2022-07-10 25:44

#113/22/7/10 聖霊の実

ガラテヤ-23からの礼拝説教。2022年7月10日録音。パウロはここで肉のわざと聖霊の実を比較して教えています。私たちが聖霊に頼って生きるときに、22-23節にあげる聖霊の実を結ぶことができます。それは自分の努力だけでは不可能でしょう。だからこそ聖霊に頼って実を結ぶということを生涯をかけて、また日々の生活の中で体験してゆく必要があるのです。1.肉のわざ、2.聖霊により歩む、3.9つの御霊の実、の3つの点から学びましょう。
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手紙5章16節から23節
私は言います。見たまによって歩みなさい。 そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
肉が望むことは見たまに逆らい、 見たまが望むことは肉に逆らうからです。
この二つは互いに対立しているので、 あなた方は願っていることができなくなります。
見たまによって導かれているなら、 あなた方は立法の下にはいません。
肉の業は明らかです。すなわち、 身だらな行い、汚れ、公職、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、
ソネミ、生き通り、党派心、分裂分派、妬み、 低垂、悠久、そういった類のものです。
以前にも言ったように、今もあなた方に あらかじめ言っておきます。
このようなことをしている者たちは、 神の国を相続できません。
しかし、見たまの身は愛、喜び、平安、寛容、 親切、善意、誠実、乳話、慈性です。
このようなものに反対する立法はありません。 以上です。
今日はこのところから、 聖霊の身と題して見事を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。 熱い中、街道にいらしてくださった皆さん、本当に感謝します。
ちょっと今日、こちらの危機のトラブルでですね、 礼拝前、いろいろバタバタしましたけど、
ご理解でご協力いただいた皆さん、 ありがとうございました。
さあ、先週はですね、金曜日に、 本当に日本の元首相が重大に倒れるという
ショッキングなニュースがありまして、 様々な思いや心配、いろんなものがあるかもしれません。
そんな中でですね、私たちは、ごとの神を礼拝し、 また日々の歩みを進めていくものでございます。
そんな中で今日も、まさに三魂の身ということを 共に学んで歩んでいきたいと思います。
ずっと見てきました、パウロは立法と信仰、 肉と聖霊ということを比較して語ってきましたが、
今日は肉の業と聖霊の身を比較して教えています。
そして、私たちがですね、聖霊に頼って生きる時に、 今日最後に学んでいく、この聖霊の身を結んでいくことができるというんですね。
繰り返しますが、自分の努力でそれは不可能です。
だからこそ、聖霊に頼って、 私たちのうちに聖霊が宿っている、
神が聖霊を授けてくださった、そのことを信頼して、 うちに聖霊が宿っているということを信じてですね、
聖霊にお願いしながら身を結ぶということ、
03:02
そのことを私たちは、実は生涯かけて、 日々の生活の中で体験していく、そういう必要があるわけです。
最初にですね、簡単にまず肉の業ということを見ていきます。
肉の業、このようにリストがあります。
実はですね、肉というのを先週も言いましたけど、 私たち人間、クリスチャンになってもですね、
やはり肉体がある限り、この罪の性質が残ります。
それは知っておかなきゃいけない。
自分の中に悪い思いがよぎったり、欲望が渦巻いたり、 それは否定できないことです。
だからこそ何回も言いますが、イエス様の十字架があってですね、
そういうものが湧き上がっても、イエスの十字架がある、 流された血潮があるから、
私たちは神様と正しい関係を持てる、 正しい立場が変わらないということ、
これを前提で覚えてください。
しかしそんな現実の中ですけれども、 特にまず当時のガラデア人のクリスチャンの人たちの中には、
まだこういうものに平気でですね、自由に、 自由ということを悪い意味で謳歌して、
先週言いましたが、この無立法主義というんですかね。
この無立法主義というものに、こう、口実にですね、
自由なんだから何やってもいいと言って、 それまでの生活を顧みなかった人たちがいた。
あるいはそういうことをパウロが教えているという批判にも答える意味があって、
パウロはこういうことを禁じています。
で、ここの特目のですね、 ちょっとパワーポイントのほうを見てほしいんですけど、
テキーからですね、テキー、争い、その意味、 生きどおり、党派心、分裂、分破、妬みというのはですね、
当時の道徳観からも、今もですね、 大体どんなものかわかるものですね。
で、特にそれでも、この中で、
当時の偶像礼拝と密接に関係していたという背景を知ってください。
最初の4つ、この身だらの行い、けがれ、公職、
この部分はですね、いわゆるこの性的な逸脱です。
それは、当時の偶像礼拝とも関係していた。
詳しく言いませんが、この神殿に売春婦がいたり、神殿団商がいてですね、
そういうものと閉域で交渉していた、男女がいたということ。
