00:01
皆さん、おはようございます。
和歌山教会から参りました和田雄三と申します。
正解のメッセージをさせていただくというのは、実は今日が初めてでございまして、
本当に申し訳ないようなことでありますけれども、
神様は私のようなものでよろしいのでしょうかというような思いで祈っておりましたときに、
心に迫ってきたことがあったんですね。
それは、神様は私を憐れてくださって、
今日このところで私をもう一度新たに満たしたい、記憶したいと思っていてくださって、
そしてこの御用を与えてくださったんだということを思わされて、
本当に私もまた期待して祈ってまいりました。
そして既にこちらに入りましてから、礼拝前の祈り、そしてまた始まってからの、
私一番前で賛美をしておりますと、
お世話から聞こえてくる賛美の声がすごく大きくて、
200人ぐらいいるような感じがして、本当に恵まれて、
祈りとまた清聖堂族の中でも、そして今の聖火隊の賛美を通しても、
私の魂が本当に満たされて感謝でいっぱいであります。
実はちょっと余談なんですが、私の本敷地は神戸市すま区川上町なんですよ。
何かのときに、また忘れとった、和歌山に買いを買おうと思いながら、
本敷をそのままにしておったんですけど、よかったなと思って、
ここも神戸市すま区、どこですか?
神戸市、川上町、川上町の方はおられます?
おられないかな?
あっ、そうですか。
生まれてから3歳半までは高尾台にいたんですよ。
高尾台の方おられます?
今日もこちらに参りますときに懐かしい景色だなと思いながら参りました。
ですから小学校2年生までは神戸西部教会にお世話になっておりまして、
小津雅夫先生や藤原先生から大変お世話になりました。
そういうつながりもございまして、私の祖母もいまだに101歳か102歳がぐらいにおるんですけども、
03:01
和田春子という皆さんも祈っていただいている方がおられると思うんですが、
神戸西部教会で信仰生活を送らせていただいているようなことでありまして、
そういう意味で皆さんの祈りの中でこんなものも育まれて、
献身させていただいたと感謝をしております。
またですね、韓国の方々もいく人いくおられるんですけども、
私の妻の兄が永田彦という牧師でありまして、
その奥さんがジョンミ先生という韓国人になります。
妻の一番下の弟も奥さんはジェヘイさんという韓国人の方でありまして、
私のこの世で二番目に好きな食べ物はキムチであります。
一番はお米焼きなんですけど、それはとても良いことなんですが、
ですから本当にハングルが聞こえてきて、
アニハセヨ、マシスミダ、合ってますか?
とても美味しいですというね、このぐらいしか知らない。
あとパイリハセヨというね、早くしろよというね、
そのぐらいしか知らないんですけど、ごめんなさい。
なんとか初めての皆さんとですね、こうして親近感を持ち上げようと思っては、
いろいろ焦って、緊張の裏返しなんですけどもですね、
本当に祈り心を持ってご出席いただきたいと思っております。
そして何よりもですね、昨日、
阪神淡路断水祭から20年目の大きな節目を迎えました。
私もあの年、95年、実は新学校の3年生でですね、
周囲の関西中小新学校におりまして、
起床ベルが5時半になって、
ベッドの上でですね、お祈りというかお祈りというか、
うとうとしていた時にものすごい揺れがきまして、
もう本当にこの昨日のことのように思い起こすことであります。
本当にこの皆様の中にも大きな痛みを取ってこられた方々がきっと笑うのではないかと思いながら、
祈りつつまたそのことを和歌山教会の城田島方にもですね、
申しまして祈っていただきながらこのところに参りました。
それではお祈りさせていただきまして、メッセージをお届けさせていただきます。
すべて重に負って苦労しているものは私のもとに来なさい。
あなた方を痩せませてあげようと。
天のお父様、本当に私たちの喜び、感謝、
そしてまた痛みや病、恐れ、
自分ではどうすることができない傷をもう全部ご存知で、
06:02
今朝もあなたは私たちを慰めをもってこのところに招き、
ともにあなたを臨在の中であがめ、
そして賛美の中で、祈りの中で、また御言葉をいただく中で、
私たちもう一度癒して、新しくして、
それぞれの持ち渡し場に使わそうとしていらっしゃることを、
本当にひしひしと覚え、恐れつつ皆をあがめております。
特別、この神戸の地、
理由に言えない大きなダメージをかつて受け、
また今も少なからず、
その悲しみと痛みの中で歩んでおられます方々がおられるこの地において、
