1. 名谷教会
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2023-05-07 43:03

2023/05/07:御国が来ますように


2023/05/07 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 6:9-10

創世記 12:1-4


00:01
みなさん、おはようございます。
それでは、ご一緒に、主の御言葉に聞いていきたいと思います。
一言、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
また、私たちを主の御前へと招いてくださって、
あなた御自身の御言葉から、今日も様々なことに語りかけられ、
また、そこから命を得ること、勇気を得ること、
そのような時を与えてくださっていることを、ありがとうございます。
神様、あなたは限りない愛を、私たちへと示し尽くしてくださいました。
その流された十字架の地臭によって、私たちの罪がもはや許されたものとされ、
それだけではなく、三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を今、私たちにも与えてくださり、
永遠なる主と共に生きる新たな歩みを与えてくださって、
私の恵みによった歩めと、あなた御自身が私たちに伴い、
その歩みを支えてくださる、その新たな生活を始めてくださったことを、ありがとうございます。
本当に多く祈ってくださいましたように、
私たちはなおも目が見えなくなること、耳が遠くなることがあります。
しかしそのような私たちを、主はあきらめずに、私たちと共に居続けてくださいます。
どうか主よ、あなたが語られる細き御声に、また耳を開くことができますように、私たちを開いてください。
主も部屋はここにおります。主をお語りくださいと、あなたの身元へと跪くことができますように、帰りに見てください。
ここに集いたい方々、集えない方々が多くいらっしゃいます。
神様がどうか、お一人一人を覚えてくださいますように。
また、今日はあいにくの天気で、この湿度の中で私たち自身の体の疲れもあります。
神様どうか、このひとときを守ってください。
心鎮めて、主を仰ぐことができるよう、私たちを帰りに見てください。
お願いいたします。
これからの時を、見てに及だにします。
どうか主が語ってください。
イエス様のお名前によって、お祈りをいたします。
アーメン
ある時、実家の写真を整理していた中で、一枚の写真を見つけました。
それは何かといいますと、2人で2ショット写真、2人が写っている写真なんですね。
男の子が2人、1人は私、1人は幼馴染の友人で、
2人とも幼稚園ぐらいの年齢の時です。
2人で2ショットでピースをしていて、その手には1枚の何か、剣を持っているんですね。
03:01
何かなと思って見ていたら、そこに持っていた切符に書かれていたのは、天国行きと書かれている切符です。
おそらく皆さんも作られた、もしくはその工作に関わったことがあるかもしれません。
CSの工作で、天国行きの切符を作りましょうというやつですよね。
それをおそらく私も幼稚園の時に、その先生に指導をいただいて、その切符を作って、
それを持ちながら、すごく笑顔で写っている写真が出てきたんですね。
ああ、いい写真だなと思って見ていたわけです。
前も言いましたが、私は教会に生まれた時からずっと行っている人間です。
よく思うのは、私は教会の方々に本当に愛していただいて育ったなと実感をしているんですね。
教会には、私にとっての教会のお父さんだったり、教会のお母さんだったり、教会のおじいちゃん、教会のおばあちゃんという方々がいて、
毎週教会で会う幼なじみは、私にとってはまるで兄弟のようでした。
まさに神の家族って、そういうところなんだなと思わされて。
教会は居心地がよくて、毎日曜日、私は夕方まで教会でだらだら遊んで過ごしていたことをとても覚えています。
今思えば、私は天国行きの切符というものの効果を既にいただいていたんじゃないかなと思うんです。
私にとっては、ある種当たり前のようだった教会に育まれていた日々というのは、あえて誇張した言い方になるかもしれませんが、
まるで天国のようであった、天国のようであった、そのように思うんです。
さて、そのような教会の温かい交わりに励まされて育ったからこそ、
同時に私は聖書の言葉に安心して疑問を持つことができました。
よく私が小さい頃から違和感を覚えていた一つのことは、今朝の主の祈りの言葉なんですね。
今日はご一緒にこの10節の言葉に注目をするのですが、まず最初にイエス様が教えられた祈りの言葉です。
