1. 名谷教会 podcast
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2023-01-01 28:31

2023/01/01:主の日の到来を待つ

2023/01/01 

斎藤亘師

ペテロの手紙第二 3:8-14

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おはようございます。明けましておめでとうございます。また、会が終わりましたら、ここに新年のご挨拶を皆さんとともにしたいと思います。
今朝、私は、今読んでいただきましたように、ペテロ第二の手紙、この3章を開いております。
こうして私たちは無事に、この新しい年を迎えたわけですけれども、この新しい年を迎えるということには、ここに少なくとも3つのことがあるのではないだろうか。
一つは、カレンダーが新しくなって、そしてこれからの1年間、どういう1年がそこに開かれていくんだろうか。
もう一つのそれは、クリスマスから始まる新しい年を迎えていく。
特に私たちクリスチャーにとりましては、クリスマスが年末に来るという、そういう習慣的なことでもって覚えておりますが、
しかし聖書は、クリスマスから私たちにとっての新しい1年が始まる。
私は初めて市内に参りましたときに、1月の半ばぐらいから行ったと思うんですが、クリスマスツリーが飾ってあるんですね、そのホテルに。
どうしてかなと、クリスマスはもう25日で終わっているのになという当たり前の考えでそれを見ておりました。
そのときに一緒に行きました、もう1人の先生が、そうだよな、クリスマスから新しい年が始まるんだよ、私たちにとっては。
だからここに1週間経とうが10日経とうがクリスマスツリーがあるのは、これは別にここから始まるんだからいいんじゃないかなと、
そういう絶え間ない会話をしたことを思い起こしますが、
けれども考えてみますと、私たちにとっての新しい年というのは、そのクリスマスの季節にしてそして始まっていくわけですね。
ご承知のように今年私たちは2023年を迎えて、これはキリストご時世においての2023年という、そういう意味であるということはもう皆さんご承知のことでしょう。
そのような単なるカレンダーというだけではなくて、私たちが迎える1年というのはクリスマスを基準にしてそしてそこから私たちは一緒ともに新しい年を迎えていく。
03:06
もう一つの意味は、それは主の日が近づいているということ。
私もこうしてクリスチャーになって60数年になりますが、60年前のその時はそれほど緊迫感がありませんでした。
けれどもしかし人間的に、あるいは時間的に、それこそ高齢者となってまいりますと、1年1年が一つの血だみになってくるわけですね。
これからあと何年あるだろうか、いや何年というよりももうそこまで来ているのではないだろうかというような、
昨日も親しい教職の友人から電話がありまして、そしてその会話の中にダリドル先生が少し体力を弱くなってしまっているらしい。
だから電話するんだったら今のうちに電話していた方がいいよというような、そういう親切な電話でした。
そういう可愛い会話の中でも、私に関しての周りの人たちが一人ひたり、二人ひたり、また年末の一つの様子ですけれども、
今年はこういう方々がなくなりましたということで、そういった事柄が出てまいります。
そういうことを考えましても近いんだなぁとつくつく思わされる。
しかし私たちは単にこの地上においてそれは、支援の90ペンにありますように70年80年でしょう。
ですから自分がどこまで生きられるのかというよりも、どう生きてきたか、またこれからどのように生きていったらいいのかということを
しっかりとわきまえなさいという、そういう意味合いのことでもって支援の90ペンが歌われます。
私はそういうことを諸々考えますね。
ペトロは朱の日が近いということをここで言っておりますけれども、確かにこの手紙はペトロ自身にとっては、これはもう最後の遺言書みたいな、そういうもんですよ。
彼はこの後、皇帝寺のもとでもって白外を受けながら、やがて殉教していくわけです。
そういう社会的なと言いましょうか、あるいは宗教上のことと言いましょうか、あるいは一人のこの犠牲者のために大勢の人が苦しんでいく、そういう中にやがて自分も入っていく。
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しかし私たちにとって大切なことは、そういう外的なことよりも、主が再びおいでなさるという、その朱の日が近いということ。
ペトロはそのことを述べているわけです。
申し上げたように、確かに彼はこの手紙の最後にして、申し上げたように殉教していくわけですから、そういう意味においても近かったかもしれません。
しかしそれ以上にペトロがここでもって、教会に伝えたい、兄弟姉妹に伝えたいということは、そういう外的なことからのことではなく、むしろ主御自身がおいでなさるその日が近いんだということを彼は言うのです。
ですから、今読んでいただきました、その中でもって、8節ですが、この一つのことを見落としてはいけません。
主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです、ということをそこに書いております。
前の交互約成書では、愛する者たちを子の一時を忘れてはならない、あるいは殉教で約成書では、このことだけは忘れないでほしいということをそこに力説しております。
それぞれそういう表現が違いますが、しかし、主の日が来るという子の一時を私たちはしっかりと自分の信仰の中心にいつも覚えていく、このことの大切さということをそこに述べております。
ペトロは、申し上げたように、やがて自分の地上においたのそれも間近に来ているだろう、そしてそこに見られるペトロの手紙の内容ですが、
