1. 名谷教会 podcast
  2. 2016/09/11:みなの益となるた..
2016-09-11 38:32

2016/09/11:みなの益となるために

2016/09/11 聖日礼拝

尹善鎬牧師

コリント人への手紙第一 -31

00:01
おはようございます。今日もよくいらっしゃいました。
では、今日もですね、メッセージに入る前に、隣の方に挨拶しましょうか。
おはようございます。
ありがとうございます。一言お祈りします。
あなた方は、キリストの体であって、一人ひとりは核機関なのです。アーメン。
主よ、アサシャ主よ、イエス様を頭として、あなたの体の一部分として受け入れてくださって、その恵みを感謝をいたします。
道化主よ、体をなっている私たちとして、主にあって一つになり、一致の恵み、共和の恵みを保ちつつ、主の福音を捧げて、十字架を見上げて、主よ、前進して前進していけますように。
道化主よ、いたわり合い、慰め合い、祈り合い、助け合って、主よ、共に信仰の共同体として共に歩んでいきますように、主よ、祝福してください。
あなたの恵みを求めてやってまいりました。
主よ、一人もただで帰る人なくして、どうかすべての長大姉妹たちの上に、主の教会の上に、あなたのお言葉を、あなたの栄光を、あなたの御顔を示してあらわせてくださいますように、お願いをいたします。
そして帰る際には、あなたの栄光に満ちて、精霊の人材に満たされて帰って、この一週間を堂々と調理の道を、主よ、収められるように、祝福してください。
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
はい。国立教育団の手紙ですね、いわゆる公開シリーズ説教させていただきまして、もう十二章にきました。
今日の本文は十二章、一節から最後まで読むべきでしたけれど、ちょっと長かったので、後半、十二節からご報告していただきました。
03:03
個人と教会の、今からですね、もちろんもう、ほぼ二千年前の時代ですけれども、その教会がそしている、置かれているいろんな状況があってですね、
その状況は、その当時の状況と、今日の私たち教会、あるいは個人個人の生活中のその状況は、そんなに違っていないと思います。
まずですね、今までこの個人と教会の状況について何度もお話をしましたけれども、ちょっとだけまとめてお話しさせたいと思います。
個人と教会は、シトパウルによって神の恵みの家に建てられた教会でした。
ギリシャにある、個人とという運河がある町の、いわゆる偶像の町で、違法の町で建てられたキリストの教会でした。
その中にですね、私たちのように集まって、礼拝をしたり、あるいは禅語をしたりして、徐々に徐々に教会が増えるようになりました。
そして、いろんな人が集まっていた。ギリシャ人もいました。自由人もいました。奴隷もいました。ユダヤ人もいました。
さまざまな人があって、一緒に出会って、一緒に信仰生活をしていっていました。
その中で、それは確かに神様の恵み、精霊様の恵みのゆえに、さまざまな様物を持つ人が現れて、その様物を行っていました。
それがですね、十二章の一節からずっと書かれているところですね。
例えば、四節をご覧ください。
玉物にはいろいろな種類がありますが、二玉は同じ二玉です。
法師にはいろいろな種類がありますが、主は同じ主です。
働きにはいろいろな種類がありますが、神はすべての人の中で、すべての働きをなさる同じ神です。
しかし、ここから一緒に見ますね。
三、皆の益となるために、各々に三玉の現れが与えられているのです。
これが大前提なんですね。どんな様物があったんでしょうか。
いわゆる、一節を見たら奇跡を行う力。
ある人には予言の賜物が、ある人には霊を見分ける力。
06:01
これが悪い霊なのか、神の霊なのか、見分ける力がある人もいました。
ある人には異言の賜物が与えられました。
ある人にはその異言を解き明かす力が与えられていました。
それで、きっと本当に恵まれたことでしょう。
いろんな奇跡が起こったでしょう。
智慧の御言葉か、ある人には慈悲の御言葉が語られて、
本当にその人が神の御言葉を語ると、神様が語られるように語られたでしょう。
