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それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、祈られたように新年度、最初の礼拝です。
主が昨年度一年間を豊かに導いてきてくださり、また新しい年度が始まっていきます。
主は今年も今年度も、私は新しいことをなすと、
あなたの新しさに期待をしながら、私たちは一歩一歩進めることを感謝いたします。
どうか教会が祈られたように、主を仰ぎ、あなたの御言葉を蓄えながら、
一歩一歩忠実に進んでいく群れとなりますように、
神様が私たちの群れを導いてください、お願いいたします。
今日もまた、あなたは一人一人を主の御前へと導いてくださいました。
どうか今日も、私たちはあなたが十字架において流してくださった地中におり、
神のことをしてくださったこと、三日目に甦えられた復活の命を与えてくださり、
永遠なる人と共に歩む人生を始めてくださったこと、その恵みを覚えて感謝をしています。
ただ本当に主よ、私たちは本当にあなたの御言葉から離れやすいものですから、憐れてください。
今日も命の言葉を語りかけ、あなたにつながり、
あなたからの力を得てここから立ち上がることができますように、
この一時を祝し帰りみてください。
特に、ここに来たくても来れない方、
ご自宅で礼拝を守っている方、また今日は用事があって、
違う場所で礼拝を守っておられる方もいらっしゃいます。
ところどころにおいて、主が御臨在くださり、
あなたの恵みを表してくださいますように、
特に世界では地震の被害が起きていますし、
また神様、戦争がなおも続いています。
どうか混沌とする世界の中に、王である主御自身が、
そこにあなたの御業を表し、
どうかそこにある命をお守り下さいますように、お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を開き、私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
新年度を迎えました。
改めまして、この2024年度も、
加藤美鶴綾名は宮谷教会に使わされてまいりました。
また今年度もよろしくお願いいたします。
さてですね、この4月からは、
御一緒に実会を学びたいと願っています。
実会というのは、
聖書では出エジプト記と神明記に書かれている、
イスラエルの民に神様が与えた十の言葉ですね。
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出エジプト記は、
今日開いていただいたこの20章の1節から17節というところに書いてあります。
でですね、実会というものに皆さんどのような印象をお持ちでしょうか。
良い印象をお持ちでしょうか。
悪い印象をお持ちでしょうか。
馴染みやすいでしょうか。
堅苦しい、息苦しいと思われるでしょうか。
正直申し上げまして、
私は昔から実会の言葉というのは、
息苦しい印象がありました。
教会学校で下敷きがプレゼントされたことがあるんです。
孟瀬が真ん中歩いていて、パッカンと耳が割れていて、
2枚の石板を持っている孟瀬の絵とね、
左右に実会が書いてある下敷きをプレゼントされて、
学校に持って行っていて、
授業が暇なときにそれを、実会の言葉をノートに書いてたんですけども、
なんか書きながらだんだん気持ちが重たくなっていくんですね。
それは何かというと、
してはならないという言葉が連続して出てきます。
あれをしてはならない、これをしてはならない。
そして、私は、そうか、こういう言葉すべてを守れないと、
神様は私のことを救ってくれないんだ。
神様は私を裁かれるんだ。
そういう印象を持ってしまって、
神様を信じていくというのは、
実に息苦しいことだなと思ったことがありました。
何かそれはある意味で、
平均台の上を歩くようなですね、
細長い不安定な道を、
バランスを取りながら歩くんですけれども、
一歩でもバランスを崩したら、
神様がキシンと叩くような、
そういう信仰生活なのではないか。
そういう厳しい神様なのではないか。
そうであるならば、
クリスチャンというのは、何と息苦しい歩みなのだろうか。
そういうことを感じたことがありますが、
これは私だけでしょうか。
もしかしたら皆さんもそう思われるかもしれません。
でもですね、後に色々と学びながら、
私自身が教えられたことは、
実戒というのは、
教会で大事にされてきた言葉であり、
今も私たちにとって大事な言葉であるということです。
そしてそれは、息苦しい言葉ではないということです。
まず実戒というのは、
教会の初期の歴史の中から、
教会の中には最初の時期から大事にされていた三要文という言葉があるんですね。
教会においての三つの重要な文書というので、
三要文というものがあります。
一つは使徒信条、
一つは主の祈り、
