1. 名谷教会
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2025-01-05 31:12

2025/01/05:驚くほどの謙遜

2025/01/05 新年礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -17


00:02
それでは一言お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
2025年の聖日礼拝が今朝から始まってまいります。
私たちはまた、あなたこそが私たちの主であり、王であり、あなたを礼拝する民であることを改めて覚え、
ここから一年また、あなたを礼拝する日々を始めてまいります。
どうか主がその日々を祝してくださり、あなたの豊かさ、あなたの愛、あなたの素晴らしさをより味わう一年となりますように、主が導いてください。
お願いをいたします。
今日も私たちをあなたは愛し抜いてくださっています。
巫女イエス様の十字架の血潮により、私たちの罪をすべて引き受け、その血を流してくださり、
そして三日目に甦えられた命、復活の命、それは永遠なる主と共に生き続ける、切っても切れない命、そのような命を私たちに与え、
どんな時でも私はあなたと共にいると、永遠なる主が永遠の身腕を持って私たちを支えていてくださることを感謝をいたします。
何があるかわからない世界にあってしかし、常に下には主の永遠のカイナがあると、あなたは約束してくださいました。
それゆえに、私たちはどんな時であっても、あなたを仰ぐその希望があります。
どうか主が私たちに信仰を与え、この一年もその所々を置かれている所において、喜びの時苦難の時においても、あなたを仰ぐ力を与えてくださいますように、お願いをいたします。
そして生きる主の身腕がそこに現されることを見ることができるよう助けてください。
全世界での争い、そしてまた私たちには願っても叶わないことが多々あることを覚えます。
そしてまたここに来たくても来れない一人一人がいることを覚えます。
施設におられる方、家で礼拝を守らざるを得ない方、体調を崩して来れない方、ゆえあって来れない方、お一人一人のことを主が覚えておられます。
この世界の痛みもあなたが覚えておられます。
どうかそれぞれのうちにあなたの平安の御手を述べてくださいますように、お願いをいたします。
そして本当に主の御臨在の豊かさを知ることができるよう、帰りに来てください。お願いをいたします。
御言葉を開いてくださいますように、私たちの道であり心理であり命であるお方の、あなたの言葉によって私たちの闇に光を照らしてください。
そしてあなたを知ることができるよう、帰りに来てくださいますよう、お願いをいたします。
これからの時を御手に委ねて、イエス様の御名前によってお祈りをいたします。
アーメン
高いところからではありますが、改めまして皆さん新年明けましておめでとうございます。
03:04
2025年も主にあってよろしくお願いをいたします。
共に主を礼拝する日々を守らせていただけたらと願っています。
私たちは主を礼拝してまいります。
日曜日の朝、そしてそれだけではなくて日々の中においても、それは喜びの時でも、危機の時であったとしても、私たちはその時その時主の前に跪き、そして仰ぐわけですよね。
そしてその時にかなって、私たちは復活して今も生きておられるイエス様にその中で出会っていくわけです。
そしてそのような出会いを積み重ねる中で、私たちは新たに主を知っていくという経験をしていきます。
そして私たちが主を知れば知るほど私たちは主に見るものに変えられていく、そのような歩みであることを思います。
私たちは生けるイエス様を知り続けることを大事にしたい。
キリスト教というのは頑張っていい人になりましょうということじゃないです。
本当に生きておられる豊かなイエスキリストという方を知っていく中に、私たちが変えられていくということですね。
その中でやっぱり大事なのは主にお出会いするということでしょう。
今朝読んでいただいた箇所はマタイの福音書の3章でして、この箇所は13節から読んでいただきましたが何かと言いますと、これはバクテスマのヨハネがイエス様に出会うというシーンです。
ちょっとだけ少し前から見ますと、元旦礼拝でも話しましたが3章1節というところに、その頃バクテスマのヨハネが現れ、ユダヤのアラノで教えを述べ伝え始めたとありますけれども、
その頃というのはまさに時が来た、ついに時が来たというニュアンスの言葉です。
