00:01
アーメン、ありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
それでは今日も、愛の前に隣の方たち、メリークリスマス、挨拶しましょうか。
メリークリスマス
神様、今から御言葉を取り付けさせていただきます。
神様、御自身が私たちにかかりあげてください。
そとして与え、教訓を与え、慰め、希望を私たちに与えて下さいまして、我らの霊の目が開かれて見えるようにして下さい。
神様の皆によってお祈り致します。
アーメン
先日はですね、子供救急機器が行われまして、子供が18人でした。
そしてその親の方々、あるいは相母の方々がお目になりまして、本当にですね、
家様の皆によって子供たちを救急できたことは本当にうれしいと思います。
その子供たちの魂が何より救われるように、
その相母の信仰、親の信仰が受け継がれて神の人になるように、そのために皆さん是非ですね、
また祈ってやられると思いますけれども、続けてお祈り下さい。
また先日の礼拝の終わってから、年末大掃除がありましたけれども、
小さい子供から大人まで一つになってですね、掃除ができたことを本当に感謝いたします。
今日はアドベント第2集のイエス様の死と復活について、
共に考えていきたいと思いますけれども、
皆さんは今年のこのアドベント、あるいはクリスマスをどのように過ごしていらっしゃるでしょうか。
毎年クリスマスを過ごしているわけなんですね。
例えばホームクリスマスの方であれば、今年で70回であれば、70回クリスマスを送ったわけですね。
70回パーティーをして、70回集会をして、70回礼拝をしたかと思います。
それでですね、今年も両谷協会には子供クリスマス、今週ですね、もうすぐなんですけれども、
婦人のクリスマス会、13日は子供クリスマス会、20日はクリスマス礼拝、23日はハンドルサービス、
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ああ終わった、あるいはよかったね、記念写真パンパンパンポって、自己満足して、自我自賛して、
それいいと思いますけれども、感謝なことですけれども、そこでちょっと立ち止まって、
いったいイエス様のご生産が、今年は自分の内側に、自分にいったいどういう意味があるのだろうか。
今まで数十回のクリスマスを送りました。
礼拝をしました、ハンドルサービスをしました、3日は歌いました、パーティーをしました。
ところが、自分の心の中に、自分の魂の中に、キリストの臨在とキリストのご生産が今も生きて働いているのだろうか。
それが最も重要なことではないでしょうか。
パーティーをすることより、行事をすることより、キリストが自分の内側に生きておられるそこに、
生誕のクリスマスの意味があるのではないでしょうか。
去年、新学校で初めて、しおや正解の準備を少しだけ携わりましたけれども。
準備をしながら、ある新学生がこういう話をしました。
私に、ユン先生、正解信仰って聞いたことがありますか。正解信仰って何。
それは、実は皮肉を言う言葉です。
毎年、しおやの山に行って、正解に行くんです。
で、山を降りて行きながら、この恵みがなくなって、そして毎回正解に行かなくてはならない。
行くんだけれども、何も変わっていない。
だけれども、正解に行かなくてはならない。
それをしなくてはならない。何かの圧迫感を感じている。
それを正解信仰って言うんですよ。なるほど。
もちろんですね、それを全部否定するわけではありません。
恵まれて、祈って、準備される方々がおられて、恵まれて、変えられる素晴らしい恵みがあるんですけれども、
そうでない人もあり得るということでしょう。
皆さん、私たちの信仰がそうでならないようにお祈りいたします。
毎年クリスマスを過ごしています。
キャンドルサービスをしています。
個人のクリスマス、子供のクリスマス、クリスマス礼拝をしています。
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あるいは新年正解をしています。
あるいは毎週礼拝を捧げていますけれども、
キリストと共に死に、キリストと共に生きる礼的経験をしていない限り、
まるでリスがぐるぐるぐるぐるぐるぐる回っているかのような信仰生活になってしまいやすいです。
皆さんいかがでしょうか。
去年の2013年のこの十二月のクリスマスの時と今日と比べまして、
皆さんの心境はどれほど清としていらっしゃるでしょうか。