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そして一つは実戒です。
初期の教会で人が救われた時に、
ちょっと想像していただきたいんですが、
最初に人が救われた時に、
その人に神様のことを伝える時にどうするか。
聖書を読んでください。
聖書って分厚いんですよ。
聖書は分厚いし、神様の御心が全部書いてあるんだけども、
ここが一体何を言いたいのかということをパッと捉えるのは難しいですね。
ですから、私たちは聖書に書いてある中で、
何を信じるべきで、何を祈るべきで、
どう生きるべきなのかということを、
エッセンスをまとめてくれている言葉は何なのかということを教会が決めたんです。
私たちは何を信じるべきなのか、使徒信条です。
私たちはどう祈るべきなのか、主の祈りです。
じゃあ私たちは一体どう生きるべきなのか、
初期の教会が定めたのは実戒です。
実戒の言葉なんですね。
これは初期の教会から三要門として大事にされてきましたし、
そして宗教改革者たちもこの三要門をもとにして
信仰告白というものを策定していきました。
だからプロテスタント教会の私たちも、本当は大事にすべき言葉です。本当は。
けれどもご存知の通り、礼拝の中では使徒信条が告白され、
主の祈りは祈られるのだけれども、
そうやって人気がないのか、なかなか読まれる機会がないかもしれません。
それはきっと、何かこれは息苦しい言葉なんだという印象が
引いているからなのかもしれません。
けれども、私たちはこの春、実戒をご一緒に見ながら、
実戒は息苦しい言葉ではなくて、
私たちの生き方を導く大切な言葉である。
そういうことをご一緒に確認ができればと思っています。
とりわけ昨今ですね、戦争、先ほども祈りましたけれども、
ウクライナ、ロシア、イスラエルとマハマスのことであったり、
台湾の震災のことがあります。
どうこの現実を捉え、どう生きたらいいのかということは、
私たちの喫緊の課題かなと思わされていますし、
また、私はこれは実戒を込めて言いますが、
愛争うお互いがいるときに、たぶんお互いに一番欠けているのは、
自分を変えりみるということです。
実戒です。
実戒の言葉というのは、ある種その言葉に相対しながら、
私という人間が問われます。
でもそのことを通しながら、主の前に整えられていく。
そういうときを持ちましょう。
そんな堅苦しくと言いますか、楽しくそのことをさせていただけたらと思います。
今朝は実戒に入りたいのですが、その前に大切な、
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実戒の本文に入る前に大切な前文というところに注目をしていきます。
その前文に注目をしながら、2つのことを確認したいと願っています。
1つは、今朝読んだ2説、この実戒の前文の意味です。
これは何で大事なのか。
そしてもう1つは、この実戒が定められた大きな目的です。
何で実戒の言葉があるのか。
この2つのことをご一緒に覚えたいなと思っています。
さて、今朝読んでいただいた箇所は、20章の2説をまず読んでいただきました。
私はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
これは実戒の前文と呼ばれます。
実戒の言葉がこれから始まりますが、その前置き、
いや、前置きというのは軽いです。前提と言っていいと思います。
実戒の前提です。
これは前提として一体何を言っているのでしょうか。
平たく言えばこういうことだと思います。
それは、実戒はイスラエルの民をエジプトから一方的な恵みによって救い出した神が語っていますよということです。
イスラエルの民をエジプトから一方的な恵みによって導き出した、救い出した神があなた方に語っていますよということを言っているのです。
これは言い換えるならば、こういうことだと思うんですね。
実戒の言葉というのは、私たちが救われるために守る言葉ではなくて、
既に恵みによって救われた民に語りかけられている言葉だということです。
これは大事なことなんです。これが前提を学ぶ意味です。
実戒というのは、救われるために守る言葉ではなくて、既に恵みによって救われた民に語りかけられている言葉です。
先ほど、実戒は息苦しいという話を申し上げました。というのも、おそらくこういう理解がきっとあると思うんです。
実戒や立法をはじめ、旧約聖書というのは、立法を守ることで救われる時代だった。
行為義人と難しい言葉で言いますが、立法や何かの掟を守ることによって、神様の民とされる時代だったと理解されている。
一方で、新約の時代というのは、立法を守りきれる人が誰一人いないから、イエス様が十字架で救いを完成してくださって、
行いによらず、ただ信じるだけで救われる時代になった。信仰義人ということですよね。
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ということが、そう思われると思うんです。
