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2018-01-14 34:11

2018/01/14:ヨハネの福音書講解説教(19)信仰とは

2018/01/14 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 ~71

00:00
それでは、一言お祈りさせていただきます。神様、感謝します。寒い日々ですけれども、主が私たちの健康も、信仰も、霊性も守ってくださって、この朝、この世にして、他の場所ではなく、主の教会に集まって礼拝できる、この恵み、本当に主のお守り、恵み、感謝いたします。
主よ、今から神の御言葉をお聞きいたします。
どうか、心を素直にし、へり下りずつ、主のお恵みを待ち望んでおります。
この群れの上に、主の栄光と、恵みの御言葉を、一人一人に、その魂に刻みつけるように、お語りくださいますように。
そして、アーメンと昭和し、御言葉でなき、その御言葉に立って生きるものとさせてください。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、感謝いたします。
今日は、ヨハネの福音書公開説教、もう19回目となりますが、
信仰とは、という題として、このヨハネの福音書、6章が長いですし、また、ちょっと間、止まって、また続いている感じですから、
今日は、この6章全体を総まとめのような感じで、信仰とは何であるか、それについて、この6章全体的に3つのことを、お話をさせていただきたいと願っております。
その前に、いろいろ示されたことがありまして、先週1週間、新年祝福待望基督会が開かれました。
1日、ある方は1回、ある方は2回、3回出席なさって、大変恵まれました。
今回は、勝利の信仰というテーマに、ピリピー人への手紙、第一章を通して、生きるにしてもキリスト、死ぬにしてもキリストのために、という御言葉を共にいただきました。
ところが、そういう特別基督会だけではなく、私たちが、誠実礼拝を前にして、あるいは何か大きな聖会とかを前にして、あるいはたくさん恵まれた後、
その前後に、不思議に神様は喜ばれるんですけれども、他に試練があったりするんです。
そして恵まれないように、あるいは恵まれたことをこぼしてしまうように、そういう誘惑とか試練とかがあるんですよ。
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例えば、結構昔、以前の経験ですよ。
うちの夫婦のことですけれども、礼拝とか、あるいは金曜日の夜の看護婚にいたとき、恵まれて、帰りの車の中で夫婦喧嘩しちゃうね。
もう恵まれたことをこぼしてしまう。
あるいは、すごく恵まれて、その翌日に親に子どもに夫婦に何かトラブルが起きてしまって、そしてもうみんなが一律、みんながそうであるわけではありませんが、そういうことが起きたりするんです。
何かの攻撃のような倒してしまう、この恵みを忘れさせる、こぼしてしまわせる、そういうことが恵まれれば恵まれるこそ起こりやすいこともありますので、
皆さん、くれぐれも、祈って祈って、さらに目を覚ましていて、眠りほけるんじゃなくて、祈って恵みにかなう信仰生活をさせていただきたいと願っております。
さて、今日は信仰とは何であるか。先週は、イエス様を信じるとは何であるかについてお話をさせていただきました。
そのポイントだけ申しますと、イエス様のようになることであります。信仰が、人生がイエス様のように変えられることだと申しました。
今日は三つのこと、信仰とは何であるか、この六章、全般からお話していきたいと思いますが、第一は、信仰とは期待し従うことです。信仰とは期待して従うことです。
この、ヨハネの国書第六章には、皆さんご存知の、五つのパンと二匹の羽を持って、男性だけで五千人、女性、子供を含めると八千人になるか一万人になるか二万人になるか分かりませんけれども、五千人以上の人々を食べさせた、神のイエス様の奇跡が記されています。
このところから、信仰とは何なのかをね、それを見出したいと願うんですけれども、信仰とは何でしょうか。それは、一緒に期待して従うことであります。一緒に期待して従うことである。
五つのパンと二匹の羽の記事を見ますと、飢えて疲れている群衆があの野原にいました。夕暮れになっていました。食べ物もないし、ほとんどの人々が貧しいですし、みんな疲れている状況でありました。
だから、この外面的な、実際の人間的な状況は決してよくありませんね。ところが、そういう状況がよくなくても、彼らと共にそこに誰がおられるのかが一番大事であります。
