00:00
御着席ください。
聖書朗読をしていただきます、白石恒樹兄弟。
ガラテア人への手紙、2章の15節から21節まで。
ガラテア人への手紙、2章の15節から21節までです。
聖書を拝読いたします。ガラテア人への手紙、2章の15節から21節まで。新約聖書365ページでございます。
私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、違法人のような住人ではありません。
しかし、人は、立法の行いによっては、義と認められず、ただ、キリストイエスを信じる信仰によって、義と認められるということを知ったからこそ、私たちもキリストイエスを信じたのです。
これは、立法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって、義と認められるためです。なぜなら、立法の行いによって、義と認められるものは、一人もいないからです。
しかし、もし私たちが、キリストにあって、義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
けれども、もし私が前に打ち壊したものをもう一度立てるなら、私は自分自身を違反者としてしまうのです。しかし私は、神に生きるために立法によって立法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にしません。もし義が立法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。以上でございます。
03:22
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
06:03
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
神の御子
おはようございます。
今日も御言葉をいただきます。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
主はアブラムを外に連れ出して仰せられた。
さあ天を見上げなさい。
星を数えることができるなら、それを数えなさい。
さらに仰せられた。
あなたの子孫はこのようになる。
彼は主を信じた。
主はそれを彼の義と認められた。
愛と憐れみに伴おう。天の父なる神様。
今日も御前に集うことができたことを心から感謝をいたします。
一週間の歩みそれぞれ異なりましたが、
もう一度時と場所を同じようにしてここに集い、
あなたを礼拝できるこの特権を覚えて感謝、皆をあがめます。
それぞれの歩みの中にありましたこと、
お互いは見えません、知りませんけれども、
主はお一人お一人の歩んでこられたその道と、
また今その心の中にある思いのすべてをご存知のお方です。
私たちはその主を信じて今御前にあり、
あなたをあがめ礼拝を捧げています。
どうぞ主よ、それぞれに忙しくあなたが必要なものを与えてくださり、
また共に痛み苦しみ、また悩んでくださるお方を心からあがめます。
09:02
また喜びの中にある人たちも、どうぞさらにその祝福を覚え、
神からのその恵みを覚えて皆をあがめるものとしてくださるように、
今日もまたこの安息日、聖なる日としてあなたをあがめます。
ただ今から言葉とまた学びをいただきますが、
愚かなものですから、主をどうぞあなたが教えてくださるように、
私たちもへり下ってあなたのお声を聞くものとさせてください。
信仰の足りないものです。神様どうぞお言葉を通して、
あなたが私たちに信仰をさらに与え深めることをやさせてください。
愛のないものです。神様どうぞ十字架にあらわしてくださった、
イエス様のあがぺの愛を私たちにもわき与えてくださるように、
そしてまたさらに神を愛し隣人を愛するものとして、
整えてここからお使わしくださいますように。
そして私たちに託された福音、禅教のこの働きがあまねく延ばや伝えられて、
そして一人でも多くの者たちがこの誠の神を知り、
さらに救いにあつかって、またその種の働き人として用いられてまいりますように、
私たちはそれを信じて、さらに今日また新しく一歩を踏み出していくものとさせてください。
今日から始まりますこの一週間も、
主がそれぞれ伴って支え導きまた用いてくださいますように、
そのためにも御言葉が必要であります。
どうぞ主が私たちに語ってくださり、また教えてくださいますように。
取り継ぐもの小さく乏しく弱いものですから、
神様哀れんで最後まで支えてくださいますように。