御国が来ますようにとイエス様は教えてくださいました。
教会学校の先生から私はこういうふうに教えられていたんですね。
イエス様は私たちを愛し、私たちが地獄に行かないように、
私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた。
イエス様を信じるならみんな天国に行けるんですよと、そのように教えられました。
06:04
まさに天国行きの切符が与えられるんだ、そういうことを教えてくださったわけです。
でも教会学校のたびに祈る種の祈りは何かといいますと、御国が来ますようにと祈る。
私は小さい頃に思っていました。
イエス様を信じる目的が死んだ後に天国に行くことならば、
どうしてイエス様は御国に行けますようにと祈りを教えられなかったんだろうか。
何で御国が来ますようにと教えられたのだろうか。
ただその後、聖書の学びを深めていく中で、この御国が来ますようにというお祈りは、
本当に大切な祈りであるということが私自身を教えられていきました。
こういうふうに言えるのだと思うんです。
私たちがイエス様を信じ、神のことされた目的が天国に行くことだとするならば、
その回答はおそらく99点というところかなと思うんです。
決して間違ってはいないんです。
なお私たちの伝える福音のなおも大事な点ですし、
神は私たち一人一人を天の御国へと受け入れてくださるわけですね。
永遠の滅びから救われたという喜びが私たちの何よりもの原動力である。その通りなんです。
ただし、あえて申し上げますと、それは100点ではない。
なぜならイエス様は御国に行けますようにではなく、御国が来ますようにと祈りなさいと
私たちに教えられたからです。
今朝はこの言葉に注目をしていきたいのです。
御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように。
この祈りの言葉から、今朝また例に漏れすいますが、2つのことを確認をしたいと思うんです。
1つは、この種の祈りの言葉から、私たちが救われ神のことされた目的は一体何なのかということです。
私たちが救われ神のことされた目的は何なのか。
そしてもう1つ、そのような私たちが御心をこの地で行うとはどういうことなのか。
その2つのことに注目をさせていただきたいと思っています。
さて、この御国が来ますように、1つ目のポイントですが、御国が来ますようにというお祈りは、どのようなことを祈っているのでしょうか。
09:05
少しだけ言葉に注目をさせていただきますと、この御国という言葉がありますね。
御国というのは、これはちょっとだけ、毎回ギリシャ語の話をして申し訳ないのですが、これはバスレイヤーというギリシャ語なんですね。
それは国と聞くと、私たちはよくどこかの国、日本だとかアメリカだとか中国だとか、そういう国のことをイメージするのですが、
ギリシャ語のこのバスレイヤーという単語は、もう少し意味が広いのです。
それは国という意味も当然持っていますが、どちらかといえば支配という言葉です。
神様の御支配、神様が支配される領域という言葉が、意味としてあります。
ですから御国と言いますのは、まさに神様を王様とした神様の御支配、神様の支配される領域、
その神様の御支配が来ますようにですから、この世界に来ますように、この世界に実現しますようにというお祈りなんです。
それがより具体的に言うならば続く祈りの言葉になりますね。
御心が天で行われるように、地でも行われますようにということです。
神様の御支配がこの世界に来ますように、それは言い換えれば、まさに神様の御心がこの世界で行われていきますようにということなんですね。
イエス様はこのように祈るように教えられたわけです。
もしも私たちの救いの目的が天国に行くことだけにあるのであれば、言い方がとても悪いかもしれませんが、
この世界がどうなろうとキリスト社には関係ないと言えてしまうのかもしれません。
でもそうではないんですね。イエス様はそうは教えておられないんです。
御国が来ますようにと。
実はこの御国が来ますようにという祈りは、ちゃんとお話しをしようとすれば、
これは創世紀から黙示録に至るまでの聖書の本当に大きなスケールの話の中に位置づいているとても大事な祈りなんです。
ですから、そのことを皆さんにお伝えしたいと思っているのですが、
私が今朝ここで創世紀から黙示録までそのことを摂り上げて話すと膨大な時間になりますので、
そうではなくて、実は今朝ご一緒に一冊の絵本を通してそれを確認したいと思っているのです。
金野先生の時代にもしかしたら紹介されたかもしれませんが、
世界は新しくなるという絵本を皆さん読まれたことはあるでしょうか。
12:00
これは後で後ろにも置いておきます。
