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2025-03-02 30:41

2025/03/02:キリストの教会が建つ

2025/04/02 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -20


サマリー

このエピソードでは、教会が信仰告白の重要性について話され、ペテロの告白とイエス・キリストの教会の関係が探求されています。また、教会が存在する意義や神の愛と力についても触れられています。さらに、教会がイエス・キリストの信仰告白の上に立つ重要性が説明され、教会が神から与えられる鍵の象徴的意味も解説されています。ペテロの名前の変更を通じて、神の約束と人の成長について考察されています。イエス様はペテロにその脆さを理解しながらも教会を建てる約束を与えました。このエピソードでは、神様の熱情と人間の脆さを信じて教会に対する期待と信仰が語られています。

教会への招きと感謝
それでは一言お祈りを致します。
天にいます私たちの父よ、皆が聖なるものとされますように、
御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように。
天の父なる神様、今朝も私たちを主の御前へと招いて下さり、
あなたを仰ぎ、礼拝ができます幸いを心から感謝を致します。
本当に気候も暖かくなってきて、私たちの心も少し穏やかになるような気持ちですけれども、
まだまだ気候が、体がしんどい季節が続きます。
どうかお一人一人を支えて下さり、あなたの恵みによって立たせて下さいますようにお願いを致します。
あなたは私たちに限りない愛を示して下さいました。
教会に掲げられる十字架は、
罪人であるあなた方一人一人を見つめてなお、そこに私の命を捧げてなお惜しくないと言われるほどの、
あなたの限りない愛の現れです。
その前に私たちはいつも神戸をたれています。
そして主御自身が、私たちを変わらない愛をもって愛し、
私たちに永遠の命を与え、主と共に生きる新たな命を生かして下さっていることをありがとうございます。
あふれんばかりの恵み、それに目が閉じ、耳が閉じやすい私たちです。
どうか主が御言葉を持ち、私たちを開いて下さって、
あなたを仰ぎ、あなたの前に生きるお互いとならして下さい。
あなたが共におられる力強さを教えて下さいますようにお願いを致します。
御言葉を開いて下さいますように、あなた御自身が語りたいことを語って下さいますように、
私も含めあなたの御前に来ることができますようにお導き下さい。お願いを致します。
ここに来たくても来れないお一人一人がいらっしゃること、
御自宅におられる方、施設におられる方、心が痛んでおられる方、
お一人一人憐れんで下さり、
あなたの御手の内にどうか握り続けて下さいますようお願いを致します。
これからの時を御手に委ねをして、イエス様の御名前によってお祈りを致します。アーメン。
ペテロの告白の重要性
先週、私たちの教会では総会を迎えました。
皆さんと御一緒に次年度の計画と予算を承認いたしました。
またそこで役員選挙も行われました。
お一人一人が祈りを持って投票して下さったことを覚えて感謝をしております。
4月より新年度に進んでいきます。
私も新たに宮谷教会のこれからということを考える上で、一つ心に浮かんでいる言葉があります。
それは、教会は教会になっていかなければならないということです。
教会は教会になっていかなければならないということです。
年間評価として、神の家族としてという言葉も挙げさせていただきましたが、
同じ意味を込めています。教会は教会になっていかなければならない。
教会はこの世で成功している企業を目指すのではありません。
教会は地域に有益なNPO法人を目指すのでもありません。
当然そこから学ぶべきことはたくさんありますが、けれども教会はそれを目指しているのではない。
教会はキリストを頭とする教会になることを私たちはご一緒に目指していくわけですね。
ただ教会が教会になると言いますと、それが何を意味するのか分かりにくいでしょう。
清書から今日も今後も見ていきたいと思いますが、今朝の箇所はその一つ、
教会が教会になるということがどういうことなのか語ってくれている箇所であると思います。
ご一緒に少し二つのポイントで見てまいりたいと思います。
一つ目、この教会というのは信仰告白の上に立つ教会であるということです。
教会は信仰告白の上に立ちます。
今朝16章を読んでいただきました。
このマタイの16章と言いますのは、14章から一つのテーマが続いております。
それは何かと言いますと、イエス様に対する人々の様々な期待が現れてくるということです。
14章にも出てきますが、最初に14章ではこのヘロデが、
あれはバクテスマのヨハネではないかということを言いますし、
また、読んでいただくならば、14章の26節、古状で見たイエス様を指して弟子たちは、
あれは幽霊ではないかということを言います。
そのように、これまでイエス様は様々なことをなさってきたわけですが、
みんな口々に、イエス様はあれではないか、これではないかということを言い始めたのですね。
今日読んでいただいたこの14節にも、イエス様がペテロに対して、
人々は人の子を誰だと言っていますかとお尋ねになった。
ペテロは答えますね。彼ら、弟子たちは言いました。
バクテスマのヨハネだという人たちもエリアだという人たちもいます。
また他の人たちはエレミアだとか、
預言者の一人だとか言っていますと。
イエスキリストはバクテスマのヨハネ?エリア?もしくはエレミアや預言者?