皆さんの祈りに合わせ主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
私たちは時として質問をされることがあります。
何か尋ねられることがあろうかと思うんですね。
これはどういう意味ですかとか、なぜこうなったんでしょうかとか、
そういうようなことを聞かれます。
でも時々答えられない質問というのもいただくことがあるんですね。
どうしてこんな質問をされるんだろうかと思う。
とてもそれに対しては答えられないということもありますね。
もちろん答えられるものは答えさせていただくわけですが、
それも二つあろうかと思うんですね。
即答というんでしょうか。
尋ねられたことに対しても、それはこうこうこういうことですと、
12:03
すぐに答えられるそういうものもありますし、
もう一つは、ちょっと今はそれは答えられない。
少し時間をいただけますかということで、
即答ではなくて、もう少し時には祈ったり、
あるいはいろいろ調べ物をしてきちっとした形でお答えするという、
それもいいかと思うんですね。
ですから、尋ねる側もそういうことを配慮して、
尋ねるということは当然であろうかと思うんですね。
すぐに答えられない。
それはやはり安易に答えをしてはいけないということの配慮だと思うんですね。
それは非常に大事なことでありまして、
一番気をつけなければいけないのは、
ちょっと答えるのに時間をください、調べ物をしたい、あるいは祈りたい。
それをせずに、いわば知ったかぶりをして答えてしまう。
味も知らない、答えられないということにちょっとひけ目を感じて、
知ったようにふりをして、これはこうです、ああですというように安易に答えてしまう。
それはいけないと思うんですね。
質問した側も、だいたいそれもわかるときがありますね。
あまりご存じないのに、無理して答えられているなというのがわかるときもあるので、
知らないときは、それは知らないです。
今は答えられないんですという、それをきちっと言うほうがいいと思うんですね。
いろいろな質問、あるいは問いかけに対して、きちっと答えるということ。
そして知らないことに対しては、知らないんですという、それは決して恥でもないですし、
その人の人格が何かそれによって傷つくこともないわけです。
むしろそのほうが、本当のその人の姿を表す謙遜なことだろうと思うんですね。
私たちは、いろんなことで知らないことが多すぎると思うんですね。
ですから、これも知らない、あれも知らない、ごめんなさい、これも答えられない、そういうのが本当に多いと思うんですね。
そういう自分をきちっと認めて、そしてそのままにしておかないで、
それじゃそれを調べよう、あるいは学ぼう、勉強しよう、もっと自分を豊かにしていこう。
15:03
そして今度質問されたときには、きちっと答えられるようにしていこう。
これが謙遜な姿だと思うんですね。
ですから、学問とか学びというものに、最も大事なことは謙虚であるということですね。
学者、あるいは研究されておられる人たちは、大変なタイトルとか名誉とかはあるんですけれども、本当にそういう意味では謙遜ですよね。
知らないことがいっぱいある。
自分も本当に知らない。だから、もっともっと勉強しよう、調べ物をしよう、もっと学ぼうという、そういう姿勢があろうかと思うんですね。
ですから、私たちクリスチャンとして生きている、そしてそうでない方々が、私たちに質問をなさることがあろうかと思うんですね。
神を、あなたが神を信じているというが、その神を作った者は誰なのですか、とかね、そういうことを言う人がいます。
神は宇宙、天地万物を創造されたが、その前は何をされていたのですか、とかね、そんなことを聞く人もいます。
あるいは今日のテーマでありますが、カトリックとプロテスタントの違いは何ですか、とか様々なことをお聞きなさるんですが、いや、どれも答えられない。
でも、ここは恥をかくのも嫌だし、それでもクリスチャンかと言われるのが嫌だから、こうです、ああですというようなことをあいに答えてしまうと、それはむしろよくないと思うんですね。
そういうときこそ、それは私は知らないんです。本当に勉強不足で私はわかりません。
できたら時間をくださって、また何か調べ物をしますから、それまで待っていただけますか、ということですよね。
それに対して口の悪い人は、それでもクリスチャンかというふうに言う人もおられると思うんですね。
でもそのとき、はい、それでも私はクリスチャンです。ここは毅然と答えてほしいんですね。
私はあれこれ、これこれ、知りません。そういう愚かなものです。