ある人には信仰の賜物が与えられた。
ある人には癒やしの賜物が与えられて、手を置いて祈ると、
本当に病気が癒される賜物が与えられました。
予言をする人、そして様々な賜物が用いられて、
本当に素晴らしいこと、驚くべきことがたくさん起こったに違いないと思います。
ところが、そこに問題も一緒に起きてしまいました。
それが当然、自然のものではありませんよ。問題も一緒に起きてしまいました。
それは、ひとともはですね、とても賢い人ですから、
これを体の機関を例えて言っていますね。
つまり、十二節からずっと見ていきますが、簡単に申しますね。
こういう話です。その中にですね、いわゆる分裂が起き始めました。
一致を保ちにくくなってしまいました。争いのようなものが起きてしまいました。
ひとともはですね、手が足で、あるいは目が手で、必要としないという、その例えような話をしているのですけれども、
実は教会の中に、高齢党教会の中に、私の賜物がもっと偉いな、と。
あなたはその賜物も持っていないの?だめだね、と。
あるいは、私はあなたのようにあんな賜物も持っていない。やっぱり私はもうだめだ、と。
そういうふうな視覚、競争、分裂、争いが残念ながら起きてしまいました。
ひとともは、このままでは、一つの体である一つの教会が、もう尽きれてしまいそうになっているわけですから、
神の教会を守るために、神様の体を守るために、この高齢党人への手紙を書き記しつつ、
そしてこの十二章と十三章を、実はセットとして語っているのです。
よく、この高齢党人への手紙、十三章は愛の表であって、よく結婚式の設定のメッセージとして用いられますが、
09:05
この前、誰かから聞いたんですけれども、余談ですけれども、日本の結婚式上でお坊さんが、
この高齢党十三章を言って、家様の愛の話をしたんですって。
それはおかしいです。誰から聞いたのか、忘れてしまった。
多分、教会から誰から聞きましたけれども。
教会の中でも、たったこの十三章だけ、別個にしてメッセージをきて、悪くはないんだけれども、
実は、この十三章の愛の話をしたのは、十二章の背景があったわけです。
教会の中に様々な人々が集まっていました。
福祉新党もいましたでしょう。これの教会も。
つい先に信じた人もいるわけなんですけどね。
ただ、その中で様々なものが与えられている人もいるし、いない人もいる。
その中で、礼拝の中に意見をする人もありました。
それを解き明かす人もいました。
いやしの祈りをする人もいました。
予言をする人もいました。
悪い例、正しい例を見分ける人もいました。
相談もしたことでしょう。
良かったこともたくさんあったと思います。
癒されて、憎まれて、信仰が成長して、本当に素晴らしいことがたくさん起こったと思います。
ところが、残念ながら、起きてはいけないことが、その中に起きてしまいました。
それは、混乱であって、分裂であって、争い、あるいは、妬み、あるいは、落ち込みでした。
そして、それを果たすために、神の教会のこの身体を守るために、
シト・パウルは、この長く12章から13章にかけて、
7つのミラの液となるために、各々に身様の現れが与えられているんです。
エーレ様は、今日の私たちも、三谷教会の皆さんも、あるいは、様々な教会に、それぞれ主が賜物を与えてくださっています。
それは、21節読みましょう。これは大事な原則ですけれども、21節。
1節読みますね。
しかし、同一の御霊が、これらすべての事を、御心のままに、各々にそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
誰がくださるんですか。御霊様が。
この人にAの賜物、あの人にBの賜物をくださった御霊は、同じ御霊様が。
御心がそれは、誰の御心のままですか。
御霊様の御心のままに与えられて、各々にそれぞれの賜物が分け与えられたため。
12:06
それは何のためでしょうか。主の体を保つため。
皆の益となるために、究極的にはイエス・キリストを表すため。
体には、シコ・パウルが例えているように、体にはいろんな器官がありますよね。
頭もありますし、髪の毛もありますし、目もありますし、手も足もあります。
見てよく見える器官もありますし、見えない、どこかにある器官もあります。