この絵本は何かと言いますと、要は創世紀から黙示録まで一貫した聖書の物語、
聖書の語ろうとしていることは何ですかということを、なと絵本で紹介してくれているという名著です。
なのでこれはまた後で読んでいただいたらと思いますが、一緒にちょっと読んでみたいと思うんです。
これを通して創世紀から黙示録をちょっと頭に浮かべながら聞いていただければと思いますが、
ありがとうございます。
じゃあちょっと読んでいきますね。
世界は新しくなる。
はじめに神様は天と地をつくりました。
天には太陽と月と輝く星々を。
地には草や木、魚や鳥、さまざまな動物たちを。
そして神様は最後に人間をつくって言いました。
どんどん増えて仲良く暮らせ、土地を耕し守りなさい。
魚や鳥、動物たちの世話をするのだ。
神様はそのすべてを見て言いました。
とてもよくできた。
ところが人間は神様の言うことを聞こうとはしませんでした。
神様のつくった良い世界をどんどん悪くしていきました。
それを見て神様は悲しくなりました。
人は悪いことをするようになった。
もうすべてを消してしまおう。
神様は大洪水を起こして悪いものをみんな滅ぼしてしまいました。
助かったのは神様に従って歩んでいたノアとその家族だけです。
洪水のあと神様はノアに言いました。
どんどん増えて仲良く暮らせ、魚や鳥、動物たちの世話をするのだ。
神様は世界をつくり直そうと思ったのです。
ノアの子供たちは増えて広がっていきます。
けれども人間は相変わらず悪い行いばかりをしています。
ついには思い上がって神様にまで届く高い塔をつくろうとした人々もいます。
そこで神様はアブラハムとその子孫であるイスラエルの人々を選びました。
あなたの子孫によって地上のすべての人々は祝福されるだろう。
今度はイスラエルの人々を通して世界を良くしようと考えたのです。
そのために神様はイスラエルの人々をエジプトからつくり出し、カナンの地へと導きました。
そして地上で正しく生きるにはどうしたらよいか一つ一つ丁寧に教えました。
15:02
もしイスラエルの人々が神様の言うことを聞いて、神様を愛し互いに愛し合い正しく生きていけば、
カナンの地は素晴らしいところになったでしょう。
周りの国の人々にも神様の教えがどんなに素晴らしいかわかったことでしょう。
ところがイスラエルの人々もまた神様の教えに従いませんでした。
偽の神様を拝み、貧しい者を助けず、正しい人を殺してしまう。
そこで神様はイスラエルの人々をカナンの地から追い出して、遠くバビロンに連れて行ってしまいました。
神様がよくとてもよくできたといった世界は悪くなるばかりなのでしょうか。
いいえ、神様は新しく約束をしてくれました。
将来イスラエルの子孫から特別の王様を使わず、その王様はこの世界を正しく治めてよいところとすると。
この王様は救い主メシアと呼ばれるようになります。
そのメシアがとうとう生まれました。イエス様です。
イエス様は病気の人を治し、お腹を空かせた人にはパンをあげました。
嵐を沈めて船に乗る弟子たちを助け、悪い霊を人々から追い出しました。
神様を愛し、互いに愛し合うように教えました。
イエス様をメシアと信じる弟子たちは少しずつ増えていきます。
神様の願ったよい世界が始まったのです。
ところが人々はイエス様を受け入れようとはしませんでした。
イエス様は捕まり十字架につけられて死んでしまいました。
そしてお墓に入れられました。
けれどもそれから三日目のこと、弟子たちがお墓に行ってみるとイエス様の体がありません。
そしてその日の夕方、イエス様は弟子たちの前に現れて十字架につけられたときの傷跡を見せました。
イエス様はよみがえったのです。
イエス様は弟子たちが見守る中、天に登っていきました。
そして神の右に座り、王様として全世界を導き始めました。
イエス様は救い主です。世界の王様です。
十字架にかかったのは私たちの罪を許すためだったのです。
弟子たちは世界中に伝え始めました。
神様を愛し互いに愛し合う人々が増え、あちこちに教会が生まれました。
18:06
神様の願った良い世界が広がっていきます。
イエス様はもう一度地上に来られます。
そして地上から悪いものを取り去り、世界を正しく治めます。
そのとき、世界は新しくなります。
神様が初めに願ったような、とてもよくできた世界となるのです。
ありがとうございます。
これが実はこの絵本の全体です。
世界は新しくなるという絵本でした。
いかがだったでしょうか。
聖書全体で把握するという機会は、なかなか意外とないかもしれないなと思います。
また置いていますので、自由に読んでいただけたらと思います。
この絵本を読んでいて、とてもわかるのは、
神様はこの世界を良いものとして創造されたわけです。