その結果、旧約の神様は厳しくて、新約聖書のイエス様は優しいとかね。そういう理解があるような気がします。
この理解は、少なくともある時代までは一般的な理解であった。そう思います。
けれども、今日読んでいただいた二十章の二節は、そういうことを言ってはいないんですね。
エジプトから救い出され、神様はこの民をエジプトから救い出してくださり、
しないさんで神様と契約を結び、神の民とこれからなっていくあなた方、
そのあなた方が守るべき言葉だということを言っているわけです。
救われるために守る言葉ではなくて、救われた者が神の民として生きていくために守る言葉です。
神の民として生きていくために守る言葉。
じゃあ、神様が救い出した民に期待することって一体何なのでしょうか。
私たちがよく聞くことです。それはイエス様が後に立法の神髄として言われましたけれども、
神様を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛するものになっていくということです。
神様を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛するものになっていく。
で、旧約聖書を見ていっても、神様はたくさん立法を語りますけれども、
先日めて神様が民になってほしい姿は何なのか。
神様を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛してほしいんです。
その方向で立法というのは書かれています。
で、それは実会も一緒なんですね。
最初、さらっとだけ実会のことを見ていきますと、
実会というのが今日の二十章の中では三節から十七節に書いてあります。
で、さらっと見ていくならば、どんなことが十の言葉としてあるのか。
前半は、例えばこういうことですね。
私以外に他の神があってはならない。
私の偶像を作ってはならない。
神の皆を乱に唱えてはならない。
安息に地を守りなさいということですよね。
これは主には神様との関係のことを言っているわけです。
神様を愛する上で大事なことを言っている。
そして、十二節からは、
あなたの父母を敬いなさい。
人を殺すな。
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関印するな。
盗むな。
隣人について偽証をするな。
隣人の家財を欲しがるな。
言っているのは何かというと、これは隣人との関係ですよね。
人との関係の中で守らなければならないことが書いてある。
で、案の定読んでいきますと、やっぱりするな、するな、するなが続きますから、
やっぱり何か息苦しいような気がしますけれども、
しかし、この実戒の言葉というのは、
私たちを息苦しく縛るための言葉ではないんです。
実戒というのはむしろ、こういう言い方が私はふさわしいと思うんです。
実戒というのは、神の民が神様を愛し、隣人を愛するという、
自由を守るために定められた言葉なんです。
一つイメージしやすいのは、こういうことだと思います。
時々そう話しますけれども、
例えば、子どもが公園の中で遊んでいるときがありますよね。
そのときに、子どもが公園の中で遊ぶときに、
お母さんは子どもが自由に遊ぶことを許すわけです。
でも、もしも公園の外を車が走っていたら、
親はどうするかというと、
おそらく子どもには絶対に、
この公園から勝手に出ちゃダメよって言うはずなんです。
だって出たら危ないから。
出たらあなたの命が脅かされるからですよね。
それと同じように、実は実戒というのはそういう言葉なんです。
先ほどこれは、神様と隣人の関係の言葉だと言いましたけれども、
実戒の言葉というのは、神様を愛し隣人を愛するという関係において、
これを破ったら、
著しく神との関係を痛めてしまいますよということを言っているんです。
隣人との関係において、これを破ったら、
著しく隣人との関係を痛めてしまいますよということを言っているんです。
それは言い方を変えるならば、
私たちの動きをぎゅうぎゅうに締め付けるような意味の言葉ではなくて、
むしろそれを破らない範囲で、
あなたの自由だとか愛するということは守らなければならない。
神を愛するということも隣人を愛するということも、
そのあなたが超えてはならない境界線があるんだよということを言っているんです。
それを超えてしまうときに、
実は私たちは何か著しく神様を愛するであったり、
隣人を愛するということが壊れ始めていくということなんです。
それゆえに実会という言葉は、
これはちょっとだけ難しいことばかりで申し訳ないんですけれども、
この言葉は神様との契約を維持するための言葉だと言われます。
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神様との契約を維持するための言葉。
恵み深い神様と私が、そして隣人と私が、
愛の交わりに生き続けるために注視しなければならないポイント。
