神様の恵みと愛
一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今朝も私たち一人一人を、あなたがその名を呼んでくださり、
あなたご自身の御前へと招いてくださいました。
あなたがこの場所で、お一人一人に語りかけ、
私の命によって生きなさいと励ますためです。
主よ、どうかこの礼拝のうちに、あなたが御臨在くださって、
一人一人に命の言葉を語りかけてくださいますように、
お願いをいたします。
私たちはあなたの愛を知っていますし、
またより深く知りたいと願っています。
あなたがあの十字架によって流してくださった巫女の父をにより、
私たちの罪をもはや完全に許してくださり、
神のことし、それだけではなく三日目に甦えられた命、
永遠の復活の命を与えてくださり、
永遠なる死と共に、死までや死を超えて、
あなたと共に生き続けるその新たな命を、
私たちに与えてくださったことを感謝をいたします。
神様、私たちは様々なことに日々心を奪われ、
また揺さぶられ続けております。
しかしよ、あなたは決して私たちを放すことがなく、
その手によって握り、あなたご自身の最善を
そのうちに成し続けてくださっていることを覚えます。
どうかしよ、今朝、今一度この時に、
あなたを仰ぐ勇気を与えてください。
あなたへの信頼を与えてください。
お願いをいたします。
ここに来たくても来れない方々、
家族におられる方、また、
ご自宅で礼拝を守っておられる方もいらっしゃいます。
お一人一人の、どうかその礼拝のうちに、
主がご臨在くださり、
あなたの恵みを表してくださいますように、
お願いをいたします。
また祈られたように、
今本当に世界が恐怖に囚われています。
度重なる戦争、どうかしよ、
犠牲者の上にあなたの知恵を与えてくださいますように、
本当に私たちは今の現実を見ながら、
恐れを仰られるような思いにありますけれども、
その中で主を仰ぎ、この現実を見つめ、
そのために祈るものとならしてくださいますように、
お願いをいたします。
主が働いてください。
平和を与え、どうか無意味に奪われる命が少ないように、
神様世界をあなたが憐れんでください。
お願いをいたします。
これからの一時を見てに委ねます。
御言葉を主が語ってください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
人生の中で、これが神様の温かさなんだなと、
経験したことが一回あります。
その一つはですね、私が東北にいたときです。
冬場、一日恐怖の行事があってですね、
疲れ切って、私はその日運転してたんですけれども、
ちょっと気が緩んでしまって、赤信号なんですけれども、
車を止め切れることができずに、前の車にガンとぶつかっちゃったんですね。
衝突事故を起こしてしまいました。
すぐ横に避けてすいませんと謝ったんですけれども、
出てきたのは若いお兄さんたちで、とにかくすごく怒鳴られました。
警察が来て現場検証をするときもすごく怒鳴られてですね、
私は初めての事故だったということもあって、
目の前が真っ白になって、ちょっと気を失いかけたんですね。
もう警察の人に、今日あなたは運転して帰っちゃダメだって言われて、
近くの先生に迎えに来てもらって、一泊教会に泊めてもらってから、
自分の家に帰ったということがありました。
ただ時が冬場でしたし、初めての事故ということもありまして、
私はすごく心が弱ってしまいました。
もうちょっと教会から外に出れなくなってしまったんですね。
そのときに、その状況を聞きつけてか、
学生時代からお世話になっている牧師先生がいるんですよ、
日本Sじゃないんですけれども、
その先生が私のところに電話をかけてきてくれたんですね。
私加藤光といって、あだ名ミッチーと呼ばれているんですけれども、
ミッチー大丈夫かと。
今度俺東北に行く用事あるから出てこれるかってことを言ってくださったんです。
そんな突然東北への予定が入るわけもないので、
わざわざ会いに来てくださるんだなと思って聞いていて、
ただ私も余裕がなかったので、ぜひお願いしますと言って来ていただきました。
電車でその先生に会いに行くと、
なんとその先生は私のためにホテルを一泊とっていてくださってですね、
ご飯をご馳走してくださって、私の話をゆっくり聞いてくれて、