確かにそのように言われるのは当然かもしれません。
イエス様はこれまで、パリ最派や立法学者たちには物を辞せず言い返してこられました。
ちょっと前の15章では、彼らは悪いパンダネだという通列な批判を加えていますね。
その姿はあたかも、何百人のバールの預言者に一人で退治したエリアのような、
そのような姿に人々には見えたかもしれませんね。
国の指導者に対して歯に衣着せずに、神様の御心をまっすぐに解く姿は、
まさにエレミアの姿に重なったかもしれません。
だから人々は、そういう人たちなんじゃ、そういう人なんじゃないかと思った。
ただ、このマターの福音書自身が語りますが、11章の13節に既に、
いや、預言者はバクテスマのヨハネの時代で終わったんですよということが語られるわけです。
イエス・キリストはこれまでの預言者のようなお方ではない。
じゃあイエス様は何者なのか、ペテロがはっきりと告白をいたします。
16章の16節にペテロが答える言葉があります。
諮問ペテロが答えた。
あなたは生ける神の子キリストですと答えるのです。
あなたは生ける神の子キリストですと。
これは信仰告白ですね。ペテロの信仰告白です。
生ける神の子キリストというのは、先日目で言えばそれは、イエス様こそ誠の王ですという告白です。
イエス様こそ誠の王ですという告白です。
詳しい話をしますと、神の子という呼び名は旧約聖書では王様に向けて使われる言葉なんですね。
ですからこれは王である。
これまでバクテスマのようなものを語ってきましたが、新しい王様がやってきて、まさにローマ皇帝でもなくヘロデでもなく、新しい王がこの世界に新しい支配を始めた。
そのような新しい誠の王、あなたこそそれですと。
ペテロはこれまでいろんな人が気づけなかったそのイエス様の姿に気づいて告白をするのです。
イエス様はその告白を喜ばれます、17節に。
するとイエスは彼に答えられた、バルヨナシモン、あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられる私の父ですと言いますね。
ペテロが誰も気づけなかったイエス様が、ああでもこの方は誠の王なんだと気づけた。
これは人間の理性とか血肉の力じゃない、神様によらなければそれを知れなかったでしょうと言うんです。
これは今も同じですね。私たちが神様を信じれているというのは不思議なことですよ。
でもこれは神様が私たちに信じさせてくださったんですよ。これは本当にその通りですね。
だから不思議なことを信じている集団だなと思われるかもしれませんけど、
私たちは本当に信仰の確信が与えられるのは、精霊様によって神様が私たちに確信を与えてくださるんですよね。
そして私たちの神様を握る力は弱いですね。何かにつまづくと手を離してしまうのが私たちの現実ではないでしょうか。
しかし私たちが神様を信じれなくとも、神様は私たちを信じていてくださり、神様が私たちを握っていてくださるというのが信仰というものです。
大事ですね。信仰というのは私が神様を握ることじゃないです。
信仰というのは神が私を握っていてくださるという、神の手を信じることです。
それ故に、12章の32節というところ、詳しくは見ませんけれども、
教会の構造と解釈
精霊が、12章の32節というところでは、
精霊に逆らうことを言う者はこの世では次に来ぬ夜でも許されないという言葉がありますね。
これ厳粛な言葉です。
私たちがまさに神様の握る手、あなたを握ろうとしている手があるときに、
それに気づきながら、いやいやってことを言い続けると決して救われることはできないんだよと。
神様の握る手を信じていただきたい。これは本当に私からの願いです。
神様があなたを握っている手を信じていただきたい。そう願います。
さて、ペトロの告白に戻りますが、
この16章の18節というところをお読みしますと、イエス様は続けてこう言われました。
そこで私もあなたに言います。あなたはペテロです。
私はこの岩の上に私の教会を建てます。
闇の門もこれに打ち勝つことはできませんというのですね。
これはルカにはなかったんじゃないかなと思います。
伝統的にこの岩の上に教会を建てるというイエス様のお言葉。
カトリック教会はちょっとだけ話をします。
カトリック教会はこの岩というのはペテロだと考えて、ペテロを初代教皇にして、
教皇の権威によって教会が建つと解釈をします。
だからカトリック教会はこの言葉を根拠に教皇権があるんですけれども、