弱い器官もあります。強い器官もあります。
ところがですね、例えばですよ。このシコ・パウルの話をちょっと解釈して言いましょう。
さあ、胃とか鼻とか口が、もう僕は嫌だ。もういつも聞き放しですし、私はもうかっこいい、キラキラしている目になりたい。
あるいは、手と足がですね、もう俺は毎日歩かなくならないし、洗いをしなくならないし、
もう本当に私はいつも座ってばかりしているお尻になりたいとか。
あるいはですね、目が手に入れても、お前はもうね、もう見れないしね、本も読めないし、もういらない奴だなと。
そう言えるのか。そうではねえ。
そうしては、みんな手になったらどうするんでしょうか。
歩くこともできませんし、見れませんし、話せませんし、もう体にならないわけなんです。成り立たないわけなんですよね。
シコ・パウルが、いや神様が、イエス様が、この五輪島教会、そしていわゆるこの聖書を読んでいる、私たちに語られるメッセージは何でしょうか。
教会の中には、祈りの力がある人もいますし、そうでない人もいる。
意見をする人もいますし、そうでない人もいまい。
平和的な言葉を語る人もいますし、そうでない人もいる。
癒しの力がある人もいますし、そうでない人もいる。
それなぜなのか。
御霊様が御心のままに訳与えてくださったから。
ところが、それは何のためなんでしょうか。
それはですね、二十六節を一緒に読みましょう。
これ大事な数ですね。
十二章の二十六節。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
もし一つの部分がはっ飛ばれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
15:05
つまり、私たちが共に悲しみ、あるいは共に喜ぶためなんです。
共に喜ぶため。
このように皆さん、教会はキリストの体です。
私たちはその器官なのです。
同一の一人の聖霊様が御心のままに、
それぞれの人にお互いの有益のために、
教会の有益のために、
イエス・キリストを表すために、その御心のままに、
賜物を与えて下さい。
それは、高ぶってはいけないし、
押し込んではいけませんし、
責めてもいけませんし、
荒ごってもいけない。
分裂を起こしてもいけない、ということです。
ヒトカルメッセージはどういうメッセージでしょうか。
だから、もしもその様々な賜物を用いて、
それが素晴らしく用いられているのだけれども、
教会の中に、神のイエス様の体である教会の中に、
もしも分裂が起きて、高ぶっている、
そうしたならば、
その賜物を用いない方が良かろうというメッセージです。
だから、大事な話ですよ。
賜物というものは、永遠に続くものではありません。
私が行われる様々な賜物があります。
言言や、癒しや、予言や、礼のおみわけや、
しかし皆さん、それは永遠に続くようなものでしょうか。
そうではありませんよ。
いつまでなんでしょうか。
イエス様が去りなさる時までなんですよ。
その時にまで一時的に必要であって、
永遠に続くもの、絶対的なものではない。
なぜなら、天国にいては、
癒しの賜物はいりますか、いりませんか。
いりません。
予言はいりますか、いりませんか。
いりません。
礼の悪い形礼を分別する賜物はいらないんです。
賜物というものは、
イエス様が本物の方が来られる日まで、
この地上にある間は、
十三座に書かれているように、
私は、こうね、
かすんでいる、ぼやけている鏡を見ているように、
部分的なものを知っていて、
部分的に暮らしているわけですから、
いよいよ本物のイエス様が来られたら、
もう異言をする必要もありませんし、
癒しの祈りをする必要もありませんし、
一時的にこの地上で、それが許されているわけです。
だから、その中で私たちは、
賜物を聖霊様がくださるものですから、
大事なものですよ。
もう全くいらないとか、検出しましょう。
18:02
それはまじではありません。
必要なものであります。大事なものであります。
しかし、それを行うにあたって、
それが用いられるにあたって、
あるいはそれを求めるにあたって、
大事なのは、十三章が十二章とセットになって、
