1. 名谷教会
  2. 2012/03/25:聖日礼拝(旧音源)
2012-03-25 38:24

2012/03/25:聖日礼拝(旧音源)

2012/03/25 聖日礼拝(旧音源)


00:00
御着席ください。聖書を読んでいただきます、森谷兄弟に、今日の箇所は、マタイの福音書二十章十三から十六節です。新約聖書四十ページです。
しかし、彼はその一人に答えて言った、友よ、私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と出鳴りの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。
ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけあげたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという方がありますが、それとも、私が決めがいいので、あなたの目には、
値段ましく思われるのですか。このように、後のものが先になり、先のものが後になるものです。以上です。
では、聖歌第二賛美していただきます、新聖歌百十二番。その後、内田博士より、気前の良い神と題してメッセージしていただきます。
主人公に尽きて、弟子は御徒に父をもたらし、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
03:00
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
06:01
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
09:02
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、
新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、神々の主人公は邪悪なり、新婦への道を渡した前に、
12:04
かつて大きいことはいいことだという、そういうコマーシャルがありましたが、この神は大きなお方、スケールの大きなお方、どれぐらいスケールが大きいのかというのはもう言い表せない、そういうお方であるということ。
いわゆるそれは寛大であるということも言えますが、この永遠から永遠という、私たちにはもう計り知れないほどの大きなお方、何と言ってもこのお方は天と地を創造なさったという、それぐらいの大きなお方なんだということですね。
そういう天地万物、この大自然、すべてをお作りになった、そういう大きなお方なんだという、それはわかるわけですが、ある日本人の伝道者がアメリカの教会に招かれて、説教をするということになったわけですが、
招待した教会は、この人をどのように紹介したらいいのかなということを悩んでおったわけです。
そしてその集会の前の日に、教会はこの伝道者をないあがらの滝に案内したわけですね。
そうしますとその伝道者は、このないあがらの滝を前にして、こう叫んだんですね。
何と素晴らしい、このないあがらの滝、そして我が父よ、これはあなたが作ったものだ、このないあがらの滝はあなたのものだということを叫んだわけですね。
もう感動して、そういうふうに言ったわけです。
そして次の集会の日、その玄関の看板にこのように書かれていたんですね。
ないあがらの持ち主の息子来たる、それぐらいスケールの大きなことだということなんですね。
私たちの信仰しているこのお方というのは、そういうお方に我が子よと言っていただけるという、何と幸いなことかと思うんですね。
ですから私たちも時々行き詰まったり悩んだり、いろんなことがありましたし、またこれからもあろうかと思うんですね。
そういうときに例えば山に行く、そうすると大自然のそういうものを目の前にしたり、あるいは海に行って、そして広いその海の前に立っていると、何と自分は小さいんだろうなと思うんですね。
15:19
この偉大な神とその作られた大自然のその前に立つと、何と小さなことにくよくよしているんだろうかとか、何といつまでもそんな小さなことにこだわっているんだろうか。
そんなことを思わされたり、あるいはそういうときに、それは波の声である波の音なのかもしれませんが、神様の声のようにも聞こえる。
もう小さなことにくよくよするな。もうそんな小さなことはいつまでもこだわるな。
あなたの信じているこの私はスケールの大きな神なんだ。あなたは我が息子なんだという、そういうことを思わされ、あるいは神の声として聞くんですね。