ご自身が事故をした時の経験をたくさん話してくれたんですね。
俺こんなこともあったで、こんなこともあったでって。
その中で言ってくれました。
ミッチー大丈夫やでと。
我らは人間やから失敗するけれども、
神様はそういう我らを愛してくださっているからな、
大丈夫やでということを言い続けてくださったんですね。
別れ際に先生に対して私は、
すみません私なんかのために東北なんかまで来てくださって、
すみませんでした、ありがとうございましたと告げたら、
こう言ってくださったんですね。
何言っているんやミッチー、
俺らは仲間やないか、仲間を助けるのは当然のことなんやってことを言って、
新幹線で帰っていかれたんです。
おそらく私が人生の中で聞いた一番温かい言葉だなと思います。
涙が止まらなくなりました。
その時にこう思いました。
神様の愛ってこういうことなんだなということです。
温かいものなんだなと。
そしてこの温かさをこのように受け取った私は、
きっと人生の中でどこかで本当に同じように苦しんでいる誰かがいたら、
この温かさを次にその人に届けなきゃいけないんだなということを強く思わされました。
改めて聖書を読みながらつくづく思わされるのは、
聖書が言いたいことというのは、先日見ればおそらくそういうことなんだろうなと思うんです。
あなたはどこかで神様の愛を経験したでしょうと。
それはどこかで聖書を通して、もしくは誰かの言葉を通して、
神様の愛を経験したでしょう。
神様の温かさを経験したでしょう。
そうであれば、その愛をあなたは今度誰かに流しなさい。
その愛をもってあなたは互いに愛し合いなさい。
聖書が言いたいことって端的に言えばそういうことだと思うのです。
今朝新明記の22章を読んでいただきました。
22章の1節から4節を読んでいただきましたが、
ちょっと順に見てきていますけれども、
この22章というのは新明記でいうならば、
12章から26章の最後までが実は細かい置き手と定めについて書かれてある箇所なんです。
それこそ立法のテーマが本当に重たいものから軽いものまでたくさんいろいろ書いてあるわけですけれども、
私たちはよくこの旧約聖書の定めや置き手というものを見るときに、
イメージですけれども、どこかで冷たいものであったり難しいもの、
堅苦しいものと思ってしまうことがあるかもしれませんが、
そしてまただからこそ新約聖書のイエス様は優しくて、
旧約聖書の神様は何かおごそかで厳しいお方だというイメージを持ちやすいかもしれませんけれども、
けれどもそういう理解はおそらくどこか間違っているんですね。そうではない。
何が間違っているかといえば、それはイエス様は優しいことは間違いないんですけれども、
旧約聖書の神様もまた愛の神、恵みの神、変わらない神であるということです。
そしてこの新明記で順に見てきています立法というものも
難しく見えるかもしれませんが、それは冷たく私たちを縛り付けるためのものではないわけです。
読んでみればわかる通り意外と温かいものだということ。
この内容を見ていく前にそもそも論を少しだけ確認をして前に進みたいと思いますが、
そもそもなぜイスラエルの民というのは立法、まさに掟と定めを守らなければならないのでしょうか。
少しだけ確認をしたい箇所があるのですが、
出エジプト記の20章の1節から3節というところをちょっと読みたいと思います。
出エジプト記の20章の1節から3節です。
お聞きになられたこともあるかもしれませんが、これは立法を考える上で本当に大事なところです。
お読みいたしますと、
出エジプト記の20章の1節から3節。
それから神は次の全ての言葉を告げられた。
私はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神主である。
あなたには私以外に他の神があってはならない。
この実会が始まってまいります。
ここで大事になるのは何かといいますと、
実会というのは3節から始まっているのではないということです。
まずこの実会の起き手の前に神様が前提とされたのは、
私はあなた方をエジプトから、あの奴隷から導き出した神だよねということを確認するわけです。
その神があなた方に語っているんですよ。
実はこれは神明記にも形を変えてこういうパターンは出てきます。