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どなたが彼ら、その群衆と一緒におられるのでしょうか。神なるイエス・キリストが彼らと共におられるということです。状況は決してよくありませんが、そんな状況の中で主が共におられることを確信し、そしてその主に期待することこそ、信仰ではないでしょうか。
不可能を可能にしてくださる主。また、私たちのどんな境遇も、よくご存知のその主に期待する。それこそ信仰なんです。
皆さん、クリスチャンは、自分の身に起こったことが苦しくても、病気であっても、大変であっても、つらくても、そんな境遇の中で喜べるのでしょうか。それは、我らの主に期待するから、期待ができるから、喜べるのです。
この六章の五つのパンと二匹のウォのあの記事から見ますと、弟子たちも軍手たちも持っているものはない。お金もない。貧しい。それが、まさに時には、我らの人生の状況とよく似ている場合があると思うんですね。
時には、病気というものに襲われる時もあるでしょう。時には、何かよくないことが続いて起こっているような、そういうことがあるでしょう。
あるいは、何かどうしたらいいのか迷って、本当にそういう時もありますし、会いたくないつらい目にあって、つらい思いをしている場合もあるんじゃないでしょうか、人生に。
そうでしょう。人生には、自分が願うことはたまに起こるんだけれど、願わないことはしょっちゅう起こるんです。不思議で。
ところが、そういうことであっても、神なる種が我らと共におられる。だから、持っていない自分であっても、才能や能力のない自分であっても、どうしたらいいのか、いつも迷っている自分であったとしても、自分を見つめて見つめて落胆するんじゃなくて、
完全なる種、我らの必要を知っておられ、その必要を満たしてくださる種、またそれがお出来になる種を見つめて見上げて期待する、それが信仰なんです。
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皆さん、考えてみたら、種に期待する分、幸せに歩めると思います。皆さん、いかがでしょうか。今年1年、2018年、もう14日、1か月、ほぼ半分来ていますけれども、今年1年間、皆さん、神様にどんな期待を持っておられますか。
皆さん、神様に、種に期待していらっしゃいますか。自分を見るんじゃなくて、種を見て期待すること。だから、期待、例えば、私は幸運ぐらい期待している。そして、幸運ぐらい、これぐらい、種にあって期待に満たされて、わくわく歩めるんですよ。
でも、神様にですね、このぐらいしか期待していない。そしたら、これぐらいしか幸せが自分にないわけなんです。種に期待する人は、生きることはしんどくないんです。今日が、明日が、来月が、来年が、期待になるわけなんです。
分かるでしょうか。キリストと共に生きているから、歩んでいるから、だから、わくわくする日々を送ることこそ、信仰なんです。分かるでしょうか。そこには、私のために十字架に死んでくださった種、どんな必要も知っておられる種、満たして、癒して、解決できる種が、我らも種であり、共であることを信じているから、期待できるわけなんです。
だから、わくわくするわけなんですよ。年齢と関係ないんです。八十であろうが、九十であろうが、二十代であろうが、種に期待する者は、年と関係なく、日々がわくわくする期待に、期待感に満たされた種にある信仰を歩めることができるんです。
ところが、そのように、種に期待する人は、喜んで種に従います。この期待というものと従うこととは、もうコインの表裏みたいに、もう対になっているんです。
さあ、五つのパンと二匹の魚の記事を見ますと、そこにパンと魚を家様に捧がった、渡した少年と、また家様の指示通りに従った弟子たちの従順というものは、
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簡単に何度も読んで何度も聞いているから、読んでパスしやすいものですけれども、そこには我らに示唆するところが大きなものがあると思います。
それは皆さん、従順というものは、誰に現れるのか、期待する人に現れるんです。逆に言いますと、期待しなかったら従いません。
家様に期待するから、大きく期待しているから、家様に喜んで大きく従うわけであります。期待することと従うことは対になっていて一つであります。
それは神様に対してでもそうですし、人間関係においても一緒だなと思うんですね。夫婦関係を見ても、親子関係を見ても、あるいは神徒たちと仏会者の関係を見てもそうなんです。
