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改めておはようございます。 今日もこのようにですね
あらゆる災いから守られて一緒に出会いできますことを、本当に主の恵みでございます。
いろいろ
制限や様々な恐れとか
危険とか、確かにある今の時代でありますが
そんな中でもまた信仰を持って、あるいは注意しながら一緒に出会いできること、またこのように
街道に集まっていただいていること、本当に感謝いたします。あるいは、やむを得ず出席できなくて、お家で
ネットとか、あるいは様々な方法を用いて、礼拝を守っておられる方々にも、一つ主の恵みがありますように、心から願ってお祈りいたします。
また皆さんにも、祈りとともにですね、お願いしたいことがありますけれども
予定通りに来週はウェルカム礼拝でございます。
コロナ禍の緊急事態発令中でありますが、 一方
私自身もですね、よく十分に祈って考えてみましたところ、 今でなければ伝えることのできないメッセージが
あると思います。 あるいは
今だからこそ、 できることがあると思います。
このコロナ禍でですね、 その感染で
日本も含めて多くの方々が 亡くなっています。
私たち自身もですね、明日生きていられると保証できる人は誰一人いないと思うんですね。
だからこそ、私たちは 福音を無別に伝えなければならないのではないかと
そういうふうに思いますし、 また私自身も
今この投票中だからこそ、 伝えることのできるメッセージが
今、今の私、あるいは今の明治教会に神様から示されているのではないでしょうか。
もちろん
来月に、あるいは秋に、あるいは来年にできることもできると、 することもできると思いますが
しかし、今でなければならない、今でないとできないこと、 今だからこそできることがあると思うんですね。
また
実際に来週ですね、出席できなくても、あるいは救助者を招待することが難しいと思うんです、確かにね。
そんな中でも伝えられた、語られたメッセージが、 CDやあるいは教会のホームページとか、
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予兆とか、あるいはフェイスブックとか、 あるいは皆さんの、後々の皆さんの口を通してですね、
その福音がつけられて、語られてですね、 その方々が神のメッセージを聞くチャンスが
来週、あるいはその月でもですね、与えられるように、 神様がこんな時にどう働かれるかを、
その神の御業が見たいですから、祈りを持ってですね、 備えていこうではないでしょうか。
私たちの人生を遥かに超えて働かれる、 主を期待して、主の御業を期待してですね、
やっていきたいと願っております。一言お祈りいたします。 天の父なる神様、
今日もこのように礼拝ができること、 主を愛して集まっている一人一人の上に、どうか主が、
全てのあなたの守りをもって守ってくださいますように。 私たちが捧げる賛美、祈り、聞く主の御言葉を通して、
あるいは捧げる献金を通して、主の栄光が現れますように。 今ここにいる子供から大人まで、主をどうぞ、
神様ご自身が、精霊様が語って、分からせて、 気づかして、導いてくださいますように。
また聞いた御言葉を実践できる、行えるところまで、 どうか主が力強く導いてくださいますように。
全てを主の移転に委ねて、イエス様の皆によってお祈りいたします。 アーメン。
はい、荘石の17回目です。あなたは離れましたか?という題です。 神様はアブラムを
選んで召されました。 こうしてアブラムの
旅が、旅路が始まりました。 信仰の旅が始まりました。
ここでですね、今日の一節をまずね、注目したいと思いますけれども、
彼を召される時、 神様は
アブラムに、一番最初に何を言われたんでしょうか?
