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2017-10-15 33:51

2017/10/15:ヨハネの福音書講解説教(15)五つのパンと二匹の魚

 2017/10/15 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 6:1~15

00:01
それでは一言お祈りいたします。
そして彼らが十分食べた時、弟子たちに言われた。
余ったパン切れを一つも無駄に捨てないように集めなさい。
彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出たパン切れを、
人々を食べた上、なお余ったもので十二の籠が一杯になった。
アーメン。主よ、私たちにはできないこと、主にはおできになります。
あなたは全能者です。あなたは作り主です。あなたは癒し主。あなたは救い主です。
その信仰をもって、今日の御門場を心の中に、主よ、受け止めて、
また信じる信仰を与えて下さいますように。聞く耳を与えて下さいますように。
心の目がはっきり見えるようになりますように、聖霊様助けて下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
アーメン。感謝します。
ヨハネの福音書の公開説教が十五回目になります。
今日は、よく皆さんね、ご存じの箇所になります。
いわゆる五つのパンと二匹の羽の話になりますけれども、
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書があるんですけれども、
その中にイエス様の印とか奇跡とか、あるいはイエス様の講話、お話が、
この四つの福音書に全部書かれているものは、
この五つのパンと二匹の羽が唯一のですね、印、奇跡として、
だからそれほどですね、このマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、その記者、また聖霊様は、
確かに四つの福音書にそれを記すほど、これは大事なものである。
何かの神の狙いがあるということなんですよね。
確かにですね、弟子たちは、他のことを通してでもそうでしょうけれども、
この五つのパンと二匹の羽のこの印を通して弟子たちは、確かにイエス様は神の御子であると、
間違いないというね、その確信を持つようになったと、そういうふうに考えられます。
さあ今日のストーリーを見ていきましょうか。
多くの群れがイエス様について来ていました。
彼らは癒されたから、あるいはまた癒してほしいから、またイエス様のお話は聞きたいからですね、
03:01
遠くから近くからイエス様についていて、たぶんその中ではですね、何日間もイエス様についてきている、
一緒にですね、イエス様に行かれるところ、一緒に旅をしている人々も大勢いたことでしょう。
ところが今日のところを見ますと、他のマタイには十四章、そしてマルコには六章、
ルカには九章、そしてこのヨハネには六章にですね、この記事が書かれていますけれど、
他の箇所を見たら夕方になりました。
そろそろお腹が空いて、何か食べたい時間になりました。
そして今日も書かれているように、男性だけで五千人ほどいました。
だから女性を含めて子供も含めたら八千人、一万人以上になるでしょう。
そしてみんな疲れていました。
しかも彼らが今集まっているところが、エルサレムの市内の真ん中とかね、
どこかの町の真ん中に今いるのではなく、一節に書かれているようにガリラヤの湖、
すなわちテベリヤの湖の岸にいるわけなんです。
いわゆる野原なんですね。あるものは多分湖と草くらいでしょう。食べ物はそこにはない。
夕方になって、どこかお店があって、パンを買えるとしても五千人、一万人のパンを一回で買うことはできない。
パンを作って食べようとしても、小麦粉もかまぼこもちぐもないわけなんです。
もちろんお金も持っていないわけなんです。
今から二千年前だからですね。
こういうこのメッセージで、私が進学生のときに三、四年生のCSの担当をしていて、
この話をしていたら、もう食べ物はないのよ。もう何もないのよ。
そして子どもたちがそう言うんです。先生、ラーメンを食べたらいいでしょう。
今の子どもはそう思うんですよね。あるいは日本の子どもたちは、先生、コンビニに行ったらいいでしょうと思うかもしれない。
何もない。
さあ、これを考えると、いわゆる一つの問題が起きたということなんですね。
危機が起きているわけです。脳腹なんです。
一万人ぐらいの人々がいます。みんな疲れています。その中には病人もたくさんいるわけなんです。
死ぬか死なないかという、とても非常に重大な問題ではないんですけれども、