この世界の王様は最初から神様です。
しかし世界は人間の罪によって悪くなっていきます。
先ほど祈っていただいた通りです。
大地は呪われ、創られた人間は人間同士で争い、
高い塔を建て、神様のようにまでなろうとします。
まさに傲慢になるわけです。
神様はそのような世界を見て、悲しまれるわけですね。
しかし神様はそのような世界を見て、諦めてしまわれるのでしょうか。
陶騎士が自分で失敗した作品を割って捨ててしまうように、
この世界を捨ててしまわれるのでしょうか。
聖書が一番大事なのはここなんです。
決してそうじゃないということです。
神様はどんなに世界が悪化しようと、
そして私たち一人ひとりが罪にとらわれて悪くなり、
どんなに私たちが悪化し、自分で自分を諦めたくなったとしても、
神様はこの世界を、私たちを諦めないというのが聖書のメッセージなんです。
神は決して諦めない。
このゴールデンウィークにしおやせいかいがありました。
祈っていただきました。
テーマセイクはイザヤ書の9章の7節でしたね。
まさに万軍の主の熱心がこれを成し遂げるというお言葉でした。
この熱心さというのは、先生のメッセージにもありましたが、
それは神様がこの世界を、私たちをなおも諦めないという熱心さなんです。
イザヤ書9章に書いてあるのは、その熱心さのゆえに、
神様は愛する一人号であるイエス様をこの世界に使わし、
この世界に平和をもたらすという、それがイザヤ書9章に書いてあることです。
ただし、この世界を良くしようとする神様の働きは、
21:04
イエス様から始まったのかといったら、そうではないわけです。
先ほど見ました。
今日、もう一箇所読んでいただいた聖書の箇所がそこに関わるんです。
ご一緒に、創世紀の12章の1節から4節というところをちょっとお読みしましょう。
創世紀の12章の1節から4節。
主はアブラムに言われた。
あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。
そうすれば私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
私はあなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪うものを呪う。
地のすべての部族はあなたによって祝福される。
アブラムは主が告げられた通りに出て行った。
ロトも彼と一緒であった。
ハランを出たとき、アブラムは75歳であった。
有名な言葉ですが、しかしこれは聖書の全体像の中でいうと、とても大事な箇所です。
それは何かと言いますと、神様はこの世界を諦めずに、神様はこの世界を救い出そうとされる。
その始まりのためにアブラムを召し出すわけです。
ここで書いてあるのは3節にこう書いてありますね。
地のすべての部族はあなたによって祝福されるということです。
神様はアブラムを祝福されるわけですが、その祝福はアブラム自身が豊かになることを目的とはしていないんです。
神様はアブラムを通してこの世界を祝福されたいんですね。
神様に反逆し、痛んで破れてしまっているこの世界を祝福されたい。
この世界を癒やしたいと願われる。
これはまさにアブラムだけの話ではないわけです。
アブラムの子孫、例えばアブラムを通していろいろな人が祝福されますが、
例えばイスラエル、ヤコブを通してラバンの一家は祝福されますね。
そしてエジプトに囚われたヨセフはヨセフを通してエジプトという国が祝福されていきますね。
そしてイスラエルの民を通して、神様がエジプトから導き出したイスラエルの民を通して世界が祝福される。
ちょっとパラパラ開いて申し訳ないんですが、これも大事な箇所です。
出エジプト記の19章というところもちょっとお開きします。
出エジプト記の19章、ゆっくりお読みするので聞いていただいても結構ですが、大事な箇所です。
24:07
出エジプト記の19章、3節から6節というところをちょっとお読みします。
神様がイスラエルの民をエジプトから導き出した後に言われた言葉です。
お読みしますと、
モーセが神の身元に登って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。
あなたは高ヤコブの家に居、イスラエルの子らに告げよ。
あなた方は私がエジプトにしたこと、またあなた方をわしの翼に乗せて、
私のもとに連れてきたことを見た。
今もしあなた方が確かに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、
あなた方はあらゆる民族の中にあって私の宝となる。
全世界は私のものだからである。
あなた方は私にとって最始の王国、聖なる国民となる。