人格と人生がイエス様に見るものに変えられているでしょうか。
神の恵みを深く深く味わって、その恵みに使って、どっぷり使っていらっしゃるでしょうか。
言葉や考えや振る舞い、行いが変えられて、イエス様の身姿に変えられて似ているでしょうか。
こういった変化や清聴がなかったならば、
もしかしたら私たちの行事は単なるイベントに終わってしまうかもしれません。
単なる発表会に終わるかもしれません。
皆さん、よくよく考えていただきたいです。
特にいろんな週間に法師に携わっている方々は、ぜひ聞いていただきたいですか。
私たちがどんな行事をするかよりも、その行事、集会をしている自分がどんな信者なのかが最も大事なんです。
キリストと共に生きている信者なのかどうかが最も大事なんです。
恵まれた信者が祈りと精霊に満たされて準備した集会には、恵みに満ち溢れるでしょう。
しかし、いくら準備をたくさんしていても、忙しくしていても、歌の練習をたくさんしていたとしても、
そこに恵みがない、祈りがない、御様に満たされていないならば、自分がドライだから、その集会に恵みがないわけです。
何も起きません。
これを見逃してはいけません。
毎年、毎年、クリスマス集会を行うほどに、最も重要なことは、まず自分自身が恵まれることなんです。
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前もって祈りをしていきながら、精霊に満たされて準備していったら、準備しながらもう既に恵まれるんです。
精霊に満たされるんです。
そしたら、その集会には当然、恵みに満ち溢れるでしょう。
皆さん、私の貧困が、まるで小便のケースの中にある展示用の貧困にならないようにお祈り申し上げます。
皆様のご生産を記念し、お祝いする貧困が、単なる小ケースの中の貧困になってはいけないんですよね。
先週は、ゆうさまの招展について、見言葉からお聞きいただきました。
ゆうさまの招展は、ゆうさまの死とゆうさまの復活を失くしては離せないんです。
ゆうさまの死と復活がありましたから、ゆうさまの招展があります。
ですから、ゆうさまのご生産は、十字架の死と復活のための生まれであって、ご生産だったんです。
もっと簡単に言うならば、死のために生まれた、復活するために亡くなられたことなんですね。
今日読んでいただけました、ガラペラで書かれた手紙、二の二十節の見言葉、もう一度、ご一丁にお読みしたいと思います。
一緒に読みますね。
3、私はキリストともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今、私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
皆さん、この見言葉を今年のクリスマスには心に留めていただきたいと願っています。
皆さん、すべてのクリスチャンは、このキリストと共に死ぬこと、そしてキリストと共に生きる経験をしなければならないのです。
毎日死んで、毎日蘇るこの霊の経験をする人が恵まれた信者であって、幸せな信者になります。
ですから、クリスマスを100回送ったとしても、キリストと共に死ぬことがなかった、キリストと共に蘇ることがなかったならば、そこには恵みもなく、意味もないです。
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しかし、キリストと共に死んで、キリストと共に生きる、蘇る、そのクリスチャンはたった一度のクリスマスであっても、そこには恵みの次元が、喜びの次元が、
では、イエス様の地と復活について、大きく二つの場を持ってお話したいと思います。
まず、死ぬことは何を意味するのでしょうか。それは、罪に対して死ぬことを意味します。
罪に対して死ぬことです。
皆さん、イエス様が亡くなられたこと、イエス様の地がなぜ大事なんでしょうか。
それが一体自分にどんな意味があるのでしょうか。
それを、罪に対して死ぬことです。
聖書を開きましょう。新約聖書、ローマ人への手紙、6章10節、298ページです。
この見言葉を覚えていただきたいのですけれども、ローマ人への手紙、6章10節、新約298ページです。
それを一緒に読みます。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。アーメン。
もう一度、私が読みますね。
キリストが死なれたのは、ただ一度、罪に対して死なれた。