誰々に期待しているならば、その人の言うことをよく聞いてその通りにするでしょう。期待するから、期待感があるからなんです。
でも、あんまり期待していない。期待感がなかったならば、どう言われてもその通りにやらないんです。
例えば、私が皆さんの誰かに一緒に聖書の勉強でもしませんかとお誘いしたとしましょう。提案をしたとしましょう。
そしたら、その学びを通して恵まれることを期待する人は、その提案が神のメッセージであるからと思って、神様が恵みをくださることを期待するから従うでしょう。そして従う人は恵まれることであります。
皆さん、これがとても健全な信仰の一つのサイクルなんです。期待して従って、そして恵まれて、さらに期待して、さらに従って、さらに恵まれて、もっと期待して、もっと従って、もっと恵まれて。
いわゆる世に循環が起こるわけであります。幸せな信仰生活と幸せな生徒は、このような幸せな信仰のサイクルの中にいるわけであります。
皆さん、願うわくは今年一年、神様に神なる主に、イエス・キリストに期待してください。そして、その神様から言われることであれば、期待を持っているわけですから、その主に従っていこうではありませんか。
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そしたら恵まれて、そしてさらに期待ができるようになる。そしてまた従いたくなる、その良い循環の中に立って、今年一年を歩んでいこうではありませんか。
第2信仰とは何でしょうか。信仰とは福音を自分のものとして昇華することであります。福音を自分のものとして昇華することであります。
今日読んではいませんが、ヨハネノ福音書6章の56節を皆さんご覧いただけますか。6章の56節を見ますと、こういう御言葉が書かれているんですね。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内に留まり、私も彼の内に留まります。ですから、この御言葉から福音とはまず何でしょうか。それはもう圧縮して一言で言うならば、イエス・キリストであります。
ですから、信仰とは何でしょうか。福音のすべてであるイエス・キリストを自分のものとして、そしてそれを完全に昇華することであります。
それで、自分の霊園、自分の肉、自分の人格、自分の生活、自分の現在と未来の中に、キリストとその方の御言葉と人格と品性が溶け込んで、キリストと一つになることです。
昇華という言葉をあえて選びましたけれども、だから信仰とは昇華不良状態ではありません。よく昇華されている状態であります。
キリストが私の中に溶け込んで、私がキリストの中に溶け込んでいまして、もう一つになることであります。何かこうね、中途半端に浮いている状態ではありません。
まだまだ慣れていない状態が続くわけでもありません。イエス・サマと一致することであります。
福音とイエス・キリスト、その方の御言葉を受けて、食べて、もう完全に昇華して、そして福音とイエス・キリスト、その方の御言葉がですね、
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私の地になる、私の肉になる、私の思いになる、私の現在未来になる、私のすべてになることであります。すぐにでも分離できる、そういうものではない。一つになっていることであります。
こういう生徒は、信徒は、イエス・サマの御言葉が、もう毎日毎日読みたくなるでしょう。それで読む。
週に毎日、一週一週、もう常に常にイエス・サマと一緒にいたい。そしてさらにもっともっとイエス・サマを愛するようになる。
そしてその御言葉を実践したくなる。その御言葉を通りに生きることは、もう幸せで幸せでどうしようもないことであります。
そして教会に来て、その方を思い巡らし、考え、牧草することがとても楽しいです。その御言葉を牧草する、その方に賛美を捧げること、祈ることより幸せなことはありませんし、楽しみもないでしょう。
なぜでしょうか。その方と私は一つであるから。
ところが、もしもまだまだ私たちのうちに、まだまだ祈りというものが難しい、馴染んでいない、御言葉を読んで、祈って、週を牧草することより、
友達に会って、カフェでコーヒー飲んで、おしゃべりして、週に生活するのがまたまた楽しい、それが好きであるというものは、実はまだキリストと自分が完全に一つになっていないという状態である、その証拠であります。
そんなにイエス・サマとまだもう親密な関係になりきっていないということであります。その証拠なんです。