起き手を守りなさいという前に、
私はエジプトからあなた方を導き出した神だということを神様がくどいぐらい確認されるんです。
それはなぜかといいますと、この2つは離れていないんです。
つながっているんです。
あなた方は私がエジプトの軍勢に対して、また食べ物のないあれのにおいて、
あなた方に行った偉大な種の御業をあなたたちは見ている。
だから起き手を守りなさい。
どういうつながりか、つまりそれは、
神様はイスラエルの民のために出エジプトという恵み深い御業をなしてくださったんです。
恵みなんです。奴隷である彼らが一方的に救われた。
あなた方はその時に神様の恵みを経験したでしょうということなんです。
神の恵みを経験しただろうと。
その恵みの温かさ、神がどれほど私たちに辛抱強く、そして恵み豊かに関わられたか知っているだろうと。
だからあなた方は今度、その恵みを隣人との生活の中で表していきなさい。
実はそれが立法なんです。これ大切なところです。
立法というのは確かに難しいものから簡単なものまであります。
正義立法、道徳立法、いろいろあります。
立法の大体書いてあることは、神様に対して民はどう振る舞うべきか、
そして隣人との関係、人と人が共に生きるとはどういうことなのかということを語りますけれども、
しかし大事なことは、それがつながっているということです。
あなた方、神にまず恵み豊かに臨まれただろうと。
だからそれを流しなさいと言われる。
神に愛され、神様の愛を体験した人は、隣人愛とは何かを知るんです。
そして隣人愛の限界を知るときに私たちは、
いつも神様の愛の広さ、長さ、高さ、深さをそのときに学然と教えられる。
つながっているんです。2つはつながっている。
イスラエルの民というのは、そのような神様から40年以上も恵みの温かさというものを感じてきた民でした。
立法の目的
毎日忘れず、下される日々のマナーがありました。
昼は雲の柱、夜は火の柱となって民は導き続けられてきました。
数限りない戦争がありました。しかしその先陣に立って民に勝利をもたらしたのは万軍の主でした。
神様の業です。そしてその恵みを日々経験し続けてきました。
そして人間とは神様の前にどういう存在であるか。
レビビトが執り行うあの清めの儀式を通して、神様というのは清くて侮られるお方ではなくて、
そして人間というのはそもそも神様の前に跪いて生きていくものなんだということを日がな日がな教えられていった。
そのような40年間だった。それは堅苦しいでしょうか。
イスラエルの民はそう感じたかもしれません。
けれども神様はそうは思っておられなかったんです。
神様は通常の他の国々の神々では考えられないほど破格なほどに、
イスラエルの民を生かすためにご自身を投げ出されていかれた神様なんです。
そのようなことを彼らは体験をしていた。
だから神様は期待をされたんです。
これほどあなたは私を経験しただろう、私を知っただろうと。
だからあなたたちもまた聞けイスラエルよ、主は私たちの神、主は唯一である。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさいと招かれた。
神様が作りたかったのは、愛を受け取って私を愛するというその関係を築きたかったわけですね。
神様の愛の表現
聖なる神様というのは、この世界のどのような神様よりも、実は愛情深いんですね。
旧約聖書を読んでいるとなかなか気づけないことがありますが、しかし旧約聖書もはっきりとそう語ります。
そしてその神様の愛を知っているから、神様を愛し、隣人を愛しなさい、
すべてはつながっているということをまず確認をしておきたいと思うんです。
さて少しだけこの立法の中身に入っていきたいと思いますが、
実は神様の愛というのは、神は聖なるお方であるという話もよくしますけれども、
聖であるというのは、他の神々とは異なっているということを意味します。
神様の愛情というのは、この世界のルールからするならば実にユニークなんですね。
立法を見ていくとそのユニークさがよくわかります。
ちょっとだけいくつか箇所を見たいんですけれども、
例えば新明記の20章というところ。
新明記の20章の1節から9節というところに書かれてあるのは、実はこれは戦争の兵役についてです。
通常、戦争というものが始まりますと、国は人員を集めたがります。