そこからまた立ち上がって、ああそうだなという、そんなふうに思うときがあるわけです。
今日の一つのテーマとして、神様のもう一つの面、それは気前がいいという、そういうことをこの聖書は言っているわけです。
私たちは創世紀の十三章のところで学びましたように、アブラムと老いのロトがふるさとを出て、そして旅に出て、そしてあるところに来たときに、アブラムは言いました。
ロトよ、私たちはそれぞれこれから別に暮らしていこう。別れて暮らしていこう。そして見渡しますと全地が前に広がっている。ロトよ、お前は好きな方を選びなさい。そう言ったんですね。
ロトはそのヨルダンの定地全体を選び取り、その後東の方に移動していった。ロトはソドム・ゴムラのあの近くの広くな見るからに素晴らしい地を選んで、私はこちらの方を選びますとアブラムは言った。
そのアブラムに主は仰せられた。さあ目を上げてあなたがいるところから、北と南、東と西を見渡しなさい。私はあなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
18:01
立ってその地を縦と横に歩き回りなさい。私があなたにその地を与えるのだから。
なんとスケールの大きい。あなたが見渡すその地全部、見える限りのその地、あなたが縦と横に歩き回る、そこをもう全部、アブラムよ、お前に与えようという。
それほどのお気前の良さと言うんでしょうか。スケールの大きさ。そんなこともここから伺い知ることができるわけです。
あるとき主はサムエルという預言者に言いました。当時このイスラエル王国にはサウルという王様がいたわけですが、神様はもうこのサウル王は王としてふさわしくないということをこのサムエルに言ったんですね。
ですから次の王を探すためにエッサイという人のところに行きなさいと。そこでサムエルはエッサイのところに行ったわけです。そしてお前のところに息子がいるだろうと。
その中から次の王を選ぼうと。そういうふうにサムエルは言いまして。最初にエリアブという人を見たときにサムエルはこのものこそ王にふさわしいだろうということを言うと、主はいやそうじゃない、このものではない。
このものこそ立派でそして見るからに王にふさわしいように見えるが、でも神様はそうじゃない。
次にアビナダムという人を見たときにサムエルはこの人だろうと思ったら神様はそうじゃない。
次はシャマという息子。それも違うと神様はおっしゃるわけですね。次から次と7人の息子を見せたわけですが神様はどれも違うとおっしゃるわけですね。
サムエルはエッサイにもう他に息子はいないんだなと言うと、いやもう一人末の息子がいます。まだ小さくて幼い。そして羊の番をしている。そういうものでありますから人の目には到底次の王に選ばれるようなそんな器ではない。
そう誰もが思う。しかし神様はこのものだ。このものに油を注げ、このものこそ次の王にふさわしいのだと。
人の目から見ると本当にちっぽけな貧しいそして羊の番をするしかないようなそういうものであっても神様は神様の目で見るとこのものだ。このものに次の王の位を与えようと。
21:10
そういうふうにサムエルに言ったというんですね。ですから私たちの考え私たちの視点私たちの物差しでは計りきれないそういうものを神様はお持ちである。
賛美いたしましたように私たちにとっては一羽のスズメしかし神様にとってはこの一羽のスズメさえも素晴らしいこの自然とそしてそのものに必要なものは与えようというそういうお方であるということ。
そんなことをこの歌手からも私たちは覚えるわけです。
イエス様の例えの中に宝刀息子の話があります。皆さんもよくご存知でありますが宝刀の限りを尽くしてそしてもうボロボロになって帰ってきた。
そういう弟の息子その息子の帰りを彼はずっと待っていたわけですね。そして息子はいよいよ返信してお父さんのところに帰ってきた。
その時にお父さんはその弟息子のところに近寄りそして走り寄って彼を抱き何と言ったか。
しもべたちにこう言いました。急いで一番良い着物を持ってきてこの子に着せなさい。
それから手に指輪をはめさせ足に靴を履かせなさい。そして越えた拳を引いて彼の玉にお振りなさい。
そして岩王ではないかと言ってのめや歌えやその縮演が始まったというんですね。
ここにもこのお父さんの気前の良さというんでしょうか。
黄ばん振る舞いをするそういうお父さんすなわちこれは神様のことですが私たちの信ずる神というのはそういうお方である。
小さなことにはこだわらない。そして振る舞うときには振る舞うのだ。
それは死んでいたのが生き返りいなくなっていたのが見つかったのだから。
このお父さん神様にとってはこれほど嬉しいことはない。
