1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/01/25:聖日礼拝(旧音源)
2015-01-25 1:03:20

2015/01/25:聖日礼拝(旧音源)

2015/01/25 聖日礼拝(旧音源)




00:01
それでは、ここからも私のせいに、心から兄弟を許すという題につきまして、恵みを受けたいと思います。
これでも皆さん、恵まれたんでしょうか。ここも大切、また心からですね、神のメッセージをお知らせしたいと思います。
それでは先生、よろしくお願いします。
皆さん、こんにちは。ものすごいご馳走いただきまして、写真に納めさせたきました。
皆さんにお見せしたいような、したくないような、皆さんもそれぞれですね、お昼ご飯を召し上がって、
この時間帯というのは、どうしても聴く皆様も、語るがた聴くのは眠たいという問題がありましてですね、
どうぞ、せっかくの安息日ですし、眠たければですね、ちょっとあんまり無理をなさらずに、
5分か10分くらい休んでですね、はっともう一度お願いしていただくと、途中からでもですね、またついていけるんじゃないかなと。
としては、1994年の春から1年間ですね、
斎藤渉先生、秋美先生が勃開していらっしゃった平方希望教会に新学生として参りましたが、
水曜日の希望会が終わってですね、平方から神戸の新学校ですから、かなり距離はあるんですよね。
斎藤先生も途中で抜けて帰っていいからというふうに、それまでの新学生の方々もそうされていたということで、
私は最後までおりましてね、あんまりちょっと新学校に行きたくなかったみたいですね。
大体12時過ぎてから、やっと新学校に帰り着くという感じです。
木曜日の朝はすごく眠たいんですね。ところがね、寝れない事情があった。
それは私が新学校1年生のときに、赤城一丸教会というところでですね、お世話になりましたが、知る人と知る家内、
天に見されましたけれども、吉野先生、本当に叱る賜物を持っていったというか、
また私みたいな、午前にお話したような、本当にチャランプランなものですから、本当に思う存分叱っていただきまして、
もう新学生やめろ!帰るやつだ!と言われながら、でもそんなおっしゃってて、しゅーんとしたら、
わたくしもこれコピーを取ってきて、とか何事もなかったような感じですね。
普通に接してくださったりして、本当に伝道者としてのあり方を叩き込んでいただいたような1年だったんですけど、
03:10
その先生が木曜日の1時間目に来られるわけですよ。
だから寝れない、どんなことがあっても、私ね、水晴れができるんじゃないかってくらいに詰めりましたね、体をね。
こうして座りながら、こうなってきたら、あかん!と思って、つねってまた起きて、その2時間目はもうだめでしたね。
お名前は申し上げられませんけれども、小さなお声で優しく語られるタイプの先生だったものですから、
時々一番前の席だったのに、爆睡してしまって。
しかもちょうどその後、トイレに行きましたら、先生がこうやっておられてですね、
逃げられない、ごめんなさいね。
それでね、新学生も大変だよね、なんて言われながら、本当にすみません、とか言って。
そうなんですので、本当にどうぞ、皆さんが寝ておられても、私はどうも思いませんのでですね、
ちょっと寂しい気持ちになるかもしれないけれどもですね、
うちの教会には、求道者の方なんですけど、わりと肉体労働をされている方がおられて、
去年あたりはわりとマシだったんですけど、おととしぐらいがピークだったかな、
もうね、いびきをかけられるんですよ。
しかも、ちょっとよう聞いたらいびきしているのかな、というぐらいじゃなくて、
漫画でよく音なんかをいじり表しているじゃないですか、
それでも、ゴーゴーゴーゴーゴーみたいな感じの、ものすごいいびきをされるんですよね。
ちょっと役員会で話が出ましたね、
やっぱり起こした方がいいですね。誰が起こったかということで、
やっぱり役員でしょ、というような、私が言ったんじゃないですよ、役員同士でね、そうおっしゃって。
それで、役員の方が譲るというふうに決まりまして、席が遠かったから譲らなかったとかね、
どうしてあのとき起こさなかったんだ、みたいな話になったりとか、だいぶそのぐらいに大きな音でね。
どうしてもね、ちょっとやっぱりあんまり豪快に見られると、ちょっと内戦穏やかじゃないわけですよ。
だけれども、妻がそんな疲れているのにね、これだけ偉いやんって言うんで、
ほんまにそうだなと思ってですね、それから平安が来たんですけどもね、
そんなわけで、ぜひご無理のない範囲でですね、あんまり頑張られると、
頑張っている本位はわからないんですけど、ちょっと見せる方も気の毒になる場合がありますので、
その辺を適当に皆さんのほうで知っていただけたらと思うんですけども。
今日はですね、たぶん、こうして政界に出られる京田姉妹方にとられましては、
06:04
とても親しみのあると言いましょうかね、何度も呼んできた歌手ではないかなと思うんですけども、
心から兄弟を許す。
ある銀行でですね、アンケートを取ったそうです。
OLとかビジネスマン対象のアンケート。
今何で悩んでますか?
やっぱり仕事とか、お金とか、健康とか、いろんな内容があるんですけども、
その中でダントツで、このことで悩んでるっていうのが多かったのがあったんですよ。
何だと思いますか?