一節だけ私を読みますと、主はアブラムに言われた、 あなたはあなたの土地、あなたの親族、
あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。 と書かれていました。
あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れなさい。 そして私が示す地に行きなさい。と
告げられました。 この一節をですね、昔の公語訳聖書を見ると、
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ここ書かれているんですね。 あなたの国を出て、
親族に別れ、 父の家を離れ、
私が示す地に行きなさい。 国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、
行きなさい。と書かれています。 どれも素晴らしい訳だと思います。
神様がアブラムを選ばれて召される時に、
彼を信仰の人の人にする最初のあの時に、 神様はですね、アブラムに、
国を出なさい。 親族に別れなさい。
父の家を離れなさい。 そして私が示す地に行きなさい。と言われたんです。
皆さん、信仰の旅を始めるために、 そして
初めの時だけではなく、この信仰を継続的に維持していくために、 私たちがすべきことがあります。
それは、出て、
別れて、離れて、
行くことです。 あるいは、離れて、行くことです。
では、何を、どこを出て、何に別れて、何を離れて、どこに行けばいいんでしょうか。
まずですね、アブラムの場合は、この文字通りです。
彼のカルディア・ウルト、この前お話ししました。
その違法の地、違法の文化、神のいないその世界観、文化、習慣、
慣れているすべてのものなんですね。 実際のその故郷でもあります。実際の彼の親族でもあります。
一時的な意味として、その通りですね。 そこを出て、そこにその人々に別れて、そしてそれらを離れるということなんです。
彼の故郷、育った町、
馴染んでいる風景でしょうね。
あるいはね、今まで持ってきた人間関係かもしれません。親しい友達、友人かもしれません。
あるいは、自分を守ってくれる何か、安全な場所、未来が保障されている自分を何かね、責任を持ってくれる何か、それなんですね。
神様はね、 アブラムに信仰を始めさせるときに、
このすべてから出なさい、別れなさい、離れなさい、と告げられたんですよ。
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この言葉を皆さん、人間的に考えればですね、 いや、神様には愛も人情もなさそうだなぁ、ちょっとひどくない、ちょっときつくないのかなぁ、
あまりにも私生活まで干渉するんじゃないかなぁと思うかもしれません。
ところが皆さん、これらの神様が離れなさいといったすべてのもの、
公害を的に言うならば、出なさい、別れなさい、離れなさいといったそこ、それ、その霊的な意味をわかればですね、
私たちの考えが変わるかもしれません。
それらのことの霊的な意味は、
まさに神様を知らなかった、
神以前の生活の習慣、
神と関係なかった生活のパターン、
余的な楽しみ、清くない習慣、罪や情欲でできた人間関係、
神様を知らなかった時、神様よりもっと価値あるものとして握りしめていたすべてのもの、
そのすべてのものを離れなさいと、
そこから出なさいと、別れなさいと、そして、そこじゃなくて、以前じゃなくて、これから私が示すところに、
信仰のところに行きなさいと、神様は告げられました。
聖書はですね、これらのすべてを、
針薬聖書ではですね、古い人、古い人とよく言われています。
神様はアブラムに、このすべてを離れなさいと命令しました。
アブラムに、それから、この聖書を読むすべての人に、今日の私たちに、なんですよ。
ここからですね、信仰は何なのかを学ぶことができますね。
信仰とは、古い人、憎の思い、古い人、憎の思いを出て、それに分かれて、それを離れて、新しい人、霊の思いに生きることなんです。
beforeとafterが、完全に違った人生を生きることなんです。
神以前の生活が、その価値観が、習慣が、捨てられて、脱ぎ捨てられて、そして、神と共に新しい、キリストと共に新しい生き方をすること、それが信仰なんですよ。
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何年前か、うちの家族が福岡にいる時にですね、テレビでよく見てた番組ですけれども、
大会場before afterという番組を、皆さん見たことありますか?
ボロボロの家とか小さい家、そんなところをすごくリフォームしてくれる、そういう番組があって、楽しく見たことがありますけれどもね。
以前beforeはですね、狭いとか、荷物がいっぱいあってですね、狭いところに何人も住んでいる、そういうボロボロの家がですね、もう劇的に変わるんですね。
beforeとafterが全く違うんです。
今更ね、それを考えてみるとですね、牧師だから牧師病があるんだけれども、
神様を信じて、イエス様を信じて、私たちの人生があんな風にbeforeとafterが全く変わればいいのに、と思うんですよ。
皆さんは自分自身のことをそんな風に考えたことないでしょうか?
変わらなくていいんでしょうか?あるいは変わっていないのに変わっていると思ってはいないんでしょうか?
変わりたいんでしょうか?