ペトロは、この手紙を書きながら、イエス様がかねておっしゃった、あの語りより福音書でいうならば二十四章、ペトロたちが世の末にはどういうことが印としてあるのでしょうかという、そういう問いかけに対してイエス様はそこで一つ一つお話しなさった。
09:09
ペトロは、そのイエス様がおっしゃったその時の言葉を今改めて思い起こしながら、やがて末の時代にはどういうことが印としてあるのかということをそこに言われる。
昨年の、これは毎年一月に出されている科学雑誌のようですが、昨年の一月の二十一日号のそれでは、この雑誌の特徴は、表紙が時計なんですね、時計の要素として。
その時計は、これ一月の二十一日ですよ、ウクラノの信仰が始まる前です。その時には、それは残された時間というのは百秒だ、百秒、一分四十秒。
私は改めてそれを見まして、私の記憶の中ではね、それまで時に見たことのある、それは三分前だったんです。
それがこの時に、今私たちに残された時間というのは百秒だ。最終兵器と言われている原子爆弾が、もう地球を何回も何回も破滅に追いやっても、まだ残りがあるといったらおかしいですけれどもね。
それぐらい、アメリカとロシアと、そして今では中国、そしてすぐ隣の北朝鮮、あるいはインドであったりパキサンであったり、いろんな国々がその核兵器を持っております。数え切れないほどのそれがそこにあります。
そういう最終兵器と言われているような兵器が、少しずつ少しずつ世界の各国がそれを持つようになっていく。もしそれがテロ集団にもでも渡ったならば、どうなるかわからない。
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もうそれが目と鼻の先に来ているという、そういう緊張感と言いましょうかね。それがこのような百秒という、その時間をそこに設定したのかわかりません。
あるいは、今日のようなパンデミックというか、もう感染拡大という言葉であって、まだ中国でもそういうことが広がっておりますけれども、教会においてもそのために礼拝がですね、
そのおかげでと言ったらおかしいですけれども、西部教会と同時に礼拝が守れるような、そういった方法がですね、そういうところから生み出されていく。
私たちの会議でもですね、そこに対面でなくても、そういうテレビを通してあるいはスマホを通してその会議に一緒に加わることができるというような便利さがそこにありました。
生まれましたけれども。しかし、こういう一つ一つの中に、私は一つの印かなというような感じもそこにこの思ったりもいたします。
私たちがそういう惨めな最後を迎えるという、何かそういった緊張感、緊迫感というのがそこにありますが、
でもしかし、もう少しこう読んでいきますとね、確かに私たちは外的な条件においては、その日が間近に来ているのではなかろうか。
しかし、もっと間近に来ている日がある。それが読んでいただきました中のこの9節です。
ある人々が遅いと思っているように、主は約束の実行を遅くしておられるのではない。
ただ、一人も滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなた方に対して長く忍耐しとられる。
その日が今日も、こうして私たちに与えられて、そして今があるんだということですよね。
政治的な、いろいろな状況は、その日においては確かに私たちに一つの緊張感、高まり、危険さというものを覚えさせます。
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でも私たちがしっかりと私たちのうちに持ちたいそれは、主の日。主がすべてのものを治め、そしてすべてのことを教えながら、その日というのがある日。
そしてまたそのお方は、このような御心を持って私たちに今を与えてくださっている。
2023年という、この毎年年が更新されていくというのではないんですね。
その一年刻みに、神様はこの日を、この時を、私たちの救いのために設けてくださっているというのが、このペテロが一番ここで持って伝えたいところの、この中心的な言葉なわけです。
パオロも手元への手紙の中でもってそのことを書いてあります。
神様はすべての人が救われて、救いに至ることを望んでいらっしゃるんだ。
これはもう、ペテロが書いたから、パオロが書いたからではない。
この二人を通して私たちに、神様からの私たちに対する熱いメッセージがそこに伝えられてきて、
そして、それがこの日、今生かされている、生きているというこの事実。
しかし私たちは、そのことを覚えながら、じゃあその時が来るんだから、その日を迎えていこうというだけではない。
この十一節と十二節を読んでいきますと、あなた方はどれほど聖なる、経験な生き方をしなければならないことでしょう。
そのようにして神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりませんとも言われている。
老馬議長の手紙の十三章、同じ意味合いの言葉がそこに記されているのですが、
この十三章の十一節、これは前の新解約聖書ですが、
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こちらの方が何かピッタリくるものですから、ということで読み上げるわけではありませんけれども、
しかし味わいのある言葉がそこにあります。
あなた方は今がどのような時か知っているのですから、この世に行いなさい。
あなた方が眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。
というのは、私たちが信じた頃よりも、今は救いが私たちにもっと近づいているのです。
夜は更け、昼が近づいてきました。
ですから私たちは、闇の技を打ち捨てて、光の武具をつけようではありませんか。
幽虚名廷、淫乱公職、争い、妬みの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をしようではありませんか。
キシュウイエスキリシトオキナサイ。
肉の欲のために心を用いてはいけません。
