1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/01/13:聖日礼拝(旧音源)
2013-01-13 31:50

2013/01/13:聖日礼拝(旧音源)

2013/01/13 聖日礼拝(旧音源)


00:01
おはようございます。
礼拝のプログラムが一つ一つ、祝福されていますことを感謝いたします。
御言葉の時が来ました。
一言お祈りをして、今日の歌唱を開いていきたいと思います。
愛媛深い天の父なる神様、
こうして、ご精霊がお一人お一人をここへ導いてくださり、
今、礼拝を捧げています。
どうぞ、心からのあなたへの賛美とまた祈りと、
そして、あなたへの献身が受け入れられて、
そしてまた、あなたからの豊かな恵みと御相手をいただいて、
ここから出ていくことができますように、
この礼拝の御言葉の時も祝福してください。
私たちがどこにいようとも、
あなたは共にいて、そして支えて導いてくださるお方であることを今日も覚えます。
ここまであなたが共にいてくださり、
同じ巣が今ここにおられ、
そしてまたこれからも、
私はあなたと一緒に行くであろうと言ってくださる巣が、
私たちの巣であることを今覚えることができるように、
そして、私たちがこれからの歩みの中にも、
どうぞ巣が共にいてくださることを信仰を持っていつも覚えながら、
またその巣の御愛を一心に受けながら、
そして神を愛し、また隣人を愛する愛へと導いてくださることをお願いをいたします。
今日も御言葉が開かれていることを感謝をいたします。
御言葉を通してあなたの御思いを教えてください。
私たちもただただあなたを見上げて聞くものとしてくださるようにお願いいたします。
巣をお語りください。
しもべは聞きますと、その思いを持って今からの一時を過ごさせてください。
またそれぞれの置かれた場所において、
二人きりになった時も巣をお語りください。
あるいは祈祷会、集会で共に祈る時、
そこにも巣がいてくださって私たちに導きを与えてくださるお方を心から覚えて、
そしてこのお方を信頼また委ねて共に歩めますようにどうぞ導いてください。
今日ここに来れたことを感謝をいたします。
夜明けを覚え、また事情があって来れなかった人たちの上にも、
今あなたがそれぞれに臨んでくださるように来てある時には、
またこのところであなたを賛美礼拝できますようにどうぞ導いてください。
03:01
連ねてキュウキリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン
今日はマルコの福音書の14章を開いています。
読んでいただきましたことを感謝いたします。
今日のテーマはその中にありましたように油でありますが、
この聖書には油というのがよく出てきます。
この聖書の世界、聖書が描かれている地理の世界、
その地域自体が今日のパレステナあたりとか、あるいは中海が舞台になっている。
そういう意味でもオリーブ油のことを思い浮かべます。
そしてこの新約聖書の中に、
イエス様がいつもこの月狭めの園で祈られたというその月狭め、
これが油絞りという意味だそうです。
誰かが旧約聖書にも油が出てきます。最初の方に出てきますね。
どこですか。油とハムが出てきます。
油ハム。それは違うんですね。
アブラハムですね。
アブというのはお父さんのことで、
ラハムというのは多くの国民のというそのアブラハムでありますが、
今日の課題に出てくるこの油、
それが三節に出てきました純粋で非常に高価なナルド油の入った石膏の壺を持ってきたと。
この高油は300デナリー以上に売れるかもしれないというようなことも書いてありました。
このナルド油ですが、これはサンスクリット語の香ばしいという意味のナラダから来ているということですね。
ヒマラヤ原産のお見返しかの多年生倉庫の天町。
またその根から取った高油のことで大変高価なものであった。
300デナリー以上に売れたという石膏の壺に入った高油なんですが、
今の値段に換算すると200万円にも300万円にも相当するというふうに言われています。
そのナルドの高油を一人の婦人がイエス様のところに来て、それをイエス様の頭に注いだというそういう出来事。
06:09
これは一節二節にありましたようにイエス様が捕らえられそして殺されようというそういう計画がなされていた。
そういう中で起こった出来事であったということ。
このことを覚えておきたいと思うんですね。
さて三節ですが、イエスがベタニアでサラートに侵された人、シモンの家におられた時、
食卓についておられると、そういうふうに書いてあります。
このイエス様が食卓についておられる、そのことを私たちが思い浮かべイメージするわけですが、
イエス様はどういう状態で食卓につき、またそこにはどんな人がいたんだろうか。
シモン一人で食事される時もあるんですが、このように一緒に食卓に着くということをよくなされたということを聖書に見ます。
このイエス様が一緒に食卓を囲む、一緒に食事をするということは、
イエス様がその人を受け入れたということの印なんだということを思うんですね。
