2022-04-24 24:03

#/102/22/4/24 十字架といのち

ガラテヤ-21からの礼拝説教。2024年4月24日録音。2-19-20のパウロの告白についてある学者はこう言います。「これは信仰者に内在する内なる命の源泉としてのキリストである」と。このイエス様が共におられるということが、彼の全ての言動の力の源でした。その力について、彼は全てにおいて共におられるイエス様にすがり、その力により頼んでいたのでした。1.キリストと共に十字架につけられている、2.今は私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられ、3.今は、私を愛し命を捨てたイエス様を信頼して生きるの3点から学びましょう。

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新約聖書のガラテア人の手紙、2章の15節から21節を読みます。
ガラテア2章、15節から21節です。
私たちは生まれながらのユダヤ人であって、 違法人のような罪人ではありません。
しかし、人は立法を行うことによってではなく、 ただイエス・キリストを信じることによって、義と認められると知って、
私たちもキリスト・イエスを信じました。
立法を行うことによってではなく、 キリストを信じることによって、義と認められるためです。
というのは、憎なる者は誰も、立法を行うことによっては、 義と認められないからです。
しかし、もし私たちがキリストにあって、義と認められようとすることで、 私たち自身も罪人であることになるのなら、
キリストは罪に仕えるものなのですか? 決してそんなことはありません。
もし自分が打ち壊したものを再び立てるなら、 私は自分が違反者であると証明することになるのです。
しかし私は、神に生きるために、立法によって立法に死にました。
私はキリストと共に十字架に作られました。
もはや、私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉に置いて生きている命は、私を愛し、 私のためにご自分を与えてくださった神の御子に対する信仰によるのです。
私は神の恵みを無にはしません。
もし義が立法によって得られるとしたら、 それこそキリストの死は無意味になってしまいます。
今日はこのところから、十字架と命と題して見事を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
今日は4月最後の礼拝です。
先週イースターでしたけれども、 今日はまたガラテアビトの手紙へと戻りました。
先々週見た箇所から転じて、パウロは、 今日のところでは自らの言葉で福音を語り直します。
そしてこの箇所には、16節を含め、 キリスト信仰の真髄を言い表した、
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とても大切な御言葉が散りばめられています。
しかもそれはパウロが自分の体験として 確信を持って語っているわけなんですね。
今日はその中でも、19節、20節、 とても有名なこの2つの箇所を中心に、
イエス様と十字架に死んだ、 そして彼になって生きる、
その幸いについて3つのことを学んでいきます。
まず最初の点、 キリストと共に十字架につけられているということです。
この19節、皆さん読める方、 前の御言葉を読んでみましょう。
しかし私は神に生きるために、 立法によって立法に死にました。
私はキリストと共に十字架につけられました。
今日の前半の大事なことをまとめて言うと、 こういうことなんですね。
私たちはたとえ罪がやめられなくても、 神様の呪いと裁きからは救われているんだ。
そういうことなんですね。 そのことをもう少し詳しく説明していきます。
実はこの19節が言うところは、 こういうことなんですね。
この前も先ほど言いました2章の1節からずっと問題になっていること。
それは、旧約聖書の立法を守ることによって、
神様の子供としての契約の中に 留まることができるということに対する反論なんですね。
特にその中でもいつも言っていますように、
食事の規定、何を食べてはいけないか。
そして、違法人と食べてはいけないという食事のルールがあった。
そして、神の民の印として、 男性は割れを受けなければいけない。
そのことが違法人のクリスチャンにも 強要されたということが問題だったんです。
それをパウルはまとめて、 立法を守ることによって義とされるという。
これらの立法を守ることによって、
ユダヤ人はもちろん、違法人、私たち日本人も、
神の民としての契約の中に留まれると 当時考えた人がいたので、
それに反論するためにパウルはこの手紙を書き、 今のところも述べているわけなんです。