06:02
多くの人々が飢えて疲れている。
誰かが彼のために食べ物を差し上げなければならない問題が起きたわけなんですよね。
脳腹である。五千人以上の人々がある。お金はない。
いくつかのトラブが起きています。大変なことになります。
この状況をよく考えますと、私たちの人生にも、
今日のこの記事のような、野原でのこの群れのような状況が、
似たようなものが起きる時があるのではないでしょうか。
疲れている。お金がない。問題がある。何かしようとしても自分にはできない。
想定外の問題が発生しました。
もちろんですね、問題が起きたとしても、人生に問題が起きたとしても、
自分にそれを解決できる時もありますけれども、
大体はできない時が、どうしようもない時が、よくあるのではないでしょうか。
能力がなかったり、知恵がなかったり、お金がなかったり、実力がなかったりして、
解決できない時もあるんですね。
ところが皆さん、よく考えますと、
この野原でのこの群衆のようなこの状況、何かの問題の時、大変な時、危機の時こそ、
私たちが持っている信仰の進化が試される時なんですね。
そしてその時に自分の信仰が働けるチャンスなんです。
だから問題が起きた、どうしようもない何かが起きた、危機が起きた、乗り越えなくてはならない、
克服しなくてはならない何かのトラブルが起きた時に、我々はクリスチャンですから、
その時にその信仰が今まで自分が持ってきた信仰で、
それを突破できるか、乗り越えることができるかどうかが試されるチャンスなんです。
そう思いませんでしょうか、皆さん。
平穏無事な時、何にも問題ない時には、みんな良い信仰を持っているように実はそう見えます。
ところが何かの問題が起きた時、危機の時、自分の力ではどうしようもない時、
その時にその人の信仰の値が、価値が試されて現れるということであります。
だから立派な信仰を持って、大きな信仰を持っておれば、
09:00
この野原の問題が起きたとしても、植えている問題が起きたとしても、
お金がなくても、一万人の人が集まっていても、
安々と、すいすいと乗り越えることができる、突破することができるということなんです。
そうでないと、小さな問題が起きても大変苦労するわけなんです。
その違いは何でしょうか。どんな信仰を持っているかということであります。
今日、登場人物を見ますと、まず弟子の中にピリッポさんが出てきます。
その後、アンデレーさんが出てきます。
そしてその後、イエス様が解決するわけなんですよね。
まずピリッポという人の信仰を覗いて見ていきたいと思います。
なぜか、イエス様はですね、ご説をご覧ください。
目を上げて大勢の人の群れがご自分の方に来るのを見て、なぜかイエス様はピリッポに言われました。
多くの弟子方に12人があるのに、なぜピリッポなのか、それはわからないですね。
でもイエス様はピリッポの信仰をわかっていらっしゃるから、彼を試そうとして、こう言われました。
ご覧ください、ご説。ピリッポに言われた。
どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか、とピリッポを試されました。
皆さん、イエス様の試されることは、これは潰すための誘惑ではないんですね。
誘惑はサタンがするものであって、神様は試験なんですね。テストなんです。
試して信仰がどうなのか、自分も自覚できるように、ということなんです。
だから皆さん、普段ですね、神様からのテストがある。
試されている。その時に神様は、なんでテストが、私を試せるんですか、と訴えないでください。
主は、私たちが自分の信仰が、自分がどんなものなのか、自分で自らわかるように、主は試されます。
イエス様はピリッポに、どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか、と言われました。
それは、イエスは、続いて6節を見ますと、イエスはご自分でしようとしていることを知っておられたからである。
もう知っておられました。
ところが、この時に、この問題が受けた時、危機の時に、大変な時に、ピリッポはどういう風にするのか、試されたわけなんですよね。
その時にピリッポは何と答えましたか、皆さん。
7節を一緒に見てみましょうか。
3、ピリッポはイエスに答えた。
メーメーが少しずつ取るにしても、パンを少しずつ1個、2個食べても、イエス様、200デナリのパンでは足らないんですよ、という。
12:17
何百万円ぐらいのお金なんですね。
ですから、ピリッポさんは、計算が早いものです。
イエス様がどこから買ったらいいの、パパパッとね。
イエス様、200デナリ足らないんですよ、と答えました。
間違いではないでしょう。
