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それでは、本日、礼拝の聖書課長を朗読いたします。
聖書の見言葉は、旧約聖書出エジプト記第十四章、十三節から十四節までです。
旧約聖書、120ページでございます。前のスクリーンにも出ますので、ご覧ください。
では、出エジプト記十四章、十三節、十四節をお読みいたします。
それで、もうては民に言った。恐れてはいけない。しっかり立って、きょうあなた方のために行われる主の救いを見なさい。あなた方は、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなた方のために戦われる。あなた方は黙っていなければならない。
それでは、この見言葉を過ごしに行って、主の御前に祈礼をする信仰、ご自在をもて、神様から見言葉の恵みをいただきたいと思います。
メッセージに入る前に、いつものように、隣の方々と元旦連会でもありますので、挨拶したいと思います。おめでとうございます。よろしいですか。あてましておめでとうございまーす。
では一言お祈りいたします。天皇、主の神様、今からあなたの見言葉へに私たちが切れをして、そして見言葉にしてます。
どうぞ、一人一人の心の中に、礼の中に、神御自身がお語り下さいますようにお願いを申し上げたかな、神様の約束の見言葉、希望の見言葉をあなたがお伝え下さいますように、心からお願いをいたします。感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
はい、では改めて新年あけましておめでとうございます。元旦連会にようこそいらっしゃいました。ありがとうございます。
2014年、新年があけました。今年も天皇、地下神様が、その天皇諸々の祝福と地の諸々の祝福をもって、皆さんお一人お一人の上に、家庭の上に、また職場の上に豊かに注がれて満ちあふれますようにお祈り申し上げます。
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元旦連会の祝福の見言葉をメッセージの準備する際に、神様からいただきました。
中のページの右の詳速の下の欄に書かれていますけれども、新明記二十八章一節から六節の見言葉でございます。
では私がお読みいたします。この見言葉を神様からの祝福の見言葉として、神様この見言葉を通りに私の身になりますように、最後にですね、みんなでアーメンと今日はしていただけたらと思っております。
では一節から私がお読みいたします。
もしあなたがあなたの神主の御声によく聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行おうなら、あなたの神主は地のすべての国民の上にあなたを高く挙げられよう。
あなたがあなたの神主の御声に聞き従うので、土のすべての祝福があなたに望み、あなたは祝福される。あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
あなたの身から生まれる者も地の産物も家畜の産む者、群れのうちの子牛も群れのうちの女羊も祝福される。あなたの籠もこね橋も祝福される。あなたは入る時も祝福され、出て行く時にも祝福される。
アーメン、アーメン。感謝します。
新しい一年が始まりました。主にあって、キリストにあって、信仰を持って力強く神のビジョンに従って歩んでいきたいと願っております。
ところが皆さん、新しい一年を力強く信仰を持って希望に満ちて始めようとしている私たちを妨げる者があるかもしれません。
それは昨年のつらい経験であるかもしれませんし、あるいは何かに対するトラウマでもあるかもしれませんし、あるいはストレスでもあるかもしれませんし、あるいは失敗した経験であるかもしれません。
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あるいは心の傷や何かのトラブルでもあるかもしれません。
しかし皆さん、私たちの宿、作り主なる神様は、そのような重荷を負って悩んでいる私たちのために、このように慈愛深く語りかけてくださっています。
私はあなた方のために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ、それは災いではなくて平和を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。
皆さん、お一人お一人のに、神様が与えようとしておられる神様のプラン、いや、これはただの計画、プランではなく、神様の夢であり、神様のビジョンであり、神様のパッションなんですね。
それは平和を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだ。