時が来た。バクテスマのヨハネが叫び始めるのです。主が通られる道をまっすぐにしなさい。
それは神様が約束された王様が帰ってきます。だから罪から方向転換をして神様のもとに帰りましょうと彼は述べ伝え始めたのです。
そしてその中で厳しく問われたのはパリサイ派、サドカイ派でした。7節以降にそのことが書いてあります。
パリサイ派、サドカイ派というのはこの後も出てきますが、エルサレム神殿の権威をかさにきて既に私たちこそが王様なんだみたいな振る舞いをしていた人たちだと思っていただいたらいいです。
そういう人たちに対してヨハネは厳しい批判を展開します。ちょっと全部読むと長いのですが。
06:05
3章の10節からちょっと読ませてください。
激しい言葉です。ヨハネは王が帰ってきたというのですが、まだ王には会っていない。
けれども彼の中には王様ってこういう人だというイメージがおそらく彼の言葉を見るならばあるのでしょう。ヨハネはどのような王様を想像していたでしょうか。
おそらく神明記17章にあるように、自分のために富や軍備や力を蓄えない。そして神様の言葉に従い、主に跪く王である。確かにそうでしょう。
ただそれだけじゃなくて、ヨハネの言葉から想像するにそれはきっと激しい王様を彼は想像していた。
目前で腐敗しているイスラエルをご自身の権威と力によって火のように裁きを下し浄化をするような、そのような王様をヨハネは想像し期待していたのだと思います。
ただですね、そのような王様を期待していたヨハネはイエス様に出会って戸惑うんです。なぜならイエス様はヨハネが期待するような王とは違ったからです。
しかしヨハネはこのイエス様に出会うことによって本当のイエス様がわかる。
この年も私たちはこのようなヨハネのような経験を積み重ねたいのですが、ヨハネが出会ったイエス様に今朝私たちも出会わせていただきたいと思います。
さて、二つのポイントを見てまいりますけれども、一つは何かと言いますと、ヨハネが出会ったイエス様それは謙遜な王であったということです。謙遜な王であったということです。
今日の歌詞を見ていくならば、ヨハネがまさに王が帰ってくると叫び始めたその頃、13節にその頃とありますが、その頃イエス様は彼からバクテスマを受けるために来たということが13節に書いてあります。
09:01
バクテスマとは何かと言いますと、それはヨハネの下に集った一人一人が、ヨハネの前に罪を告白し、ヨルダンガオの中に身を沈め、また起き上がらせるという儀式ですね。
これは象徴的には死と復活を意味します。すなわちこれまで歩んでいた的外れな歩みをしていた私はここで死にました。
そしてそこから方向を変えて私は神様の方を向いて新しい命を生き始めます。これが悔い改めでありバクテスマですね。
私たちも宣伝を受けたと思いますがまさに同じです。私たちは違う方向から神様を向き始めるという新しい歩みが始まったわけですよね。
ただそうであれば一つ疑問が浮かびます。それはじゃあイエス様はバクテスマを受ける必要があるのでしょうか。
これはちょっと考えてください。新学校でも授業で問題に出されます。イエス様はバクテスマを受ける必要があるのでしょうか。
イエス様というお方はヨハネもそう理解していましたが誠の王として来られた、マタイの福音書の1章ではイエスキリストはインマネル、私たちと共におられる神だと言われる。
いわば神様との親しい交わりの中、愛の交わりに生きているお方である。そのようなお方が神様と違う方向を向いてヨハネのように、バクテスマを受ける人たちのようにまた新しい方向を向きます。
それは本来は必要のないことです。そんなことはありえないからです。ですからそのことがわかるヨハネも即座にここで止めます。14節。
しかしヨハネはそうさせまいとして言った。私こそあなたからバクテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですかと。
そうさせまいとという言葉はいいですね。やめてくださいということです。やめてください。それほどの驚きなんです。何を考えているんですかイエス様。あなたが王であって神であるならば、私なんかがあなたにバクテスマを授けられるわけがない。主よあなたこそ私にじゃないですか。
しかし15節にイエス様が言われることは、しかしイエスは答えられた。今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが私たちにはおさわしいのですと。イエス様のこのお答えはおそらくこういうことでしょう。