本当にすでに救い主なるイエス様によって永遠の命をいただいた、
救われた私たちに与えられている使命の重さもまたかみしめることでございます。
どうぞ修行、先の祈りもございましたように、
本当に私たちをあなたがこの緑の牧場に塞げ、
憩いの実家にどうぞ置いてくださって、
あなたの御言葉、その水によって新しく生き、
そしてその水を死体もとで渇いている魂のところへとお使いくださいまして、
しろどうぞ癒やし者を憐れんでくださって、
まったく悲しくない、
まずこの者自身が一番に、
あなたの御言葉によって火を通していただいて、
整えていただかなければならない、
憐れみの御本でございましたらどうぞ、
御精霊がまずこの者に、
また御子供におっしゃる人に今朝、
この時でなくてはならないメッセージを御言葉を通して、
また癒やし者の語らせていただく言葉を超えて、
また御メッセージがなるあなた御自身がお与えくださいますように、
待ち望みつつ、
癒やしの名前を通して心を合わせてお祈りいたします。
アメン。
横谷の目記録の2章と3章には、
7つの教会に当てた手紙がございます。
私たちの教会では、
第1中、第2中、第3中、第4中と、
それぞれの中で公開請求をしまして、
しばらく前から第1中に、
それまでは創世記を第1中には学んでいたのですけれども、
その次に何をしましょうかと祈っておりまして、
また皆さんにも祈っていただきながら、
こういうところから語ってほしいというリクエストがございましたら、
というようなこともお聞きしながら、
その中で最終的に、
実はずっと私の中で逃げてきたと言いましょうかね、
09:01
正直に申しますと、
重い、ここからはなかなか語りにくいなというような、
でもそれが迫ってきたものですから、
いよいよ目強くチャレンジしすがるほうがいなくなったという中で、
昨年の秋に語らせていただいた箇所が、
このテヤテヤという教会に当てた手紙の箇所なんですね。
7つの教会のうちの4番目、ちょうど真ん中の教会が
テヤテヤの教会でありまして、
その中で一番長い手紙です。
けれども、実はそのテヤテヤという町は一番小さな、
価値のないと思われていた町の教会なんですね。
そこに一番長い、幾十代の手紙が送られたというところにも、
彼女の憐れみを感じるんですが、
そのテヤテヤについて短く背景としてお話しておきますと、
非常に古くから同業者組合というのがあったそうなんですね。
今で言う生活共同組合、生協さんみたいなことだと思うんですけど、
パン屋さんとか、あるいは革なみしとか、
着織物、あるいは染め物、あるいは奴隷売買、
いろんな分野の組合があったそうです。
ドイツの業者がお互いの利益を守りながら発展できるように、
非常に強い繋がりで団結していた組合が、
いくつもあったという記録があるそうなんですね。
フィリピンでパウロが伝道しまして、
最初に開地にしたルディアという女性がいます。
彼女は紫色の商人というんですけども、
まさにこのテヤテヤシステムの人なんですね。
だけども大きなことをした記録は全くない。
本当にこじんまりとした協会であったと思われる、
そういうテヤテヤ協会。
私が使わされております和歌山協会にしても、
あるいは室谷協会や日本のかなりの協会は、
比較的小さな協会だと思うんですけども、
そういう意味で繋がりの感じられる協会ではないかな。
それ以前に7つの協会、7というのは完全数ですからね。
ですからその1つ1つの協会に当てられた手紙が、
みんな実は世界中のすべてのキレスの体の協会に
当てられた手紙と言ってもいい。
そういう意味で私たちもそのまま自分自身のこととして、
受け止めていくべき内容がここにあると言っていいと思うんですね。
そういう意味で今日は3つのポイントで教えられたと思うんですけども、
その前に終身請求ですね。
ご一緒にこれをお読み下さいしましょうか。
ではお願いします。
ただ、あなた方の持っているものを、私が行くまでしっかりと持っていなさい。
12:04
ありがとうございました。
1番目のポイントですけども、愛と信仰と放棄と忍耐。
見言葉通りなんですけども、まず18説、19説をお読み下さいします。
私は、てやてやらにある教会の密会に駆け抜け、
燃える炎のような眼を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が言われる、
私はあなたの行いと、あなたの愛と信仰と放棄と忍耐を知っており、
また、あなたの近頃の行いが初めの行いに勝っていることも知っている。
皆さん、イエス様が知っていてくださるということ、ご自覚していらっしゃいますか?