それが実会だということです。
では、どうして神様はこのような実会を定められたのでしょうか。
先ほども言いましたけれども、
それは神様はご自身の民を、神様を愛し、隣人を愛していく。
そのような民として整えるためなんだと言えるのでしょうけれども、
もっと遡れば、この言葉が書かれた理由はどこにあるかというと、
今日もう一つ読んでいただいた、創世紀の十二章、一節から三節。
創世紀と一つ言うときは本当につながっています。
創世紀の十二章というのはもう皆さんからしたらよくご存知の箇所でしょう。
アブラハムと神様が契約を結んだ箇所ですね。
神様がアブラハムに対して語った言葉はこういうものでした。
一節から三節。
主はアブラムに言われた、あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。
そうすれば、私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
私はあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う。
地のすべての部族はあなたによって祝福される。
もう世界は新しくなるという絵本で何度か確認をしましたけれども。
旧約聖書の大きなテーマは何かと言いますと、神様は罪で歪んでしまった世界を回復したいんです。
そして、その手段として神様はアブラハムの子孫を通してこの世界を祝福される。
それがずっと新約聖書まで続いていくんです。
ただ、ちょっと具体的に考えてみましょう。
アブラハムや子孫を通して世界を祝福するというのは具体的には一体どういうことなんでしょうか。
書籍を見るならば、例えばヤコブであったりヨセフという人物がその場所に行くだけでその土地が祝福されるということが書いてありますね。
そういうことはあるのでしょう。アブラハムの子孫がそのところに行くだけで神様の祝福があった。
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それは別にあるのだと思うんですが。
けれども、このイスラエルの民を通して神様が世界を祝福する、そういうことをしようとされるときに、
神様は人を整えることを通してこの世界を祝福しようとされるんです。
人を整えることを通して。
神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する人を通して、神様はこの世界を祝福しようとされる。
これは出世時の19章という、この読んでいただいた20章の前のところに神様がまた語ってくださっている大事な言葉がありますけれども、
奴隷から導き出された民はどうなるのか。
あなたが私の声に聞き従うならば、あなたは私の宝となり、
あなたは私の祭祀の王国、聖なる国民となるということが出世時の19章というところに書いてありますけれども。
同じことですね。
神様は祭祀の王国です。
神と人間の間に立つ存在として、このイスラエルの民を基礎して、聖なる国民です。
神様だけが持っている愛と祝福を生きる民として、この世界のどこにもないような神様の素晴らしさを明かしする。
そのように一人一人を整えるべく実戒の言葉があるんです。
ただですね、整えられると聞きますと、なおさら息苦しい気がしますね。
ただ、整えるという言葉は私はすごくネガティブな言葉ではないと思っていて、
むしろ整えるということは、私たちをより自由にするための神様の手段だということを覚えておかなければならないと思うんです。
先週の金曜日ですね、私と綾名先生は関西聖書神学校の入学式に参加してきました。
残念ながらうちの教団からの入学生はいないんですけれども、
今年4名の新しい新学生の方が入られました。他教団の方ばかりなんですけれども。
式辞で鎌野直人校長先生がこういうことをおっしゃっていました。
新学校という場所で是非、神の恵みと力とによってその福音を知り、そして福音によって整えられてほしい。
整えられてほしい。新学校というのは整えられるべき場所なんだということを言われました。
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私も入学式に参加しながら新学校の頃を思い出していたんですけれども、こういうことがありましたやっぱり。
新学校というのは新学を勉強するんです。新学校という場所は共同生活があるんです。
その中である種、神様を愛するということが問われるわけですけれども、
神様を愛するということが問われる中で実は、神様よりも私は私自身の思い込みを愛しているという事実に気づかされるんです。
私は神様を信じています。神様のためにと言いながら、その神様というのは実は聖書が教えていることよりも、
私の中の何かの思い込みが実は神様の言葉以上に私を規定しているということがあるんです。
共同生活で隣人と一緒に生活します。共同生活って大体うまくいかないです。絶対喧嘩が起きる。