このことで悩んでますっていうのが一番多かった。ダントツでしかもね。
それはね、人間関係なんですよね。人間関係で悩んでますっていう。
その内容は、やっぱり人を許せないとか、あるいは許してもらえてないとか、そういう内容なんですよね。
おそらく私たちの毎日の生活の中で、実際に多かれ少なかれその問題と戦わざるを得ない、
とてもシリアなもの、それが許すっていうテーマだと思うんですね。
牧師として、職業柄と言いましょうか、いろんな方々の、これは牧師だから言うんですっていうようなお話をお伺いすることがありますけど、
その中でもやっぱり、実は許せないと。しかも身近な人が許せないということで、
とっても悩んでらっしゃるっていう方の話を聞くことが意外と多いんですよね。
あなたもそうだったんですか?っていうようなことがあります。
そのようなテーマに関して、聖書はどんな解決を与えようとしているのか、
そのことを今日ご一緒に、みなさまとしておっしゃられたいと思っております。
短くお伝えさせていただきまして、本番に入っていきたいと思います。
憐れみ深い天皇お父様、今日この時を感謝いたします。
本当に祈りが熱く熱く積まれてきたこの御堂におきまして、
今日いたします先生方、兄弟姉方とともに、
あなたへの心いっぱいの礼拝を授けさせていただき、
またこの午後ご一緒にあなたの御言葉をいただこうとしております。
09:06
心から兄弟を許す。本当に下手自信。
人間的な思いからするならば、とても難しい、できないことであることを改めて申し上げますけれども、
主よ、どうぞあなたご自身が私たち一人一人にお答えくださいますように、
もし今日の始まりの中で、許すということで苦しんでおられる、
あるいはまた深い傷を負っておられた方がおられますならば、
確実にそれらの方々に似たかどうぞ、不思議なように触れてくださる人々としてくださいますように、
しもみの内側からは何も良きものも出てまいりません。
どうぞ、あなたに恐れず宜しがっておりますから、
あなたが御言葉を通じて、メッセージの言葉を越えて、
今この時に語りたいと願っておられるその恵みを与えくださいますように。
待ち望みつつ、イエス・キリストの名前を通じてお祈りいたします。
待ち望みつつ、アメン。
ある牧師先生のおじいさまのことをお聞きしました。
その方はお医者さんで、とても地域で信頼されていて、
娘さんが二人なんですけれども、その娘さんとしてもお父さんが大好きで、
ある時に一人の女性を、これは私の患者だと、
よく見なくちゃいけないということで、家に住まわせ始めたんですよね。
それはもうつまり、あってはならないことを、
道の外れたことを、公然とし始めた。
本当に家の中がぐちゃぐちゃになってきましたね。
姉の方は、特別お父さんを尊敬していましたので、
そのお父さんが社会的に恥ずかしいことをし始めたということで、
精神的におかしくなってしまわれて、
病と自死と混ざったような形で亡くなっていた。
そして、奥さんと娘さんは、お父さんに対する怒りと憎しみで、
ガリガリに痩せていって、見るに見かねたクリスチャンのお友達が、
教会においでと。
全然教会に行ってはなかったんですけども、
あんまりお友達が言ってくれるので、行ってみたわけですよ。
ところが、行ってみたちょうどその日のメッセージが、
12:03
敵を愛する、迫害する者のためにいろいろと言うことになった。
それでも簡単に怒って、二度とこんなところに来ないとなっちゃったんですよ。
けれども、不思議だなと思いますのは、
その周りのお友達の方々は、諦めなかった。
ものすごく祈られたわけですよ。
この話の続きが今あるんですけども、
ある本で、これは実は若い牧師、教会リーダーのための十四章という、
ドレシア先生という方がずいぶん前に書かれた本なんですけど、
役員会で去年まで一緒に読んでたんですけどね。
その中でね、こんな話があるんですよ。
私はどんな難しいと思える人にも、
必ず入り得があることを信じたいと思う。
つまり、難しい人というのを島になぞらえてね。
断崖絶壁の、船でこう回ってもどこからも入っていけないようなんですね。
そういう島。
でも、諦めないで、ざーっと丁寧に島を回っていると、
必ずスッとね、フッと見たら見えなかったけども、
入っていけて、ここからだったら島に登れるなっていうような入り得がきっとあると。
だから、とても難しいと思う人も、
諦めずに祈り続け、愛し続け、使い続け、アプローチしていけば、
きっとその人と親しくなれて、キレストを紹介することができるだろう。
そういう場所があって。
それについて、彼らは諦めずに祈って関わっていって、
とうとうお二人は救われるんですよ。
妹さんの方の子供さんというのが、先ほど私が申し上げた牧師先生なわけですけどね、
その方の言葉なんですけど。
家様の人生を救われて、間もなく信じられないことが起こったというわけですよね。
それは、あんなにも憎かった、どうしたって許せないと思っていたその夫、あるいは祝父親を、
本当に許せるようになったって言うんですよ。
でもそれは、黒板の字をシャーッと消すような、そんな風な癒され方ではなかった。
牧師先生が小さい頃に、夜中に声が聞こえる。
それは、おばあちゃんがうなされているわけですよ。
お母さん大丈夫?またあの夢を見とったんじゃ。
つまり、憎くて仕方がなかった元夫のことです。
15:01
だけども、うなされていたのに、一緒に眠りして、朝台所でサンリオを歌いながらトントントンとしている。
そういう姿を見ながら、子供ながらに、キリスト教ってすごいなって思って育ったらしいんですよ、彼はね。
私たちにとって、許すということは、許されるかどうかというその人にはあまり関係なくて、
むしろ許せなくて苦しむ、こちらの側の苦しみと言いましょうかね。
そして、許したときに、その許してもらったという人以上に、許せたその人が開放されるということがきっとあれだろうと思うんですけど、
そういったことを思い巡らしながら、聖書が、イエス様がおあたけらせる解決をですね、
ご一緒に見事場から見ていきたいと思うんですけども、ピテロが質問するわけですよね。
では、お読みいただきましたマッタイの18章の21節を見てみましょう。
では、21節を皆さんお手元に持っていらっしゃったら、いろんな節を持っていらっしゃるかもしれませんけども、
それぞれの役で結構、21節をご一緒にお読みしてみましょうか。
そのときピテロが身元に来ていた、死を、罪を犯した場合、何度まで許すべきでしょうか?