私は、それこそ女性ランの頃から教会に行っておりまして、
お母さんがまだお腹の中にいるときからということです。
実は、私は4代目のクリスタンです。日本ではちょっと難しいと思うんですけども、
中学1年生のときに洗礼は受けたんです。
だけども、ずいぶん長い間、全部神様からすられているというのが、
喜びというよりは、何か見張られているような、
親戚がたくさんクリスタンだというのも、何か見張られているような、
何か鬱陶しいなというような感じを持っていたんです。
でもやがて、本当にたくさんの人たちから祈られて、
また神様から知られて、イエス様に知っていただいているということを
本当に感謝だなと思えるようにだんだん変えられてきたんですけど、
知っている。
しかも、あなたの行いと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。
見遣いにというんですけども、天主のような感じがするんです。
そうかもしれませんけども、むしろ、それぞれの教会に使わされていたと言いますか、
そこで置かれていた責任者、牧師であるとか、あるいはリーダーたち、
それが見遣いと言われていると。
その代表として牧師に充てた、
つまりその教会全体の一人一人に充てた責任と言うことですよね。
そのイエス様の目から見て、あなたの近頃の行いがはじめの行いに勝っていると。
そういうこと知っているよ。進歩しているね。成長しているねと言われている。
2番目のポイントで触れますように、彼の中にも潜むべきことがあったわけですよ。
15:03
けれどもイエス様はまず、成長しているね。
そういうこと知っているよと温かく声をかけていてください。
その前の2章の4節を見ていただきますと、
スタートがとても素晴らしかったエペスの教会が、ちょっと引っ掛かりがあったということがわかりますね。
2章の4節を見ていただきますでしょうか。
しかしあなたには非難するべきことはない。
はい、ありがとうございました。そうなんですよ。
はじめの愛から離れてしまったと言われている教会もあるんですよ。
皆さん救われた頃のういういしい喜びと今の近郊生活でいかがでしょうか。
その頃よりももっと喜びと平和に満たされていますという方と、
あの頃が懐かしいなあ。今は正直疲れていますよと。
今朝集まっていらっしゃる方々は、2,3人くらいというのは全然おられないと思うんですけれども、
私の娘の同級生の女の子が、お母さんと一緒に近くの教会で、ルーテル教会で宣伝を受けなさった。
私たちが救わされる前から少し祖先の教会と繋がりがあった。
そこでバッタリ会いましたものですからね。
聞きましたよ。宣伝を受けられたんですね。嬉しいです。
本当に喜びいっぱいで、ずっと祈ってくださってた兄弟姉妹方に本当に感謝です。嬉しいです。
と言ったら、今だけよと言われたんです。今だけよ。
私の兄弟はそんなことないですよ。今だけじゃないですよと言いながらもね、
私自分自身を考えてみると、確かに中学1年生のときにバイブルキャンプで、青垣のキャンプ場で本当に食えらさめて、
その中学1年生の夏のキャンプで、まっきり信じて、その年のクリスマスに宣伝を受けて、
でもそれからの私の信仰生活というのは、上がったり下がったり、下がったり下がったりというような感じがした。
だからその喜びというのをずっと感じ続けているというのはなかったんですよね。
だから、その姉妹を励ますために、そんなことないですよと言いながらも、そういうこともあるわなと正直思ったんですよ。
だけども、このテラジエラの教会のプリシャンたちは、あなたの近頃の行いがはじめの行いに勝っていると言われているんですよ。
その秘訣が、ですからこの手紙から伺えると思いましたよね。
それをね、何が褒められているのかというのを見ればわかると思います。
18:02
それがね、先ほどの、私はあなたの行いと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐をしており、ということです。
あなたの行いと、というそのとというのはね、すなわちという意味で、あなたの行い、つまりは愛と信仰と奉仕と忍耐。
この4つ、そのままというよりもむしろ、愛と信仰が彼らの奉仕の原動力だった、というふうに思ったと思うんですね。
彼らが奉仕していたのは、それは救いられてとか、そういうふうにしないと神様から斬られるとかね、そういうことではなくて、
むしろもう、愛されている、そしてあなたを愛します、愛と、そして神様がいただいている信仰、その萌えの思いでもって奉仕していた。
さすがれた愛に押し出されるようにして、もうその愛があふれてきてですね、そしてもう奉仕せずにおられない。
くじけそうになっても、信仰をもって奮い立たせられて奉仕していくというね、なんかもうそういうものを感じますよ、もう皆さんからね。
ですから私たちは、このくじけそうになるとそこに、つまり原点に立ち返っていけばいいんだな、ということを思いますね。
そういう意味でちょっとね、こちらの御言葉について書きたいんですけど、エペソンの2章の8から10ですね。
有名な言葉ですから、皆さんご存知だと思うんですけど、あなた々は恵みの家に信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物ですね、プレゼント、行いによるのではありません。
誰も誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリストエースにあって作られたのです。
神は、私たちが良い行いにあえむように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
恵みにより信仰による。恵みという言葉、これはきちっとした教理的な定義ではなくて、
フィリピアンティーというアメリカのクリスタルジャーナリストの人がいますけれども、
彼が自分自身の実感から定義付けたという、私の大好きな言葉なんですけど、彼はこう言いましたね。
ヒントは、神様からもっと愛されるためにできることは何もないということ。
21:06
つまり、もうこれ以上はないという愛で愛されているわけですよ。無条件で。
私たちが良い報酬をしたから、一生懸命頑張って神様に使えているから愛されているんじゃないんですよ。
もちろんそれは、私たちが報酬をすればするほど神様は喜んでくださると思いますよ。
でも、そのことによってもっと愛されるのではなくて、もうすでにこれ以上は愛せないという愛で愛されているんですよ。
それが恵みってことですよ。
不相応しくないことは、私たちが例えば学生時代に一番最初にアルバイトしたのは焼き鳥屋さんだったんですよ。
体育会系の部活に入っていまして、焼き鳥屋やったらバイトしてもいいと言われて、時給430円。
当時、私は6500円のところに入っていたんですよ。
私の友達は1万円払って駐車場に車を借りていたので、そんな昔のことではない。
ボロボロのところに入っていたんですけど、バイトしたかったら430円で、これだけ働いて、これだけ買おうという給料をもらって。
それが恵みって書いてあったらどうですか?おかしいでしょ?