皆さんいかがでしょうか。お聞きしましょう。本当にイエス・サマと親密な関係になりきっていらっしゃいますでしょうか。
ある方々は信仰の年数と関係なく、本当に花嫁と花婿のように、イエス・サマととても親密、そして愛する関係を持っているクリスチャンがいます。
顔さえ見ればわかります。みんなお互いにわかります。イエス・サマと一緒にいる時間が幸せです、楽しみです。一緒にいなかったらもうどうしようもないのでしょうか。
わかりやすく言いましょう。イエス・サマと親密な関係だから、親しいから、一つになっているからなんです。
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ところが、ある方々はイエス・サマと自分との関係が近くて遠いあなたみたいな関係になる。数十年イエス・サマを信じても、イエス・サマと近いような遠いような関係がずっと続いている。
数十年イエス・サマを信じて、祈りがいまだに慣れていない。御言葉を読むこと、黙想をすることがいまだになんか気まずい。数十年イエス・サマを信じても捧げますようなものがまだまだもったいないと思う。
礼拝して祈って、その方と深い黙想のとき、その自分の魂がもうね、この身体はここにいないみたいに天に秘められるようなその恵みに入るのがまだまだ好まないのでしょうか。
まだ消化不良だから。イエス・サマの御言葉、イエス・サマのその魂存在が自分の中に溶け込んでいない。浮いている。親密な関係になっていない。皆さんいかがでしょうか。消化していますか。忌もたれ、消化不良の状態でしょうか。
信仰とは何でしょうか。イエス・キリストとその方の福音を完全に消化して、自分のものになりきっている状態である。
礼拝は私たちみんながイエス・キリストとその方の福音を完全に消化して、キリストとその方の福音とそれが私たちと一つになっていきたい。いや、ならなければならないんです。
そして私のすべてを通して、もう一つになっているから、どこを開けてもキリストが、福音が、その香りが、その御言葉が現れる、溢れるわけであります。
3番目に移りましょう。信仰とは人格的な献身です。人格的な献身です。1番、2番、さらに進んで、信仰とは自分の思い、自分の意志、自分の感情、自分の知性、霊性による喜びの献身です。
つまり、全人格的な献身という意味であります。ただ、感情的に何か献身しようかなという状態ではないんです。感情に基づくと、機嫌が良い時にはよく献身します。よく使います。よく奉仕します。しかし、機嫌が悪い時には、もうやめときます。
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だから、人格的な献身というものは、自分の全存在がキリストを待ち望んでいる。飢え渇いて、求めて、求めて、必死である。そこから来る献身であります。
だから、この献身はね、強いられた献身ではないんです。強いられた奉仕ではない。仕方がないからするものではありません。喜んで喜んでさせていただく献身なんです。これこそ、信仰ではないでしょうか。
それから、この人格的な献身は、二つの方向にそれが現れます。第一はキリストへ、第二は教会と兄弟姉妹たちへ、その献身が現れます。身として結ばれます。
これは、信仰というものなんですね。常にこの二つの方向にその身が現れるようになるんです。第一はキリスト、第二は教会と生徒、兄弟姉妹たちであります。それは、私たちの信仰の模範であるイエス・キリストを見ればわかります。
イエス・キリストはどうでしょうか。いつも二つ、神様、教会と、イエス・キリストは信じる群れですけれども、つまりそれは、教会、兄弟姉妹たちのことなんです。イエス・キリストはその二つのために、自分の公の生涯を過ごされました。そして十字架で死なれました。
イエス・キリスト様の献身は、神のための献身でありますし、イエス・キリスト様を信じる群れ、つまり教会と兄弟姉妹たちのための献身でありました。ところが、イエス・キリスト様を愛する人には、その愛して愛している一つになっている人には、イエス・キリスト様に見えるその身が同じく見えてくるんです。
例えば、聖書に模範的な人物がたくさんありますけれども、シト・パウルのことを考えましょう。シト・パウルに現れる人格的な献身は、本当にキリストのために、それから教会とその兄弟姉妹たちのために、それが全てでした。他にはもうないような歩みでした。
シト・パウルの生涯からキリストを引くとゼロになります。教会と兄弟姉妹たちを抜くとゼロになります。