その根拠となった一つは、旧約聖書のある御言葉なんですね。
ガラティア3書10節に引用されているんですけど、
こういう言葉です。
立法の書に書いてあるすべてのことを固く守って実行しなければ、
誰でも皆呪われると言っています。
これが根拠となっていたわけですね。
しかし皆さんによくお話しているように、イエス様の十字架の死、
それはガラティア3書にも出てきますが、
この立法の呪いをすべて受け止めて十字架で死んだ。
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それがイエス様の十字架の死の意味だったんです。
ですからイエス様を信じる違法人も私たちも、
このイエス様が十字架の上で呪いを受けてくださったから、
私たちたとえ立法を守れなくても、極端に言えば罪をやめられなくても、
もちろんやめたほうがいいんですよ。
でもやめられなくても、神の呪いと神の滅びの裁きから免れる。
それが福音なんですね。
非常に極端な例えをあえてします。
馬鹿げた例えかもしれません。
それは日本の法律に当てはめて言うと、
イエス様がすべての犯罪者の罪を負って死刑になってくださいました。
だからそのイエス様を信じる人は、
たとえ日本の軽犯罪法を犯したとしても、
イエス様にあって罰が全部払われているから、
日本人として法律を犯しても罪に問われない。
そういうことです。極端に言うと。
それがイエス様の十字架の贖いの意味なんですね。
さあ、その極端な例えをしましたけれども、
パウロも私たちも、このイエス様を信じた時から何が起こったかというと、
イエス様と共に十字架につけられたという。
あとでも見ていきますけれども、
この最初に見た御言葉にあるように、
私はキリストと共に十字架につけられました。
とパウロは言っています。
この十字架につけられたという言葉、
それはですね、難しく言うと、
動詞の完了形という形なんです。
過去行った行動が今もずっと続いているということなんです。
つまりこれをですね、元にこの御言葉を訳し直すとですね、
私は、パウロは、私たちはイエス様が死んだ時から、
キリストと共に十字架につけられてしまっており、
今でもあの十字架にキリストと共にかけられたままである。
そういうことなんです。
だから、パウロが立法によって死んだ、立法に対して死んだというのはですね、
立法によって呪われて死んだんですけれども、
イエス様と共に十字架の上で私たちも死んでいるので、
立法に対する償いはもう終わっているんです。
そしてもう、死んだ人間というのは法律と関係なくなりますよね。
だから私たちもイエス様と共に十字架で死んでいるんだから、
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私たちを裁く立法とは関係ない。
私たちはもう死んでしまっている。
だから私たちはたとえ罪がやめられなくても、
神様の呪いと裁きからは救われているんですよ。
私たちを裁く法律の定める呪いからイエス様と共に死んでいるので、
研ぎ放たれていますし、文字通りも死んでいるんだから、
私たちを裁く立法というか法律からは死んだ者として自由になっている。
そういうことをパウロはここで言っているんです。
また後でレジュメを読み直したりしながら、そのことをじっくり考えてください。
とにかく私たちは今もイエス様と一緒に十字架につけられて死んでしまっているという状態です。
しかし、それで終わりではないんですね。
パウロは続けています。
でも私は生きています。
それは私ではなくて、イエス様が私のうちに生きているということ。
それが2番目です。
この御言葉の罰詞をまた読んでみましょう。
3、私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
何度も繰り返しているように、パウロも私たちももうイエス様と一緒に十字架の上で死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなくて、イエス様が生きている。
しかもイエス様が私の中に生きているんだ。
そうやって自分の人ですね、うちにいるイエス様の命をパウロは退避しているんです。
ここでもうちょっと複雑なことを言いますが、
イエス様が私の中に住んでおられるということは、それはまた、聖霊が宿っているということなんです。
これはですね、聖書やパウロがそう言っているので、そのまま受け止めることが一番妥当なんですね。
イエス様が私の中に住んでいるということと、聖霊が宿っているということは同じである。
そのことを覚えておいてください。
で、そのことを同じ置き換えであるということを表している御子沢は2つだけ抜粋しておきますね。
パウロが書いたローマ8章の9節10節です。
もし神の御霊があなた方の内に住んでおられるなら、あなた方は肉の内ではなく御霊の内にいるのです。