いや、恵みってちょっとアンタって言うんですよ。一生懸命働いた報酬としていただいている。
でも、神様からの祝福というのは、神様から救っていただいた、神様の子供として育てていただいているという、あるいはこうして礼拝させていただけるということは、それは報酬じゃなくて恵みなんですよ。
私たちの信仰性格は全部恵み。その裏返しを超えていきます。神様から愛されなくなるためにできることも何もない。
私たちが神様に死を向け、分かっていながらも神様の悲しまれることをずるずるとすれば、神様は怒られるし悲しまれる。
でも、それで愛されなくなるかと言うと、それはないですよ。もし罪を犯して神様から愛されなくなるんだったら、私はここにいないですよ、もう。
僕死になってからですから、いく度神様の前に罪を犯して祈っていただいてくださいと言ってくれるためにいたかわからない。
恵みなんですよ。全部恵み。ということは誇れないでしょう誰も。
良い行いをすることで救われたんじゃない。でも良い行いはとっても大事です。良い行いをするために救われたんですよ。
24:04
御言葉が通じていると、さっきの10節だけ見ますと、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにプレスエースになって作られたんです。
神は私たちが良い行いに遭いのように、その良い行いをあらかじめ備えてくださったのです。
ですから、私たちがどんなに弱くても、良い行いはできます。だって備えられているんです。あらかじめ備えてくださっている。
だから、そのために救われたんだから、できるんです。でも良い行いをしたから、祝福を受けるものではない。
そして、先ほど見ましたでしょう。愛と信仰が原動力になって奉仕をする。でもその奉仕を否定して疲れてくる時があるわけですよ。
その時に与えられるのが、その時に出てくる忍耐です。愛と信仰と奉仕、そして忍耐。
私たちが忍耐し続けて奉仕にあたたかっていくために、イエス様の温かい眼差しは本当に励ましている。
先ほども言いましたように、もう一度その19節見ておきますか。
私はあなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐をしており、またあなたの今日の行いが、革命の行いに勝っていることも知っている。
せむべきことがあるにもかかわらず、ほんの少しだったかもしれない。でも成長している。それをよくやっているよ。大したもんだ。
イエス様は評価されているんですよ。私に対してもそうだと思います。
教会形成の喜びという、ずいぶん前に書かれた、佐藤明先生という方が書いた本なんですけど、その中でまさに温かい評価という項目があるんですよね。
教会形成の道のりということで、1番忍耐、2番祈りと御言葉、3番チャレンジがありまして、その7番目に温かい評価。
ちょっと引用させてくださいね。
ハガイト2章3節を読みましょう。
あなた方のうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者は誰か。あなた方は今、これをどう見ているのか。あなた方の目には、まるで雷に等しいのではないか。
エクラエルの国は神殿を3回作りました。第1回目はソロモンの神殿。第2回目がこの箇所に記された、キリストの生まれる約500年前に作られた小さな神殿です。
27:06
保守に行ったイレア人が帰ってきて、自分たちは板張りの高級住宅に住んでいて、神殿がめちゃくちゃのままなのに、何も感じないのはおかしいのではないか。
もう一度、自分の心となすべきことを考えなさいと、預言者ハガイに言われ、またゼカリアに、県政によるのではない、能力によるのではない、神の霊によって、山から木を切り出し、石を運び出して神殿を建てようと言われて、彼らは一生懸命やりました。
ところが土台がほぼ出来上がった頃、お年寄りの人たちが、「こんな小さなものを建てたって意味がない。かつてのソロモンの神殿は、シヴァの女王までやってきて世界を行天させるような神殿だった。」と言い始めたのです。
その過去の記憶があるから、無理ないでしょうね。その時、神様が、「あなたは何を言っているのか?神が評価しているものを、ないに等しいと思うがままに発言していいと思うのか?」と接戦されたのです。
教会はいろいろな活動をしますね。うまくいくことも、いかないこともあります。それを、「やらなければよかった。失敗だった。」と感じるままに誰もが言い始めたら、教会は混乱に陥るでしょう。
ただし、それで神様は喜ばれるでしょうか?やったことをどう評価するかということは、とても大切です。それはシヴァシヴァその教会の雰囲気に影響します。
なんとなくイライラしているとか、お互いに上げ足を取っているなどなどで、そういうことは案外新しい人にピンときます。
さっそく売れだった雰囲気の教会だなぁ。さまざまとすると感じられては大変です。ですから、さまざまな出来事をどういうふうに霊的に評価するか、そういうことがポイントです。
第3番目のヘロデの神殿はどれくらい大きかったでしょう。ものすごく大きな神殿だったわけですよね。直場しまして。
でもそのヘロデの中に唯一の神の信仰はありません。それに価値があるかということが書かれてまして、私たちは、うちの教会は小さくて、そんなことをやっても難しいのではないか。