でも私は、宗爺様を私の救い主として信じて生きているクリスチャンです。
天地万物創造の神、この神を私の主として、そして私の十字架を通して罪許し、私を愛してくださっているこの神を、我が神として生涯を捧げ歩んでいるクリスチャンです。
そう、毅然と答えてほしいんですね。
言われる必要はないですけれども、毅然とそう答えていただきたい。そう思うんですね。
18:06
ただ、私たちは知らないことがたくさんある。それは当然のことだと思うんですね。
ですから、10月31日は何の日ですかと質問されて、答えられる人もいますし、答えられない人もいるかと思うんですね。
それは、それで知らない時は知りませんと答えなさったらいいと思うんですね。
そして、一体10月31日って何だろうかということを、また学び進めていけばいいわけであります。
そのままに放っておくことは、それは良くないかということですね。
私たちは中学校でしょうか、高校でしょうか、世界史というものを学びました。
その中で宗教改革というのを学ばれた記憶があろうかと思うんですね。
ついこの間の方もおられますし、ずいぶん遠くの記憶を呼び戻して、ああそうだった、そういうのありましたねというようなことで。
その宗教改革、一般の小読みにはないんですけれども、教会の小読みの中にはこの10月31日が宗教改革記念日となっているんですね。
ですからこの31日に一番近い、その前の一番近い日曜日にこの記念日を持つ、記念礼拝を持つという教会もあるとされています。
私たちの教会では特にこれに関して何か行事を行うということはしていませんけれども、これに関連していくつか大事なことがありますので、確認しておきたいとそう願っているわけです。
私たちはこの教会ができて約2000年経っているということはすぐ分かるんですけれども、その間に世の歴史もさまざま変わってきました。
いろいろなことがありました。一つの国の歴史、例えばそれが2000年という歴史の中にも国が変わっていった。
それと同じように地上の教会ができて、この2000年の間に教会の歴史も刻んできたわけですね。
それは教会史と言われるもの。全世界の教会という意味もありますし、私たちの日本だったら日本の教会史という。
それはいろいろな本がありますので、また学んでいただきたい。これはキリスト教の歴史という本。これはザビエルから始まった日本の教会の歴史とか、そういういろいろな書物を通しても私たちは知ることができるわけですが、
21:11
この世界史、世界全体の教会の歴史の中に、いわゆる中世、15世紀、16世紀、その中に1517年、ルターの宗教改革が始まるというふうに書かれてあるわけですね。
これが今日の一つのテーマであります。この1517年、そして10月31日、一体何が起こったのかということをもう一度確認した、ここから何か学んでいきたいと願っているわけですね。
これを探っていくときに、まず見えてくるのが教会の堕落、教会の罪ということなんです。これを聞いて初めて教会に来られた方、あるいは求道者の方は大変驚かれると思うんですね。
皆さんが教会というイメージを持って来られているのに、教会の堕落、あるいは教会に罪、私は教会というものが清いもので、そこにおられる方がみんな立派な良い人で、そんな堕落だとか罪だとか、そんなものとは関係のない特別なところだと思ってきました。
だから私もそういう中に入れていただいたら、私も清くしてくださるのではないか、そういうふうに思ってきたのに、教会が堕落した、あるいは教会が罪を犯した、それは大変な驚きですという、それだったらもう来ませんという、そこまでおっしゃる方もおられると思うんですね。
これが教会に対する誤解なんですね。私もそういう誤解をした者の一人です。聖書を知らないですし、神様を知らないから、当然といえば当然なんですが、ここに誤解があるわけですね。
教会ということについてもう一度整理しておきます。これだけではないんですけれども、教会、これはイエス様が言われたお言葉に表されています。健康な人に医者はいらない、医者を必要としているのは病人です。
私は罪人を招くために、そして悔い改めさせるために来たのです。来たのですということは、そこに教会を建てて、そして罪人を招くために、そして悔い改めて、そして救われていくように、そのために私が天府から来たのですというふうにイエス様がおっしゃったわけですね。
24:13
それがこの教会の基礎になっているわけです。ですから、お医者さんのところ、それが病院とするならば、その病院に健康な人がいるというのは、これは不自然ですよね。そこに来るのは傷ついた人、病気を抱えた人、病んでいる人が来るわけです。