7度まででしょうか?
ありがとうございました。
ございもその7つの教会ってね、続きますけど、7つ。
まあ、多いですよね。そして、単全数でもあるわけですけど、
ですのご存知のようにね、筆頭角であったピテロは、ちょっと得意げにね、自分は、
イエス様、7度まで許せますよ、そういう覚悟ありますよ、というような気持ちで言ったんだと思いますよね。
だけども、7度を70倍と。
じゃあ、22節をご一緒にお願いします。
イエスは言われた、7度までなどとは私は言いません。
7度を70倍するまでと言いました。
ありがとうございました。
びっくりするような。
7度を70倍ですから、7×1、49の490回。
487、488、489だ!
今こそという、ことじゃないでしょうね、これはね。
どこまで行っても許しなさい、という。
でもね、イエス様が命令をなさらるときっていうのはね、あるとき聞かせたんでしょう。
18:02
イエス様が命令するっていうのは、人間の命令とは違うんでしょうね。
例えば、難しい命令があるじゃないですか。
いつも喜んでいなさい。いつも喜んでいなさいという命令はどうでしょうか。
皆さんここに来られる、朝起きてから今までずっと喜んでいた人はいる。来られないでしょう。
難しいんでしょう。いつも喜んでいなさい。
だけども、イエス様がいつも喜んでいなさいってご命令なさるということは、
それは私たちの力ではできないんですけど、
でも、神の言葉なので、いつも喜べない私が、その神の言葉をご命令を聞くときに、
その神ご自身の力、命によって、そうできるようにさせられていく。
だから、いつも喜べるように私がしてあげますよっていう、それは命令と同時に約束なんですよね。
だから、これは許しなさい。どこまでも許しなさい。
それは、あなたにはできないことはよくわかっている。
敵を愛しなさいとか、右のほうを押されたら左のほうを押されたら、できないでしょう。
でも、私を信じて私にあき渡して引っかかってくるならば、私の力によってあなたはそうできるように変えられていくんだよ。
私が変えるっていう約束なんですよね。
ここで、イエス様もそういうお気持ちでおっしゃっているからこそ、次のさせ話をおっしゃったわけですよ。
この23節から見ていきますけど、今度は私だけようにしますが、
人間には何度だって許すってことはできない。
何度だって難しいわけだよね。だけど、どこまでも許せるようにしてあげるってどういうことでしょうか。
じゃあ、23節からいきましょう。
このことから、天の御国は非常の王に例えることができます。
王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず1万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れてこられた。
しかし彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も財布も持ち物全部も売って返済するように命じた。
それで、このしもべは主人の前にひれ伏して、どうかご猶予ください。
そうすれば全部お支払いいたしますと言った。
しもべの主人はかわいそうに思って、彼を許し借金を免除してやった。
王様が清算をすると、なんと1万タラント。かわいそうにいいと思って許してあげた。
わあ、素晴らしい王様だなあ。
でも実はイエス様のさせ話というのは、驚くべき話なんですよね。
21:07
だから驚いてないというのは、それはわかってないということなんですよ。
私も全然わかってなかったんです。
驚いていても、あまり驚きを証言なさらないという場合はもちろんあるでしょう。
驚くばかりの恵みなりきというね。
あれはシューパーに驚くとも歌いますけれども、本当はあの歌の込められた意味からするならば、
もう普通にこうして歌えない。
もう本当に驚いて、出なければ歌えないようなものすごい恵みがあそこには歌われているわけですね。
そうじゃないよね。
ここの一万タラントというのは、それこそ驚くべき数字なんですよ。
なんとなくスーッと説明すると、一万タラント、一万円ぐらいかなって思っちゃうんですけどね。
そうじゃないみたいなんですよ。
教科学の先生方なんかは覚えてらっしゃると思うんですけども、教科学の先生方はどういうふうに言われますか。
あ、当てませんか。
わかりました。ありがとうございます。
じゃあそっちなんだね。
一タラントっていうのは、六千でなりなんですよね。
一でなりっていうのはどのような意味かというと、だいたい一日の労働賃金だとそうです。
一日に職場働いて、一でなり。
それが六千でなりで一タラントなんですよ。
ということは、六千日分の給料でしょ。
だから皆さん働いてらっしゃる方、あるいは働いてらっしゃった方々ね、一年に何日働かれるか。
ちょっとわかりやすく、一年に300日働いたとしましょう。それも結構きついと思いますよ。300日。
そしたら、六千日分ということは何年分になりますか。
20年。
20年分の給料なんですよ。しかもそれを全然使わずにですよ。全部返済に。
でも実際にはそんなことは不可能でしょ。
でもそうできたとして、それでやっと一タラントなんですよ。
一タラントっていうのは20年分の給料。
そしてね、それが一タラントじゃないですか。
例えば円で言うならば、一日例えば一万円としましょうか。
そしたら六千でなりっていうことは六千万円ですよ。六千万円で一タラント。
六千万円または二十年分と覚えてくださいね。
24:03
ところがね、もう一つ見てみましょう。この人は一タラントの借金だったでしょうか。じゃないんですよ。
一万タラントなんですよ。
だから二十年分でやっと一タラントなので、二十万年分なんですよ。
私ね、さっきもちょっとユン先生にも話したんですけど、
私の父方の祖母は今百一歳、百二歳で今また元気なんですけど、
元気かどうかわかりません。元気かどうかは全然わからないですけども、耳が遠かったりしますけども、
私の母方の祖父は百六歳まで来たんですよ。
で、おととしの十一月だったかなにねされたんですけどね。
本当に元気だね。でもね、でも先生百六歳じゃないですか。
だから二十万年分の給料を返すと言われても絶対無理なんですよ。
だからさっきの六千万円っていうことで言えば、六千万円かける一万ですから、どうなります?