あの教会ではこんな面倒をやっているそうだし、と言わないで、10人の教会でも神様は私たちの教会を慈しんでおられるよね、と心が温かくなるように評価すべきです。
そして、お互いに受け入れ合って、許し合って、喜んで、神様の前に一緒に奉仕していこうと、諦めちゃいましょう。
放っておくと、私たちは反省会で周知してしまいます。何でも悪いことから数えます。けれども、ものは考えようです。
夏のキャンプでは悪いこともあったけど、いいこともあったね。来られない先生が2人もいたけど、若い人が3人も助けに来てくれたじゃないか。
30:02
子供が病気で3人出られなくなったんだけど、その代わり少ない人数で中身の濃い交わりができた、と、いくらでも恵みを数えることもできます。
大事なことは、つぶやかないこと。ラキコリンと実教実説には、つぶやいたことによって多くのユダヤ人が滅んだという教訓があります。
もし皆さんが何かのリーダーになるならば、物事の評価の際には気をつけて、くれぐれも悪いところから数えないように、発想を変えることが大事です。
トップにいる人が暗かったら、教会も暗くなります。どんなことがあっても、トップにいる人は希望を見つめていなくてはいけないでしょう。
ユン先生、ハレリヤですね。先生が福岡におられる頃からお会いしたり、そして、教団集会でも先生から声をかけてくださったり、私も声をかけたり。
いつもニコニコされていて、ホームページの写真の中、すっごいいいスマイルで、いいですね、先生。
音業界の今回の新年成果のポスターのカラーのやつを、コンピューター、パソコンで見ましたよね。素晴らしいカラー。
一つだけ気にならないことがあったんです。写真。私の責任なんだけど、なんていうかな、中途半端な嘘笑いというかね。
中途半端な嘘笑いというかね。でもね、トップに立つ人が、いつも希望を見つめているというね、明るいということがすごく大事だって。
心の葛藤もあります。けれども、私たちは思うままに評価をしていないで、神様の目から見たように、神様の広さを通して、温かい眼差しで、神様の与えられた群れを評価したいものです。
イエス様はね、てらてらの教会を見たときに、もちろん羨むべきことはある。でもね、よくやっているよっていうね、大事だと思うんですよ。
よくはやっていると言えなくないけどもなぁと、なりやすいんですけど、そうじゃないってね。
実はね、私たちの教会で、ジョイジョイ英語クラブっていうのがあるんですよ。昨日もありました。第1、第3同僚院にあるんです。
英語の確かな神道の方がね、中心で役をさせてて、最初は本当に少なかったんだけど、だんだん最近人が増えてきて。
去年の、いつだったかに、私が最後に短く神芝居をして、結構子供たちですからメッセージをさせてあげるんですけども、
もうなんか、その子供たちを愛しておられる神様の愛が迫ってきてね。最後に、もう誰々ちゃん、もう神様の目から見たらもう貴方宝物やで。
誰々ちゃんも宝物やで、こう一人一人言っていてね。小学校5年生の男の子、誰々君、君も宝物やで。
33:05
その彼はね、家庭が色々複雑で、おばあちゃんに知られてきてるんですけども、本当に大変なところとされてきてね、愛情に植え替えていた、そういう彼なんですけどもね。
そしたら彼にね、そう言ったらね、何言うてんねん。超宝物やで、とこう言ったんですよ。
もうすごくね、嬉しくなりました。それを礼拝の中で言ったら、もうおばあちゃんも反投げになってましたけどね。聞きながら嬉しいなと思ってね。
本当に超宝物。これもやっぱりフィリピア州の本だったか、あるカトリックの死体がね、道を歩いていて、自分の任されている教区で歩いていると、
一人のですね、農夫がもう賛美を歌いながらね、もう本当にこう、いかにも嬉しそうにですね、仕事をしてたんで、しばらく見とれてね、そしてふとこう声をかけたんです。
だれだれさん、本当に嬉しそうですね。そしたら彼はね、はい、神は私のことが大好きなんです、って満面の笑顔でね、言ったそうですよ。
神は私のことが大好きだ。いい言葉ですよね。それね、そういうとおりじゃないですかね。一人を十字架につけるぐらいに大好きなんです、私たち一人一人のことをね。
そういう温かい眼差し、誰一人として完全な人はいないし、世界中どこを探してもそうです。たとえリバイバルの国、韓国や台湾を見ても、完全な境界じゃないでしょう、おそらく。
でも、温かい眼差しで見ていてくださるイエス様の眼差しで、自分自身を、そしてまた私たちの境界を、そして教団を見ていくっていう、そのことって本当に大事だなって思わせるんですよね。
さあ、第2番目のポイントにいきますけども、愛と信仰と放出と忍耐、けれどもそこに達し続けるためにも、第4番目に妥協を避けるっていうことを見てみたいと思うんですね。
イエス様もやっぱりこの境界で避難すべきことがあるっておっしゃってるわけですもんね。さあ、2章の20節を見ましょう。
しかし、あなたには避難すべきことがある。あなたはイゼベルという女を無しがままにさせている。この女は預言者だと実を知っているが、私の妻たちを教えて誤りに導き、不貧困を行わせ、偶像の神に捧げたものを食べさせている。
このイゼベルというのは、イゼベルという名前の人がいたのではおそらくないでしょうと言われています。時間をかけて詳しくはお話ししませんけども、アハボウという人の奥さんで、イスラエルに彼女を通して偶像礼拝がものすごく勢いよく入ってきた。