ヨハネよ、あなたの言う通りだ。あなたの言っていることはすべて正しい。ただあえて私はバクテスマをあなたから受けたい。なぜでしょうか。おそらく二つほど理由があると言われます。一つはこの前の箇所で罪を悔い改めバクテスマを受けていた罪人たちとイエス様が同じようになられるためであることが一つ言えるでしょう。
12:26
ただもう一つここに意味があるとするならばそれは、これは旧約聖書の言葉を成就するためです。バクテスマ、先ほど申し上げましたそれはヨルダン側に水に体を浸してまた起き上がらせるというそういう儀式ですけれども、これは旧約聖書の中では二つほど重なる出来事があります。
バクテスマと重なる出来事は何かと言いますと、それは出エジプト紀で民がエジプトから脱出したときに港海を渡りますね。水の中を渡っていきます。あれは単に海を渡ったというだけではありません。
彼らは奴隷の生活が死に、神によって新しい民として生きるように新しく生まれ変わった。立法を授かり神の民となる始まりが港海を渡るという出来事でした。そしてもう一つ旧約聖書の成就として言えるのは、私たちが見たヨルダン側を渡るという経験です。それはまさに約束の地にこれから入るという始まりですよね。
しかし旧約聖書を読んでいる私たちは、それが成就しなかったことを知っています。神様は民に立法を授け、神様を愛し隣人を愛するようにしたかったけれども、イスラエルの民は神様を愛さず隣人を愛さない民になりました。
結果、約束の地で内戦と分裂が起きたということを私たちは史識で見てまいりました。民は罪の奴隷、罪の補修の状態から逃れることができていないのです。真ことの王として来られたイエス様は、民を罪の補修から解放したいのです。
それはどのようにイエス様はそれを解放されるのでしょうか。それはこういう方法によってです。それはイエス様がかつてのイスラエルの民の一人のようになり、イスラエルが成就できなかった使命を代わりに背負い、成就することによってです。
もう一回言いますね。イエス様が民を罪から解放するためにしたのは何かというと、それはイエス様がかつてのイスラエルの民の一人のようになり、イスラエルが成就できなかった使命を代わりに背負って成就されることです。そのことによってです。
15:10
このことは今後何度も言いますので、覚えてくださればと思います。でも、マタリの2章から4章はそういうことですね。マタリの2章に書いてあるのは、イエス様はエジプトに逃れ、エジプトからイスラエルに帰ってきたというのは、出エジプトです。このヨルダン川へのバクテスマというのは、航海を渡ったという経験です。そして4章に続くのは、40年の荒れのならぬ40日の試みです。
イエスキリストとイスラエルが重なっているんですよ。イエス様はイスラエルの使命を持っている。
王は確かに、この歌詞を見るならば、王様というのは確かに釘を捌く火の力を持っています。しかし、この真言の王であるイエス様は、釘の火で人々を捌いて、あなたは罪人だから滅んだらいいと捌いて、終わることをよしとはされない。
真言の王であるイエス様が願われるのは、「いや、私はこの罪の補修から彼らを救うために、神であることも捨て、罪に囚われる民と同じになるまで下り、そしてご自身が代わりにイスラエルの使命を担い、果たすことを通して罪に勝利をし、この民を罪の呪いから解放することを願われる。」そのような王様なんです。
捌いて終わりではない、私が代わりに担うということを願われる王なのです。そしてその姿はまさに、ヨハネが想像できなかったほど驚くほど謙遜です。神である在り方を捨てて、私はあなた方の重荷を担う。
民数記というところには、モーセがこの地上で誰よりも謙遜な者であったということが書かれていますが、しかしイエス様はモーセに重ねられながら、それ以上に謙遜なお方です。
自分が砕かれ、私こそが砕かれ、低く使えられるよりも民に使えることを願う王様。人々を火によって支配するよりも愛することを願う王様。それがイエスキリストという王です。
このイエス様の王である姿というのは、あまりにもヨハネたちが期待していた姿と遠ざかっています。ヨハネは驚き、イエス様のことが理解しきれないんです。
いや、目の前に不義の世界が広がっているんでしょう。じゃあ主が力を持って捌いて治めてくださいよ。私たちはこの世界を見ていても同じことを思うでしょう。でもイエス様はそうはなさらない。
ですからヨハネは後にマタイの11章というところで、おいでになるはずのお方はあなたですか、それとも別の方を待つべきでしょうかとすら言います。
18:11
あなたなんですか、まことの王はと。私たちが思い描いていたのとはかなり違います。私たちは火を待っていたのにあなたはあまりにも謙遜すぎる。ただ、このヨハネの驚きは私たちの驚きかもしれません。