六千億かな。
そのだけですよ。計算も午後の眠たい時間にはできなくなるぐらいにね、ものすごい巨額な借金。
だからいつもはわざと天文学的な数字を持ってきて、これだけの借金を全部売って、
家族も何も全部売って返しますから許してくださいって言ってても、無理だっていうことは日を見るよりも明らかなんですよ。
それでそれを見てね、殺してもおかしくなかったんだけども、かわいそうにと思って許した人。
例え話じゃないですか。当然何かが例えられているわけで、もうお分かりだと思いますけども、この王様というのが天皇陛下。
皆さんはきっとこの借金をしている人は、和田博士と思ってやったと思うんですけども、私なんです。
私であると同時に、あなたなわけでね、許されているってわけですよ。
それが一番タラント。
和田選手の場合は、朝の話を聞いていたら一番タラントがもっとかかっていたらね、皆さん思っているかもしれないけども、
皆さんも結構借金があるということを、私が正面してみたいと思うんですよ。
例えば皆さんね、これは当たり前のことなんだけども、皆さん水代ってね、和歌山市と神戸市とは違うかもしれませんが、水代って払ってらっしゃいますか。
水代ちゃんと払ってらっしゃるから。
27:00
あ、半分ぐらい。水代。
皆さん多分ね、水代払ってらっしゃらないと思う。
水道代なんですよ、皆さん払ってらっしゃるのは。
だから、ここはどこの川から来ますか、水は。
何川か。
え?
え?
え、違う。
え?
え?
浄土川。
浄土川。あ、そうか、水代の場合はね。
和歌山の場合は木の川という川がありまして、
でもその川から流れてくる水をきれいにして、ひねったら出てくるようにするための手間賃というか工賃というかね、
それで水道代ということで払っていると思います。
でもね、水自体はタラなんですよ。
だから私が精査の学びで生かしていただくお家に井戸がありましたね。
それはタラなわけですよ。
そうですよ。
食べ物もね、先ほど申しましたように一番好きなのはお好み焼きじゃないですか。
豚玉って言ったら豚肉がありますけども、
豚肉も豚を育てて殺して加工してパックして売るというそういう手間賃は払ってますけど、
でも豚そのものをね、豚代っていうか豚肉代じゃなくて豚代自体はタラなんですよ。
そうやって考えていくと色々ね、私たちが使ったり食べたりさせていただいているもので、
果たして一体お金を払っているというものがどれほどあるか。
つまりね、正解というかクリスチャンの方々ばかりですからはっきり申し上げますと、
全部神様からいただいています。
しかもタラで。
なのに、全部タラでいただいているのに、
ろくずっぽファンさもしないというふうに皆さんはされていると思うんですけども、
でも基本的にはそれに見合った何かね、しているわけでもなく、
つまり言ってみたら殺菌なんですよ。
そうか、すぐに神様に殺菌をちょっとせきたのかってね、こうでしょ。
それがやがて生産される時が来ると。
しかもそれはもう一般恩情に関してはね、私も。
でもやっぱり引っかかってくるのは罪の問題じゃないですか。
私たちが一番神様に対して負債を負っている、
それは貝をどんどんどんどん積んでしまっているとするならばそれは、
罪っていう負債だと思います。
30:01
私たちが日常生活を送っていく中で、
許すことが難しい。
それはこの時の王様の気持ちを考えた時にね、
一番タラなんて元々誰のお金かというと、それは王様のお金じゃないですか。
どういう事情か知りませんけども、そのくもべが無駄遣いしちゃった。
本来、王様が王様の自由のために使えるはずのお金をわざわざ彼に使わせてあげて、それをでも無駄遣いしちゃった。
結局、許してあげるとどうなるかというと、
その莫大な20万年分の給料に値する一番タラなんていうのを、
本来は全然損する必要のない王様が被らなくちゃいけないわけですよ。
それはおかしいことであってね。
例えば、王様の奥さんが、何でこんな人のために一番タラなんて貼らんといかんのよ、と。
そこもそうやなっていうことなわけで、
本来その人が負担すべきものを負担できないからということで、
それが何もなくなるのではなくて、こちらがそれを被るという。
これが許すということのストレスなわけですよ。
つまり、相手が悪いんです。
でも相手が悪いんだけども、その悪いという事実に関してのマイナスを、負担を、ストレスをこちらが被るわけ。
だから、許すことがしんどいというのは当然のことなんですよ。
そのことをよくわかって、イエス様がこの多生話を語ってらっしゃる。
実は、私たちが犯してきた罪というもの、警察にたまらなくても、
思いにおいて、あるいは言葉において、様々な罪を犯してきた。
神様に見せて作られた私たち人間が、しかもそのどんな小さなものであれ、
罪を犯すこと自体が、本来の姿ではないわけですよね。
だから、その意味では、私はこの明大の教会に来させていただいて、朝からすごく感じていることは、