1ヶ所説を読みましょうか。ピリビビという手紙、第1章、20節、21節です。新約聖書の383ページです。ピリビビという手紙、第1章、20節と21節、383ページです。
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では、よろしかったらご一緒にお読みしたいと思います。
皆さん、どうでしょうか。信仰とは何でしょうか。難しいことではありません。生きるにしてもキリスト、死ぬにしてもキリスト。パウルは言いました。私にのっては、生きることはキリスト、死ぬこともエキです。
皆さん、これこそ祝福と恵みの道なんですね。だから、これを分かっていれば祝された人生であって、知らなければ損する人生であります。人格的な献身。
今年1年ですね。私たちがあらゆる面において、この人格的な、全人格的な献身がなされますように心がけて歩んでいこうではありませんか。
ところが、今日の四年の訓示書の最後のところに、イスカリオーテ・シモンのユダの話が書かれているんですよね。ユダのことをちょっと考えてみましょう。
彼の始めは、おそらく他のペテロとかアンデレとかパルトロモライとか、他の弟子たちとだいたい似たような感じで、イエス様の弟子になったわけなんですよ。
彼も、一応というか最初はイエス様の弟子として召されて、彼も自分の国境や持ち物や家族やそういったものを後にして、イエス様に従ってスタートはしたわけなんですよ。
ところが、その歩みはありましたけれども、彼の中にはこの全人格的な献身がなかったわけです。イエスキリストに従ってはいました。
イエス様と共にはいました。イエス様のお話を聞いてはいました。イエス様の癒しとかそういうことを見てはいました。
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ところが、彼の中に人格的な献身がなかった、あるいはさっき申し上げたような、自分がイエス様の中に溶け込んでいなかった、あるいはイエス様のそのことが自分の中に溶け込んでいなかったわけなんです。
だから、決定的な瞬間にはイエス様を自分の情欲を満たすために銀貨三十枚に売ってしまいました。倒されてしまいました。
彼も初めは他の弟子たちのように何か夢があったのではないでしょうか。あるいは他の人々からお弟子さんお弟子さんを言われて、自分が何かになっているような気がしたかもしれません。
ところが、結果から言いますと、彼には残念ながらキリストと教会と生徒のための人格的な献身がなかったから、あの誘惑に肉の増欲に負けてしまった。
だから皆さん、ここから教えられる反面拒止と言いましょうか。教えられますと、人格な献身という観点から見えますと、私たちもいつも目を覚めていなければならない。
ならば、今日も私たちは誰にでもこのユダのようになりやすい可能性が実はみんなにあるからです。
だから、ハラテ・アビタノタカミン五書の二十四節にあるように、常に自分の肉の増欲、欲望を十字架にくきつけてしまった。それを信じて宣言して日々歩んでいかなければならないんです。
皆さん、みんなに誘惑がありますよ。誘惑がない人は死んだ人他にはありません。誘惑があります。試練があります。近くから遠くからいろんな誘惑、いろんな攻撃、いろんな試練がやってくるんです。倒されやすいんです。こけやすいです。
だから、私たちは眠りほけてはいけない。目を覚ましていなければならない。そして、私たちが教会、兄弟姉妹をほけさせる、つまずかせる、倒してしまうような、そういうことが我々の人生にないように、いつも目を覚ましていて、慎んでいて、へり下っていて、
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キリストと教会と生徒のための、この人格的な謹慎をもって歩んでいく。メッセージを終わりたいと思います。
信仰とは何でしょうか。主に期待して従うことです。今年一年間、みなさん、神様に期待しようでありませんか。そして、その命令に、その御言葉に従っていこうではありませんか。そして、信仰とは、福音をイエス・キリストを自分のものとして昇華し切れる。切ることであります。
溶け込みましょう。イエスの中に溶け込みましょう。一つになりましょう。三番目、信仰とは人格的な謹慎であります。今年、この2018年、年末になったら、我々の信仰がですね、より成熟した信仰として、何をするにしても、キリストが現れますように。そういう信仰の一年とさせていただきたいと願っております。お祈りいたしましょう。
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