そこに何が一緒なのか、愛が必要です。
一節十三章、ここまで今日は読んでいなかったんですけど、
一節を一緒に読みたいと思います。
たとえ私が人の意見や見使いの意見で話しても、
愛がなりなら、やかましいドラやうるさいシンバルと同じです。
コリンド教会の人は、たぶんこの十三章を読んで、
びっくりしてぶっこちたかもしれません。
もし意見をする人があって、
一人一人読んでいるんですね、厳しく聞こえたかもしれません。
そして、八節を読みましょう。
八節を読みますね。
三、愛。愛は決して絶えることがありません。
無限のたまものならば、捨たれます。
異限ならば、やみます。
奇跡ならば、捨たれます。
みな捨たれますよ。
イエス様が来られたら、すべてが新しいものと新しい日になって、
私たちも全く例のものに、完全なものになるわけですから、
知れないことが、見分けられないことがなくなるわけなんですよね。
すべてが明らかになるわけですから。
さあ、続いて十二節を一緒に読みましょうか。
三、愛。
今、私たちは深みにぼんやりうするものを見ていますが、
その時には、顔と顔とを合わせて、
今、私は一部分しか見ていませんが、
その時には、私が完全に知られているのと同じように、
私も完全に知ることになります。
はい、皆さん、このことをよくご覧くださいよ。
さあ、この第一コリントを書き記した記者は、ヒト・パールです。
ヒト・パールがどんな人ですか。どんなに素晴らしい人ですか。
新約聖書二十七巻の中に十二巻を書き記した、素晴らしい神です。
イエス様の御声を聞いた人ですよ。
コリント第二の十二章、二節を見たら、ちょっと読みましょうか。
一応、忘れてしまった。
第二コリント、十二章の二節、三百六十ページですね。
21:05
これはですね、ヒト・パールは自分自身のことを話しているんですけれども、
二節を一緒に読みたいと思います。
私はキリストにある一人の人を知っています。
この人は十四年前に肉体のままであったが、私は知りません。
肉体を離れてあったが、それも知りません。
神はご存知です。第三の天にまで引き上げられました。
これはですね、ヒト・パールは自分につながります。
ヒト・パールはこれほどですね、第三の天にまで引き上げられた、
もう子の子がいないような、素晴らしい神の霊の人なんです。
ところが、そのヒト・パールがどういう風に言っていますか。
私たちは今知っている、見ているものは、鏡にぼんやり映るものを見ていますよと。
明確ではありませんよと。
そして聖書十二冠も書き記すほど、素晴らしい神の霊を受けたヒト・パールは、
知っているのは何を知っていますか。一部分を知っています。
しかしその時、イエス様が来られる日になったら、完全なことを知るようになると言ったヒト・パールが。
皆さん、ヒト・パールさえこういう風に言ったならば、私たちはどうでしょう。
私たちが知っているのは、一部分の部分の部分の部分の部分の一部しか知らないかもしれない。
ほんのわずかの埃のようなものを知って見ているのと同じかもしれません。
なのにそれが絶対的であるかのように、それが全てであるかのように、肝心であるかのように、
私たちは考えたり言ったりしているかもしれない。
片目にぼんやり映るものを見ているかもしれない。
また、あのお問い合わせがありました。
孟人の人が初めて象を触って、象がどんなものかお互いに教え合います。
ある人は足の部分を触って、象はまるで硬い柱、電柱みたいに、象はそんな風にできたなと。
ある人は象の尻尾を触って、いやいや違う、象はちょっと柔らかくて細い虫みたいにできているね、いや違うよ、柱よ、いや違うよと立つ。
まるで皆さん、私たちが今知っている神筒、神戸、聖筒というものは、ヒト・パウロが言っているように、
鏡にぼんやり映るものを見ているのではないでしょう。
一部分しか知れませんとヒト・パウロは言いましたよ。聖筒も十二段も書いたヒト・パウロさえ。
24:09
神様が再び来られるその日には、全てが明らかになります。部分的な知識も完全な知識になります。
その時には様々なものも聞かれます。正しい、悪いとか、真にだとか、真にじゃないとか、そういう言葉すらなくなる。
皆さん、最も大事なのはイエス・キリストです。