これがイスラエルの子らにあなたが語るべき言葉であると。
神様が語られています。
ここで注目をしたいのは、六説にあなた方は私にとって最始の王国となると言われているわけです。
最始というのは何かと言いますと、
それはこの世界と神様の間に立つ者たちなんですね。
取り成す者です。
聖なる民というのはもうちょっと先週の話と重なってきますが、
あなた方はこの世界と神様の間に立ってまさにアグラムのように、
あなた方が祝福されることを通してこの世界が祝福されていくように、
あなた方が神の祝福を流していくように、
そのような国民になるんだよということを神様はここで語っておられるわけです。
このことに関して詳しく見たい方の絶賛、
鎌野直人先生が書かれた「聖書66巻を貫く一つの物語。神の壮大な計画」という命の言葉書から出ています。
これはまさにこういうことがしっかり書いてある本ですので、
よければお読みになっていただけたらと思います。
ここまで見てわかるのは、神様はこの世界に生きる一人一人を諦めず、
この世界を癒したいと願われる。
そしてアブラムを通してこの世界を祝福したいと願われたように、
神様の万分の主の熱心というのは、人と共に働くんですね。
さて、主の祈りに戻りましょう。
そうなってきますと、実はここで御国が来ますようにという祈りの意味が何となく見えてくるところがあります。
27:03
この祈りはイエス様から始まったものではないんですね。
そうではなくて、それは世界が堕落して以来続いている神の熱情、
神様の熱心さに沿って祈られている祈りだということです。
そしてアブラムを通してこの世界を祝福されようとした神様は、
実は私たちを通してもこの世界を祝福されようとされる。
これが実は先ほど少し申し上げましたが、
私たちが救われた目的なんですね。
私たちが救われた目的は何でしょうか。
天国に行くため、確かにその通りです。
しかしそれと共に私たちが救われたのは、
この世界を諦めない、この世界で苦しむ罪人である一人一人を諦めない、
神様の熱心さと共に働くため、
この世界にまさに神様の御支配が築かれていくためです。
これはまさに先週見たように、
神様は聖であるから聖であれという内容ともつながってくるんですね。
これもまたどこかで話しますが、
こんなにこの世界を諦めず、目の前の人々を諦めず、
なおも熱情を燃やす神様というのは、
実はこの世界のどこにもいない。他にはいないわけです。
御国が来ますように、それは神様が御国を到来させてくださるように、
目白くの神天神地の到来のことも言えるかもしれません。
でもそれだけではありません。それは御国が来ますように、
神様が私たちを通してこの世界を祝福し、
この世界に神の国、神様の恵み深い御支配が実現しますように、
実はそのようなお祈りだということです。
さて、そのようなことのために救われた私たちは、
次に神の子として生きていく。
御心が天で行われるように、地でも行われるということはどういうことなのか、
そのことに触れてメッセージを終えたいと思います。
私たちはどのように神の国を築くのでしょうか。
御心が天でなるように、地でも行われるようにと祈るわけですが、
それはどのようなことを祈っているのでしょうか。
そのことを考える上で、一つ重要なことは何かと言いますと、
私たちは既に神様の御支配の中に生きているということなんです。
これは大事なことなんです。
私たちは既に神様の御支配の中に生きているということです。
30:01
御国が来ますようにと祈る私たちは既に御国の中にいるということです。
先ほど賛美しました御国の心地です。
まさにその通りですよね。御国の心地です。
じゃあその御国とは、神様の御支配とはどういうものなのでしょうか。
一つイメージしやすく書かれているのは、
このマタイの6章のこの後の部分ですね。
マタイの6章の25節から34節というところに、
神様の御支配ってこういうことなんだよということが書いてある箇所があります。
ちょっと長い箇所ですが、皆さん知っていらっしゃるかとも思うので、
少しさらっとお読みをさせていただきますが、
マタイの6章の25節からこういうことが書いてあります。
ですから私はあなた方に言います。
何を食べようか、何を飲もうかと自分の命のことで心配したり、
何を着ようかと自分の体のことで心配したりするのはやめなさい。
命は食べ物以上のもの、体は着るもの以上のものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種まきもせず、借り入れもせず、
蔵に収めることもしません。
それでもあなた方の天の父は養っていてくださいます。
あなた方はその鳥よりもずっと価値があるではありませんか。