パウロがロマの教会に対して書き送りました一文ですが、
キシュウイエスキリシトオキナサイ。
欲望を満たそうと肉に心を用いてはいけませんと言っています。
私たちはその日のために、神の約束であるこのように御言葉に立つということ。
この十三節は私たちにそのことをまず教えております。
そしてさらには清められて御前に立つように励むということです。
そして私たちはここで人口の成長を求めていくこと。
このことが言われております。
ビリグラム先生のメッセージの中に、1980年に大噴火を起こしましたセントヘレンズ島の山があります。
その近くにシアトルあるいはポートランドというそういう大きな都市があるわけですが、
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私は何回かそのシアトルに参りましたときに、
それはこの白川大で開拓伝導をなさったゴズレン先生という、
その先生が僕らにしている教会にお招きをいただいて、
そして参りましたときに、この先生がすべての集会が終わった後、
明日は先生に案内しますよと言われていったその先が通称タコマフジとも言われる、
富士山の形をしたきれいな山です。
そこに何号目か知りませんけれども、車でただ登れるところですが、
パラダイスといったところもあるんですね。きれいなところだなと印象に残っている。
そのほど近いところと言いましょうか。
どちらもワシントン州じゃないかなと。
ワシントン州じゃないかなと。
タコマフジ、レニアと言うんですかね。
その申し上げた山、タコマフジ。
その割合値確定しましょうか。
それでもそうなんですが、
セントフェンズ島という島があるんですね、山があるんですね。
ビーグラム先生のメッセージの中に、そのときのことがあそこに書いてありました。
前々から、このセントフェンズはかつかさんですから、
その噴火するときがもういろんな兆候でもってそれに近づいてきている。
近くに住む人たちは早めに退避するようにというような、
今の時代だったらばアラームみたいになってですね、
そうして警報をするわけです。
このセントフェンズ島は、あの島は、山は、
この5月の18日の朝8時半にとうとう爆発しました。
この爆発する前の山は、
それこそあの富士山のような広い穏やかなきれいな山。
ところがその上のですね、3分の1が飛んでしまった。
そういうアラームと言いましょうか、
まもなくこのセントフェンズは爆発する、退避するようにということを、
もうその間近までそれを伝えておったんですけれども、
しかし大勢の方々がそれをどういうふうに理解したのか、
その火災中と言いましょうか、それに巻き込まれて、
そして大勢の方々が亡くなった、大変悲惨な言葉がありました。
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ビルグラム先生は政府を私たちに最終的な警告を与えている。
もうすでにアラームを発して、
その日その時のために備えなさいということを言ってやる。
あなたはどうですか、そういう事柄でもって、
その時の出来事柄を記収しておりました。
私たちもまた聖書を通してね、
その日その時が近づいているということをよく教えられ、
そうだなということを感じており、
じゃあ私たちは今どう生きるのか、
申し上げたように私たちにはそのことを警告として、
メッセージとして与えているこの聖書の言葉ということに根拠を置いて、
そして見ていかなければいけない。
確かに今のウクライナの問題を見ますとですね、
一人のとんでもない死亡者が、
あれはプロチンの戦争だとも言われておりますけれども、
そのためにどれだけ大勢の人々が亡くなってきているのか、
昨日夜遅い時間に鐘が鳴って、
そしていろんなお寺さんが放送されますね、
ふっと見たときにそれがですね、
教会がその12月31日の晩を迎えて、
そして礼拝をしている様子が出ておりましてね、
そしたらウクライナの教会だそうです。
日本にもあるんだなと思って初めて見ました。
ウクライナのその礼拝の仕方でもって
ミサが行われたわけですけれども、
何とかこの年こそ本当の平和がそこに与えられるように、
イエス様がどうぞこの国を守り、
あの人々を守り、
もう私たちが想像できないほどの厳しい中に
今も置かれ、あるいは不安の中に置かれているという
こういう現状を考えますとですね、
私たちは何とそういったことを比べますとですね、
守られてきていることがある。
ですから余計に、
今自分にはあまり大したことを送っていないじゃないか、
このペトロの手紙もそうですよ、
主がおいでなさると言うけれども、
そのことをおっしゃってからまだまだ何も起こっていないじゃないか、
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と言って、教会に対してですね、
そんなことを考える必要はないという
誤った教師たちが言いふらしている。
だからペトロは余計にですね、
それに惑わされてはならない、
祝の日が近いということを
私たちはいつも心に覚えながら、
その日のために、
本当にそれこそペトロの言葉、
このパウロの言葉じゃありませんけれども、
新しくイエスキリストを来なさい、
ドレスアップして、
そしてそのお方のおいでを待ちなさい、
ということをそこに述べているわけです。
それが今を、私たちが今与えられた時間において、
私たちが成すべき、
装うべき、
そういう霊的な意味においての装いを新たにさせていただく、
一念大に対し、
また本当にこの平和がですね、
死の日の近いことを知りながら、
ペドシは滅びのための日ではなくて、
私たちが救いに至るための日として、
今年も、そして今日も、
今もやっているということを本当に心に覚えて、
この新しい年一年一年、
お迎えしていきたいと願っております。
お祈りを。
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