何かの力を能力を、それが魂物であれ何であれ、それを求めるよりイエス・キリストを求めるのが最も大事であります。
何を行う、何をする、それより最も大事なのはイエス様を表すこと、イエス様を伝えること、あるいはイエス様の愛で愛することが最も大事である。
なぜなら、イエスは愛であり、イエスは真意であるからです。
だからといってね、無理と申しますが、魂物はいりませんよ、そういう話では決してそうではありません。価値がないとか、そんな話ではありません。
精霊様も無駄なものだから、いただいたらそれは謙遜であって、愛をもってそれを用いるべきであります。
謙遜と愛と恐れが、ペトパールはその12章から13章を続けて愛の話をしています。
だからですね、ただの、ただに愛しちゃいましょう、愛はいいですね、愛はいい、そういう話ではないんですよ、実は。
天国に行くならば、そこには三位体の神様、その神様、イエス様、精霊様を愛しながら、支配するようになるんです。
だから、永遠に続くものは、神の愛という三言葉であります。
だから皆さん、私たちがお互いに注意していただきたいことがあります。
それは、私たちが行う、やるすべての活動は、愛という身、つまり二様様の九つの身が現れなければならない。
九つの身は何でしょうか、一緒に言ってみますか、皆さん。覚えている方はいいですよ。
3、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、入話、自省。
もう一度言いますね。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、入話、自省。
27:13
ですから皆さん、私たちの礼拝も、賛美も、奉仕も、伝道も、祈りも、
一緒にやってなされるすべての活動のその身は何になるべきなのか。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、入話、自省になるべきである。
それを結ぶべきである。賜物も同じである。奉仕も同じである。
皆さん、私たちが信仰生活をしていく中で、私の思いが正しいとか、あの人の意見とかはそれは間違っているとか、
正しいとか悪いとか、それを見分けることがあったり、そうしたり、説得をさせようとしたり、あげたりすることがあります。
確かにですね、正しいことはありますし、悪いことはあります。
しかし、それよりもっとも大事なのは、その結果が、それを明らかにして、見分けて、結果が愛にならなければならないということです。
あの昔の歴史を、プロテスタントが正しいことと悪いことを明確にするために起こした、歴史的な罪悪が丸十字軍の戦争でした。
もちろん、政治的にですね、いろんな絡みがあるわけなんですけれども、
その当時のプロテスタントは、イスラム教徒は敵である、サタンである、だから彼らはもう呪いの子たちだから滅ぼすべきだと。
神の歴史を皆様を妨げる者は皆も滅ぼすべきだと思って、戦争を起きました。
3回でしょうか、4回でしょうか、起きてですね、いわゆる聖戦、強い聖なる戦い、聖戦と名乗って、多くのイスラム教徒を斬虐に殺してしまいました。
もちろんそこにですね、正しいこと、悪いことが明らかになされたかもしれない。
しかしその結果はどうなったんでしょうか。そこにはイエス・キリストの愛はないんです。
神様の実はどこに見ても一つもないんです。
もちろんそういうことは私たちがするわけではありませんけれども、示唆するところは大きいと思います。
1ページのテーマを開きましょうか。
ヨハネの福音書13章35節、209ページ35節、一緒に読みましょうか、3回。
30:15
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなた方が私の弟子であることを全ての人が認めるのです。
互いの間に何があるならですか。
愛があるなら。
愛があるなら、それによって私たちの間に、教会の中に、恋愛の中に、様々な集まりの中に、関係の中に、主のキリストの愛があるなら、
私たちがイエス様の弟子であることを全ての人が認めるのです。
何をするにしてもそこに愛でするべきであります。
愛という身、見たもの身が結ばれるべきであります。