これなんです、皆さん。
イエス様がなぜ死なれたのでしょうか。なぜ十字架で、あの苦しみのうちにおなくりになったのでしょうか。
それは、何に対してですか。罪に対して死ぬためでした。
これなんです、皆さん。罪に対して死ぬこと。
イエス様の死の意味は、それが一番大事なのは、罪に対して死ぬことです。
イエス様は、罪に対して死ぬために、十字架で亡くなられたわけなんです。
これを私たちに適用するならば、イエス様の死は、罪に対する死であるから、私たちも毎日、罪に対して死なければならない、という私。
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毎日、死に対して死ぬ時に、イエス様の御生産も、聖集会も、交わりも、そこに意味がある。
ですから私たちは、毎日死ななければならない。
罪に対して毎日死んで、そして死んだ人だけが、よみがえり、その人生に恵みに満ちあふれるのです。
まだ死んでいないから、罪に対して死んでいないから、古い生きているから、まだ生もう状態だから、
時には人を殺し、時には人を苦しめ、時には傷つける、
罪に対して死なければならない。そこにクリスマスの真の意味があるのではないでしょうか。
ですから、クリスマスの祝会を準備しています。
神たちがいますが、何より、準備している私たち一人一人が、恵まれて、罪に対して死に、キリと共に生きる者でなければならない。
そうしないと、いくら素晴らしい賛美を立てても、いくらたくさんの人が集まっていても、いくら豪華な食べ物を並べておいても、
そこに聖霊の新しさは、神の新しさは、ないままの祝会になることもない。
ですから皆さん、私たちが霊的においても人格的においても、
罪に対して死んで、とって人共によみがえられた、よみがえされた人として、
その人がいるところ、その人が奉仕するそのグループの中では、その人のゆえに周りの人々が生かされ、恵まれ、祝告されたんです。
しかしそうでないと、その人が恵まれていない人が、罪に対して生んでいない人が通り過ぎたら、その周りには傷つけられた人々が倒れている人が多く、
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例えばこういう方はどうでしょうか。うちのひぎょんちゃんが家で時々クッキーを作ったりパンを作ったり、クッキングが好きなんですね。
玉焼きも上手いんですけれども、でもそれはいいんですよ。おいしいものを作ってくれるんですけれども、
それはいいんだけれども、何かを作った後のあれが問題です。
その台所が爆弾が落ちたかのように散らかって、でもおいしく食べてるんだけど、それを片付けるつもりはない。
学校から帰ってきたら、リビングが30分になったら、ごめんなさいみたいな日本人、ちょっと大げさに言うんだが、散らかっているんですね。
それは性格のせいだと思うんですけれども、人格的にも礼儀的にも似たような人がいるんです。
その人が通り過ぎたら、周りの人々がみんな傷つけられて倒れて苦しめられて、人がたくさんいる人がいます。
ある人がそこに行ったら、ほどまって行ったら、ある人と一緒に行ったら恵まれて潰されて慰められる人がいるんです。
何が違うんでしょうか。その人が恵まれた人なのか、そうでないか、その違い。
ですから皆さん、何より自分がどんな信者なのかが一番大事なんです。
それを忘れたままで、いくらたくさんの毎日のように集会をしたとしても、
植物会の集会をしたとしても、自分がどんなクリスタルなのか、それを忘れたら意味がないのです。
新婚生活を何十年したのか、あるいはクリスタルホームの生まれなのか、自分が国家なのか、役員なのか、成果体なのか、CSの教師なのか、それは重要ではありません。
法師を何十年、何百年したのか、それは重要なのではありません。
自分が果たして生まれ変わったクリスタルなのか、恵まれた信者なのか、イエス様に似たクリスタルなのか、罪に対して信者クリスタルなのか、それが一番大事です。
いくら長い間、教会生活をしたとしても、十字架で罪に対して信頼の経験がない。
そのような人々が牧師をして、役員をして、成果体をして、教師をしている教会には問題だらけの教会になるのです。
しかし、罪に対して信に、チリスと共に蘇られて、祈りと精霊に満たされた信者が一人でも二人でもおれば、そこには精霊が働いてくださる。
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恵みに満ち溢れるのです。