ただプロテスタントはそう理解しませんで、
私たちはこの岩というのをペテロの信仰告白の上に教会を建ったんだというふうに理解をいたします。
教会の信仰告白
教会はいわば神様の霊によって導かれて、
本当にイエス様は私の誠の王であり主ですというその告白の上に建っている。
そのように理解をするのです。
そしてその教会に対して19節ではイエス様はこう言われましたね。
私はあなたに天の御国の鍵を与えます。
あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、
あなたが地上で解くことは天においても解かれます。
いわゆる神学用語では鍵の剣の王とよく呼ばれますけれども、
教会でつながれるというのは先例ですね。
つながれるならば天においてもあなたはつながれ、
教会で解かれるというのは回帰ですね。
でも教会で解かれるならばそれは天においても解かれる。
いわば教会というのはその人の神にある性を左右する責任を担います。
とてつもなく重いです。
とてつもなく重い剣王です。
そのような剣王を委ねられるがゆえに、
私たちは教会が教会であるということが尚のこと大事なんですね。
さて、じゃあ教会が信仰告白の上に立つというのはどういうことなんでしょうか。
それはイエス様は生ける神の子キリストである。
イエス様は私の誠の王であるという告白。
ローマ書でパウロは、言葉は違いますが似たような言葉を使いますね。
皆さんよくご存知のローマ書の10章の9節というところで、
パウロはこういうことを言いましたね。
ちょっとだけ読みますので聞いておいていただけたらと思いますが、
ローマ書の10章の9節というところをお読みしますと、
こういう言葉があります。ローマ書の10章の9節。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中から甦らせたと信じるなら、
あなたは救われるからですという言葉があります。
同じことですね。もしあなたの口でイエスを主と告白する。
イエス様は私の主です。私の王です。
そう告白をするならば、心の中で信じるならば、救われる。
教会が信仰告白の上に立つというのは、
このイエス様は私の主ですという告白にかなう生き方を教会である私たちがするということでしょう。
イエスが与える鍵
イエスは私の主であるという告白にかなう生き方を私たちがするということでしょう。
イエス様は私の主であるという告白にかなう生き方、どういうものでしょうか。
なんか難しそうですね。
ただ一つこれを書きながら思い出したことがありました。
皆さんご存知でしょうか。10年ほど、10年以上前かもしれませんね。
私が学生時代に流行ったゴムバンドでね。
WWJDというゴムバンドが流行ったのご存知ないですか。
あんまり知らないです。
そういうのが書かれたゴムバンドをつけるというのが流行ったんですよ。
WWJDと。
調べて調べますと、これはアメリカの100年くらい前の小説に元ネタがあるそうなんですが、
これは何かといいますと、WWJD、いわばWhat Would Jesus Do?です。
What Would Jesus Do?の頭文字をとってそのゴムバンドに刻まれている。
いわばイエス様ならどうするかという問いかけです。
イエス様ならどうするかという問いかけですね。
学生時代みんなよくそんなのつけるなと思って見てましたけど。
でも改めて今思うと、そのバンドを自分の身につけているというのは、なるほどなと思います。
イエス様ならどうするんだろうという問いかけをいつも自分自身にかけている。
イエス様は私の主だという告白も同じでしょう。
私はこのお方を主として生きている。
私の主であり王であるとしている。
私はイエスキリストの弟子である。神の子である。
そう思う時に、私はその言葉を告白にかなっているのだろうか。
イエス様ならどうするという問いかけを自分自身に、誰かにあてはめるんじゃないです。
自分自身に引き受ける。
私は本当にイエス様を私の主人として生きているか、
イエス様のように発言し、
イエス様のようにその話を聞き、
イエス様のように相手を理解し、
イエス様のように正しくあり、
イエス様のように相手を許し、
イエス様のように愛しているだろうか。
そう自分自身に問いかけるということですよね。
で、問われれば分かります。