確かに、5000人以上の1万人ぐらいの人が、パン1個2個食べるにしても、200デナリでは足らないわけなんです。
約200万円ぐらいのお金だから、足らないんです。
彼はとても合理的です。
計算を正確にしてあげましたから、常識的であって、合理的であって、いいんじゃないかと思われるかもしれない。
ところが、よくイエス様の質問と彼の答えをよく比較してみるならば、
イエス様はピリッポに、この人々に食べさせるにお金がどれくらいかかりますか、と聞いていますか。
そう聞いていらっしゃらないんですよ。
どこからパンを買ってきて、食べさせますか、と聞きました。
どこから、つまり、そのどこは町ではない、パン屋さんではない、野原ではなくて、私なんですよ、というイエス様の二重の意味がここに含まれているわけなんです。
そのどこがイエス様であることをピリッポが知ってほしかったんですよね。
でもピリッポは、どこじゃなくていくらなのか、計算を先にやってしまいました。
皆さん、ピリッポさんは、他の弟子もそうでしょうけれども、ピリッポさんは今まで、この日まで何を見てきたんでしょうか。
イエス様が水でぶどう酒を作ったのも、彼は見て飲んで味わったものです。
あの38年間病気を忘れていた人を、イエス様が徳を取り上げて歩きなさいと癒されたことをピリッポさんは自分の目で見たはずなんです。
病気の薬人さんの家族を癒したことも見たわけなんです。
悪霊を追い出したことも自分の目で見た、その現場を目撃したものなんですよ。
でもね、こんな問題が起きた時にピリッポさんは、それならイエス様ならできるでしょうと答えたらよかったんですね。
15:01
あなたならできますよと。私たちにはお金はありませんが、イエス様だからこの5千人、1万人を食べさせることはイエス様ならできますよと答えたらいいんですね。
でもピリッポさんはパパパパ、電卓をね、打つってね、200でなり足りないんですね、イエス様。
パン屋さんもないし、水もないし、町は遠いし、どうするんですかって。
ピリッポさんの姿の中に、我々の姿がこの中にあるのではないでしょうか。
そう思いませんでしょうか。問題の前に、危機を前にして、まるでピリッポさんのように電卓を打っている我々がここにおるかもしれない。
計算は早い。総理の中で5千人以上ですからね。パン1個食べてもいくらか。計算は合っている。100点かもしれないところが進行はどうなんでしょうか。
彼のお話自体は間違ってはないんですね。しかし彼は群衆ではない。イエス様は品がいい者ではない。
イエス様についてきますと弟子になったイエス様の弟子なんですよね。だから弟子の答えとしてはふさわしくないんです。
進行の答えでは、今までイエス様が神様としてなされた数多くの印や奇跡やお言葉を聞いて見て目撃した者として、その弟子としての返事としては、問題を乗り越えるにはピリッポの進行はまだまだでした。
皆さん、問題は大きな問題であろうが、小さな問題であろうが、トラブルは人生にみんな起きてきます。その問題を、奇跡を乗り越えるか、はいはいして過労死でいけるか、飛行機に乗って観光しながら乗り越えるか、
進行は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信するものである。
だから皆さん、実際に信じて、危機の時にその進行が働くようにすることが、我々クリチャンの生き方ではないでしょうか。
進行が働くクリチャン、進行が働く教会とそうでないクリチャン、教会の違いは、大きな点と値のような違いが出てくるでしょう。
18:03
教会の中にも、計算が合っている間違っている、会議が好きな人が、多くある教会は計算が合っていて、とても合理的で、とても常識的で、とても理性的な面において優れているかもしれない。
ところが皆さん、神の教会は計算より進行であって、理性より進行であって、常識より進行であって、現実の感覚より進行が優先する神の国であることを、私たちは知らなければならないです。
もしも教会がこの世の団体と集団と全く同じであったら、何が違うんでしょうか。
願わくば皆さん、何かしなければならないことが目の前にあるとしましょう。
そしたら、まず、電卓を打つ前に、神様にまず祈りを持って、進行が働くようにして、現実の条件、ピリッとのように、ここは野原でしょう、お金がないんです、みんな貧乏です、街は遠いですという、現実ばかり見て目を奪われてしまうのではなく、目の前にイエス様がおられますから。
そのどこがイエス様ですから、そのイエス様を見て、そして主よ、私の進行を、この器を大きなものにしてください。
そしてこの問題を、この解決しなくならないことを、主よ、突破できるように、乗り越えられるように、イエス様、私の進行を大きくしてくださいと、祈るべきではないでしょうか。