頭数がどれほど多いかがその国の戦力だからです。
そのように無理をしてでも兵役につきなさいというのが、
普通の国で考えられるルールかと思いますけれども、
イスラエルは実はとても特殊なんです。
兵役に招かれるんですが、しかし兵役免除者がいました。
例えば20章の5節から読んでみますと、
司たちは民に語りかけて言いなさい。
新しい家を建ててまだそれを封建していない者はいないか。
その人は家に帰るがよい。
戦死して他の人がそれを封建するといけないから。
ぶどう畑を作ってまだその初物を味わっていない者はいないか。
その人は家に帰るがよい。
戦死して他の者が初物を味わうといけないから。
女と婚約してまだ結婚していない者はいないか。
その人は家に帰るがよい。
戦死して他の人が彼女と結婚するといけないから。
司たちはさらに民に語りかけて言わなければならない。
恐れて弱気になっている者はいないか。
その人は自分の家に帰るがよい。
兄弟たちの心がその人の心のようになえるといけないから。
司たちが民に語り終えたなら
軍の長たちが民の指揮をとりなさい。
ここまでにいたしますが。
とても興味深いんです。
戦争の兵役の免除者。
読みましたが新しい家を建ててまだ住んでいない人。
ぶどうを収穫してまだ初物を食べていない人。
婚約してまだ結婚していない人。
そういう人は戦争に行かなくていいって言うんです。
とてもホワイトな国に見えます。
そして極めつけは
恐れて弱気になっているなら行かなくていいです。
戦いに行くのが怖いならもう行かなくていい。
そう神様は民に告げるんですよ。
そうなら誰も戦争に行きたくないですよ。
なんでこんなことをイスラエルの民に神様は言えるのか。
先ほども言いました通常戦争には人がいります。
だから嫌がる人もかき集めるんです。兵力を増すんです。
馬がどれほどあってそれをどれほど狩れる人がいるかがその当時の軍力です。
けれども神様が王であるイスラエルという民族は
戦争の前提が違うんです。ルールが違うんです。
それは何か他の国では人数が多い軍力、人こそが力なんです。
でもイスラエルの民の力は神様ご自身なんです。
万軍の主が戦われるんです。
全然違うんですね。万軍の主ご自身が戦われる。
むしろイスラエルの戦いというのは
史識の偽伝を見てもらったら思い出しますけれども
だんだんだんだん兵士が少なくなっていくんです。
少ない兵士で戦うんです、あえて。
でもそれは何か自分たちが勝ったとは言わない
神がそこで戦われたということが明らかにされるためでしたね。
そしてそれは兵力が必要ではないからです。
イスラエルの戦いというのは前提が違います。
それは勢力や戦力というのは全て主が持っておられる。
必要なことはその万軍の主が先んじて戦われる。
その万軍の主が私と共にいてここで戦っておられるということを
信じて恐れずに一歩踏み出す民を神様が求められる。
ここで戦っているのは私じゃない。
万軍の主がそこで戦っている。
だから神様が戦争に必要とされるのは主を信頼する民なんです。
戦いのルールがイスラエルの民は違う。
そして神様が戦い、勝利をされ、神様をあがめ賛美する民こそ
必要とされると言われる。
ある意味でこれは勇気がいることなんです。
人間にはいろんな人がいます。
信仰が強い人もいれば
信仰が強いと自分では言えない人もいるかもしれません。
神様はちゃんと理解されるんですよ。
ちゃんと理解をされる。
でも忘れてはならないことは
イスラエルの戦いというのは他の諸国とルールが違うということです。
神様の恵みと命の共有
これは私たちにも同様のことが言えるんです。
苦難や混乱の前に私がどれほどの力があって
そこで戦えるかが実は問題にはされていないんです。
主が先んじてそこで戦っておられる。
必要なのは力ではなくて
むしろ神様の力に私はより頼まざるを得ないと
告白するだけの弱さかもしれません。
北海道にいるときに小菅強史先生に
エッセンシャルウィークネスという言葉を
耳にタコができるくらい教えられました。
でもそうです。
本質的に私たちは弱さを持っている。
それでいいんですよ。
でもそれがあるから最終的に主を
あなたが立っておられるんですねというところに
私たちは互いに立つことができる。
最終的に主により頼むことこそが