私たちも聖書を読みながらいつも思わされるのは、私たちはイエス様を知っているでしょうか。王であるのに王宮よりも馬小屋を選んだ王様。
火をもって裁く力があるのにおもにを担うことを選ぶ王様。罪深い人々を滅ぼすよりも罪を引き受けご自身の命を十字架で捧げてしまう王様。真逆ですね。
でも、私たちはこのイエスキリストを本当に知っていく時に、私たちの何かが変わるのは当然ですね。そして、このイエス様を知る人というのは、謙遜の実が結ばれていくということなのだと思うのです。
一つだけお話をしますならば、新学校の校長の代行に足立美京という先生が私の時はしてくださいました。昔の新学校を知っておられる方はわかるかもしれませんが、桜の木が立派なんですね。
あれは春きれいなんですが、秋になるとすごい葉っぱが落ちるんですよ。前朝前朝掃除しても掃除しきれないぐらい葉っぱが落ちるときに、私たちの時に足立美京先生が一日中落ち葉の掃除をしましたね。
山本先生に怒られて、「君たち校長先生が掃除してるのに、わががが!」みたいなことを言われて、すぐに、「先生も私たちにさせてください。」と言ったら、「いや、皆さんは大事な、今勉強をなさっている大事な時でしょう。年寄りはこのぐらいしかできるのです。どうか私に使いさせてください。」と言って、一日落ち葉の掃除をしましたね。
私の時の新学校の落ち葉は大体全部美京先生が掃除なさった。韓国から来た専教師の新学生が美京先生を見て感動していましたね。木枝がここまで低くなった木枝を私は見たことがない。それだけじゃないんですけどね。そういう先生の姿を見ると、私なんかまだまだだなっていつも思わされますが。
それは中澤先生からも教えていただきました。本当に主を知っている人は謙遜になりますよ。なぜならイエス様は謙遜な王だからです。イエス様との交わりに日々コツコツ生きている人は本当のイエス様を知るんです。そしてその人は謙遜になっていくのだと私は思います。
21:15
では2つ目のポイントを見ますが、謙遜な王として来られたイエス様ですが、その謙遜であることの厳選は一体どこであったのかというと、もうちょっと振り進めたいと思います。イエス様のこの謙遜さの厳選は一体何だったのでしょうか。それは16節17節です。
イエスはバプテスマを受けてすぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のように御自分の上に下って来られるのを御覧になった。そして見よ、天から声があり、こう告げた。これは私の愛する子。私はこれを喜ぶと。これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。イエス様が父なる神様から言われた言葉。
イエス様は神様のこの言葉に、自分が何者であるかの全てを見出し、満足なさったということが大事なことだと思います。自分が何者であるかの全てを見出し、満足なさった。これが謙遜さの厳選と言えるのだと思います。
イエス様のこの後の生涯というのは、拒絶されます。命を狙われます。親しい人にも自分が何者であるかを理解されない歩みが続きます。しかしイエス様は、ヘロデ王のように誰かの評価に依存をせず、ヨハヌのように誰かに自分の理想を押し付けることもせず、
自らの渇きを神様との愛の交わり以外の何かで埋めようとはしませんでした。渇きを潤すのは神様との愛の交わりであるということをイエス様はよく知っていました。私の愛する子、私はこれを喜んでいる。この交わりを素直に喜び、感動し、そこに満足すること。
実はキリスト社はこの言葉だけで十分であると言ってもいいかもしれません。私の愛する子、私はこれを喜ぶ。私は、それはキリスト社だけではなく全ての人がそうなんですが、私は神様に愛されている。私の存在は神に喜ばれている。それは全ての人がイエス様をまだ信じていなくても受け取っていいんです。
私は神に愛され、喜ばれている。そして、もっと言いますと、私たちが清められるという経験はこの言葉の中に完全に移行することです。これで満足できる心です。
24:08
この言葉は、創世紀のアダムとエバ、そして後悔を渡ったイスラエルの民にも簡単なく語られていた言葉であると思います。あなたは私の愛する子であって、私の喜びなんだと語られていたと思います。最初みんなこの言葉に喜ぶんですね。
しかし、イスラエルの歴史から見えてくるのは、この言葉だけでは次第に満足できなくなっていくんです。神様に愛されているけれども、敵が多いんです。だから軍隊を持ちたい。日ごとの糧が与えられることはいいけれども、日ごとの糧ではなくて安定が欲しいから、私たちは富を求める。