そしてそのイエス様が一緒に食事をなさった人たち。
それは例えば、マルコの福音書の2章のところですでに私たちは読みましたけれども、
イエスはアルパヨの主税人のレビのところで食卓についておられたというんですね。
そこには主税人や住み人たちも大勢いて、イエスや弟子たちと一緒に食卓についていた。
こういうふうにイエス様はどういう人と食卓についていたのか。
それを見たパリサイアの立法学者たちは、イエスが住み人や主税人たちと一緒に食事をしておられるのを見て、そして避難したわけですね。
イエスは答えて言った。
医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。
私は正しい人を招くためではなく、住み人を招くために来たのです。
その一つの印として、私はこのような人たちと一緒に食事をする。
この人たちを私は受け入れて、そして一緒に食事をするのです。
そういうふうにおっしゃったわけです。
今日の下旬でもベタニアのところで、このシモンの家、彼はサラートに侵されていた。
09:05
当時の重い皮膚病だそうですけれども、みんなが嫌がるそういう人。
時には隔離されてしまうような、社会の中から阻害されていくような、そういう人を受け入れ、そして共に食卓を囲んでいた。
それがこのイエス様であったなということをここからも覚えるわけです。
主イエス様を中心に共にいただく、お茶でもいいですが、食卓、食事は本当になんとうるわしく、また心地よいものであろうか。
それを表した詩編の128点、このところも主と共に食卓を囲む、そういう情景が思い浮かびます。
詩編の128点ですが、
幸いなことよ、すべて主を恐れ主の道を歩む者は、あなたは自分の手の勤労の実を食べる時、幸福で幸せであろう。
あなたの妻はあなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶブドウの木のようだ。
あなたの子らはあなたの食卓を囲んでオリーブの木を囲む若木のようだ。
みよう主を恐れる人は、確かにこのように祝福を受ける。主は主恩からあなたを祝福される。あなたは命の火の限りエルサレムの繁栄を見よう。あなたの子らの子たちを見よう。イスラエルの上に平和があるようにする。
こうしてイエス様は人たちと食卓を共にいた。
そのことをこの3節のところからもう一度覚えて皆を崇めます。
2つ目なんですが、5節のところ。この女の人がその高価なナルドの香油の入った壺を持ってきて、何をしたのか。その壺を割ってイエス様の頭に注いだ。
すると何人かの者が憤慨して互いに言った。何のために香油をこんなに無駄にしたのか。あなたの言っていることは無駄遣いだ。
この香油なら300デナリ以上に植えて貧しい人たちに施しができたのに、そうしてその女を厳しく責めた。
何人かの人が、何人かわかりませんが、この女の人のしていることに対して厳しく責めを与えたということ。
12:02
ここで私たちはまたイエス様の姿を思い浮かべるわけですが、その責めに対してイエス様が言われた。
そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。私のために立派なことをしてくれたのです。
貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいます。それであなた方が来たいときにはいつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
この女は自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと私の体に前もって油を塗ってくれたのです。
ここに責める人たちとそしてイエス様がおられるというその姿を私たちは見るわけですが、イエス様はいつもこのように責められている側のところに立ってくださる。
そんなお方であるということを私たちは聖書の中から見るわけです。
あるときイエス様が村に行きました。そこにはマルタとマリアという姉妹がいました。
マルタはこの妹に対してそれをイエス様に訴えました。
主よ妹が私だけにもてなしをさせているのを何とも思いにならないのですが、私の手伝いをするように妹に言ってください。
そのように姉は妹を高めたわけです。
イエス様はそうだな妹のマリアはけしからんとおっしゃったのではなくて、マルタマルタあなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。どうしても必要なことはわずかです。
いや一つだけです。マリアはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいません。
ここでもイエス様は咎められているマリアの側に立ってそしてそのマリアの思いを汲み取ってくださっている。
決してマルタの言っていることは間違ってはいないでしょう。しかしイエス様のその思いやり、そして責められている人の心を悟って、そしてその思いを汲み取ってくださる哀れみのお方である。それがイエス様。