私たちの本当の力、神の力の表されるところなのではないでしょうか。
それはおそらくイスラエルの民の戦いであり
私たちの戦いなんです。
おもしろいですね。立法はそういうことを語る。
そしてもう一つ見ておきましょう。
新明紀の24章の19節から22節というところ。
新明紀の24章の19節から22節
こういうことが書かれています。
お読みします。
新明紀24章の19節から。
あなたが畑で穀物の刈り入れをして
束の一つを畑に置き忘れたときは
それを取りに戻ってはならない。
それは起留者や小児やもめのものとしなければならない。
あなたの神主があなたの全ての手の技を
祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは
後になってまた枝を打ってはならない。
それは起留者や小児やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは
後になってまたそれを摘み取ってはならない。
それは起留者や小児やもめのものとしなければならない。
あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったことを
覚えていなければならない。
それゆえ私はあなたにこのことをせよと命じると言います。
畑に置き忘れた穀物の束を取り替えるな。
なぜならそれは起留者小児やもめが
それによって命を支えられるからという教えです。
実際にこれで命が支えられたのが
ルツキのナオミとルツでしたよね。
それだけではなくて
やもめや起留者や小児のために
まさに社会的に弱っている人たちのために
残して収穫をしなさいということなんです。
残して収穫をしなさい。
これは収穫主にとっては損なんです。
それはそうです。
けれども貧しい人を生かすために
あなた方は喜んで損をすべきであると語るわけです。
その理由は二つほどあります。
一つは主が全てのあなたの手の技を祝福してくださるからです。
それは何かと
究極的にこのことが語るのは
あなたを生かすのは
あなたが働いて得る収穫の果実ではないと言っているんです。
あなたを生かすのは
あなたが働いて得る収穫の果実ではない。
あなたを生かしてきた
あなたを生かすものは
究極的には主の祝福であると語るんです。
主の祝福があなたを生かす。
それをイスラエルのために
40年間経験してきました。
主があなたを忘れずに
毎日毎日日々マナーを絶やさなかっただろうと
あなた方がどこかから得なかった食べ物によって
あなたたちは40年間生きてきただろうと
でもそれは神の恵みだったんです。
忘れられない祝福だったんですね。
だから神があなたにふらしてくださる
あなたが神の恵みによって生かされるのだから
あなたは自分の収穫を
執着なく分かち合いなさいということです。
そしてもう一つは
あなた方は奴隷という経験をした民だから
分かち合いなさいということを言われています。
食事がないという苦しみは
経験した人間しか分かりません。
でもそれはそのような痛みを
あなた方は知っているだろうと
苦しみや痛みを知る人しか
同じ痛みを抱える人に優しくなることってできないんです。
でも痛みを経験したってことは
ある種多摩者でもあるんです。
これはちょっと難しい言い方ですが
でもそれを通してでなければ
その人の痛みを分かれる人にはなれないんですね。
だからこそそのあなた方の痛みの経験を
親切心や憐れみの心に表しなさいと言われる。
イスラエルの民は生存に関しても
他の諸国とルールが違うんです。
自分の命を支えているのは自分ではない。
究極的には命は神が握っておられるんです。
ルールが違う。
神様が毎日マナーを振らせてくださいました。
そのことを通して神様が民に教えたかったのは
あなたの命は私が支えているということです。
私が支えているのだ。
その事実です。
そしてあなたを支える恵みは
日々忘れられることなく
そして日ごとに十分であるということを
マナーを通して神様は民に教えられたんですね。
神様の恵みが私たちを支えていると知るときに
私たちは今生かされているという事実を
とことんまず喜ぶべきですよ。
本当に今生かされていることは素晴らしいことです。
そして神様の恵みが命を支えているならば
この私の命や人生を守るために
誰かから奪うのではなくて