それと同じように教会、イエス様のもとに罪けがれた者、そしてどうして言っていいのかわからない悩み苦しんでいる人たち、いわば当時の罪人と言われる人がイエス様のところに来た。それがいわゆる教会という群れですよね。
もちろん病院に来た人たちが病気のままではありません。そこで癒され、また回復して、そして健康になって退院していく。しかしまた新しい病の方がどんどんどんどん来ているという状態。
その点、教会は罪ある人たちが教会に来るんですけれども、その人が悔い改め救われて、退院というのはないんですね。教会に退院というのはありません。そこに留まって、また次の使命を帯びて、次々に来る罪人を回復するため、救われるために奉仕をするという。そういうことです。
ですから、病院に病人がいて、そして助けてください、癒してください、何とか健康になりたいんですと叫んでいる。それと同じように教会に来た罪人が、私は罪人です、もうどうしようもないものです、憐れんでください、助けてください、救ってください。
今まさに、神様のもとに来た者もいるし、その途上の人もいるし、あるいは救われて、また次の使命に預かっている人もいますけれども、そういう教会の中で、まだ神様の救いとか、許しとかを明確に受け入れていない人たちが、罪を犯したとしても、それは当然といえば当然。
ですから、教会の中にいる人たちが罪を犯し、そしてその人たちによって教会が堕落したということは、いわば別に驚くに値しない。
そういう者たちをイエス様が招いておられるわけですから、ただそのまま放っておくということは、神様の願っておられることではない。罪人を招いて、そしてそこで取り扱われ、許され、救われ、そしてまた神の子として歩んでいくという、それが教会であります。
27:21
ですから、教会の中で罪がある、あるいは堕落している、あるいは人の目に余るようなことがもしあったとしても、それはその罪人という私たちをイエス様が招いているからであります。
それを前提として、時は中世、十五世紀、十六世紀、そしてヨーロッパ、その当時、主によって召し出された教会、そして罪人たちがイエス様によって招かれてできたこの教会、それはヨーロッパ中にたくさんありましたし、他の地域にも教会はできていたわけですが、
特にヨーロッパ、この教会という人の群れが大変大きな組織として存在していた。そして政治や経済や社会や国民の生活のすべてにおいて大きな力を持って影響を与えていたという、そういう状況があったわけですね。
こういう中で、この教会が本来のあるべき姿を見失っていたという状態。
少しずつ組織立てていくという、そういうものが社会にもたくさんあります。教会も一つと言えるかと思うんですが、比較的小さな組織のときは、みんな自分の力の弱さを知っていますから、みんなで力を合わせないとやっていけないとか、そういう思いがあります。
あるいは少ないですから、一人一人を大切にしていこう。一人でも欠けたら成り立っていかないので、みんなに目を配り心を配って、そして支え合っていく。そして初心を忘れないで、みんなで支え合いながらやっていこう、そういう空気が満ちているわけですが。
ところが、次第次第に人が増え、どんどんどんどん大きくなって、組織も巨大化していくと、今度は一人一人というよりも全体、なんとこの全体の組織、これを維持しないといけない。
30:16
ですから、一人が誰それがどうなっているか、そんなことよりも、この全体の組織として支えていかないといけないという、そういうふうに変わっていく。そして誰が一番偉いのか、誰が権力を持つのか、誰がこの組織のトップに立つのか。いや、あの人だ。いや、私だ。
そういうふうにして、全然本来のあるべき姿からかけ離れたところに、みんなの思いが行ってしまう。そのようなことが、当時のヨーロッパの教会の中にもあったということですね。これは一つの教会というより、地にある教会の全体の姿として、そういうふうにあったわけです。
そして、胃の中の皮図。その中にいると、それが見えない。そういう状態が、当時のヨーロッパの教会の姿であったわけです。
全ての権威が、教皇という人が持っていた。教皇が全ての権威を持って、支持すれば何でも動く。その中の一つに、免罪符の売買というようなものをしておった。いわばお金によって罪が許される。
そういうようなことがまかり通っていた。それを信じる人も、それだったらお金を払って、その免罪符をいただいて、そして感謝します。私は罪を許された。そんなことを言っておったわけですね。