36:05
悪女中の悪女と言いましょうかね。ものすごい残虐な女の人ですよ。だから、イゼベルという名前をつけたユダヤ人は一人もいなかっただろうと言われるぐらいに、みんなほら恐れられなくて嫌われていた名前だから、そういう名前で象徴されるような罪深い女という意味だと思いますけども。
彼女は何をしていたかというと、性的な罪とか中途半端な偶像に捧げたお肉も食べていいんじゃないのというのは、つまり妥協を促していた。そんなに真面目に、そんなにシビアにストイックに進行性が俗になくてもいい加減でいいじゃないの。
ちょっとぐらいの罪だったらいいじゃないのというのが、イゼベルの言い分だったんですよ。それに影響されている人たちが出始めていた。冒頭でも見れましたように、同業者組合の力が強い町でしょ。
その組合の会合はしばしば偶像の神殿でなされました。そこに行くと、やっぱり偶像に捧げた肉を食べることになりますし、そしてまた何よりもその会合というのが、売船とセットだったそうです。
みんなそういうことをやっているので、クリスタンが信仰を守り抜こうとすると、すぐに摩擦や戦いが生じる。でも、組合をやめさせられると生きていけないんですよ。
組合の会合に行くと、そういうのがセットでしょ。大変なんですよ。みなさんおそらく職場や学校や地域やいろんなところで、クリスタンの価値観で生き抜きたいと思うけれども、ちょっとそれが難しいなという場面に、この日本ですからね、そうするんじゃないでしょうか。
レオン・モリスという方がこういうことを言っています。どの時代の起立者であっても、どの程度までそれぞれの時代の基準や習慣を受け入れ、採用すべきかという問題に直面するのである。
もちろん、起立者は信仰を否定すべきではない。しかし、社会の一員であることを否定すべきでもない。多くの私たちは、いわゆる一般恩徴と言いましょうか、クリスタンであろうとなかろうと、彼女がいただいているいろんな祝福の中で生かされているわけでね。
だから、全然違う生活をできないし、する必要もない。だけれども、起立者は隣人と同じ世界に生き、同じ問題に直面する、起立者としての解決、クリスタンとしての解決、聖者の価値観、世界観に立った、それと無限しない解決を見出さなければならない。
39:04
彼ら、つまりテラテラのクリスタンたちは、原則よりも前義を優先させてしまった。つまり、原則はわかるけれども、この場合、やっぱりいたしかたないでしょう。だって、ほにゃららなんだからという、その余的なね、周りの人たちの価値観に合わせた、そういうところに流されていっていたと。
それを、それでいいよ、もっとやりましょうよ、というのがイセイセイだった。
有名な言葉ですけれども、ちょっと見ていただきたいのですが、ローマの十二の二。
あなた方は、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、作り変えられ、何が神の御胸であるか、何が善であって、神喜ばれかつ全き事であるかを、わきまえするべきである。
ちょっと、貧強同役でも、ちょっとニュアンスが違うと、味わいがまた違ってきますので、見ておきましょう。
あなた方は、この世にならってはなりません。この世が、本来ならば、クリスタルにならなきゃいけないでしょ、本当はね。
だから、ならってはなりません。むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また、完全なことであるかを、わきまえるようになりなさい。
生活の翻訳ではありませんけれども、リーディングバイブルってあるじゃないですか、とてもわかりやすい、読みやすいやつですね。
世間の人々の生活態度や習慣を招きはいけません。むしろ、することを考えることすべての面で、生き生きとした全く新しい別人となりなさい。
そうすれば、神の道がどんなに自分を満足させてくれるか、わかるようになります。
私たちが置かれている定規というのは、みんなそれぞれ違うと思います。同じ教会のメンバーだったら、みんな違う。
だから、それぞれが、それぞれの置かれているまさに生活の真っ只中で、どう聖者の御言葉を自分自身の生活に適用するかということを思い巡らしながら、
戦いつつ、妥協しないであいなさいと、神様は勧めておられるというわけです。
イゼヴィルに神様はどうなされるのか。その21節をご覧いただきましょう。
21節。私は食い改める機会を与えたが、この女は不貧困を食い改めようとしない。
魅力的だったんですよ、その生活が。私たちの周りにも魅力的な聖書に反する言葉がいっぱいありましたよね。
この食い改める機会を与えたが、食い改めようとしない。食い改めようとしないというのは、食い改めることを欲していないという意味の言葉です。
42:12
結果、22節から。によ私はこの女を病のとこに投げ込もう。またこの女と勧誘を行う者たちも、この女の行いを離れて食い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
また私はこの女の子供たち、熱心につながっている弟子たちをも不良によって殺す。こうして全教会は私が人の思いと心を探る者であることを知るようになる。
投げ込む未来系じゃなくて現在系。裁きの攻撃が鮮明になっていますよね。