賜物として与えられた命を
いつまで続くかわからないけれども
日常的なルールと共に生きる
この命を誰かと共に喜び合うために使いなさい。
呼ぶ気なんか見たらそのことがよくわかります。
でもそういうことですよね。
そしてその姿はまさに
私という存在を分け与えて
民に関わられた
あのイスラエルの神様に似ていくという意味なんですよ。
恵みを知り分け与えていくというのは
それはまさに神に似た生き方になる。
神様ってどういう方か。
気前がよくて恵み深いんです。
そしてその他は全て立法は使い切れませんけれども
実に面白いですね。立法をじっくり読んでみることは
私は大事だなと思います。
立法の記事というのは全てが
わかりやすいとも言いませんが
けれどもそこには神様のお心が隠されているわけです。
それは無慈悲でも
私たちに対して冷たい神でもない。
先ほども言いましたが立法というのは
出エジプトという神様の恵みを経験した民が
その恵みを表して生きるためのルールです。
それは神と人が共に生き
人と人が共に生きるための神の知恵であり言葉です。
だから私たちは離れられないんですよ。
神の愛の温かさの息遣いを知った民は
その温かさを表して生きなさい。
温かいある種、熱のある交わりを築きなさい。
そう進められるわけです。
さて、今朝読んでいただいた
22章の1節から4節も見ていきたいと思います。
これは実に日常的な光景なのです。
牛や羊が迷い出てしまった。
そしてそれを見て
あの牛や羊はあの人の家のものだなと見てわかった。
ならばそれを放っておいてはいけない。
見て見ぬふりをしてはいけない。
その牛や羊がどこかに行ってしまったら
死ぬものになって死んじゃうんです。
でもそれを見たら
見て見ぬふりをしてはならない。
ちゃんとかくまって返してあげなさいと言われる。
そして4節ですね。
あなたの同族の者のロバまたや
または牛が道で倒れているのを見て
見ぬふりをしてはならない。
必ず彼と一緒に
それを起こしてやらなければならないと言われる。
ロバぐらいだったら2人でどうにか起こせるかもしれませんけれども
牛なんかが倒れてたらどうでしょうかね。
きっとその時は1人2人じゃ無理なんですよ。
近隣の誰々さんの牛が倒れたぞそしたら
あんたもあんたもとにかく手伝って
一緒に牛を起こそうせーので多分起こすんですよ。
でも実に日常的な掟ですが
私はこれは実に立法の真髄を語っているなと思わされます。
愛を持ちなさい
誰かの牛が倒れてたら
みんな見て見ぬふりせずにそれを助けようじゃないか。
ただただ愛の心を持ち
心を合わせ心に一つにして親切でありなさい。
新約のピリピ書で語られる言葉です。
何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく
へりくたって互いに人を自分より優れたものと思い
それぞれ自分のことだけではなく他の人のことも変えりなさい。
なぜならキリストイエス御自身もそのようなお心を持っていたからです。
キリストイエスの心を心とせよ。
そのような言葉がピリピ書の2章に書かれてありますよね。
実は旧新約で流れているものは同じです。
それはあなたは神様の恵みを経験したでしょうということです。
イスラエルの民であるならば
あの執エジプトと40年の旅路を通して
あなたは神の恵みを知ったはずだ。
そして初代教会キリスト社であるならば
あなたはあのイエス・キリストの十字架と復活の姿を見て
あなたは神の愛を知ったはずだ。
そしてその恵みや愛を知っているならば
流しなさい。流しなさい。
尊徳の話をするならば
この世界で最も損をされたのは
聖書で書かれている神様御自身です。
神は実にその一人号を話題になったほどに
要愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく
永遠の命を持つためであると
聖書は語りますが改めて思います。
なぜ神様はこの罪に溢れたこの世界のために
争いをやめることもできず
人と人が血を流し続ける
この世界のために
御子をお与えになられたのでしょうか。
実はこの歩みに正当な報いなどありませんでした。
イエス様は人々に御自身をお与えになられたのに
人々がイエス様に与えることができたのは
十字架だけです。
けれどもそれでも進まれたのは