で、それに絡んで魔術というものがあります。
この4つ、そして最後の2つですね、礼炊と優経。
礼炊はですね、聖書は酒は禁じていませんが、
明帝とかですね、もうほんと礼炊、
優経というのは酒に絡むどんちゃん騒ぎです。
逸脱したどんちゃん騒ぎで、これもですね、
当時の偶像の礼拝や祭りと関係していました。
ちょっと考えてみればですね、今でも、
例えば祭りの中で酒が振舞われて、
そしてそれが悪酔いし、礼炊、明帝になってですね、
06:03
そこから逸脱したどんちゃん騒ぎが起こったり、
暴力沙汰になったり、そして性的乱れがそこで起こったり、
今でもそういうことは予想できると思いますが、
特にパウルは当時の文化的背景もあって、
そういうものを禁止していた。
当然今の私たち、そのようなことを、
また特にこの性的な道徳が今乱れていますけれども、
そういうものの中でですね、
注意するということが当てはまると思います。
さあ、次ですね、ざっといきますが、
見たまによって歩むということをパウルは言っています。
5章16、18抜粋しましたので、
前の御言葉を読めるかと読んでみましょう。
私は言います。見たまによって歩みなさい。
そうすれば肉の欲望を満たすことは決してありません。
見たまによって導かれているなら、
あなた方は立法の下にはいません。
肉の行いに反してパウルは、
精霊に導かれ、精霊によって歩むことを教えています。
それどういうことかというとですね、
歩みなさいだから、継続的な歩みなんです。
先ほども言いますが、
時につまずき失敗することがあるかもしれませんね。
でもやめてはいけない。歩き続ける。
そして何度も言いますが、
私たちは日々の生活の中で生涯をかけて、
私たちの中に住んでおられる神に授かった精霊に頼る生き方を学ぶのです。
具体的にですね、本当に苦しくなったら、
精霊様どうぞ私を助けてください。
力を授けてください。
祈ってみてはいかがでしょうか。
何度も言いますが、そこでたとえ私たちが失敗、
失敗と言いますかね、
罪につまずいたとしても、
イエス様の贖いがありますから、
それはそれで、神との関係は壊れません。
これを前提でですね、この精霊に導かれて、
精霊によって歩む。
いつも言いますけれども、
この3番目に入っていきましょう。
今日のメインです。
精霊の実。
ちょっと最初に全部読んじゃいましょう。
5章の22、23節読めるかでいきましょうか。
しかし、三玉の実は、
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳は自性です。
このようなものに反対する立法はありません。
これね、簡単ですから、覚えれる方は覚えたらいいと思います。
私も学生時代は覚えてですね、
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳は自性です。
3つのセットで9つ言うことができますから、
09:00
皆さんも機会があれば覚えていただきたい。
何が言いたいか。
実はですね、ここで三玉の実って言うんです。
今何がおいしいんでしょうね。
桜んぼ、山形さんの桜んぼを食ってきてほしかったりとか、
桃もおいしいかもしれない。
梨がこれからおいしくなるかもしれませんが、
この果物の木というのは、
自然に、この手入れも必要ですが、実を結んでいく。
同じように、精霊を宿し精霊に頼る人たちはですね、
精霊の実を結ぶようになっていくんだ、と言うんですね。
それはですね、単なるパフォーマンスではなくて、
いつも言っていますが、内側に動機が与えられます。
良いことをしたい、神様に喜ばれる生き方をしたいという思いがあるならば、
それは精霊が与えられている印ですよね。
動機が与えられて、正しいことを願う。
良いことを行いたいという願いや意思が与えられて、
そしてそれを行う力が与えられる。
それが、うちに宿る精霊の導きですね。
だから、精霊さんはどうか私を導いてください。
これを行う力を与えてくださいと、
祈りつつ生活するということも良いかと思います。
実はですね、この三魂のみ9つありますが、
到底ですね、たった20分の説教ではまかないきれません。
今日皆さんにレジュメを渡ししましたし、
説教の音源を聞くことができますから、
ぜひこのレジュメなどにですね、立ち返って、
これ一つ一つの特目をですね、
日々じっくり学んだり、心の中に落とし込んだりしてください。
聖書を持っている方はですね、
この聖書のガラティア号の22、23に客注がついていて、
それぞれの品性と関係している他の聖書箇所を見ることもできますから、
そういうものを見ながら、
本当に日々の生活の中で、生涯かけてじっくりですね、
この九つの三魂のみということを知り、
学び、願い、得得していってほしいと思います。
じゃあ簡単にもなりますが、
今日はこの九つをざっと見ていきます。
まずですね、一番最初、愛ですね。
この愛というのは実は、
精霊の美徳のリストの最初に出てきています。
なぜ最初に出ているか。
実はですね、パウロは愛を特別に扱っています。
恵みという言葉と同時に、
愛という言葉をパウロはたくさん、
聖書の中でも使う人で有名です。
これはクリスチャンのキャラクター、
特目を、クリスチャンを表す、
12:02
最も顕著な美が愛だと言いますね。