あなた方のうちの誰が心配したからといって、
少しでも自分の命を延ばすことができるでしょうか。
なぜ着るもののことで心配するのですか。
野の花がどうして育つのかよく考えなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
しかし私はあなた方に言います。
映画を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、
神はこのように装ってくださるのなら、
あなた方にはもっとよくしてくださらないでしょうか。
信仰の薄い人たちは。
ですから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって、
心配しなくてよいのです。
これらのものはすべて、違法人が切に求めているものです。
あなた方にこれらのものすべてが必要であることは、
あなた方の天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすればこれらのものはすべてそれに加えて与えられます。
ですから明日のことまで心配しなくてよいのです。
明日のことは明日が心配します。苦労はその日に十分あります。
長い歌詞を読ませていただきましたが、
この歌詞に表されている神様のお姿というのは、
読んでいただいてわかるかもしれませんが、実に恵み深いですね。
33:00
ある先生から私も教わった言葉ですが、
神の御支配というのは恵みの御支配であると、
耳がタコになるくらい教えられたことがあります。
恵みの御支配である。
空の鳥を見なさい。種まきも刈り入れもせず、
蔵にも収められない。いわば何の生産性もない。
何も生み出すことのできない。
この世界では一番役立たずと言われる存在かもしれない。
でも神様はその鳥を役立たずとは決して言わない。
そこに気をとめ、食べ物を養われる神である。
野の花を見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかしそのような花ですら神はよそってくれる。
そしてあなた方にはもっとよくしてくださらないでしょうかと言われる。
イエス様は神様の恵みの御支配とはこういうものなんだよということを言っておられ、
そしてそこにだから入ってきなさいと招かれるわけです。
恵み深い神というのはこのような恵みの御支配によってあなたを生かす神なのだと
そのようにイエス様は招かれる。
とても興味深いのはイエス様はそのように招かれるだけではなく、
まさに御国が来ますように御心が天でなるごとく地でもなりますようにという
祈りを生きたお方なんですね。そうではないでしょうか。
イエス様はそのような神様に信頼をしながら
神様の恵みを周囲に示しました。
この歌詞は参上の説教ですからまさにきっとイエス様の前には
様々な人がいたわけです。
羊飼いを亡くした羊のような迷える多くの群衆がいたわけです。
そのほとんどの人々が貧しい生活を強いられている人々ですし、
病に苦しむ人々、まさに人生に時に襲いかかる
理不尽な苦難に苦しむ人々でした。
その苦しみを目の前にしてイエス様は
その人々を無視されはしませんでしたね。
苦しみにかかわり、パンと魚を食べさせ病を癒し悪霊を追い出し、
多くの義人ではなく罪人と共に食事をしました。
まさにイエス様は一人一人の命を養い、
一人一人の命を美しく装い、
神様の恵みというものをこの世界に表し続けたわけです。
イエス様の心にはきっと主の祈りがあったわけです。
御国が来ますように、御心が天でなるごとく地でもなりますように、
この人々の上に神様の恵みがあるように、
神様の恵みがあふれるようにとそのように活動された。
このような意味へと実は私たちも招かれているというのが
36:02
主の祈りの今朝の言葉なのです。
御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように、
神の恵みのご支配をこの世界であなたたちも表しなさいと。
ただ、そう聞きますとですね、
いかにも大行なことを私たちは取り組まなければならないように聞こえるわけです。
ああ、なんかイエス様のように生きるということ。
でも私自身は、神の国をこの世界で築くということは、
そんなに大行に構える必要がないと私は思っています。
それは、今私たちがしていることに何か新しく始めなさいということを
言われているわけではないと思うんですね。
そうではない。
むしろ、今私たちがしていることのうちに、
神様の恵みと愛が表されるように丁寧に生きていくということ、
実はそのように私たちは招かれているのではないかと思うのです。
私たちが神の国を築くというのは、
何か新しい場所に築いていくわけではないんです。