本当の意味で、自分自身が正しいということを確認される道は、愛だけだと思います。
旧約聖典の話を書いておきましょう。
女性部は、自分のお兄さん達が自分を殺そうとしました。
無礼に落ちてしまいました。
ところが、女性部は、エギプトの総理大臣になって、地震が起きて、その兄達が福良をもらいに来たときに、
女性部は、正しいのは彼らを凶暴することです。
それが善と悪を見分けることです。
しかし、女性部はどうしたのでしょうか。
善悪を、是非を、そこでそれを見分けるのをやめました。
むしろ、彼らを許してあげた。
だから、私は、女性は本当に愛の人だな、神の人だなと分かっているのです。
ダビデのことをまたお話しします。
ダビデにとって、サウルは敵でした。
ダビデは何の悪いことをしていないんですね。
サウルは彼を殺そうとしました。
サウルは悪いです。確かに、ダビデは悪いです。
ところが、ダビデは何度もサウルを害することも、チャンスもありました。
王になってできるはずなんですよ。
しかし、ダビデは決して、是非を、善悪を見分けて諦めることを選ばなかった。
33:01
サウルを許した。
いわゆる、愛を選んだわけなんですよね。
だから、ダビデは、敵であるサウルからも祝福されたんですね。
第1章26章517ページ、25節
一緒に見ますね、3回。
サウルはダビデに言った。
オラポーダビデ、お前に祝福があるように。
お前は多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。
こうして、ダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。
敵からも祝福を受けたダビデ。
皆さん、覚えていていただきたい。
愛こそ、すべての事柄の動機であるべきですし、
愛こそ、すべての活動、すべての事柄のプロセスであるべきである。
すべての結果は、愛であるべきである。
あるいは、家様が愛である。
家様が亡くなったすべての動機、すべてのプロセス、その結ばれた身は、愛でした。
もし、家様が弟子たちに贅沢をはっきりとしたら、弟子たちはどうなったんでしょう。
全部やめて、家様ために準拠したその弟子たちはいないかもしれないですね。
ですから、私たちが先行生活していく中で、
あることが、これは真理だ、これは正しいだ、これは確実だと、絶対的だと言う時に、
さっきのシト・パウルの言葉を覚えていただきたい。
鏡にぼんやり映るものを見ているのだ。
一部分を見ているのだ。
しかし、家様を放られる時になったら、すべてを完全な秩序になると。
そういう風にして、謙遜で減り下って、徳を立てるため、主の教会を立て上げるために、お互いに使い合うべきである。
同一の精霊様は、その御心のままに様々な力を、賜物を与えてくださいました。
36:06
それを大切にして、謙遜と愛を持って、一致を持って、それを用いさせていただきました。
しかし、もしもそれを用いる時に、自分に高ぶりが起こってしまう、傲慢が起きてしまう、一致が割れてしまうならば、
もう一度、神にお尋ねするべきではないです。
結露は、すべての中に二玉の実になるということであります。
私が普段何を喋るにもあたり、何かの遊びにあっても、相談にあっても、祈り合うことにあっても、
奉仕であっても、教師であっても、様々なことにあっても、そこに愛というものが、パーンとハートとして現わなければならない。
例えば、私が教科の誰かと何かをしました。スポーツをやりました。
その間に色々話し合って、何か一言言った。でもそれに気づいてしまった。
そこには、遊びはあったかもしれませんが、愛は欠けているということなんですよね。
今日の本文に戻りましょう。十二章のもう一度、六説と七説を一緒に読みたいと思います。
第五輪と十二の六と七です。
三、働きにはいろいろな種類がありますが、神はすべての人の中で、すべての働きをなさる同じ神です。
しかし、皆の益となるために、各々に御霊の現れが与えられているのです。目的は、皆の益となるためです。
イエス・キリストの体を保つ、立て上げるためです。イエス・キリストが最も大切です。お祈りします。
38:32

コメント

スクロール