大切な皆さん、昨年の何かの辛い経験、悲しい経験があるいは失敗の経験とかがあったでしょうか。
それらとさよならと言ってですね、別れてください。あるいは何かの過ち、罪のゆえに在籍官を覚えて悩んでいる方々にもこのように申し上げたいのです。
主の御前に知れ伏して許していただき、自由の身になってください。
神様が与えようとするのは平安であり、喜びであり、将来であり、希望なんです。
新しい時代を迎えた私たちに対する神様の計画は、今年の私たちの人生が栄えることです。
豊かになることです。
シャロームの子宮府が望むことです。
日本語の挨拶は、おはようございます、こんにちは、こんばんはですけれども。
ちょっと調べてみてですね、おはようございますってどういう意味なのか、皆さんはご存じでしょうけれども。
語源はですね、お早くから来ること大変ですねとか、お早くからいらっしゃったんですねとか、そういう意味の言葉がおはようございますですね。
こんにちは、こんばんは、特に意味がないと思います。こんにちは、こんばんという意味ですから。
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ところがですね、イスラエルの挨拶はシャロームと言いますね。
シャロームという言葉の意味は、とても豊富な意味を持っている言葉なんです。
そのシャロームという挨拶の意味は、平安、平和、また栄える、また繁栄、また健康、また成功を意味する、その全てをですね、含んでいる意味の挨拶がシャロームという言葉なんです。
なんと素晴らしい挨拶の言葉なんでしょうか。
ですからですね、イスラエル人は挨拶をするたびに、相手を祝福するなんですね。
平安がありますように、繁栄がありますように、健康でありますように、栄えますように、それをシャロームという一言葉で挨拶ができるわけなんですね。
皆さん、まさに神様がこの新しい時に、皆さんお一人お一人に与えようとしておられる、その祝福、恵みはシャロームの祝福なんです。
天の諸々の祝福をもって、地の諸々の祝福をもって、私があなたに平安を、シャロームを与えようとしている。
だから私に従って来なさいというメッセージではないでしょうか。
私が2007年ですね、12月に、エジプト、イスラエルの聖地巡礼に行ったことがあります。
エジプトに行ったときの祝福ですが、そのプログラムの中で砂漠で落雷に乗って、1時間若干砂漠体験みたいなコースがあったんですね。
真昼でもう12月なのに、非常に暑かったんですね。
それでみんな、あのときに20何人でしたけれども、みんなラクダ1匹1列乗ってですね、ずっと1列に並んでですね、そのコースに沿って移動をしていました。
ところが最初は周りにピラミッドもあったり、スティングスもあったり、いろいろ人が多いところから出発したんですけどね。
20分だったら周りに何も見えないんです。砂漠だけなんですね。砂だけ、他は何も見えないところに、我ら20人余りのものがずっと歩いて、ラクダに乗って移動しているんですね。
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しかし、周り何もなくて砂漠だけれども、その砂漠の景色が素晴らしいんです。その砂がピカピカ光っているし、この砂漠なんてこんなに素晴らしい景色なんだと、その砂漠の光景を楽しんでいたんですね。
なぜ砂漠にあるのに楽しむことができるのでしょうか。それは道をよく知っているガイドさんが一緒にいる。帰るところを彼がよく知っている。そしてもどかが渇いたら飲める水を持っている。
そして帰ったら休めるホテルがある。しかしもし自分が帰国に乗って事故にあって、あの砂漠に墜落していたらどうでしょう。砂漠なんて景色なんて目に入ってこないんですね。怖いんです。恐ろしいんです。
人生も皆さん同じであるかもしれません。どうにもならないことが起きたとき、砂漠に捨てられたような経験をさせられたとしても、私たちは大丈夫だと言えるのです。
なぜ大丈夫だと言えるのでしょうか。私たちには帰っていく天の家がある。それから炎のような目を持って見守ってくださる神様が、ガイドさんより素晴らしい神様が共におられる。
また、永遠に渇くことのない永遠の命が与えられている。だから大丈夫なんです。いや、大丈夫ですと言えるのです。私たちクリーチャーは。
皆さん、私たちの人生には天の父なる神様お一人が私たちと共にいてくださるのだから、それで十分なのではありませんでしょうか。乏しいことは決してありません。
イエス様、お一人だけで十分なのです。クリーチャーこそこのように宣言できるのです。死は私の祝儀かい。私には乏しいことがありません。
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あなたは入るときも祝福され、出ていくときにも祝福されると言えるのがクリーチャーの財布ではないでしょうか。