それは、私たちがここから帰って家の扉を開けた先が、
神の国が築かれる場所と言えると思うんですね。
私たちが仕事に赴いて作業を始めるその場所が、
私たちが仕事を始めるために座ったそのデスクの場所が、
実はそこが神の国が築かれる場所になっていくということだと思うんですね。
当然私たちには限界があります。
ただ忘れてはならないのは、私たちには神の恵みがあるということです。
置かれた場所で神の国が築かれるために、
恵みを求め、まさに死よと仰ぎながら、
その場で私のすることに神様の恵みが、神様の愛が表されますように、
そう願い生きることが、身国が築かれるということなのです。
先週、牧師認食式を足立博先生に来てしていただきました。
先生に御言葉から語っていただきました。
余談ですが、私からすれば、実は母教会の牧師先生なんです。
私が小学3年生のときから先生は教会に来て、
私が研修するまでずっと教会の牧師をしてくださっていましたから、
私にとっては本当に私を養ってくれた先生ですね。
その先生のメッセージを聞きながら、改めて私なんかは、
こういうことを教えられながら自分は育ったなということに、
確認みたいな思いがいたしました。
その中で一つ改めて、私自身大事だなと思わされたことがありました。
それは牧師の働きというのは、一人一人を自立した信仰者、
39:03
イエス様につながる信仰者に育てなければならないということでした。
表現が先生らしいなと思いましたけど、牧師は子がいを作ってはいけない。
私のファンを作ってはいけない。
牧師の仕事というのは、先生は頼りないかもしれないけど、
イエス様に私は聞きますと言える人たちを作らなければならない。
牧師につながる信徒を育てるのではなくて、生きておられる主イエス様を仰ぎ、
そこで決断し、主の御心に従う、そういう人たちをあなたは育てなければならない。
思えば私自身もそのように育てられたなと思うんです。
私が何か先生に相談しに行くと、先生に言われたことはこうでした。
それでミックン、イエス様はあなたに何と言っているの?
それでミックン、イエス様はあなたに何と言っているの?
牧師に聞くよりも先にイエス様にあなたは聞きましたか?
そのことを私自身が信徒時代にすごく問われ続けて、言われ続けたことです。
それはその通りだなと思わされています。
そのことを訓練されていたことを思い出しましたし、
しかしまさにそれは何かと言いますと、
教会が牧師先生中心じゃなくて、イエス様中心になっていくということですよ。
イエス様が主徳として立ち、イエス様に聞きながら私たちが生きていくものになっていくということですよ。
そういう教会に、これは偶然かどうか分かりませんが、私は天国を見ました。
本当に心地がいい。神の愛にどうにか取り組もうとして戦っている一人一人がいる。
私たちがこの世界を生きているというのは、あえてちょっと過激な表現になるかもしれませんが、
天国に入るまでの余暇の日々を過ごしているのではありません。
御国が来ますように、御心が天で行われるように、死でも行われますように。
それは一人一人がイエス様につながり、
それぞれの場所で神様がそれぞれに持っておられる使命を生きるということです。
それが福音の本会です。
そして福音とは言葉や知識の理解ではないんです。福音とは生きていくことなんです。
イエス様の恵みと愛を生きていくということなんです。
私たちは多くのことはできません。だから私は焦点を絞っていいのだと思うんですね。
使命という言葉を私はさっき使いましたが、
使命というのは命を使うという言葉です。
神様にいただいた永遠の命は誰かに使うための命なんです。
永遠なる神に結ばれた命は使えば使うほど輝き始めます。
私たちが今朝問われるのは、あなたはあなたに与えられたその永遠の命を誰のために使いますか。
42:10
そんな問いかけが私たちはあると思うのです。
そのために私たちは救われたということです。
私たちは祈ります。
御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように。
どうか神様、神の国を私が置かれている場所で築かせてください。
あなたの愛と恵みが私の家族に、私の職場に、私が触れる人に流れますようにと。
死を仰ぎながら、その小さな一歩一歩を、でも確実な一歩一歩を、
私たちは共に築いていきたいということです。
何度も言います。
そのために私たちは救われました。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
43:03

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