でも、21節と22節の2つの節の中に3回も食い改めという言葉が出ているじゃないですか。
こんなイゼベルのような人に対しても、イエス様は食い改めようと、戻って来いと言うでしょ。
放課後の息子がお父さんのところに帰って来るように、帰って来て。帰って来たら私は何しとったんじゃ。来るなんてごめんなさい。
来たばかりですけど。じゃなくてね、そのままで抱きしめたように、どんなところからでも帰って来てほしい。
感謝のことに私たちはキリストから隠れることはできません。
そしてね、私たちが食い改めるという時に、どうですか。謝っても許してくれるかどうか分からなかったり、
絶対に私たちは許してくれないと思ったら、謝るのってすごく大変ですよね。
だけどもね、神様はね、100%許してくれるんですよ。どんな罪でも許してくれる。
それが分かっているから私は安心していくよ。許してくださいって、今朝も食い改めることができますよね。
さあ、そこでね、そのためにも第三番目のポイント。
持っているものを固く保てっていう、今日のこの中心的な見言葉にいきたいと思いますね。
全てのクリスチャンたちがイズベルに惑わされたのではありませんでした。24節。
しかし、寺にいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うシャタンの深いところをまだ知っていないあなた方に言う。
私はあなた方に他の重荷を負わせない。
残りの民って言う言葉がイザダイス語や清学説の中にありますけども、つまりいかなり状況でも信仰していないというね、クリスチャンたちはいた。
戦いはあるけれども。
このシャタンの深いところ、公語訳ではシャタンのつかみ、ちょっと不気味な言葉ですけどもね、そこまで言っていない。
つまり、そこにザーザーザーザーザーと抜けることがものすごく難しくなる。
そのシャタンの深みに引きずり下ろされる前に立ち返っていくクリスチャンはサガイですよね。
45:05
むしろ私たちは、神様の恵みの深みにこそ、まみかれているわけですもんね。
彼らは次のように見てられました。25節。
ただあなた方の持っているものを私が行くまでしっかりと持っていなさい。
どうぞ前の方を見ていただきましょう。
これはね、公語訳ではね、ただ私が来るときまで自分の持っているものを固く保っていなさいって訳されているんです。
新教材では、ただ私が行くときまで今持っているものを、今持っているものを固く守れって言われています。
リビングバイブルでは、ただ私が行くまで今手にしているものをしっかり握りしめていなさい。
皆さん毎日、聖地礼拝でいただくその恵みを握りしめておられるでしょうか。
日曜日に与えられたその御事をですね、握りしめて。
火曜日くらいだったら、なんだったっけ、金曜日くらいだったらね、
金曜日にしようよ、今日が一日かいなあってね、そんなことは皆さん人にもおられないと思うんですけど、握りしめていなさい。
今持っているものを固く保て。
持っているものっていうのはね、単数形なんです。
だから、従業者というか彼らの行い、つまり愛と信仰に根差した方針。
期待強く続けているその方針でもありましょうし、
また、むしろもっと広い目的全体の分析をするならば、正しくぶれない聖書全体の距離と言いましょうかね、聖書の世界観と言いましょうか。
それをしっかりと握りしめて、そこに固く差しなさいということです。
このイゼベルのような惑わしが私たちにも来ますけども、それに惑わされないで固く立つためには、
私たちは、先ほど見たように、愛と信仰に根差した忍耐性の方針。
でも、その方針が、もし聖書の正しい距離にしっかりと根差していないと、なんかね、バランス崩壊なんですよね。
かといって、聖書を学ぶこと、距離を学ぶことはとても大事なんですけども、それだけで、それが実際の生活に生かされていないならば、
やっぱりそれも宙に浮いたような形だけのね、頭だけの信仰生活になってしまう。
とてもバランスが大事だということを、ここで見ることができると思うんですね。
そのために私たちは、サイリンの死を見つめ続ける。
48:02
時間の関係で飛ばしますけど、28節に行っておきましょう。
また彼に明けの明星を与えよう。彼は鉄の手を持って、ちょうど鉄の器をふくがくように彼らを治めるであろう。
それは私自身が、力、権を受けて治めるのと同様である。
私はまた彼に明けの明星を与える。2回目の明けの明星。
輝く明けの明星。つまり、サイリンのキリストです。
もうすぐ来られますよ、イエス様。私たちがそのキリストの花嫁。
その明けの明星を待ち望みながら、どんなに暗くってもそこで輝く明けの明星。
そのお方と顔と顔を合わせて、お会いするその日を巻き込まれながらけれども、
この肉眼で見ることができなくても、五輪際の死を私たちは崇めながら。
そうすると、例えばこの2015年もどういうことが起こるか、私には分かりませんよ。
でも、私たちはどうですか?
クリスタンの悩みって、神様の導き通りに行きたい。
導かれて、その導きに従っていきたい。確かの道だと思うんだけども、
祈っても祈っても、なかなか神様の導きが分からないという時がありますもんね。
でもね、ある人が言ってますけども、
導きが分からなくても、導いていてくださるお方を知っていれば、それで十分ではないですか?