キリストがあなた方の内におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても御霊が義のゆえに命となっています。
ここにもですね、御霊が内にいるということとイエス様が内にいるということが当たり前のように置き換えられていますね。
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そして、内なる聖霊やイエス様の命とですね、私たちの罪の体の死ということもここで対比されています。
そしてもう一つ、以前見ていた殺され人の手紙の見言葉ですね。
ちょっと読めるか読んでみましょう。難しい。
ここは最初読みますね、私は。
この奥義が違法人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は生徒たちに知らせたいと思われました。
じゃあここから読んでみましょうか。
この奥義とは、あなた方の内におられるキリスト、栄光の望みのことです。
イエス様があなた方の中に住んでいる、それが栄光輝く望みなんだ、言っているんですね。
私たちはイエス様と共に今十字架の上にかけられたままで死んでいる。
罪の私たちは死んでいる。けれども同時に私たちの中にイエス様が生きておられる。
そのことだけでもせめて覚えておいてください。
ある学者は、これはクリスチャンの内に住むイエス様の命の源としてのキリストである。
私たちクリスチャンの中に命の源としてイエス様が住んでいる。
そのことをパウルはここで表しているんですね。
それはつまり、パウルも私たちも自分の活動とか、自分の生き様のすべての原動力を私と共にいる。
そして私の中に住んでいるイエス様により頼んでいるということなんですね。
パウルも私たちも自分の存在とすべての活動においてイエス様が共にいる、そのことを経験していくということなんですね。
パウルはここで述べているように、イエス様が自分と一緒にいるということをはっきりと体験していたんですね。
イエス様が共にいられるんだということをはっきりとした感覚として持っていました。
この難しい言葉でいうと、イエス様の臨在というんですね。
このイエス様の臨在が彼の力、彼の言葉の原動力になっていたんですね。
これは私たちが仕事をしている時でも、家にいる時でも、そして何か困難の中にある時でも、
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イエス様が共におられるということが私たちの希望であり、原動力になるということであるんですね。
パウルは、とにかく彼のすべてにおいて、共におられるイエス様にすがって、そのイエス様により頼んでいた。
それが、もはや私ではなくイエスが私のうちに来ているという告白につながったわけです。
最後、今は私を愛し、命を捨てたイエス様を信頼して生きるというんですね。
この二十節の続きの見方を読んでみましょうか。
3、今私が肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった神の御子に対する信仰によるのです。
ちょっとこれは新しい訳になって、わかりにくくなってしまいましたけれどもね。
まずですね、この肉において生きているのはという意味ですけれども、
肉というのは、罪とか死から間抜かれられない私たちの今の体、私たちの今の人生の状況です。
私たちは神様のもとに行くまでこの世に生きている限り、罪や誘惑との戦いから自由になれません。逃れられない。
そして当然、死にゆく、滅びゆく体を持っていますから、病とか肉体的な疲労とか、そういう死に向かっている現実と無関係ではいられないわけですね。
このように罪の試練、様々な試練、それがですね、パウロが教える、聖書が教えるクリスチャンの人生観、そういうものから間抜かれられない。
言い換えればですね、この信じれば全く問題がなくなるということを教えていないんです、聖書は。
そして、自分もですね、清廉、潔白な生き方を募り通せる、そのようにも聖書は言っていないんです。現実的な人間観が聖書の人間観。
しかしそのような苦しい現実を持ちながら、地上の生涯を食っている。それがですね、肉において生きているとパウロが表現していることなんですね。
ところでですね、このパウロは今日見ている1章の19節、20節において、「私」という、これちょっと見てみよう。
エゴーって言うんですね、ギリシャ語で。エゴーという主語の私を2回も使っているんです。
よくエゴイズムって言うじゃないですか。エゴイズムの元がですね、このエゴーという言葉なんです。
で、よく言うようにギリシャ語は、動詞の形が変わって、主語の形容詞がなくても、誰のことを言っているかということがわかるんですね。