今年のクリスマスの教会は、そのような教会にならなければなりません。
そうしないと、毎年やったからといって、それを必ずしなければならない理由は一体どこにあるのでしょうか。
毎日、罪に対して死ぬことです。
ところが、最も深刻な問題は、自分が罪に対して死ななければならないのに、自分はそれを気づいていないということです。
霊の目が開かれていないから、見えてこないのです。
自分はまだ罪に対して死んでいない、生の状態なのに、それを気づいていない信者が教会の中に多いのです。
この前、10月に喜山セミナーのためにソウルに行って、一泊実家にいて、ご飯と一緒に過ごしただけなんですけれども、
買い物に母と一緒に行っているところで、母がジャンパーを着ただけですけれども、前に何かが結構ついていたんですね、白いものが。
それで、お母さん、何かついていますよ。そしたら、何?目が暗くて見えないよと言ったんですね。
私の目には見えるものが、母の目には見えなかった。霊の世界も同じなんです。
霊の目が開かれている信者があって、霊の目が暗くなっている信者も、それはその人が牧師なのか、役員なのか、教師なのか、生活体なのか、
クリスタンホームの生まれの人なのか、古い信者なのか、それと実は関係ありません。
牧師だとしても、役員だとしても、教師だとしても、生活体だとしても、100年になった信者としても、霊の目が開かれていない信者があるのです。
霊の目が開かれていないと、暗いから見えないのです。母のようについているので、それが見えないのです。
霊の目が開かれている人には見えるものがあって、他の人には見えないものがあるのです。
一括、制度を開きたいと思います。
第2列を置き、6章を開きました。
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第2列を置き、6章、旧約聖書442ページです。
第2列を置き、642ページです。
第2列を置き、6章、14節から17節です。
この時代の背景は、エリア、エリサが預言者の時代でした。
そしてイスラエルがアラムと戦っているところで、
イスラエルはアラムの兵士たちに、騎馬や戦車に、大軍に包囲されてしまった時の話です。
私は読みますね。
14節からご覧ください。
そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。
彼らは夜のうちに来て、その町を包囲った。
神の人の御使いが朝焼けを着てそこに出ると、
なんと馬と戦車の軍隊がその町を包囲っていた。
若い者がエリサに、ああ、ご主人様どうしたらよいのでしょうと言った。
皆さん、この今イスラエルの町をアラムの馬、戦車、大軍が包囲っているのは、事実であれ現実なんです。
しかし、その御使い若い者は、目に見えるそのアラムの軍隊だけを見ていました。
しかし、16節、一緒に読みたいと思います。
3、はい。
すると彼は、恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだからと言った。
はい。おかしいです。
御使いの目には何も見えないんです。アラムの馬、戦車、大軍だけが見えてくるんです。
しかし、エリサ先生は彼にですね、私と共にいる者は彼らと共にいる者より多いんだから、恐れることはないんですよと言ってるんですね。
一体エリサは何を見てるんでしょうか。なぜ御使いはそれが見えてこないんでしょうか。
17節を一緒に読みたいと思います。
3、はい。
そしてエリサは祈って主に願った。どうぞ彼の目を開いて見えるようにしてください。
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しかし、その若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと火の馬と戦車がエリサを取り巻いて山に満ちていた。
アメン。
皆さんこれなんですよ。エリサの目は開かれていたから、メシシカイが見えてこなかったその神の軍勢が見えてきたんですよ。
それを見ているエリサがいて、しかし同じ所に去って同じ状況に囲まれていたあのメシシカイ若い者の目には見えてこなかった。
だから皆さんどうぞ彼の目を開いて見えるようにしてください。
私は何をするように、このように祈っているんです。
主よ、私の目が焦がされることがないように暗くなって、見えないことがないように、主よ私の目を開いて見えるようにしてください。