またある時イエス様に触っていただこうとして人々が子供たちを身元に連れてきた。ところが弟子たちは彼らを叱った。お前たちは子供をイエス様のところに連れてくることはけしからん。そのように責めたわけです。
しかしイエス様はその時も弟子たちを叱って言われた。子供たちを私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。そしてイエスは子供たちを抱き上げ彼らの上に手を置いて祝福を出さった。
15:20
ある時立法学者たちとパリサエ人が会員の場で捕らえられた一人の女を連れてきて真ん中に置いて、そしてその女の人を責めた。先生この女は会員の現場で捕まえられた。ですからこういう女は石打ちの刑にすべきです。あなたはどうされますか。
イエス様はこのように言いました。あなた方のうちで罪のない者が最初に彼女に椅子を投げなさい。そうすると一人一人そこから立ち立って。
そのように私たちはいろんな場面を見るときにイエス様はどういうお方であるのかそのことを私たちは見ていくわけです。
ここでも行為をイエス様に注いだそのことを咎め責められたその女の人の側に立って、そして彼女と共にこの責めを受け、そしてその痛みを共にしてくださるお方である。
イエス様という方はいつもそのようなところに立っていて下さい。誰でもこの責めを受け、そして強いかげられ、そして疎外されるということがあろうかと思うんですね。
今まであったかもしれない。今その中にある人もいるでしょうし、やがてそういうところに立たされるそういう人がいます。しかしそのときに手を差し伸べてくれ、そしてその人と一緒に食事を共にしてくれ、そしてその人の側に立ってくれる。
そういう人がいてくださる、少なくともイエス様はそういうお方なんだということを私たちは今日もう一度改めてこの箇所から思うわけですね。
しかしその中にイエス様が一人その人の側に立ってくださって、そして慰め、励まし、そしてその罪を許してください、そういうお方である。そのことを私たちは今日しっかりと覚えておきたいと思うんですね。
18:23
それがイエス様である。98人がたとえ攻めたとしても、そしてイエス様はその人の側に立ってください。さてもう一人は誰であろうか、そのことを私たちは問われるわけですね。
私たちはイエス様がどういうお方であるのか、そのことを福音書から見てきましたし知ってきました。
ですから私たちもその主のように、イエス様のように慣れたらいいのに、いや慣らしてくださいというそういう思いがいつもあるわけですけれども、そういう祈りを捧げているものでありますが、それを歌にしたのが382番の賛美のような気がしてなりません。
神聖歌の382番ですね。
心から願うのは、主のようになること、味方に見るように世の宝してます。主のように主のように清くしてください。この心を奥深く見姿を映して。
道場に満ちあふれ愛に富やさしく迷う人見出して主のもとに導く。謙遜と忍耐と勇気とにあふれて人々を救うために苦しみも厭わず。主よ深く参ります身、油を注いで、今すべて主のものと変わらせてください。
主の御霊、主の愛を祈る間に満たして。御住まいにふさわしい見跡をしてください。主のように主のように清くしてください。この心を奥深く見姿を。
3つ目のことですけれども、この女の、ご夫人のしたこと、これに対してイエス様がおっしゃったことですね。6節、7節、8節、9節のこのところですけれども。
イエスは言われた。そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。私のために立派なことをしてくれた。あなた方が責めているように、この夫人のしていることは、決して無駄遣いでもない。立派なことなんだ。その理由は、私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
21:14
この女は自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと私の体に前もって油を塗ってくれたのです。
そう言ったわけですね。イエス様はこの人のしてくれたその動機、あるいはその思いを十分に理解して、そしてこの人が私イエスをこよなく愛してくれているということを読み取ったわけですね。
そしてこれは、やがて世界中のどこででも福音が述べ伝えるところなら、この人のしたことも語られ、この人の記念とさんでしょう。
あなた方は今彼を、彼女を責めて、そしているけれども、この彼女のしている良きことは、やがて全ての人がそれを理解し、また永遠に伝えられていくことになるのですとイエス様はおっしゃった。
後、昼です。あなた方もやがてわかるでしょう。そのことを言ったわけですが、まず第一に、その女の人の犠牲の愛をイエス様は見て取られたわけです。
それをイエス様なりに感謝をし、またそのことを責めている人たちに訴えたわけです。この人はこの私イエスに愛と感謝を表すために惜しみなく自分の持っているものを捧げた、それが好意であったわけです。
彼女は自分の大事にしていたもの、いつかこれを使おう、何かこれによって自分が主にさせていただこう、そういう時が来るのを待ちつつ、彼女は大切にしていた。