皆さんが本当によく祈って、そして神様を愛して、お互いに祈り合って、
愛し合って、祈ってこられたんだなという、そういう霊的な空気みたいなものを、やはり感じますよ。
これ、ご質問いただいたから、さらに切ってみたいんですけどね。本当に心からそう思っているんですよ。
33:01
そういう皆さんが、ずっといつも築きづけた信仰生活を送ってこられたのか、あるいはこれからも送っていくのかというと、
相当も限らない。つまり、私たちには時に、何か築きづけないなということが、送ってくることがあると思うんですよね。
それがすべてではない。すべてではないけれども、時には罪がかかっている。
その罪が食い温めずにここに残っているために、神様もっと働きたいと思っているんだけれども、働けないということはあるわけだよね。
これも、あくみ先生が言っているから、ついつい言っちゃうわけでもないんですけども、
私が新学校3年生の時のことをまた思い出すのですが、クリスマスに子供クリスマス会があったんですよ。
たくさんの子供たちが集まって、柔らかくメッセージを言って、本当に恐れつつ、一生懸命準備して祈って、神様に委ねてメッセージを語った。
そしたらね、最後に目を閉じて、真似をしたわけですよ。
つまり、今イエス様を信じたい、自分の罪が分かって、イエス様を信じたい、僕も私もイエス様を信じて天国に行きたいと思うお友達がいたら、
今みんな目をつぶっているから、手を挙げて教えてください。
だいたい2、3人はギャラリーを見るんですけども、みんな手を挙げたんですよ。全員。
でね、はれりゃーと思って、神様、あたしもお年寄り方です。感謝してます。
祝福のお祈りをして。
その後、今は明けのキリスト教会になってますけども、男山伝道所に移動して、そこでクリスマス会というのがあるということで、
私は今度1時間ばかりですが、時間が空いてまた始まるということで車で移動する。
その時に神様、感謝してます。はれりゃー。この男山伝道所でのクリスマス会もどうぞよろしくお願いしますと、
祈りながら行ってたはずだったんだけども、結構時間があるんでね、いろんなことを考えられないですか。
で、いろんなことを考えちゃった。
何かと言うと、あの時iPhoneって受けた?とかね。
あの話、われながら熱くいったよな、みたいな。だんだんと神様に栄光を貸していたはずなのに、
自分がいい話を言ったからみんな愚心したんや、みたいな風に、そういう風につやがっちゃっても、こんな風になったわけですよ。
そういう風になりましたね。同じお話を聞きました。対象画面が座らなくても同じお話でした。
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とね、最後に招き寄せたらどうなったかと言うとね、なんと、一人のケースに繋がったんですよ。
東海学校のね、校外人。なんかね、気まずそうにね。
なんかこう、また新学生に申し訳ないやら、なんという結果やてな、にやにやし。
そんなグダグダな顔をされてたのも、目に焼きついてますけどもね。
みなさんお別れでしょう。その後、教学の先生方がうまくフォローしていってくださったと思うんですけども、
同じメッセージなんだけども、神様助けてください。
精霊なる神様が語ってください。私は何もできませんからって恐れながら、神様に栄光をお返ししつつ語ったメッセージと。
内容は人間的には同じはずなんだけども、自分により頼んでね、傲慢になって。
たかぶりっていう、神様がお嫌いになるその罪満々でいくらやったってね。
たぶん私ね、語りながらもわかってましたよ、自分で。
もう空回りしてるっていうのはね、ほらもう怖いですよね。途中で、ちょっとすいません。
いったんやめていいですか。ちょっと5分くらい祈り込んできますって言われませんで、最後までいきなり打ち上げてね。
もう悲惨ですよ、その時はね。
つまりね、面白いことは、神様はいつも愛しておられるし、生きて働いておられるんだけども、
せっかくの神様の働きを、私のたかぶり、私たちの罪が妨げてしまうってことがあるわけでしょ。
私ね、だから本当に思うのはね、これから言わんとこうと思ったんですけども、
先ほども思わされたことは、きっとね、この三和谷教会に何年後かわかりませんよ。
でもね、本当にこんなにいっぱいになるのかって、もちろんいっぱいなんですけども、もうあふれかえってしまってね、もう入らない。
では、聖霊なる神様はね、安心して、祈りが積まれて、許し合って一致して歩んでるところに、生きて働いてくださって人を送られるわけでね。
きっときっとそうなんじゃないかなって、すごくそれを感じながらね、今ここにいさせていただいてるんですけど、
そういう意味で逆に言えば、何かね、信仰性格の中で突き抜けないなあっていう、
神様がこんなものをまわしくさせてるっていうその実感がなかなかないなあ、