主よ、のばに教会の目を開いて見えるようにしてください。
本当に切に切に懸命に祈っているんです。
皆さん、このエリサが若い者のために祈ったこのどうぞ彼の目を開いて見えるようにしてください。
この祈り方をもって祈るのでありませんか。
主よ、私の目を開いて見えるようにしてください。
のばに教会の目を開いて見えるようにしてください。
日本の教会の目を開いて見えるようにしてください。
見えてこないから、傷ついていない。
見えるようにすることが一番大事なんです。
見えるようになって、自分の罪、自分の傲慢、自分の悪を悔いだため、そして罪に対して死ぬこと。
その人だけにイエス様のご生産のまことの意味があるのでしょう。
毎日罪に対して死ぬこと。
ある意味でですね、クリスマスに何の祝祷もしなくてもいいかもしれません。
ただ、その見舞いに、罪に対して死に、自分の霊の目が開かれたならば、それで一番いいのではないでしょうか。
聖書、もう一回書を開きたいと思います。
第一コリントビトへの手紙、十五章です。
30:01
第一コリントビトへの手紙、十五章。
新約聖書、三百四十一ページです。
第一コリント、十五章、三十一節です。
シトパウルはこのように告白しています。
この告白が、私たちの告白になりたいです。
三十一節、一緒に読みたいと思います。
兄弟たち、私にとって毎日が死の連続です。
これは私たちの主、シリスとイエスにあって、あなた方を誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
ここにですね、この新解約は、私にとって毎日が死の連続ですとありますが、
後後約聖書には、もっと分かりやすく、私は日々死んでいるのであるとあります。
こっちの方が分かりやすいかもしれないですね。
私は日々、毎日死んでいる。
罪に対して、傲慢に対して、私は毎日死んでいる。
この告白が、私たちの告白にならなければならない。
今年のクリスマスは、罪に対してイエスキリストと共に死ぬクリスマスになりたい。
皆さん、日々キリストと共に死ぬ人だけが、まことのクリスマスをお祝いでき、喜べ、楽しめるんです。
イエス様の死、イエス様の復活が、私たちに教える新しい意味は何でしょうか。
そのイエス様のよみがえり、復活はですね、罪に対して死んだ人が、今度は神に対して生きることです。
神に対して生きていることです。
さっきのローマ書に行きましょう。ローマ書6の10節ですね。
このまま読みますと、「キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」とあります。
皆さん、イエス様がよみがえられたのは、神に対して生きておられるのです。
つまり、私たちが死と共によみがえる、死と共に生き返らされることは、神に対して生きることです。
罪に対して死んだ者だけが、神に対して生きることができるんですね。
33:07
だから、その人の内にキリストが生きておられ、身様に満たされて、イエス様のご人格が、イエス様のご品性が、精霊の人格が、その身が、その人の内側にあふれ出るわけなんです。
だからこのイエス様の復活がですね、他の人の復活、夫の復活、妻の復活、親の復活じゃなくて、私の復活にならなければいけない。
キリストが他の人の心の中に生きておられるだけではなく、私の内に生きていなければならない。
皆さん、キリストに対して、神に対して生きているから、その人の内側に、キリストの品性に、身様の品性に満ちあふれて、それが風水のように吹いてくるんです。
皆さん、テレビの芸能番組を見たらですね、何か芸能人を驚かせるために、カバンとか箱を開けたら、パンとですね、何か飛び出すようなドッキリを何とかするんですよね。
同じだと思います。私の内側に、神に対して生きている人は、その人が口を開ければ、その人からキリストの香りが飛び出すように吹いてくる。
そのような神に対して生きているクリスタになりたいのです。キリストに対して死んで、神に対して生きるクリスタ。
皆さん、これが実は、私たちが何かの行事をしているよりもっとも重要なこと。皆さんはそうでしょうか。皆さんの口から、顔から、皆さんの行いから、キリストの香りが吹いていますか。放っていますか。香りがしていますか。
神に対して生きているクリスタになりたい。
36:19
先生も2階に行って、お茶でもしませんか、とお誘いして、2階でお茶をしていました。いろんな話をしていました。