それを彼女は惜しげもなく主の頭に注いだということ、それがイエス様にとっては大変嬉しかったわけであります。それはなぜかというと、イエス様はこれから十字架に向かい、そしてやがて死を迎える、そのことを自分も知っている。
そしてそのことをこの婦人がよく分かっていた。ですから、やがて来る葬りの備えのために、今できることを彼女は精一杯しようとした。そのことをイエス様はここで感謝を表したわけです。
24:19
この女は自分にできることをしたのです。内装のようにと私の体に前もって油を塗ってくれたのです。決して無駄遣いではない。これほど尊い彼女なりの捧げ物はないのですと、イエス様は感謝をなさったわけです。
七節。貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいます。それであなた方がしたいときはいつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
要するに、いつでもできることと今しかできないことがあるのだということをイエス様は私たちにも今日示してくださっている。貧しい人たちにしてあげたい、してあげよう。これは本当に尊い愛の技でありますし、今日でも明日でも思い立ったら日本のどこかに私たちの身近なところにもいる。
あるいは足を伸ばせばそこにいる。あるいは世界を見渡せばたくさんの貧しい人たち、強いてあげられている人たち、助けを求めている人たちがいます。ですから私たちの思いさえあれば、いつでも彼らに良いことをしてやれます。
しかし今しかできないこともあるんだ。それが私がもうすぐ十字架にかかって葬られるということ。それはもうこの時でしかない。そのことを悟ったこの婦人が今しかできないことをしたということ。
そのことをイエス様はここで評価したわけです。
そしてイエス様は人々に知らせたわけです。
自分の記念となるでしょう。そのように言われたわけですね。
自分のしたことを責められていましたけれどもイエス様はわかってくださった。
27:08
もちろんわかってくださるお方であるからこそ、彼女は今この時自分の大事なものをおしげもなくイエス様に捧げたということ。
これがイエス様の御心にかない。そして世界中どこででも婦人が述べ伝えられるところなら、この人のしたこともまた語られて、それは記念となるでしょう。
まさに21世紀のこの時、今この礼拝の中で私たちはこれをすることができ、またそれをもう一度皆さんと分かち合っている。
この人のしたことの意味とまたイエス様がそれを喜ばれたということを分かち合いました。
おそらく世界中のどこかの教会でもこの箇所が開かれているに違いない。
あるいはやがて開かれるでしょう。今までも何度も開かれてきた神様のおっしゃったこと、イエス様のおっしゃったことは偽りのない真実であったことをもう一度覚えて皆をあがめるわけです。
この人は自分が厳しく責められた時にもイエス様が自分の側に立ってくれた。それはどんなに嬉しかったことでしょうか。
今度は自分が大事にしていたラルドの好意をイエス様に注ぐことができた。私もイエス様の側に立ってそして好意を注いであげることができた。
そのことに彼女も喜びを覚えたことでしょう。
私たちの本当に幸いそれはイエス様と私が一つとなることができるというその幸いであります。
もちろん私たちは目に見えないイエス様にこのようなこの不尽のようなことをして差し上げることはできない。
どうすればいいのでしょうか。
イエス様、聖書はそのことについて最も小さい者のうちの一人にしたのは私にしたのです。
そのように直接イエス様にすることのできたこの婦人も幸いでありましたけれども
直接できない私たちでありましても小さき者の一人に私たちがするときそれは宗御自身なのだ。
その人を通して私たちは主に良きことをさせていただけるのだというそのことを覚えるときに
30:04
そのときには私たちはイエス様が私と共にいてください。
私のうちにイエス様がいてください。
私もイエス様のうちに生きることができるんだというその幸いに生かされていくことができる。
そのことを覚えたいと思うんですね。
今日のこの御御言葉を携えてここから出ていきたいと思います。
この女は自分にできることをしたのです。
埋葬のようにと私の体に前もって油を塗ってくれたのです。
お祈りします。
天の利きなる神様、今日まで支えてくださったことを感謝をいたします。
私には高価なナルドの行為はありません。
しかしあなたへの感謝の思いとまたあなたに従っていくその思いは変わりません。
ですからその感謝の印として私の持てるものを捧げ
また私にできることを奉仕として捧げます。
また私たちの周りにいる傷つきに倒れ、あるいは責められ、虐げられて心を病んでいる人たち
その人たちのそばに立って何か手を差し伸べることができないかと
そのことをさせていただくことができるならばそのようにしたいと思います。
どうかその思いを清めて使用を受け取り下さいますように。
イエス様の尊いお名前によってお祈りいたします。
アーメン
31:50

コメント

スクロール