私はどれほど主から遠いのかということです。
しかし、ある種そのイエス様と私という距離の遠さを自覚しながら、
ごまかさずに、
嘆いて終わらずに、
主の憐れみにすがりながら、
一歩一歩イエス様に向かって進んでいく。
そうでなければ、
イエスは私の主ですという告白は中身がありません。
境界が立つというのは建物が立つことじゃないんです。
境界が立つというのは、
真摯な中身のある信仰告白に、
境界である私たち一人一人が立つということです。
そしてその世に生きる私たちのその最中に、
十字架に架けられたイエス様が立ち上がってくるんですよね。
私たち、これは改めて準備しながら、
あ、WWJD懐かしいなと思いながら、
私自身に問いかけていることです。
私はどれほど主から遠いだろうか。
でもその遠さをごまかさずに、
逃げてはいけないんだなということを、
改めて思わされているところです。
さてそのような信仰告白の上に立つ境界ですけれども、
もう一つ私たちが目を向けなければならないのは、
キリストがこの境界をたたやげてくださるということです。
キリストがこの境界をたたやげてくださるということです。
私たちはそのような信仰告白に立って歩むことを願いますが、
同時に境界は主イエス様が立ててくださるということ、
これが大切な約束です。
もう一度この16章の18節の言葉に目を止めますが、
こういう言葉がありますね。16章の18節。
そこで私もあなたに言います。
あなたはペテロです。
私はこの岩の上に私の境界を建てます。
黄泉の門もそれに打ち勝つことはできません。
ここでイエス様はペテロとこの弟子シモンを呼ぶんですね。
シモンに対してペテロという新しい名前を与えるのです。
このペテロという名前の意味は下の注釈を見ていただくと分かりますが、
これは石という意味です。石ですね。
私はこの岩の上に境界を建てると言いますから、
いわばそれは建物を支える土台の石のことを言っているのでしょう。
イエス様は山上の説教で岩の上に自分の家を建てる人は
洪水が押し寄せても風が吹いても倒れないということをおっしゃられましたけれども、
そういう硬い土台にペテロがなるということをイメージなさったのではないでしょうか。
ただどうでしょう。
神の約束と人の成長
彼は果たして硬い石のような人物だったのでしょうか。
私たちはそうではないことをよく知っています。
例えば16章この後の直後ですね。
イエス様がペテロたちに対して私は十字架に向かうんだよということを語ったときに、
ペテロはイエス様を脇にお連れして22節に言いますね。
主よ、とんでもないことです。
そんなことがあなたに起こるはずがありませんというのです。
あなたは生ける神の子キリスト、あなたは私の誠の王ですと告白をしながら、
その舌の根も乾かないうちに早速イエス様に対して進言をするんですよね。
とんでもない、そんなことは起きないでしょうと。
いわばこれは彼の行動と告白がちぐはぐなんですよ。
後に彼は三度イエス様を知らないと言いますね。
マタイでいうと26章に書いてあります。
そういうところを見ても私たちはペテロが堅いとは到底思えないわけです。
堅くはない。
彼は脆い石である。
本当に彼がペテロでよいのですか、イエス様は人生ミスなんじゃないんですかと、そのようにすら見えます。
しかしながら私たちを思い出したいのは、旧約聖書でもそうですが、神様が人に名付けるときにはおそらく二つほど意味があるんです。
一つは、その人が試練を通してその名にふさわしい性質を身に付けたときに名前が与えられる。
ヤコブがイスラエルになったときなんかそうですね。
試練を通して神と格闘をして、あなたは神と格闘するものになったと言ってイスラエルという名前を与えられますよね。
しかしもう一つこの名付けに意味があるとするならばそれは、その名にふさわしいものに私がするんだという神様の約束です。
その名にふさわしいものに私がするという神様の約束です。
ちょっと開くとあれなのであれですけれども、創世紀の17章の5節というところも、これは私が読みますね。
創世紀の17章の5節というところでは、アブラハムの名付けの歌唱ですけれども、こういう言葉があります。
創世紀の17章の5節。4節から読みましょうか。
これがあなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名はもはやアブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。