教会の方は集まったお金を数えておったのかどうか。そこまで逸脱し、いわば堕落しておった。ですから免罪符の売買、お金によって罪が許される。これはもう福音の最も大事な部分ですよね。
それに関わること。ここにこの権威が触れて、そしてそれを思うように操っていたという。これが教会の堕落であり、また大変大きな罪であったわけです。
もちろんみんながみんなそれを見過ごしていた、あるいは知らずにまかり通っていたということでもなかった。そういう者たちの一人として、このマルティン・ルーターという人がいたということですね。
33:00
当時彼はドイツのビッテンベルクー大学で聖書学を教えていた。もちろん修道士でもあったんですが、熱心な経験な修道士として彼は朱に仕えておったわけですが、彼はこれはおかしいと。免罪符。
お金を払って罪が許されるとか、救われるんだという。それは何としてでもこれをとどめないといけない。こんなことがまかり通っているということはおかしいことであるということに反論を唱えたわけですね。
そしてビッテンベルク教会のその扉に95箇所。これはこういう理由でおかしい。2番ここはこういう理由で私は受け入れられない。こういう理由で聖書に反する。そういうようなことを張り出したということですね。
いわば意見書を掲げたということは抗議したということですね。抗議するということを英語ではプロテストといいますが、その抗議する者、それがプロテスタント。いわば彼らは反対する者、抵抗する者、抗議する者。彼らはプロテスタントだというふうに言われたということですね。
教会の方からそういうふうに言われて、彼も教会から破門されたということであります。このビッテンベルク教会の扉に95箇所の意見書を抗議として出した。その日が1517年の10月31日であったというふうにされているわけです。
そしてこのルターたちによって始めたこの抗議、それによって当時のヨーロッパの教会が大変大きな変化をここから与えられていくということなんです。
どういう変化が起こってきたのか。ルターのしたことがヨーロッパ中にだーっと伝わりました。そして何が起こったのか。結果としてプロテスタント教会が生み出されたということです。
ルターの願っていたことはこういうことではなかったわけです。プロテスタント教会を生み出すとか、彼はそんなこともうとも思っていない。むしろ教会があるべき姿に戻ってほしいという、そういう願いで意見書を出したわけですね。
36:15
ところがその結果としてプロテスタント教会が生まれたということになるわけですね。これは例えば山に降った雨水、それが溜まる、あるいはそれがあふれて一つの流れとして水が海の方に流れていくわけですが、
それが川となって水が流れていきます。それは一本の川として水が流れていく。ところがその途中に何かそれを妨げる岩のようなものができると、その当たった水はこちらにも流れますし、かたやこちらにも流れていく。
そういうようなことでしょうか。そしてまたこちらに流れた水、それがまた一つの川となって、そこでまた一つの障害物なり何かにぶつかるとまたそこで別れていく。それは自然の節理であるわけですし、同じようなことがこの教会にも起こった。
ずっと遡ってみますと、アブラハム・イザーク・ヤコブの神、その神様の祝福の流れがあったわけですが、イエス・キリスト、誠の救い主が予言として示されていたその救い主イエス・キリストが現れたことによって、
その神の大きな祝福の流れが、かたや今のユダヤ教、そして今のキリスト教ということにたもとをわかったなければならない。本来は一つの神様の祝福であったのに、誰もそんなことは願っていない。
イエス様も誠の立法として、もう一度私たちが創造主なる神様の祝福に立ち帰りましょうということで救い主として来てくださった。ところが私たちはそれを信じない。
キリストは救い主ではない。ただの預言者の一人にすぎない。私たちは今まで通り立法を私たちの救いの条件として信じていくのだというその流れを我々は主張しているわけですね。
しかし、預言通り救い主として現れてくださったイエス・キリスト、このお方こそ私たちの信ずべき神、そして三民一体の神、父なる神、子なる神、イエス・キリスト、そして精霊の神、このお方を神様の誠の正しい祝福の流れとして私たちは今そこにいるわけですね。
39:14
そしてその祝福の流れが、今度このルターたちの起こした運動によって、本来もう一度あるべき姿に教会が戻るべきだ、戻りましょうと提言したそのことがまた一つの運動となって、いやお前たちのいうことはまかりならん。