皆さん、普段どんな祈りをしておられるんでしょうか。
次に、アンデレさんが登場しますね。
八節をご覧ください。
弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに行った。
さあ、アンデレはどんなふうにイエス様に言うんでしょうか。
九節一緒に読みましょうかね、九節三。
ここに少年が大麦のパンを五つと、小さい魚を二匹持っています。
しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょうかね。
アンデレさんはどうでしょうか、皆さん。
アンデレはですね、運よくですね、少年がお米と思っているのを見つけたのか。
また他の聖書を見たら、子供がそれを渡したような気がしますけれども。
貧しい地域ですし、大麦は安い麦なんですよね。
このパンですし、小さな魚ですからね、子供のお弁当ですから、本当に粗末なものでですね。
21:09
それをアンデレは持ってきました。
そして持ってきてですね、その後の話は言わなかった方がよかったんですよね。
それを持ってきてですね、イエス様、五つのパンと二匹の魚があります。
でもイエス様、あなたはこれでこの人々を十分食べさせることができますよね。
はい、どうぞと言ったらよかったんですね。
でもアンデレはどうですか。
しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。
ピリッポさんよりはお弁当でも持ってきたから、ちょっとマシかもしれないね。
ところがですね、アンデレさんも行動力はあるんですけれども。
イエス様、でもね、このパン五つと魚では五千人以上は無理でしょうね。
イエス様、あなたでも無理でしょうね。難しいでしょうね。
どうするつもりですか。
アンデレのお話も間違っていないんですよね。
確かにパン五つと魚二匹でですね、子供のお弁当だから、男性一人では足らない。不可能です。
常識的に合理的に現実的にあっている話です。何の間違いもないです、彼の話は。
しかし、そのアンデレのお話のその心の中にも果たして、
あなたならできますよ、食べさせられますよという信仰があるんでしょうか。
いかが思いでしょうか、皆さん。
このアンデレの姿の中にも我々の姿があるのではないでしょうか。
確かにピリッポさんよりは行動力がある、実践力もある。お弁当でも持ってきた。
これはあくまで私の勝手な推測ですよ。
アンデレさんはですね、計算ばかりしているピリッポよりは私の方がマシだと。
情けないなと思っていたかもしれません。
ところがですね、主にお渡ししていますけれども、捧げてはいますけれども、信仰による確信がないんです。
何かはしていますが、何かは捧げていますが、何かはイエス様にお願いはしているんですけれども、確信がない。
イエス様あなたならできますよという確信がないんです。
もしもできたら、はいどうぞ、そんな感じですね。
皆さんいかがでしょうか、私はいかがでしょうか。
もしも、そのためにいろいろさせていただいていますけれども、もしも心の中に、しかしこんなに大勢の人々ではそれが何になりましょうという懐疑心のような疑いの心が少しでも我らにあるのではないでしょうか。
24:23
今、イエス様と弟子たちがいるこの野原は危機です、問題です。
我らには何にもできないんですね。弟子たちを見ても何にもできないんです。
その時には、私たちはどこに行けばいいんでしょうか。どこに行けばいいでしょうか。
イエス様に行けばいい。
イエス様は、アンデレが持ってきた大麦のパン5つと、小さい2匹を持って、神様に感謝して、祝福の祈祷をして、
それをお嬢に100人ずつ座らせて、みんなに食べさせました。みんな満腹しました。いっぱい食べました。
多分ですね、大勢の人はパンを何十個も食べたかもしれない。魚を何十匹も食べたかもしれない。
みんな満腹して、余りがあるほどでした。いかがでしょうか、皆さん。
イエス様には野原は問題にならないんです。
イエス様には自分に弟子たちにお金が無礼にお金がないのは、何の問題にならないんです。
イエス様には5千人であろうが1万人であろうが、それも問題にならないんです。
イエス様に手にあるのがパン5つで魚2匹しかないことも、何の差し違い問題にもならないのです。
なぜなら、イエス・キリストが全能なる神様だからなんです。
この信仰を私たちは持っていなければならない。
実際に皆さん、皆さんの実生活において何かの課題が、問題が起きた時に、
この5つのパンと2匹の魚のイエス様が私の主である、生きる主である、何でもできる全能な神であると信じるならば、何の問題にならない。
心配することはない。信仰さえあれば大丈夫なんだという話を自分自身に聞かせて周りに言って、