神様は私たちに、beforeとafterが違う人になりなさいと言われているんですよ。
清くない余的な習慣、余的な考え方、生き方、余的な楽しみ、欲望と虚弊で作ったあらゆる人間関係等々、
そこを出て、それに別れて、それを離れなさいと主は言われますよ。
そして新しい人を来なさいと主は告げておられます。
今日の一節を皆さん、主はアブラムに言われたとありますが、このアブラムに私を入れてみてください。
あるいは自分の名前をそこに入れ替えてみてください。
主は私に言われた。主はあなたに言われた。
あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさいと。
この朝、そう語っておられる神の御声を聞きたいんですよ。
出なさい、別れなさい、離れなさい。
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ところで私たちはどうですか?
弱いからですね、出たいんですよ、別れたいんですよ、離れたいんですよ。
それを願わないクリスチャンは一人もいないと思うんですよ。
もう願わなかったならば、そもそもその人はもうクリスチャンじゃないでしょう。
救われていない人でしょう。
霊的な植えかけがないということは、何かが問題があると思うんですよ。
神様に出会った人ならば、離れたいんです、変わりたいんです。
ところがどうですか?
時にはですね、うまくできない時があるんですよ。
離れたいんだけど、離れられないでいる自分がそこにいるんですね。
脱ぎ捨てるべきことを分かっていながらも、脱ぎ捨てていない。
脱ぎ捨てていないどころか、それを好んでいる自分自身がここにあるんですよ。
離れなければならないことを頭では分かっていながらも、
私の身体と心は、神以前の生き方、
余的な、あるいは神を知らない人々のこの余的な、情欲的な生き方を憧れる、
楽しんで、好んでいる私たちがあるのではないでしょうか。
まるでですね、頭ではですね、いやダイエットしないとな、ダイエットしないとな、
と思いながら両手ではハンバーガーとポテトチップスを持って食べている人と似ているかもしれない。
時には私たちの霊的な姿がこんなものだなと思うんですね。
ところが、離れなさい、私が示すように生きなさいと、その命令を受けたアブラムはどう反応したんでしょうか。
4節をご覧下さい。 そこの4節をね、最初の1行をよくご覧下さい。
アブラムは主が告げられた通りに出ていった。 アブラムは主が告げられた通りに出ていったとあります。
これなんですよ皆さん。アブラムは神様が告げられた通りに、告げられた通りは何ですか。
あなたの父、あなたの親族、あなたの父の家を離れなさいと、通りにして出ていきました。
霊的に言うならば、神様のなかった人生をすべて片付けて、古い人を抜き捨てて、後にしてね、神のいる神様がおられるその人生へ、そこに行ったわけなんですよ。
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アブラムは主が告げられた通りに出ていった。 皆さん、私たちもこうすればいいのではないでしょうか。
あまりにも難しく考えないでほしいんです。 古いものは抜き捨てて、新しいものにものを切ればいいんです。
私の考えは捨てて、考えを捨てて、聖書の御言葉通りに取ればいいんです。
信仰は何でしょうか。
神様が出なさい、離れなさいと、主が言われましたら、
出れない、別れられない、離れられない理由、離れたくない理由を先に考えたり、言ったりするんじゃなくて、
その通りに出ていくことなんです。
出ることです。 別れることです。
離れることです。 これが信仰であります。
そして、これを継続的に維持して守っていくことなんです。
皆さん、アブラムは国を出て親族に別れ、父の家を離れることがやりやすかったと思いますか。
超楽だったと思いますか。 決してそうではなかったと思うんですよ。
馴染んでいるその故郷、そこの親族とか、馴染んでいる食べ物、未来や安全を保障してくれる父の家、
そこを出て、別れて、離れることは決して優しくなかったと思うんですよ。
でもね、アブラムは国を出て親族に別れて、父の家を離れて、神様が示す地に行きましたね。
行きました。
この御言葉を覚えたいんですよ、皆さん。
神様に恵まれる人、神様に祝福される人には、とても重要な共通点があります。
旧約聖書よく読まれた方はわかると思いますけれども、
神様が告げられた通りに何かをするんです。
しかも、その状況が難しい状況の中でもなんですよ。
ひらからくていいと思うんですけれども、荘石の7足を5節を見ると、
ノアは全て主が彼に命じられた通りにしたとあるんです。