ところが皆さん、私たちが神様からこのような素晴らしい天の諸々の祝福、地の諸々の祝福をいただくためには、通り抜けなければならない訓練コースが一つあるかと思います。
それは、主の御前に切れ伏す信仰、主の御前に切れ伏す訓練。
切れ伏すというのは、交差を意味します。自分や自分のすべてを捨てることを意味します。
あなたは神であり、私は下辺です、という自覚を意味します。
あなたは創土主であり、私は始生物です、という告白を意味します。
2014年には私たちにこのような信仰があってほしいのです。
それは、主の御前に切れ伏す信仰です。
あなたこそ神であり、私は下辺です。すべてはあなたのものです。
私の命も、私の家族も、私の将来も、私の才能も、考えも、力も、体も、霊も、持ち物も、すべてあなたのものでないのは一つもありません、と告白できる信仰を持ってほしいのです。
イスラエルはエジプトで430年間奴隷として暮らしました。
これは世界史にも出てくる歴史的事実です。
彼らはウゴウモヒュウのような者たちでした。
そのような彼らが、どうやってあの世界最強国のエジプトの圧勢の手から脱出することができたのでしょうか。
彼らにはまともな武器もありませんでした。軍隊もありませんでした。フッティなんかありませんでした。戦いの戦争の経験もなかったのです。
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ある意味で、430年間奴隷として馬鹿にされて、そこで助けられたわけです。
彼らが持っている武器は、そういった武器を持っていたとしても、
あのエジプトの戦車や騎馬やあるいは制動武器を持っている、あのエジプト軍と戦って勝つはずがないのです。
もう絶対に負けてしまうのが当たり前なんですね。
しかし、この歴史の実は、戦車の見言葉は、そのイスラエル人は血一滴も流さず勝つことができたのです。
エジプトから出ることができたのです。
戦いもせずに、エジプト軍は海で全滅されました。
私たちはこのようなことを見て奇跡と言います。
あのパロの王が何かに取り憑かれたかのように、イスラエル人を放ってやりました。
しかし、イスラエル人はただ脱出だけではなく、自分の持ち物をですね、
例えば羊とか牛とか、全ての所有も全て持ち込んで出ていくこともできた。
奪われたものは一つもありませんでした。
私たちはこのようなことを見て奇跡と言います。
子供から大人まで約200万人でしょうか、150万人でしょうか、
神戸の市より多いんですね、神戸市より人が多いんです。
あの人々が赤ちゃんからお年寄りまでですね、砂漠を通って進み行きます。
しかし彼らの目の前には、荒野が、砂漠が、また航海という深い海が彼らの先に待っていたんです。
彼らを飲み込もうとする深い海でした。
そのような時に彼らは怖がっていたんですね。
いや、この海でも溺れてみんな死んでしまうのではないか。
せっかくここまで来たのに、これが最後なのかおしまいなのか、恐れていたんですね。
恐れがあります。人生には恐れがあります。
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政府にですね、恐れてはならない、そういう御言葉が厚く書かれています。
それは、私たちが恐れる時があるから恐れてはならないという御言葉が書かれているわけなんですよね。
もしですね、人間に恐れるという感情が全くない、ひとりたことがなかったとしたら、
政府に恐れてはならない言葉が書かれているはずがないんですよね。
恐れてはならないと神様がおっしゃっているのは、あたかに恐れが起き得るということです。
それをまずは認めましょう。
恐れがあり得る。起こり得る。
しかし、その恐れに取り憑かれてしまったり負けてしまったらいけないと思います。
この時ですね、その多くのイスラエルの民が目の前にある後悔で、
いや、これで終わりかと恐れて怖がっている時に、イスラエルの指導者モーセは分かっていたんです。
彼は何を分かっていて何を信じていたのでしょうか。
今までの歩みは、自分たちの力によってできたのは何一つもない。
全ては神様が成してくださった神のことなんだ。
モーセは分かっていました。
あのパロと戦って人にできたのは、ナイレ川が地に変わったのは、
あの銃の災いからイスラエルの民は神の毛一本毛からさず、まるまる守られたこと。
それはモーセが偉いから、イスラエル人が強いから、最後まで全ては神様がしてくださったこと。
モーセは分かっていたんですね。
それで彼は今日の御言葉のように、あの恐れているイスラエルの人々にこのように宣言していたんです。
今日の御言葉をですね、もう一度一緒に見てみたいと思います。
それでモーセは民に言った。
恐れてはいけない。しっかり立って、今日あなた方のために行われる主の救いを見なさい。
ほらみんな、恐れてはいけないよ。