今詳しく見ませんけど、
聖書の中にいくつか、
やはりこういういわゆる特目ですね、
のリストをパウロは挙げています。
そこにはですね、数の出っ込み引っ込みがあるんです。
でも必ずこの愛は入っています。
それはどういうことか、何度も言いますけども、
愛は単なる数ある美徳の一個じゃない、
one of themじゃなくて、
クリスチャンの愛を何よりも表す大事な品性だ、
ということをパウロは考えていたわけです。
今日9つの品性がありますけども、
愛に全部含まれるとも言えるかもしれない。
さらにですね、前のこの部分にも表しているようにですね、
愛という言葉自体が、
愛そのものを十分に表現しきれないので、
パウロはですね、他に類を見ない表現で、
愛の実態を表現しています。
愛とはこういうものですよ、ということを
類稀な表現で表しているのが有名な
第一コリント13の4から8ですね。
ちょっと長いですけど頑張って読んでみましょうか。
最初から3、はい。
愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたりません。
愛は自慢せず、傲慢になりません。
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、嫌だだず、
人がした悪を心に止めず、
不正を喜ばずに、真偽を喜びます。
すべてを絶え、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
ここまででしましょう。
これね、いつも私思い出すんですが、
私大学、いわゆるミッション系の大学だったんです。
入学式の時クリスチャンじゃありませんでした。
入学式から2週間後にイエス様を信じますと言って、
宣教宗を通してイエス様を信じて教会に導かれたんです。
入学式の時クリスチャンじゃなかったんですけど、
実はミッション系の大学だったんで、
入学式が今思うとね、礼拝だったんです。
それで聖火隊が出てきてですね、大きいホールの中で。
で、ハレルヤコーラスを歌うんですよ。
私本当にひねくれた学生だからね、皆さん申し訳ないんですけど、
ハレルヤコーラスを歌ってたんですけど、その日大雨だったんですね。
だからなんだ大雨なのにハレルヤかなんてですね、
バカにしてたんですけど、
それで中で、この第一コリント13章を司会者が、教授が朗読したんですね。
そしたら私すごく心が動かされてですね、
ハレルヤコーラスって時は雨じゃないかってやゆしてたんですけど、
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非常に感動してですね、
あ、聖書勉強してみたいな、
真側を、その前もちょっと背景やったんですけど、
真側をですね、聖書って本当すごいなっていうふうに心を揺さぶられて、
まあ、宣教師との出会いを通してイエスさんを信じたことを思い出します。
まあ、このように愛ということは表現しきれないほど豊かなものであり、
パウロはこの箇所で豊かな愛を表していますね。
これを私たちも日々黙想したりですね、
学んでいくとか大事かと思います。
で、パウロがこういうふうに教える時にですね、
先週も学んだ立法を全て全うする隣人愛、
イエス様が言う隣人愛ということをここにもパウロはイメージしていた。
隣人を愛することが立法を全て全うするということをここでもパウロは考えていたようです。
まあ、愛、それをパウロは非常に大事にしていました。
2番目の特目は喜びです。
これはですね、楽しみとは違うんですね。
あるいはですね、私たちが置かれた好ましい状況に関わる感情ではないというんです。
どういうことかというと、環境に左右されない、
逆境の中でも与えられるのが喜びです。
その喜びの根拠は環境ではなくて、将来への希望です。
難しく言うと、やがてイエス様と出会って全て完成するという、そういう希望が根拠です。
そしてまさにその喜びは、精霊が与えてくださるものなんですね。
で、パウロは迫害が厳しい教会の中でこういうことを言っています。
大正3の訳1の6、ちょっと読めるかと読んでみましょう。
3、あなた方も多くの苦難の中で、精霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちに、そして主にならうものになりました。
多くの苦難の中にあっても、精霊による喜びを彼らは持っていたと言っているとございます。
2番目、3番目、愛・喜び・平安ですね。
平安というのはですね、2つ以上のものの間に争いがないことを意味します。
特にまず神様との関係の平和、契約の神様と私たちの間に正しい関係があって平和を持っているということが言えます。
そしてまた先ほどの喜びと似ていて、実はこの平安というのは環境に左右されず、苦難の中にあったとしても私たちに授けられるものだと言うんですね。
そのことをパウロは、極中からの手紙、老爺からの手紙の中でこう言っていますね。
読んでみましょう。
18:00
フィリピン4-67-3
ここで素晴らしいのは、私たちの理解を超えたということです。
キリスト教信仰というのはですね、私たちの理解を超えた、本当にですね、私よく思うのは健全で神秘的な部分があるんです。
ですから本当にですね、苦しい時に祈って、どうして欲しいか神に祈ってみるとですね、