しかもそれが2回か出てくると思うんですね。
ノアは全て主が彼に命じられた通りにした。
今日の10人の4節、アブラムは主が告げられた通りに出ていったとあるんです。
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出世絶末に行きますと、孟子は何度も出てくるんですけれども、
主が告げられた通りにした、主が彼に命じられた通りにしたと、それが何度も書かれて出てくるんです。
同じパターンの見言葉、同じ信仰の共通点がここに書かれています。
これが皆さん、法則なんです。
だから皆さん、祝福されて恵まれているキュリシタンの共通点は、
神の命令に、神の告げに、その通りに従うことです。
出なさいと言ったら出る、別れなさいと言ったら別れる、離れなさいと言ったら離れるんです。
祝福されて恵まれているキュリシタンは、従うことのできない言い訳、従いたくない言い訳を考えるんじゃなくて、
従う理由を、従う祝福を先に考えて従うんです。
だから皆さん、祝福されて恵まれているキュリシタンは、祝福されて恵まれている生き方に慣れているんです。
しかし、そうでない、祝福されない、恵まれないキュリシタンは、祝福されないその生き方、パターンに慣れているんですね。
だからそれを脱ぎ捨てなければならないんです。
今日のアブラムの記事はですね、私たちに、果たしてどんな生き方に慣れていますか、という問いがここに書かれていますね。
皆さんどうですか。
呪文受答をしていただきたいですね。
どんな生き方に皆さんは慣れていて、どんな生き方を好んで楽しんで、それを握ろうとしているんでしょうか。
守ろうとしているんでしょうか。
あるいは、脱ぎ捨てようとしていらっしゃるんでしょうか。
古い生き方か、新しい生き方か。
ところでですね、私たちが感謝したいことがあります。
このように、新しい生き方をしたい。
新しい人を生きたいと願っている私たちを助けてくださるお方がおられます。
それは聖霊様です。聖霊様です。
私たちの中に内蔵しておられる聖霊様が、私たちが古い人を脱ぎ捨てたい、そして新しい人を生きたい。
古いこの世的な、情欲的な全てのものを捨てて、キリストと共に清く素晴らしい、祝福の人生に生きたいと願っている私たちを、聖霊様が助けてくださるんです。
だから皆さん、でもそれもね、まず皆さん自分自身が願いを持ってスタートしなければ始まらないんです。
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まず願いを持って、祈りを求めてほしいんです。
だから皆さん、神に祝福され恵まれ、本当に新しい人を生きて、生きる、勝利するクリスタルになれるか、なれないかの始めは、私に果たしてその願いがあるかどうかの問題なんです。
だから皆さん、こういうふうに祈りを求めてほしいんです。
聖霊様、私がこの古い人を脱ぎ捨てることができるように助けてください。
世的な習慣や、この記憶内、私の生活を清くしてください。
捨てさせてください。新しい人を生きて、生きるようにしてくださいと、祈りを求めていただきたいんです。
そうしますと、願いを持って求めますと、聖霊様が助けてくださるんです。
新しくしてくださるんです。私たちの肉の思いを取り除いてくださって、固い思いを取り除いてくださって、
エゼケルの御言葉、ヨエルの御言葉を見ますと、この固い肉の思いを取り除いてくださって、
柔らかい霊の思いを与えてくださるのは、聖霊様なんです。
聖霊様によって、新しい人になってください。
最後に聖書を開いて、私がお読みしてメッセージを終わりたいと思います。
新約聖書、エペソビトへの手紙、4章22節から24節です。
新しい聖書では、389ページです。
では、私がお読みいたします。
エペソビトへの手紙、第4章22節から。
その教えとは、あなた方の以前の生活について言えば、
人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てること。
また、あなた方が霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と誠意をもって、
神にかたとり作られた新しい人を斬ることでした。
メッセージを終わりましょう。
情欲によって腐敗していく古い人を脱ぎ捨ててください。
決心してください。願いを持って祈りを求めてください。
ゴミを捨てない限り、家は腐って、ゴキブリがいっぱいになって、
夏になると、ハエがやってくるでしょう。
27:00
綺麗にする人、方法はそのゴミを捨てるしかないです。
私たちの霊も同じです。
そして、神にかたとり作られた新しい人を斬ってください。
お祈りします。