本当にそうだと思うんですよ。
私たちには、明けの明星、キリストがおられる。
そして、このお方はどんなことがあっても離れないで、私は決してあなたを離れず、あなたを見せてないと言いながら、
2015年も片時も離れることなく、ひとまにんに、い続けてください。
だから大丈夫だって、そう言えるわけですよね。
もう終わらなければなりませんが、
私は、先ほど申し上げたように、清川君の時に宣言を受けましたけども、
本当にシャランポランな信仰生活で、
3歳半で、私の年後の兄が5歳の時に、父親が突然亡くなりまして、
そして、小学校4年生の時に母も病気になって入院したりして、
その頃は毎日のようにすっかり学校に行ってたんですよ。
問題児というかね。
だから、清川君の時はものすごい怖い先生から一番、
当時はビンタって言ってたんですよね。
妻にビンタされてる子なんか一人もいなかったって言われて、
すごく怒ってたんですけども、彼女がいた学校にはね。
私たちのところは普通に、その中でも特に私が一番、
51:04
兄は本当に真面目だったものですから、今も同じなんですけど、
お前ほんまにあの和田の弟かいって先生に言われたり、
先輩からもですね、兄貴真面目、弟どっつけてとかですね、
ごめんなさい、もう言葉悪いんですけども、
そういう本当にチャランプランな人間で、
常に泥沼から拾い上げてたというような形で検診したものですから、
自己中心的なものなんです。
検診してからも、自分が自分がというようなね、
そういうわがままがなかなか取れないような人間だった。
最初秋見先生は、私のお母さんみたいな方なんですけど、
秋見先生のお祈りの中で妻と出会わせていただいたんですよね。
詳しくまたいつか機会があればお話しますが、
だからね、先生もよくご存知ですけども、
本当にその我の強いね、こんな新学生大丈夫なんかになって、
3年生の時にお世話になって、
それからアラスカに使わされて、
解決してからもまた1年間お世話になって、
だからよくご存知ですけども、
だから申し上げたいことはね、
なかなか信じていることは正しくても、
なかなかその通り忠実に愛を持って、
教会の人たちに使え、また家族に使え、
主に使えるということができにくい人間なんです、もともとね。
でもね、こんな私でも、
少しずつ少しずつですけど、神様は憐れんでくださって、
それぞれ温かい評価をお与えくださったり、
時には厳しくお誓いをくださって、
悔やかに見過ぎてくださったりして、
成長させてくださった。
そしてこんなものでも、
愛と信仰に根差した報酬を、
引退しながらさせていただけるようにね、
変えられ続けて今がある、
これからも変えていってくださるって、
本当に期待しているんですよ。
去年の12月の最初の土曜日に、
子供大会がありましたね。
その前の金曜日に、
寒い中でひたすらお配ったり、
妻もお菓子をね、
何人か教会学校の先生方がおられるんですけど、
たまたますごく忙しくて、
妻がお菓子を袋に詰めてね、
土曜日の子供大会の時にも、
子供たちと一緒にいろんなことをして、
それで日曜日でしょ、
あまり寝れずにですね、
メッセージを、
あの時2回だったか3回だったか、
させていただいてね、
そしてその後午後から役員会がね、
ありました。
うちの役員会はシンプルだったんですけども、
2年ほど前から、
ちょっとメンバーが入れ替わって長くなった。
夕方の対応するくらいまでですね、
もうヘトヘトになってね、
帰るわけですよ。
だけども帰ってきて、
私はそこで何をしたかというとね、
ご飯を作った。
頼まれたじゃないんですよ。
妻はもう疲れ切ってるし、
54:00
子供たちの試験前でっていう中で、
作りたいなと思ってご飯を作ったんですよ。
そしてね、あとね、
洗い物をしたんですよ。
そして、桜になって夜寝て、
でも翌日、翌朝ね、
子供は高2と高1で、
お弁当が必要なんです。
ところが妻がね、
何とか起きたんだけど、
ちょっとしんどいから、
ごめんやけど、
お弁当作ってくれる?
そしたらね、
おお!
わっはー!
とか起きてですね、
そしてやった、お弁当ね。
それもね、いやいややなしに、
喜んでやってるんですよ。
私不思議でした、自分でも。
先ほど申し上げたように、
私は元々そういう人間じゃないんです。
でも、神様のあわれ目によってね、
少しずつ少しずつ変えられていって、
実際の身近な生活の中でも、
自然と喜んで、
愛に生きることができるようなものに、
ちょっとずつでもね、
変わられていってる。
だからこの間、
妻がね、
この、
なんか、
おさたんも、
おさたんなんてね、
ここだけの話ですよ。
言わんといてください。
妻は私をおささんって言うんだけども、
またおさむだからね。
おさたんも、
手が長くなったなぁ、
ってね、
言った。
おかげさんで、
そんなこと言いませんよ。
そんな心にもある、
ないことは言いませんけどもね。
でもね、
言ってくれたら、
それは本当に実感だったと思うんですけど、
変えられると思う。
イエス様が一緒に、
ずっとイエス様とい続けると、
一緒にいる人に似てくるじゃないですか。
イエス様と一緒にいると、
私たちもね、
ちょっとずつかもしれないけども、
私のように時間がかかるかもしれないけども、
変えられていくんですよ。
そこに希望があると。
どうぞこの2025年、
一生に伝えに来てね、
一歩一歩ですけども、
愛と信仰、
そしてそれに根差した報酬を、
忍耐にもってね、
させたい方ではありませんか。
お祈りいたします。