この祈ろうと思ってもここに乗り越えないなあっていう、そういうときにもう一度神様に聞くって言いましょうかね。
もし主よ、悔やさめるべき罪があるならばどうぞ示してください。
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そしてね、もしそうやって祈ってみても何もないんだったら、それはね、もしかしたらもう聞くと許されてるにもかかわらず、
なお、やっぱり許されてないんじゃないんだろうなあって過去の記憶に縛られて自分を責めているだけかもしれないんですよ。
ちょっと話があちこち飛んでいきやすくなんですが、2週間1転ぐらいのペースでですね、
私の新学校時代の同級生の方と場所はだいぶ離れてるので、スカイプっていうインターネットを通じた無料のテレビ電話がありました。
それでミーティングって言いましょうかね、持ってるんですよね。
そのときに一番最初にまず10項目ぐらいの悔やらための祈りをします。
それは例えば何かに依存していませんでしたか。
例えばもうコーヒーばっかり飲んでたとかね。
あるいはお金に関してやましいところはありませんでしたかとか、
あるいは心理的な誘惑になるようなものに目を止めたり、
そらしくない思いを抱いたりしませんでしたかとか、いろんな質問項目があって、
それに対して神様に向かって相手の立ち合いの中で悔やらための祈りをするんですよ。
そして私が祈りを終わったときに、今宇和田さんが本当に真実に悔やらための祈りをしてあげました。
家様の秩父様によってすべての国が今許されたことを、神様によって信じ、救受します、感謝します。
今度は逆をするというね。
それだけではないんですけど、祈りを一緒にしたりとか、
先生の部下で教えられたことをわかっちゃったりとかするんですけど、
それにすごく助けになってます。
本当に定期的に神様の御前にもう一回チェックして、
今度そのときがあるときに、また全部神様の御前に出すということをわかってますから、
それがやっぱりブレーキにもなりますよね。
そういう意味で守られてるなあって、
そういう交わりって皆さんも成し遂げる方もおられかもしれませんし、至福だと思いますが、
そういう意味で申し上げたいことは、そこで私が許されたという確信を与えられたら、
それに関してもう自分で自分を責める必要はないわけですよ。
なのに不健全に責めてるとしたら、それがまた三玉を売れ詰めるわけですよね。
だからもう神様の御前に立ったらもう大丈夫と思って、
スカッとした信仰生活を送れるんだということも、
42:03
共に心に溜めていただきたいと思うんですが、
そういう意味でもう一度ここに返っていきますと、
この人は許されざるべきはずのものすごい借金を実際に許してもらった。
ところがこの次があるわけで、では28節からいきましょう。
じゃあ1節交代で講読をしたいと思いますね。
私が28節、皆さんは29節ですね。講読しましょう。
ではお願いしますね。
ところがその相撲は出て行くと、同じ相撲仲間で彼から作でなりの狩りのある者に出会った。
彼はその人を捕まえ、首を絞めて借金を返せと言った。
しかし彼は招致せず連れて行って、借金を返すまで牢に成り入れた。
そこで主人は彼を呼びつけて言った。
悪い奴だ。お前があんなに頼んだからこそ、借金全部を許してやったのだ。
こうして主人は怒って、借金を全部返すまで彼をごくりに引き渡した。
ありがとうございました。
特にこの33節なんですが、
私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではないか。
1万タラントを許されたわけですよ。
先ほども見ましたように、1タラントが6千デナリ。
ところがこの人が今、100デナリを貸していた。
だから100日分の給料。
1日1万円としたら100万円。
100万円だとしないし、退金ですよと言われるのは分かるんですけど、
そうすると話がややこしくなりますので、今は心を広くしていただいて。
なぜ?1万タラントも許されているんですから。
6千億円。
で、かたや100万円。
ちょっとローンでも組んでっていうようなやり方でも、
会社内閣ではないですよ。
だから、20万年分許してもらっているっていうことが皆さんこの人はどうですか?
分かってないってことでしょ?
45:00
100日分の、確かにそれは借りなんです、この人はね。
だから、返さなくてはいけないものではある。
だけども、返してません。でも必ず返しますから、ちょっと待ってください。許してって。
いや、許さん。
これは、全然何もなかったら別ですよ。
だけども、1万タラント20万年分許されているっていうことが、
その値打ちがね、その値打ちが全然分かってないってことですよ。
私は、パッションっていう映画を見に行ったことがあるんです。
パッションってイエスの十字架の映画、見られたことがある方、どのくらいあります?