私があなたを多くの国民の父とするからであるというのですね。
この時アブラムは99歳であると書かれています。17章の1節に。
ペテロの選びと教会の建設
99歳。しかも聖書だけで見るならば、神様が10年以上沈黙されてからの言葉です。
現実的にはその状況だけを見るならば、多くの国民の父とすると言われる、そうなるような要素は何一つないんです、ここに。
しかし神様はアブラムに対してそうご計画を持たれたんですよ。
そしてそのようにアブラハムを導かれる、それは神様の御手によって、神様の尽きない熱情によって、そのようにアブラムはアブラハムとされていきました。
この歌詞を読む時にペテロも同じだなと思います。
脆い人シモンをイエス様ペテロと名付けました。
それはその名の通りに私がするというイエス様の熱情ではないでしょうか。
シモンは脆い石ですが、神様はそのシモンの脆さをご存知で選びながらペテロと名付けたのです。
それはあなたが今そうなり得る要素が全く見えなかったとしても、あなたがどれほど脆かろうとも、私の神の力によってあなたを堅固なものに変えるのだと。
そういう約束の込められた名付けではないか。
そしてイエス様は言われたのです。
私はこの岩の上に私の教会を建てると。
この約束の通りペテロは後に立派なリーダーになっていきますね。
私たちも今朝この御言葉を約束として受け取りたいと願っています。
16章の18節。
私はこの岩の上に私の教会を建てますと。
そうすると約束されるイエス様をあがなければなりません。
岩の上にというのは私たちの真摯な信仰告白の歩みであり、岩の上とはそれは脆くそうなり得る要素がないような、しかしそのところに私がすると言われる神様の約束。
その二つが私は重なっているように思います。
私たちは脆い石かもしれません。
自分自身を見ても自分の脆さにとても嫌になります。
教会という交わりを見ましても私たちの理想と現実には開きがございます。
時に、時にですね、これが教会かと思うことがないわけではないでしょう。
そしていつもサタンはそのような思いを抱かせては私たちの足元を救うのです。
現実を見ろと。
どこに教会があるんだ。
偽りばかりではないかと。
私はつくづく人間は誰も不完全だなあということを私自身も含めて思わされます。
ただ、私たちがもしもそのようなサタンからの声に、しるぞけサタンと言いうるならば、私たちはやっぱりイエス様の名によってでしかそういうことは言えない。
互いを見ても、世界を見ても、自分自身を見ても、光が見えないなあと思う時、私たちが見なければならないのは、私を、そして私たちのこの教会を意思とすると約束された、私たちの上に教会を建てるのだと言われた、このイエス様を見なければならないなあとつくづく思います。
ここには私にはそうなれる要素はありません。
そう思いながらも、ただ、あなたがしかしその私を見て約束してくださっていること、あなたのこの教会に対する熱情、私に対する熱情を私は信じます。
そういうことを私たちは信じたいなあと思うんです。
その他、私たちを私を固い石にしてください、固い石にしてくださいと。
あなたの教会を建て上げてくださいと、そう祈らざるを得ないなあと思います。
余談ですが最後、ペテロという人物はローマで逆さ十字になって殉教いたしました。
伝承では最後、ペテロは自ら望んで逆さ十字を望んで言ったということが言われています。
それが固さなのかどうか分かりませんが、でもそれはイエス様を愛して彼はそう言うんですよ。
キリストと同じ死に方など私には忍びない。どうか私を逆さ十字にしてくださいと。
最後、彼が固くたったその固さというのは、イエス様を愛するというところの固さだなあとつくづく思わされます。
信仰と神様の熱情
私はこの岩の上に私の教会を建てますとイエス様は言われる。
私たち一人一人へ、教会に対して神様の熱情は絶えない。
何があろうともね、神様は三和谷教会の頭ですよ。
そのことを私も信じていますし、そのことをご一緒に真摯に仰ぐお互いでありたい。
このお方の前に恐れ、このお方こそ私の王です、主ですと恥じずに告白ができる。
そのような教会にならしていただきたい。そのように願います。
一言お祈りをしてメッセージを終えます。
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