このときこそこのものを私は喜んでやりたい、憐れんでやりたい、そしていいことをしてあげたいというそういう思いがあふれてくる。
そういう父でありまたそれは私たちの信ずる神なのだ。
24:02
今日先ほど読んでいただきました聖書の箇所このところをもう一度開いていただきたいと思うんですが。
マタイによる福音書の二十章の一節から読んでみたいと思います。
これは天の御国は自分の武道園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
いわゆる私たちが目指す天国それはこういうところだ。
あるいはそこにおられる神というお方はこういうお方なんだということをここに書いてあるわけです。
主人は労務者たちと一日一出なりの約束ができると彼らを武道園にやった。
それから九時ごろに出かけてみると別の人たちが市場に立っており何もしないでいた。
そこで彼はその人たちに言った。あなた方も武道園に行きなさい。相当のものをあげるから。
彼らは出て行った。それからまた十二時ごろと三時ごろに出かけて行って同じようにした。
また五時ごろ出かけてみると別の人たちが立っていたので彼らに言った。
なぜ一日中仕事もしないでここにいるのですか。
彼らは言った。誰も雇ってくれないからです。
彼は言った。あなた方も武道園に行きなさい。
こうして夕方になったので武道園の主人は監督に言った。
労務者たちを呼んで最後に来た者たちから順に最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。
そこで五時ごろに雇われた者たちが来てそれぞれ一時出なりずつもらった。
最初の者たちがもらえに来てもっと多くもらえるだろうと思ったが
彼らもやはり一人一出なりずつであった。
そこで彼らはそれを受け取ると主人に文句をつけて言った。
この最後の連中は一時間しか働かなかったのにあなたは私たちと同じにしました。
私たちは一日中老苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。
しかし彼はこの武道園の主人はその一人に答えて言った。
友よ私はあなたに何も不当なことはしていない。
あなたは私と一出なりの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。
ただ私としてはこの最後の人にもあなたと同じだけあげたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという方がありますか。
27:05
それとも私が気前がいいのであなたの目には妬ましく思われるのですか。
このように後の者が先になり先の者が後になるものです。
これは読んでそのままのことですが、
このところ私たちは誰に自分を置くかということで、
このところのメッセージがいろいろ変わってくると思うんですね。
自分は一番最初に働きに行った者として見るならば、
おそらくこの文句を言った人と同じように思うでしょう。
私は朝早くから夕方までロークと焼けるような暑さの中で辛抱して一生懸命働いたんだ。
なのにというそういう思いが湧いてきても当然かなと思います。
しかし私は12時に働きに行った人なのかもしれない。3時かもしれない。
あるいはもう今日は仕事にありつけないかもしれない。
このままだったら明日どうしようか。
明日の生活費をどこでどうまかないはいいんだろうか。
そういう不安の中に一日過ごした。
しかしもう5時夕暮れ時に武道園に行きなさいと言っていただいて、そこで働くことができた。
そういうものはそれなりの思いがあるでしょう。
それともう一つはここにありますように、
武道園の主人として私たちがそのところに立つならば、この武道園の主人が言っていることにも私たちは思いを重ね合わせていくことができるわけです。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としてはこの最後の人にもあなたと同じだけあげたいのです。
一日一出なりの約束をした。それは私としては約束を果たしましょう。
しかし9時に来た人も12時に来た人も3時に来た人も5時に来た人もみんな同じように私はあげたいのです。
この武道園は私の武道園です。この武道園を所有し運営しているのはこの私です。そして契約をし賃金を払うのもこの私です。
30:08
この私がしたいようにして何がいけないのですか。
それともあなたは私が気前がいいのでネタましく思うのですか。私の気前の良さにそれは3時5時に来た人にも同じようにするというそのことがあなたにとっては気に入らないのですか。