それを問題を乗り越えてことを進めていく信者・教会でありたいです。
それがこの世の集団と教会が違うところではないでしょうか。信仰と現実は違っていません。
信仰さえ持っておれば問題を乗り越えて、危機を解拓して、切り開いて山を峠を乗り越えることができる主の御業を見ることができるのです。
27:14
なぜなら、イエス様は群れをかわいそうに哀れみに見てくださっておられるからです。
野原にいます。疲れています。お金はないです。貧しいです。
そういう群れを他の文書を見たら、哀れみに見てくださったということであります。
イエス様には、この5千人、1万人、人々にパン1個と魚1匹、ちょうどそれくらいしか提供できない、そういうちょっと力がある神ではないのです。
みんな食べて満腹して余りのあるほど提供できる力の主であります。
信仰を持っていただきたいです。
信仰と個人生活は決して別個ではありません。信仰と問題は決して別々のものではないのです。
イエス・キリストが、信仰が私の個人生活の深くまで入っていただかなければならないのです。
迎え入れなければならないのです。そうでしょう皆さん。
信仰生活というものは、ただ日曜日に教会に来て礼拝一度して、それで終わりという儀式ではありません。
イエス・キリストが生きる主が、私の実生活に、考えの中に、個人の生活、月曜日から土曜日の、その全ての生活の隅々までイエス・キリストを迎え入れて、
その中で信仰による働きが起こること、取り扱われること、イエスに関わってくださることが、我々に必要な信仰ではないでしょうか。
私は結構前ですけれども、韓国にいて日本選挙の訓練を半年くらい受けたときのことです。
講義に来てくださった名前は忘れましたけれども、日本の日本人の結構年配のある先生のお話なんですが、
その先生の講演の中で、日本選挙の壁がある、いくつか壁がある。その中で、その先生の個人的な考えかもしれませんが、
私もある程度同感する、同意するところだと思いますけれども、日本人の個人主義というものが日本選挙の壁となっていると。
どういう意味なのかなとですね、耳を傾いて聞いておりましたところ、その先生の話はこういう話でした。
個人主義が強い。だから、教会と個人、自分は別である。信仰と自分の個人生活は別である。
30:10
徳氏どころか、イエス・キリストは自分の実生活に入っていただくこと、迎え入ることに対して壁がある。
いわゆる線引きをしている。教会は教会、個人は個人、信仰は信仰、個人は個人、家庭生活は家庭生活であって、イエス様はイエス様、教会は教会。
線引きをしていて、なかなかオープンしない。いつまでやられても経過している島国の人々の何かの意識があると。
それが壁となっていて、イエス様を自分の生活の隅々まで、ベッドの上まで、机の中まで、キッチンまで、電車の中まで、会社のデスクの上まで、
取引先知っているところまで、運転している車の中まで、考えの中まで、イエス様を迎えて、実は入れていないと。
だから、御言葉の力が、生理の力が、信仰の力が、個人の生活深いところで、夫婦生活の中で、家庭生活の中で、なかなか働きにくい。働きが起こらないと。
皆さんはどう思われますか。イエス・キリストを皆さんの全生活の中に迎え入れていらっしゃいますか。
ある程度、イエス様は、皆さんの人生の玄関先まで、イエス様はいいんですよ。でも、中はちょっと困りますね。線引きをしていないでしょうか。
決して、信仰と実生活は別ではない。それをいつまで別にしたら、代わりは起こらないんです。
しかし、イエス・キリストを、自分の生活の、個人生活の、家庭生活の、職場生活の、どこにあっても、迎え入れていただいて、
イエス様に関わってくださって、イエス様に相談して、イエス様に取り扱われて、時には砕かれて、時には励まされて、時にはイエス様にコーチしていただいて、歩まなければならない。
そうしないとですね、変わらないんです。人は変わらない。しかし、迎え入れて、時には叩かれて、時には砕かれて、時には立てられる時に、信仰の成長がもたらされる。変えられることなんです。
メッセージを終わりたいと思います。イエス様は、生ける神様であり、イエス様は、私たちの魂の救いだけではなく、体の癒しや回復にも、深く哀れみをもって、愛をもって、助けてくださるお方です。
33:19
どうぞ皆さん、迎え入れてください。皆さんも自分の人生、隅々まで迎え入れてください。大事なのは、我々の信仰がピリポとかアンデレテイトの信仰ではなく、神の心を喜ばせる、大いに喜ばせる、それができる信仰をもっていただきたいです。イエス・キリストは、今もなお生きて働いておられます。お祈りしましょう。
33:51

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