やっぱり半分以上。
なるほどね。
和歌山の小さな、すごくトイレの匂いが充満しているような小さな映画館だったんですけども、
私、最初から謎と分かっていたんで、
手ぬぐいを持ってね、一番前の席で、後ろから見る役もやらないのに、
スカブカとね、スカブカと、誰が見ても僕とは思えないくらい、
最初から最後まで泣きっぱなしだったんですよ。
もう、あんなにギトギトになるまで、しなかを打たれ、つばきを吐きかけられてね、
いく度もイエス様は涙を流しあって、何ということだろうか。
そして私は、その時にね、帰りながら、姉ちゃんをこげながらね、もう繰り返し繰り返しね、
もう、二度と罪を犯したらあかん。もう二度と罪を犯さへんぞ。主よ、許してください。
と言いながらね、それね、本気で思いながら、自分の罪のためにあそこまでイエス様が苦しまるかと思ったら、
もう、そう思わずにはいられなかった。
つまり、こんな大きな儀式を払って、自分は許されたんだ、と思ったんですよ。
でも、それからも私は罪を犯してしまったり、そして、その自分自身の罪について、
まあまあ、これは罪っていうか、いや、罪っていうよりも配慮じゃないの、みたいなわけのわからないことをですね、考えたり、
誤魔化して誤魔化して、っていうようなこともあったり。
そして、もちろんね、後で示されて悔やかにしてとか、謝ってとかね、もちろんあったわけですけど、
そういう意味で、私たちはやっぱり忘れやすいんですよね。私は忘れやすい人間です。
だから、この例え話を通して言われている、このあまりにも滑稽なね、全然額が違うんじゃないのっていう、
それをけれども、許せなかったこの人の姿、それが私の中にもあるっていうことを、
私は実はもう一遍忍み前に認めざるを得ない。そして、そうであってはならない。
48:02
家様がここでご命令下さっているようにね。
皆さん、もう一度ですね、ご質問に33節をお見せしておいてはいけませんか。
33節でお願いします。
私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではないか。
ありがとうございました。
聖書に決して逆らうつもりはありません。
そして、ここに書かれているような、あなた方もそれぞれ心から兄弟を許さないなら、
天皇、私の父も、あなた方にこのようになさる。
すなわち、いかって殺人を全部神様で彼を極利に引き渡した。
でも、返せないと分かっています。
だから、その極利の中から自由になれないという。
最終的には、もし私たちが神様の許しを拒み続け、悔やかめることをせずに、
神様に世を向け続けていくならば、そこには裁きがあるでしょう。
でも、即それをなさるのではない。
つまり、私自身の人生を振り返ったときに、もう、行くとも行くとも行くとも。
うん。許しました。
放送息子の話というのがありましたでしょう。
レムランドという画家が放送息子の起胸という絵を描きました。
それで、私、ヘンリー・ナウエンという、この方は神学者として本当に頂点に達しながら、
そのキャリアの全部を捨てて、ラルシュ共同体という非常に重度の精神障害を持っていらっしゃる方々の共同体に行って、
そこで使えることを選んで、というそういう方です。
その方が、レムランドの大きな絵の前に、しばらく佇んで思い描き出すときが与えられた。
そのときのことを本に、放送息子の起胸という本に書いてらっしゃるんですけれども、
その中で、ヘンリー・ナウエンがあるとき、レムランドが意識的に描いた手の秘密に気づくんですよ。
つまり、放送息子がボロボロになって帰ってきて、まさにその放送息子というのはレムランドその人、
彼もそういう滅茶苦茶な障害を経て、もう一度放送息子に帰ってきた人なんですけれども、
年老いた白ひげの博士の老人が、優しく息子の手を置いているんですが、
その手が、片方の手は細くて、片方の手はゴツゴツしているんですよ。
51:02
つまりその手は、母の手であり父の手なんですよ。
どんなに裏切られようが、背かれようが、侮辱されようが、私の子だからお前を愛するという母親の愛。
そして、どんなに犠牲を払ったってお前を支える。私はお前の父だという父の手。
その両方の手で放送息子を迎えている。まさにレムランドにとっては主の愛というのが、そういう愛だったでしょう。
だから、一万多覧と許してもらっていながら、百全なりが許せないというような、
本当に心の狭いを許すことができない私のようなものを思う神様は、
あわれんで、あわれんで、あわれんで、ギリギリまで待って、待っても待っても悔やかめないんだったら、
もう愛の無知でもって、時には強引に帰ってくれるようにしていって、そういう神様の愛の中で、今の私があるわけですよ。
ですから、きっときっと私たちは、今、どうしても許せないという問題があるとするならば、それを神様に持っていけば、
神様が私のようなものを許すために、どれだけの犠牲を払ってくださったかということが迫ってきて、
それで、許せるように神様がきてくださると、私は許せない。それでもやっぱり、僕自身ですけども、許すことが難しいなというような、
皆さん、メールってあるじゃないですか。和歌山教会の方には言わないでくださいね。
神様の手伝いがあるので。でもね、メールっていうのはね、手紙だったら読み返して、ちょっとこれ意地ついたなと思って書き直したりとかってあるじゃないですか。
メールって怒りに任せてババババンって打って、パーンってサシャンって。後で読み返したら、こんなこと書いてたのかっていう場合ってあると思うんですけど、
でも、受け取った側はね、それをそもそも心と思って、やっぱり深刻な内容であればあるほど何回も読むわけですよ。
読んで読んで読んで、傷つき疲れ果てみたいなことが、僕自身でもないわけじゃないんですよ。
さすがにこんなことまで言われるかっていうような、そういう時はね、私も僕として結構親徒の方を傷つけたり、
失礼なことをやっちゃったりって許してもらったりとか、そういう時はパーンとそんなことをどっか行っちゃってね、
たーっと思った、そういう時に私は神様にね、神様、こんなこと言われました。これからこれからバカなこと言われました。
54:05
助けてください。許せませんって言われるわけですよ。だってそれは正直な私の思いですもん。
許せないっていうことをそのまま、許せません。助けてください。でも、そうやってそのまま祈っていくときに、