でも私はそういう気前の良いものなんです。ただそれだけなんです。
したいようにしたい。私はこの最後に来た人たちにも同じようにこれから生活していくだけのものをあげたいのです。
最初から来た人たちあなたたちは朝早くに仕事にやりつけて今日の1日これで何とかやっていける。
明日からのまた生活も日も稼げる。そういう安心を得たでしょう。それでいいじゃないですか。
その平安に対してその報いを平安とその労働の報いを約束通り受ければいいじゃないですか。
しかしこの最後に来た人たち彼らは本当にこの不安の中に過ごしていた。
そういうことをこの主人が思い合ったときにこの人たちにも同じようにしてやりたい。
ですから私たち人間が思う価値観あるいは理屈それはこの主人が考えていることとは違うのかもしれない。
しかしそれがこの天の御国、神のおられる国でのことなのだ。
その神は気前の良いお方だから自分のしたいようにするのだ。
このお方はあげたいと思うときにはあげたい。
この気前の良さというのは実はこの主人の優しさでありあるいは憐み深さでありそしてこの愛の現れであるということ。
それがここに現れているわけです。何時間働いたからこうだ。
あるいは私はこれだけ働いたんだから、あの人がこれだけだから私はもっともらえる。
そういうものではない。ただ私は主人としてあげたいときにはあげたい。
33:04
差し出すときには差し出す。そういうことをここで言っているわけです。
そういうこの武道園の主人、それが天の御国の私たちの信ずる神様。
大きなお方でありまた寛大なお方でありスケールの大きなお方でありまた気前の良い横断振る舞いをするそういうお方であるということです。
このように神は自分がこれを差し出したいそういうと思うときには惜しみなくそれを差し出される。
そういうお方であることがここからわかるわけです。
この神が考えられた。私はこの人類の全てを彼らを罪から救いたいとそう思われたときに
神自ら生贄となる以外にこの救いは成就しないとそのことを思われたときに
何を生贄として捧げたか。それは巫女イエスを生贄としてそれを差し出すということを決心なさったんです。
おそらくこの気前の良いあるいは横断振る舞いをするあるいは自分が差し出したいというときに差し出す。
その裏にはもちろん心の痛みあるいは自分自身の苦しみというものが伴うときもあります。
いつもいつも人の目に気前の良く映ったとしてもそのうちに心が痛むそういうこともあろうかと考えられます。
特にこの巫女イエスを差し出すというこの私たちにとって気前の良さその背後にはこの方の苦しみと嘆きあるいは痛みが伴ったことは当然であろうと考えられます。
しかし私がしたいようにするのだ。私はこのときこそこの巫女イエスさえも惜しまずに私は差し出すのだ。
そのことを考えられたときにこの方はそれをなさったということ。
私たちはこのことをもう一度覚えるときにこれが十字架の意味なのだ。十字架による上がないというのはそういうことなのだ。
36:00
神が巫女さえも惜しまずにそれを差し出してくださったそういうお方であるということを私たちは今日もう一度覚えて十字架を仰ぎたいと思います。
神が私たちを愛し私たちのなだめの備え物としての巫女を差し出してくださった。そして巫女はその十字架におかかりなさった。
ここに愛がある。このスケールの大きなそして寛大なそして気前の良いそういう神はこの巫女さえも私たちのために差し出してくださる。
そういうお方であることをこの受難節のこのときもう一度覚えて死をあがめて進んでいきたいとそう願っております。
お祈りをいたします。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという方がありますか。それとも私が気前がいいのであなたの目には妬ましく思われるのですか。
天の神様今日も御言葉を通して私たちの信ずる神様のいろんな面を見せていただきありがとうございます。
私たちのまだまだ知らないこの神様のお心とまたこのお方がどういうお方であるのかを聖書を通して知ることができることを感謝をいたします。
今日は気前の良いその寛大なお方であるということそしてどんなものをもこよなく愛して私たちの罪のあがないのためには巫女さえもします。
それを差し出してくださるこのお方を我が神と信じてまたこれからもここから歩んでいくことができるようにどうぞ私たちをお導きください。
この御言葉を心から感謝し主耶様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
38:24

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