それは教会にとって不利になるわけですし、自分たちのやっていることを指摘されたというその悔い改めを彼らは持たないで、そのまま今までどおりの教会の姿を保っていこうとする。
しかしそれにはどうしてももう一緒にはやれないという、そういう運動でありますから、悔い改めて元の姿に戻ってくれないならば、私たちが本来あるべき教会の姿を受け継ぐ者として、たもとを分かつということになってしまった。
結果としてそういうふうになってしまった。
そして今日ではローマカトリックの流れと、そしてプロテスタントの流れというふうになっているわけですね。
これが人間のやっていることです。
それ自体が神様の御心を知らない私たち人間罪人のやっていることなんですね。
どの人たちのおそらく主張もそれなりの思いがあったり、自分たちの信ずるものがあそこにあるわけです。
ですからこの運動によって教会のあるべき姿をもう一度取り戻そうとした、そういう人たち、彼らは彼らの主張をここに起こして、そしてできたこのプロテスタントの教会。
このプロテスタントの教会もまた、これは分裂とかそういうものではないんですけれども、それぞれの主張があったり、そのどこに重きを置くかということにあって、
ルター派の教会とかカルバン派の教会とか、あるいは英国国教会とかセイコー会とかバクテスト派とか、そういうような教派、教団とか、そういうふうにして今いろんなこの流れの中に教会があるわけですね。
42:05
私たちもその福音派と言われるプロテスタントの流れの中の一つの教会に属している。
考えてみますと、私たちが教会に導かれた、あるいはそのことを思うときに、私たちがこういう知識を知って、そして事前に勉強して、私はカトリックに行こうかな、私はギリシャ政教かな、それともロシアもいいかな、あるいは英国国教会にしようか、バクテストにしようか、
そういうふうに選んでこの教会に入ったという人は、私は今まで知らないんですけれども、もちろんカトリックに生まれた人は同じとカトリックになっていくというのは聞きましたけれども、
あるいはクリスチャンホームに生まれた人たちがそのお父さんお母さんの信仰にならってそこに所属していくという、それはわかりますが、私のように三十数年全然神様を知らず信仰も持たない、そういう教会も知らない、
そういうものが一体どうして今このプロテスタントのある教会に一つの教会に属しているのか、遡るとそこに何かの出会いがあったり、あるいは誰かの導きがあったりして、決して自分から何か調べたり求めてそこにいたというよりも不思議な神様の導きであった。
それをただただ受け入れて感謝してここに置いてもらっているということに過ぎないわけです。
私たちはこの運動によって起こされた運動の結果としてプロテスタント、大きくプロテスタントとカトリックというふうに蓋を分かつことになった。
ですからもともとカトリックというのはなかったわけで一つでしたから教会は教会としてあったわけですから、ただあの人たちはプロテスタント抗議するものだというその流れができたものですから、
それではこちらはローマを中心とする従来のオソドックスな教会としてローマカトリックというふうに後でつけられたと考える方が正しいんだと思うんですね。
もう一つこの運動によって明らかになったことがあります。それは宗教改革というと少し意味合いが違うと思うんですね。
45:08
改革というのは何か全く新しいものに作り変えていくというそういうニュアンスがありますけれども、これは決して何かあるものを壊してそして新しいものを作り出すというそういうものではなくてむしろもう一度原点に帰りましょうということであるわけですね。
何をルターたちは主張したのか。何をもう一度原点に帰りましょうと言ったのか。それを一つは聖書のみに権威を置くということであります。神の言葉だけが私たちのよりどころなんだということ。
当時いろいろな権威がありました。教皇の権威とかそういうものがありましたが、そうじゃない権威はただ聖書にある。このカトリックとプロテスタントの印刷物を見ていただいて確認しておきたいと思いますが。
まず第一に信仰のよりどころとなる基準に違いがあります。カトリックとプロテスタントの違い。プロテスタントでは聖書のみを神の啓示、神の言葉としています。聖書だけを転挙とするのです。一方カトリックでは聖書とともに聖伝伝承をも神の啓示として認めています。
しかも聖書のうちに聖伝としては根拠のない該伝までも含めています。またローマ法王の語る言葉は無病であるとして神の啓示に等しいものとして扱われています。しかしプロテスタントでは聖伝や法王の言葉は誤りを含む人間の言葉だとしてその権威の絶対性を認めてはいません。
