた人にとって、ああ、これではまずいなと気づかされることを通してかもしれません。
結婚、聖霊の神に対する誓いの言葉を、まあ、軽んじたと言ったら言葉がきついですが、しかし、それをどこかで忘れたがゆえに、何かが痛んでいるという事実を知らされることを通してかもしれません。
互いに、これは私自身も問われることですが、あなたのあの時の灰は偽りだったのかと問われるんですよ。
神の誠実さとその影響
あなたのあの時の灰は偽りだったのか。しかし、それを偽りで終わらせてはならないと、イエスタマンオケサマナカレビエス、偽りで終わらせてはならない。
あなたの灰、その灰に対する重さは、今のあなた自身がその灰に対して、誠実であろうとするかどうかにかかっている。
私も工事中の人間です。神に対し、人に対して、不誠実だなとつくづく思わされることがよくあります。その場しのぎの言葉で逃げようとする自分だなと思わされます。
しかし、そういう私は自分自身にがっかりするときに、しかし、そういう私を見つめながら、主は今日も明日も私に対して誠実であろうと関わり続けてくださっている。主は御言葉の真実をあらわしてくださる。
その事実を思うときに、主よ、不誠実な私を憐んでください。どうかあなたの誠実さを私にください。そして偽りが示されるならば、あなたの誠実さに押し出されて、誠実な道に帰る勇気を私に与えてください。
そのように祈らされる私でありますし、そしてまた互いにそのように祈るお互いでありたいと思うのです。非常に大変けれども、主が私たちを支えてくださいますように一言お祈りをいたします。