御子を信じる者が一人として滅びることなく
永遠の命を持つため
その神を知らず暗闇の中にいるその一人を
その一人の命を救い出すために
御子はあの十字架へと進まれた。
そして本当にパラパラ開いて申し訳ないのですが
一箇所だけ開かせてください。
コロサエビテへの手紙の3章の12節からというところだけ
ちょっと読ませていただきます。
コロサエビテへの手紙の3章の12節から15節
お読みいたします。
ですからあなた方は神に選ばれた者
聖なる者、愛されている者として
深い慈愛の心、親切、謙遜、乳和、寛容をおきなさい。
互いに忍耐し
誰かが他の人に不満を抱いたとしても
互いに許し合いなさい。
主があなた方を許してくださったように
あなた方もそうしなさい。
そしてこれらすべての上に愛をつけなさい。
愛は結びの帯として完全です。
キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。
そのためにあなた方もめされて
一つの体となったのです。
また感謝の心を持つ人になりなさい。
あなた方は神に選ばれ
聖なる者とされ
愛されている。
これは旧約聖書を学んできている私たちにはわかります。
パウロが何を頭に入れているのか
これはイスラエルの民のことを言っているのです。
旧約において選ばれた民
神に愛され聖なる民とされた
イスラエルの民がいる。
でも今やあなた方は
イスラエルの民と同じ民にされたんだ
ということをパウロは言うわけです。
そしてそのような
まさに神様の愛、選び
聖を経験しているあなた方は
愛、親切、謙遜、仁和、寛容
キリストの許しを覚えての許し合い
境界の温かさ
教会を一つに結び合わせる
愛を持ちなさいと招かれます。
ある種、教会を一つにできるものは
誰かの大きな声ではない
恐怖でもない
教会を一つにできるのは
キリストに愛されていることを知っている私たちが
地道に互いを愛し合っていく
その愛だけです。
私たちはある種、御言葉の前に問われます
我々は本当にこの愛を流しているだろうか
愛し合っているだろうか
あなたの同族の者のロバ
または牛が道で倒れているのを見て
見ぬふりをしてはならない
必ず彼と一緒に
それを起こしてやらなければならない
私たちはすべての兄弟姉妹の牛が倒れたら
起こしに行けるでしょうか
あの人の牛が倒れている
あの人の者は助けてあげよう
でもあの人の牛はちょっと手一つ触れたくない
本音としてあるんじゃないでしょうか
でもこの御言葉の焦点は
見て見ぬふりをしてはならないということです
すべての兄弟が倒れている牛
その人の牛を見たら
あなたは手伝ってあげなければならない
御言葉は鏡です
私たちは誰の牛は助けたくて
誰の牛は助けたくないでしょうか
そしてそう考えているならば
私たちは神様の恵み深い姿を
本当に知り続けているだろうかと
何か問われるような気がいたします
私たちは目が開かれていく必要があります
これは牧師もそうですけど
目が開かれ続けていく必要があります
私たちが知る神様は温かいお方なんです
イエス様は温かいお方なんです
イエス様はきっと十字架へ扇動した
大祭司の牛が倒れていたら
一緒に起こされるでしょう
イエス様は十字架につけろと叫んでしまった
群衆の牛を見たらきっと起こされるでしょう
御自身の釘を打ったローマ兵の牛が倒れていたら
イエス様はきっとそこに行って
やっぱり起こされるはずです
そしてイエス様は御自身の体である境界が
そうなってほしいと願っておられるんです
あなたの道俗の者のロバまた牛が
道で倒れているのを見て
見ぬふりをしてはならないと
明太に境界は私は温かな境界だなと思っています
そしてつくづくこういうことを読みながら思わされるのは
もしもでも境界の温度を下げてしまう
境界を冷たくしてしまう理由があるとするならば
それはきっと神様は冷たいお方であるという誤解
そして隠れながらに許せないという思いを抱えながら起きる分裂です
境界の熱を下げてしまう
明太に境界を見ればイエス様が温かいお方であることがわかる
そう言われたいなと思います
境界の頭はキリストです
そして境界の体である私たちは
神様そしてイエス様の温かさを流します
その温かさが流され
境界というのは熱を帯びていくのです
熱のある境界に互いにならせていただきたいと願っております
一言お祈りをいたします