聖書から逸脱したカトリックに対し聖書に還れというのが宗教改革の原点でもありました。
もう一つのことは私たちの救いは信仰によってのみ与えられるんだということですね。ですから免罪婦お金によって罪許され救いが与えられるということはとんでもないこと。
これも決して新しいことではない。既に聖書は語っていることですね。先ほど読んでいただきました。立法の行いによって救われるのではない。ただ信じる信仰によって義と認められるのです。
キリストを信じる信仰によって義と認められるのです。行いによって義と認められる者は一人もいません。
ここにもう一度私たちは立ち返るんだ。これが本来の教会のあるべき姿だ。そのようにルーターたちは主張したわけです。
48:07
3つ目はキリストが教会の頭である。ですから信仰者は全て神の前に平等であって誰でもが直接神様と交わり神の導きを受けて必要であれば最終の働きも果たすことができる。
当時は神がいてそして神徒がいます。その間に教会というのがあって教会がその間を取り持つ。特に聖書はラテン語で読まれたり解釈されていましたが一般の人たちはラテン語がわからないわけですね。
ですから教会あるいは聖職者たちは自分の都合のよいように解釈もしてみんなに教えることもできたわけですね。そういうことがないように私たちはもう一度キリストが教会の頭であってそしてその下に信仰者全てがいてそして直接キリストと交わることができるんだ。
そしてもちろん法師者として教職者とか長老とかそういうものはありますけれどもそれは法師の一つのあり方として決してそこに権威があったりその人たちの何か導きがない許可がないと祈れないとかあるいは許しをいただけないとか罪が許されないとか救われないとかそういうものではない。
神が直接その一人一人に恵みと祝福とまた癒し許しを与えてくださるんだということですね。私たちも誰かを取り成すというそういう働きもさせていただける。そんなことをそれは全て聖書に書かれてあることそれが本来のあるべき姿なんだ。
そのことを彼は訴えたわけですね。
今日覚えなければならない大事なことそれはカトリックとプロセスタンとの違いが何なのかということではありません。私たちがもう一度あるべき姿に変えることルターが願ったように教会が本来の教会のあるべき姿に戻ってそして謙虚に主のもとに行ってこんな罪人の私をお許しください。
そういう姿ですね。そして神を愛し隣人を愛し礼拝を守りそしてお互い祈り合い支え合っていく。もしそこに罪があったならばそれを神様が癒してくださるように。
人を裁くな裁かれないためである。全て聖書に書かれてあることですよね。そういうものを私たちがしっかり神の言葉に従って歩んでいきましょうという。それが信仰者のあるべき姿にもう一度戻りましょう。
51:19
それがルターが願ったことでありますしまた神様がそれを願っておられるということですね。
そのためにはもう一度私たちも聖書に帰ってそして神の言葉に従う。そういうことを今日もう一度確認してそしてさらにこの神を愛し隣人を愛するものとさせていただこうとそのように思うわけですね。
ルターが当時の教会社会あるいは信仰者たちを見てこれでいいんだろうかと彼は思ったわけですね。あるいは神様に示された。それをそのままにしておかないで彼は立ち上がったわけですね。
これが彼のスピリットであったわけです。目をつぶってみんなと同じようにこれよくないなと思いながらそのまま流されていく。これは容易なことです。絶やすいことですね。しかしそれに抗議して立ち上がるということ。これが彼のスピリットであった。
こういうスピリットを私たちも失わないでこれからの教会もこれを受け継いでいかなければいけないんだ。いいものはいいとしてそれを感謝する。しかしこれはどうだろうか。こんなままでいいんだろうかと思ったときにはそのままにしておかないでそこで立ち上がるということですね。
そしてみんなでそれに乗り越えられるように祈って歩んでいきましょう。そのスピリットをまた与えられるように祈りたいと思います。長くなりました。お祈りします。
この抗議はしたことを覚えたわけですが、このスピリットは今も私たちが教会として受け継ぎ、そしてあるべき姿を保つことができるように、そして私たちの罪をこの教会の頭なるイエス様に持ち出して、そして許していただき、
そしてまたこの福音を全世界に延べ伝えていくものとして用いてくださいますようにお願いいたします。今日のこのひととき心から感謝し、イエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします。アーメン。