今まで神様が全てのことを成してくださったわけだから、これからも主が戦って行ってくださるから、その救いをただ見ればいいんだと。
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あなた方は今日見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
あなたを恐れさせる、怖がらせる、そういった全てのものは消え去るんだ。見ることがないんだと。
それから十四節をですね、一緒にお読みしたいと思います。
では一緒に十四節をお読みしましょう。
三杯。主があなた方のために戦われる。あなた方は黙っていなければならない。
アーメン。皆さん、あなたが戦うのではない。私が戦うのだ。
あなたが働くのではない。私が働くのだ。
あなたはただただ黙っていなければならない。黙っていればいいのだ。
私が戦うと神様は黙っておられます。そうすると負けてしまうに決まっているでしょう。
もう一度申します。自分で戦うと神様は黙っておられます。
しかし私が黙っていれば神様が戦われます。そうすると勝ち取るに決まっています。
私が自分で事をしてしまうと神様は黙っておられます。
しかし私が主の御前に比例付して黙って主の手を待っておれば神様が事を享受してくださるのです。
皆さん、これが人生栄えの秘訣であり、成功の秘訣であり、祝福の秘訣なんです。
教会リバイバルの秘訣なんです。
2014年、今年、どんなことが私たちの身に起こるか知りません。
良いことも起こるでしょう。しかし悲しいこと、つらいことが起こるかもしれません。どうにもならないことが起こるかもしれません。
このような時、私たちは今日の御言葉をぜひ思い起こしていただきたい。
恐れてはいけない。しっかり立って、今日あなた方のために戦われる、行われる主の救いを見なさい。
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主があなた方のために戦われる。あなた方は黙っていなければならない。
私もジリアルのアフリカのセネガルで選挙している選挙士がいます。
双子を持つ選挙士ですが、彼らの選挙の手紙をもらっていて、読んだことがありますが、そういう証が書かれていました。
彼の話ですが、観光にいる時には経験できなかったすごいことが毎日のように起きている。
手を置いて祈ると病気が治る。歩けない人が歩けるようになる。悪霊に取り憑かれている人のために祈ると悪霊が消え去る。
食べ物がなくて祈るとトラックがやってきて食べ物を届けてくれる。しかも全く見知りの人から。
普通にメッセージをしただけなのに数十人がイエス様を信じて洗礼を受ける。
なぜ韓国で勃開をしている時にはこんなことがなかなか起きなかったのか。やっとわかりました。
それは、観光にいる時には神様より私の知識が先立っていたからです。
神様より自分の経験をもっと頼みとしたからです。
神様に働いていただくより自分が勝手に事をしてしまったからです。
神様の御手による助けを待ち望むより自分で決めてやってしまったからです。
私が黙っていて神様に働いていただくはずなのに私がやってしまって神様を黙らせてしまったからです。
だから何も起きなかったのです。
こう言いながら彼が手紙の最後に四編六十二編一節五節を書いていました。
私が読みます。
私の魂は黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
私の魂は黙ってただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
皆さん本当にこの通りだと思いませんでしょうか。
皆さん私たちが死の御前にひれ伏して黙っておれ。
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そしてただ神様の助けを神様から来る救いを待ち望んでおれば必ず死から回復が望みが希望が勝利が来るのです。
今年皆さん私たちみんな必ず神様の御前にひれ伏して黙っておれ。
ただ神様から来る救いと望みと祝福を待ち望みたいのです。
神様に思い切り働いていただける一年を過ごしたいのです。
私たちが自分で立場切りをしようとする欲を下ろしたいのです。
神様より先に事をしてしまおうとするその欲を下ろしたいのです。
そうすれば私が事をするより神様に働いていただくと百倍千倍それ以上祝福されるでしょう。
人生で奇跡を経験する秘訣は私は黙っており神様に働いていただくことです。
死の御前にひれ伏す信仰それ他にはないと思います。
このように神様に働いていただけるためには一つ私たちがしなければならないことがあると思います。
それは簡単に言いますと方の力を抜くことです。
人間的な力を抜くことです。
私ができるあるいは私ができるといった方の力を抜くことです。
あるいは私は持っているという方の力を抜くことです。
皆さん野球を好きですか?