理解を超えた神の平安が心と思いをイエス様にあって守ってくれるということを体験します。
その時にですね、聖霊様へ与えてくださいと祈ってもいいかもしれません。
実はですね、日野原重明先生というかつての聖霊科国際病院の院長、彼はお父さんが牧師でした。
その牧師の善介先生がですね、ある英語の祈りの本を翻訳しています。
たまたま今日の祈りがですね、平安の祈りだったんですね。
では、あげてみました。読んでみましょう。
せーなる父よ、私はあなたに向かって安息を求めます。
どうぞ多忙な日々が私を苛立たせないように、
どうぞ平和の中に落ち着きますように、
この日全ての小さな心遣いから、また全ての煩わしい野心から解き放ってください。
今日たまたまあったので引用しました。
レジネにも書いてありますので、ぜひそれ皆さんお家でも祈ってみてください。
平安ですね。そして次、寛容です。
寛容はですね、人や神様の忍耐や寛容を表す言葉です。
怒りを襲くするとか、迫害などに苦難に耐える忍耐も表しますね。
そして親切、これはですね、面白いのは理想的な下辺に与えられる資質です。
サービス精神みたいですね。相手の必要に寄り添って行動する。
神様やクリスチャンの優しさとも関わって、具体的な行動を伴うのが親切です。
そして善意というのはこの親切と同義語として用いられるんですけれども、
それはより抽象的で行動というよりもですね、まさに品性で気前の良さとも関わる言葉、善意。
善意にあふれた人だねという表現を使います。
そして誠実、これはですね、実は面白くて、私たちがよく言う信仰と言いますね。
信仰とか信頼性とも訳せるギリシャ語の言語、ピスティスという言葉です。
21:03
非常に有名なピスティスという言葉は信仰です。
それを誠実とも言うんですけれども、どういうことか。
イエス様の模範に見られる神様と人への誠実さです。
イエス様の生涯見れますね。
そしてそれは私たちが習うべき姿ですよ。
そして私たちが人や神に誠実に生きるということのみならず、
私たちが神様やイエス様に寄せる信頼も意味するところの、実は深い言葉なんですね。
誠実、信仰、信頼性とも訳せる。
そして乳悪、それは他の人への思いやりある姿勢で、まさにイエス様に模範が見られる。
マタイの11章25節の全て疲れた人、おもにのおった人、私のところに来なさい。
私が休ませてあげますよ。
私のおもにを覆いやすく、首際にないやすい。
私は乳悪だとイエス様は言っていますね。
最後、自省。
これはですね、面白いのは、注目するのは、これは神や他の人に向かうものではなくて、
自分自身に向かう性質で、主に情欲に対する自省心だというわけです。
ざっとですね、督目のリストとして挙げておきました。
これらの精霊の実、見た目の実である督目のリストはいつも言いますが、
とても私たちの力では結ぶことができない、いわゆるハードルが高いと感じるかもしれません。
でもですね、いつも言いますが、繰り返しや失敗を拝見しながら、
イエス様の十字架に許しの根拠を置きつつですね、
精霊に頼ってこれを身につけていく。
私たちの生涯や生活をかけて身につけていく。
精霊に信頼して身につけていくべき督目だということです。
この難しさをですね、ある学者は愛と絡めてこういうふうにパウロの考えを言ってですね、
理想を現実社会で生き抜くのが単純ではないことをパウロは知っていたと言うんです。
しかし彼はキリストにある神の愛の実践という理想を読者に突きつけることで、
何を目標とすべきかを示し、それ以下の動機を退けた。
難しいからやめなさいじゃない。
イエス様の愛というものをきちんとこの理想としてあげて、
その通りに生きるように身霊に頼って身を結ばれていくということですね。
そのライフスタイルをガラティアの人々に私たちに示しているということなんですね。
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まさに私たちはこの生涯をかけて、そして毎日の生活の中で神様、
特に中に住んでおられる精霊に信頼してこの愛の実、
御霊の実を結ばせていただく、そういう体験をしていくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
神様の実、あなたが私たちに新しい契約として精霊を授けてくださいました。
石の板に書かれた立法ではなく、私たちの柔らかい心に精霊の掟を刻んでくださり、
新しい命である精霊を与えてくださったことを感謝いたします。
どうぞ私たちが日々の生活の中で与えられた御精霊に頼り、
あなたの御霊の実を結んでいく、その歩みを続けていくことができるようにどうか導いてください。
そのような中でどうか私たちがイエス様の新姿へと変えられ、
天国までの道のりを歩み続けることができるように、
あなたとの出会いと感性の時を目指して歩み続けることができるように精霊によって導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主シューイエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは一分ほど御言葉に応えて祈りましょう。
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