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ちょっと難しいことを言いますけど、この一番最初のゾウというのはですね、ゾウ。
生きるという意味で、生きるということの一人称、単数形、現在形なので、このゾウという御言葉があれば、エゴーという言葉がなくても、自分のことを言っているんだなということがわかるんです。
でも、あえてパウロは書いてですね、ゾウウケティエゴー。
生きているのはもはや私ではありません。
で、ゼイというのは、三人称単数形の生きるという意味です。
生きているのは、クリストセンエモイ。イエスが私のうちに生きている。
直訳すると、生きているのはもはや私ではなく、生きているのは、キリストが私のうちになんだ。
何が言いたいかというとですね、パウロは、エゴーということを二回も使って、私が、自分の核心としてこれを語っているんです。
自分の生き生きした体験を語っているんですね。
彼は、現実的な苦しみを体験しながらも、共におられるイエス様の命、内なる聖霊様の命を、私は体験していると、大声で述べているんですね。
客観的にではなくて、主観的にも言っているんです。
何が言いたいか。
これはですね、私はこうやって一生懸命、いつも聖書から伝えていますけれども、
本当に難しいのは、皆さんがどこだけわかってもらえるかということを上手に言うことと同時に、
皆さん一人一人がこれを体験しないと、わからないことなんですね。
だから、ぜひ私たちも皆さんも、聖書の言葉を聞くだけでなくて、
自らの体験や感覚を通して、罪の現実や誘惑の現実の苦しみがあるけれども、
イエス様が私の内に住んで、聖霊が私の内側から助けてくださっているという体験をしていただきたいと思うんですよね。
それはつまりですね、誘惑との戦いの中とか、試練の苦しみの中でイエス様にすがる、祈るとか、
必死にイエス様に助けを求めていく、そういう経験を通してですね、
それはイエス様が十字架についたように、自分もイエス様と共に十字架についているという経験でもあるんですね、
パウロがするような。苦しみを経験する、痛みを経験するというのは、イエスと共に十字架につくということでもあるんです。
と同時に、死を通してこそ復活があるように、そのような苦しみの叫びや祈りを通してこそ、
イエス様や聖霊様のこの復活の命を知ることができるという、そういう信仰のありようでもあるわけなんですよね。
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しかしそれで終わりではないんですね。パウロはこう言っているんです。
じゃあどうしてその辛い現実の中でイエス様を頼って生きることができるのか、
それはイエス様、そのイエス様は私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、
この命を捨ててくださったお方だと言っているんですよね。
このイエス様の十字架は何か、それは苦しみの十字架でもある、
儚いの十字架でもあるんですけども、私たちへの愛の確かな証、これが十字架なんですね。
ですから私たちパウロと共にこういうことができるんですね。
私たちはたとえ罪の誘惑があって、罪がやめられないことがあったとしても、
そしてどんなに試練にあったとしても大丈夫だ。
なぜなら、私たちを愛して十字架で死んでくださったイエス様を信頼している上に、
罪が許され、そして生きる希望が与えられる。
生きていけるから大丈夫なんだということができるわけです。
このイエス様の命を捨てた愛、大きな愛について、
イエス様ご自身の見事を見て最後に共に読んで終わりたいと思います。
ヨハネの十詩章の十節と十五章十段節をそれぞれ書いておきました。
読んでみましょう。
3、私は良い牧者です。
良い牧者は羊たちのために命を捨てます。
人が自分の友のために命を捨てること、
これよりも大きな愛は誰も持っていません。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロが我が子としてイエス様と共に十字架に死んでいること、
そして自分は死んだけれども今イエス様が自分の内に生き、
それによって神に自分が生きている、
そのように告白している見事を通して私たちを学びました。
どうぞ私たちも日々の様々な試練や出来事の中で
共におられるイエス様、
内におられるご精霊様のその命を知っていくことができますように、
そしてパウロと共に内なるイエス様の幸い、
またイエス様と共に十字架にかかっているその福音を
明かしていくお互いでありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは一本本の皆さん、見言葉に応答してお祈りしてください。
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