でも喧嘩が起きるときに何が思わされるかというと、結局一緒に生活するのに相手のことではなくて、
自分のことしか考えていない私の姿というのが示されていく。
自分の不信仰であったり、未熟さであったり、自分がいかに歪んだ人間であるかということを、
実は直視せざるをえないのが新学校という場所でした。
その中で何を導かれたかというと、主の前に憐れみを求めて、
私は今までこっちの方向を見て立っていたけれども、こっちの方向をどうか主を見させてください。
あなたの前に方向を間違っていたけれども、あなたが聖書の言葉を通して示される方向を見させてください。
それは実に地道な作業なんです。地道なんです。
自分の歪みは一体何なのかということを示されて、その歪みに対して一体主は何を語っておられるのかということを聞きながら、
一個一個、ああそうだった、そうだったということを気づかされていき、そして徐々にその方向が修正されていく。
自分の思い込みよりもあなたの御言葉やあなたの真実を信じさせてくださいと祈る。
自分から離れてどうか相手の現実を見つめる想像力を与えてくださいと祈る。
でもその中で一個一個地道にやりながら徐々に方向が整えられていきながら、
ある種そのような歪みと対峙して、その歪みに主に助けを求めながら具体的に取り組んでいく中で、
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私は自由になっていったなあと自分で思うんです。以前よりもです。
まだ不自由なところがたくさんありますが、以前よりも私は自由になっていったなあということを思うんです。
それはまさに罪が私を縛りつけていることから一個ずつ解かれていくような歩みだった。
そのようなことが言えるのだと思うんです。
でも、自制って一番したくないですね。
でもそこを実は私たちが自由になっていくためには避けられない歩みである。
そう言えるのだと思うのです。
主は私たちを整えられる。
私はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神主であると実戒の前提として神様が語られました。
誤解がないように言いますが、整えられなければならない。
ああ、じゃあそうか。整えられない。私は不十分なんだって思う必要は全くないです。
私たちは主を信じて神のことをされているだけでもう十分なんです。
それは絶対に誤解のないようにしてください。
整えられなければ私はだめなんだって思う必要はない。
でも理解しなければならないのは、神様は私たちを愛しておられるんです。
私たちはご自身の子として取り扱われるんです。
ご自身の子として取り扱われるときに主が願われるのは、私たちに自由を与えたいんです。
私たちは囚われているところから、私たちの歪みから解き放つために主は私たちに働きかけ、
私たちにある種見たくないものを見つめるように促し、
でもその中で主と共に一個一個取り組んでいく。
聖火の歩みというのはそういうことではないでしょうか。
私も含めです。これはもう偉そうに言える話じゃなくて、私も含めですけれども、
私たち自身はいろんなものに縛られているお互いです。
その縛られているものにある種無自覚で、時に変な形でポーンと出たりしますよね。
けれども大事なことは、実戒をご一緒に学んでいきます。
実戒というのは息苦しさではなくて、むしろ今私を縛っているものを指し示し、
解放と自由を与えるための言葉なんです。実戒というのはそのための言葉です。
そして短い実戒の言葉一つ一つに自分を照らし合わせながら、
神様との関係において私はこういうところを痛んでいるんだという事実。
歪みを持っているんだという事実。
隣人との関係において私はこういうことを痛んでいたんだ、歪んでいたんだという事実。
でもそのところを問われながら、私たちは自由になっていきたい。
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互いに自由になっていきたい。
そして神様が実戒の言葉を用いられるのは、それは私たち一人一人を祝福の器とするためですね。
祝福の器としていくためです。
主の祝福をとことん喜んで流していくために実戒の言葉というものがあります。
次週から学んでいきます。
今朝はできるだけこれからの学びが重たくならないようにと心がけて話したつもりです。
けれどもこれは先ほども言いましたが、ご一緒に問われていきたいんです。
別に私ができている人間としてここから語るわけではありません。
私も神様の前に、神と隣人との関係に歪んでいるものです。
でも主の言葉の前に問われながら、ああそうなんだ、本当はこっちだったんだということを一つ一つ気づかされていきたい。
そのような中である種私たちがこの時代においてどう生きるかということをご一緒に問われていきたい、導かれていきたい、そう願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
ありがとうございました。