打者が方に力をいっぱい入れすぎると空振り三振です。
しかしアマチュアであればあるこそ方に力をいっぱい入れて空振りをしてしまうのです。
しかしプロの選手は方に力を入れないのです。
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軽いです。
スーッと振るかの巣みたいだけどホームランを打てるのです。
皆さん自分の方の力を抜かないと人生は空振り三振になりがちです。
方に力を入れたということは自分で自分ができると思うことではないでしょうか。
主の御前に知恵付する信仰というのはまさに自分の方の力を抜くことです。
できる、できそうだ、持っている、経験がある、こういった方の力を一切脱ぎ散る、それができる人が神様に仕局されます。
神様に働いていただけるのです。
この原理、この秘訣をぜひ皆さんのものにしていただきたいのです。
一人一人の人生も教会もそうなのです。
私にできる、私ができた、これまでやってきたというその方の力を抜かない限り神様はこうやってやってこない。
神様は動きません。
働きません。
私たちが方の力を抜いて、主の御前に知恵付して、私は主の御前です、あなたは主です。
神様あなたが戦ってください、私は黙っております。
と言った時に初めて神様が働き出す、動き出すのです。
そうすると、あのイスラエルが経験した奇跡が人生に、教会の上に起こるのです。
愛する皆さん、人生のスポットライトはイエス様に当てられるようにしましょう。
自分が全部当ててしまうのではなく、イエスキリストにスポットライトをお借りしましょう。
私たちは舞台の真ん中から降りてきて、主イエス様がどのように戦われるか、主イエス様がどのように奇跡を起こされるか、どのように助けられるかを、ただ黙って見たいのです。
新しい時が明けました。歴史というものは一直線です。始めがあり終わりがあります。
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収穫の多い秋になると、その後必ず冬が来るのです。朝から来ると、その後必ず夜が来るのです。
1月1日になると、12月31日は必ず来るのです。
この自然世界の秩序を見れば、人生の秩序も分かってくるのです。
神様は自然世界を通して、人生にも夜、終わりが来るのだ、という恐怖を私たちに教えておられるのではないでしょうか。
いつも20代、30代でいられるかのように思ったのですが、60代、70代、80代でいられるでしょう。
僕も20代の時の思いがまだまだ頭にいっぱいあるのですが、もうすぐ50になるかなと思うのです。
皆さん、私たちみんなは必ず神様の御間に立たされる時が来るのです。
夜が来るようにすべてのことには終わりだ。最後の祝福と捌きの時が必ず来るのです。
ですから私たちは最後の日を迎える備えをしておかなければなりません。
皆さんは神様の御前に立つ準備ができていらっしゃるでしょうか。
節制で終わりたいと思います。
主の御前にキレウス信仰を持って一歩一歩仏も歩みたいな。
私はひもべであり、あなたこそ主です。告白したいのです。
私は黙って、ただ主から来る望みを待ち望みたいのです。
2014年には、天の知ったる神様が、皆さん一人一人を道徳を用いて下さる、この妙なに教会を王に用いて下さる。
そのために私たちが肩の力を抜いて、主の御前に秘めをして、神様あなたが戦って下さい、あなたが行って下さいと従っていく。
それが祝福の道であることを信じて、今年も歩んでまいりましょう。お祈りをします。