神様に喜ばれているけど、いや私は神様抜きで私は私を喜びたいんです。私が神になりたいとどこかで思い始める。神様の愛の交わりに満足ができず、他の何かで穴埋めをするということに次第と動く心が時に私たちにはあって、それをし始めるところに恐らく、極端に飛ぶかもしれませんが、支配と競争というものが始まっていく。
年末に皆さんにポスターをお配りしました。そこに載せた言葉は、マタイの3章の17節のこの言葉でした。
で、あれちゃんとつきましたかね。ちょっと古いラベルだったので外れたかもしれませんが、つけていただけたらと思います。
私があの言葉を載せましたのは、私たちはいつもあの言葉を聞きながら自分自身を責めやすい、罪深い私、私はダメな私、いやでもあなたはいつでも神様に愛されているし喜ばれているんだよということをいつでも思い出してほしいからです。
ただもう一つあそこに載せた意図は、私たちはあなたはこの神様の言葉が言っていること、この神様の開かれている愛の交わりに満足できているかということです。
満足できているだろうか。このお方だけであなたは果たして満足できますか。
という問いかけです。これはとても大事な問いかけであるなと思っています。
もう終わりますが、私は冒頭皆さんに、主にあって今年もよろしくお願いしますと挨拶をさせていただきました。主にあって、主にあってです。
主にあってという言葉はパオロがとても大事にした言葉ですが、それは平たく言うならば、イエス・キリストに属する者としてということです。イエス・キリストに属する者として。
27:08
私たちはバプテスマを受けました。バプテスマを受けたということは、いわば後悔を渡り神のことされたのです。そしてヨルダン川を渡り約束の地へ入るように招かれたのです。
私たちは既に神様との交わりが回復し、神の言葉である立法を習う聖書の言葉を私たちは受け取りました。それを手に持っています。
しかし旅路は容易ではない。外敵がいます。パンや水がないという時があります。
その度に思います。ああ、私は神様など信じず、賢い生き方をしていればよかった。
そう言って、エジプトを懐かしみながら、いいえ、その実、エジプトのような豊かさを持つ自分を誇りにしながら、そしてその願いをわかりやすく叶えてくれる偶像に、島との中に、そして私の中にある、そのような偶像に陥っていく。
私たちは容易にイスラエルの過ちを繰り返すお互いです。
けれども聖書が語るのは、しかしその日々は既に終わった。終わった。
なぜなら、イエス様が私たちの旅の先頭に立って進み、アラノの試みに勝利し、真に神に従い抜かれて、私たちにその勝利する力を与えてくださるから。
聖霊様というお方は、イエス様が成し遂げてくださった旅路の足跡を追うようにと、私たちに力を与えてくださる。
神様からの愛と喜びを受け入れ、本当に心に立法が刻まれ、身が結ばれるためにです。
マエレイ・ミヤショナーの言葉ですね。
三魂の身というのは、神を愛し自分自身を愛するよう隣人を愛することです。
ただ足立美京先生に口酸っぱく言われたのは、三魂の身を一言で言うと皆さん、謙遜ですよということをずっと言われました。
三魂の身は先日めると一言、謙遜である。
謙遜であるというのは、私は不十分ですということではありません。
謙遜であるというのは、私は神に喜ばれている。
私は神様に愛されている。
私はそれで十分だし、そしてあの人も神の目にあって十分なんだということを見る。
そして私たちはそのような中で、神様を愛し、私のできることをさせてくださいとコツコツと日々を生きていく。
それが謙遜であるということです。
30:02
もう終わりますが、救われ神の子であるという事実は、はかり知れないほど豊かです。
私たちが救われているということは本当に豊かなことです。
だからこそイエス様を知り続け、この豊かさをなおも知っていく日々を歩みたいと思います。
そしてこの神様の愛こそが、私たちを本当に満たすものだと知っていく。
神との愛の交わりに生きること。
あなたは私の愛する子、あなたは私の喜びなのだという言葉を受け入れる。
そのところこそが、私の本来の居場所なのだと身に染み付けていく。
この言葉に満足をするということです。
そういう種にある豊かさを味わう一年になることを願っています。
改めまして、今年も皆さん種にあってよろしくお願いをしたいと思います。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
31:12

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