本当に不思議なように神様が働いていらっしゃって、その方がそういうようなことをこちらにおっしゃったり、
メールなしだったり、あるいはしたりっていう、その背景にその方自身の言うに言えない、今の思いとかストレスとか性育歴で負ってこられた傷とか、
そういうものが迫ってきて、本当に無理もないよなーって受け入れることができるように変えられていくというのがあるわけですよ。
本当にそういう意味で、許せるようにしてあげるという約束として、今日のこの歌詞を味わいたいと。
最後に一つのことをお話ししてもらいたいと思いますが、私が学生時代に、韓国のソウルのパワダ公園という公園に、
横田先生という方に連れていただいて行きました。
パワダ公園には、銃の本当に大きな、このぐらいの大きさの石の壁画がありまして、そこには何が彫ってあるかというと、
昔、私たち日本が韓国において実際にした、あまりにも残虐な行為がそのまま絵になっています。
それで、それを私たちが行きましたときに、韓国人の僕たちだったら少し日本人の私たちに遠慮なさって控えなされるところがあるかもしれないんですけど、
日本から行ってらっしゃる研究生の方が私たちを導いてくださったので、全部教えてくれた。
こんなことがあってなんですね、内容だったんですよ。
馬の尻尾に女性が髪の毛を引き付けられて、引きずられているんですよ。
そういうふうに縛っておいて、馬をピシーンとやって、ギャーって押しながらそれを引き回したり、
あるいは、私はそこからまた車で全部走って、治安理教会、定眼理って日本語で書いてありますけど、そこにも行きました。
そこでは日本軍の人たちが、教会にみんな来てほしい、今まで本当に迷惑をかけてひどいことをしてきたことを謝罪したいので、全員集まってほしい。
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そういうことだったらということで、みんな集まって、そしたら日本軍が外から誰も出れないように厳重に板を張って、釘を当てて、そしてもやしたんですよ。
赤ちゃんをね、お母さんが、この子たち全て出してくれって、窓から出している赤ちゃんを日本の軍人が銃剣で突き刺している、まさにそのシーンが十枚の引き金の中にありました。
朝も申しましたように、私の親類にも韓国人の方がおられますし、また本当にこうして、ユン先生をはじめ日本を愛して、日本に潰されているクリスタルの先生方がたくさんおられますよね。
だけども、私の友人も、イスカラミ県や中国や、選挙室として使わされて、そしてそこで本当に尊い一生を祓いながら老死でいてくださる。
だけども、私のようなものがあえて申し上げさせていただくならば、おそらく韓国のクリスタルの方々がこの日本を、他の国々ではない、この日本を心から愛して選挙のために使わされておられるということは、たぶん他のどういうケースとも本質的に意味が違うと思うんです。
つまり、そこに本当に許していただいた。つまり、今日のこのたずえ話を言うならば、日本人である私は、この韓国の方々に一万カランと、そのような決して借りつくことができない借金がある。
それを韓国の方々は、キリストの愛ゆえに許そうと言ってくださって、そしてこの日本を愛って、しかもいくらかの韓国の方々にも落ち着いたことがありましたけれども、それは決して簡単なことではなかった。
本当にこの日のトレース会の中で、人からのチャレンジを真っ直ぐに受けて、本当に祈って祈って、またこの日本を愛しなかった、許しなかったその罪を、なんとその方々が食い改めてくださって、そして日本を愛して来てくださった。
ゴンミンさんという韓国人のピアニストの方がありまして、昨年友達になりました。うちの教会にコンサートのお手伝いに来てくださったことがきっかけで友達になったんですけれども、そのゴンミンさんは去年のクリスマスの時に、
1:00:13
なぜこうして日本に来るように、東日本に何度も彼は足を運んでくださっているんですけれども、なぜ来るようになったかというと、韓国で東日本大震災の様子を見て、とても心が痛みました。そして、かわいそうに思いました。そして、神様、祈りました。何かできることはないでしょうか。
自分は、その方も韓国でメジャーでやっていらっしゃるようなピアニストですので、自分には音楽がある。これで少しでも日本の方々に慰めが与えられたなと思って、そこから全然話せなかった日本語を一生懸命勉強なさって、とても優秀な日本語で、奈良ソウソウとか慰めに行った曲も含めて、サンディさんも東風レイクを演奏してくださった。
そして、ただのクリスマスに私に来てくださったんですけど、そのコンサートの中で彼は、日本の皆さんが東日本大震災でとても苦しかった、つらかった、その時に一緒にいることができなくて、ごめんなさいって頭を下げてくださったんですよ。
私はそれを聞きながら涙が出てきて、本当につらかったです。そしてその後思わず、コンサートの中でだったんですけども、今お話ししたね、そのことをもう一度お話しして、ごみんさんにも頭を下げたんです。
ユン先生ごめんなさいね、皆さん方も高いところからですけども、どうぞ本当に私たちの日本の人生を心から本当に許していただきたいと、本当に心からお詫びいたします。そして、許してくださって、私たちを愛して来てくださっていることに心から本当にありがとうございます。
そして、イエス様が私たちをどんな犠牲を払って許して愛して尽くされるか、そのことを本当に心に私たちが受け止めて、そして具体的にまず、まず身近な家族、あるいは友達、あるいは職場の人たち、あるいは今、
ああ、そう、やっぱり許しますって祈ったはずなんだけども、やっぱり許せないよなっていう、あの人、この人、でもね、その方々を許すに十分な借金をもう、私たちはイエス様から許されているんですよ。
そして、神様が許されている、イエス様が許されているだけじゃなくて、お泊りの韓国の方々をはじめ、私たちのことを本当に許せないはずの、それを背になって乗り越えて愛してくださっている、許してくださっているそういう仲間がいる、そのことを思うときに、私はやっぱり、この、いやあ、やっぱり許せないあなたのこと。
1:03:08
許さないことをどう見たって、私があなたのことを許さないということは正しいなんて、そんなことを言えないと。そうなんですよ。皆さんいかがでしょうか。お祈りいたしましょう。
01:03:20

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