この森先生にはちょっと悪いですけど、うちの教会の自慢話をたくさんしました。誇りと思っているところを言いました。
そこに行って、そろそろ2年になっていますけれども、神徒さんが本当に恵まれて入られていることが多くありますよ。
その関係が回復されて、祈りと見事を期待求める深さが深まっているんですよ。
そういうふうに話し合ったら、森先生がバスにこう言いました。
それはユミ先生がそれほど立派な嘘だからそうでしょう。いいえ、そんなことはありません。全ては神の恵みでしょう。
また話をしていたら、どうから噂をしていたか分かりませんけれども、
妙谷教会の夫人とか役人さんがどこかに行ったら、妙谷の教会のことを誇りに思って、あるいは僕のことや教会のことを誉めて、
紹介して、誇りに思っているそうですよという話を聞いてですね、
皆さん、どんな教会が幸せな教会なんでしょうか。どんな教会が恵みに満ちた教会なんでしょうか。
どんな教会が喜びと平安と愛に満ちた教会なんでしょうか。
それは私が、あなたが、皆さん一人一人が恵みに満ちた生徒であるときに、その教会が、その家庭が恵みに満ちた家庭、教会になるわけです。
私が皆さんが、あなたが本当に幸せな信者であるときに、その家庭が、その教会が幸せな教会になるわけです。
私が皆さんが、喜びと平安と愛に満ちているときに、その家庭もその教会も、喜びと平安と愛に満ち合える教会になるわけです。
皆さんの中に、心の壁がなくて、憎しみもなくて、恨みもなくて、つぶやきも一切ないときに、家庭も教会もそのようになるのです。
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時々私たちは、勘違いすることがあるかと思います。
例えば、教会が愛に満ちてほしい、誰か来てもみんな、そこの安らぎを味わえる教会になってほしい、と言うんですけれども、私が、あなたが、そのような信者になるときに、教会はそのようになる。
今回、教会のいろいろ行事があるから、教会の郵便封筒を新しく作りました。
この長さんと、過去に大きいティースリーを作りましたけれども、一番上に、こういう文章を書いてありました。
幸せな生と、美しい家庭、夢見る教会。
たまる文書家と皆さん、考えるかもしれませんけれども、私は、この一句を決めるために、何週間もティースは悩みました。
実はここには、私の仏会の、まあ仏会哲学と言いますか、仏会のその精神と夢と心が、ここに込められているんです。
皆さんお一人お一人が、どこにいても、夫婦と一緒にいるときにも、家族と一緒にいるときにも、教会にいるときにも、職場に出ているときにも、
皆さんお一人お一人が、住み合って、本当の意味で幸せな生徒になったときに、皆さんのゆえに、周りが幸せな夫婦、幸せな家族、幸せな教会になれるのです。
チャンネルナンバー5の香水を30個集めておいたら、そこから香水の香りが放つでしょう。しかし、ゴミを30個集めておいたら、白臭がするでしょう。
皆さん、美しい家庭を夢見ていますか。そしたら、私があなたが、内面が美しい夫、美しい妻、美しい父、美しい母、美しい子供になれば、自然にその家庭、家族は美しい家庭になれるのです。
幸せな教会を夢見ていますか。そしたら、皆さんお一人お一人が、住み合って、本当に恵まれた神社であるときに、教会は幸せな教会、美しい教会になれるのです。
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そのような神社さん、一人一人が集まっていたら、香水が集まっていると、そこから香りが放つように、幸せになり、美しくなり、夢見る教会になるのです。
そしたら、教会生活が喜んで楽しくて、礼拝が喜んで楽しくて、恵みに満ちあうれて、早朝に来ても、昼に来ても、夜に来ても、毎日教会に来ても、嬉しくて嬉しくて、感謝に満ちあうのです。
なぜでしょうか。私が、自分が、そんなクリスチャンだからです。問題は外にあるのではありません。夫婦の問題も、家庭の問題も、教会の問題も、そうなのです。
夫に、妻に、親に、子供に、あるいは教会の牧師に、役員に、誰かに問題があるのではなくて、私が幸せな人であれば、私が美しい人であれば、私が美しい恵まれた牧師であれば、私が恵まれた役員であれば、教会は勝ては勝つ。そうなるのです。
例えば皆さん、世の中でずっと一日中タバコを吸っている人がいたとします。その一日中いたときに何本吐いているかわかりませんけれども、一日30本吸うお父さんがいたとします。リビングルームでも部屋でもトイレでもずっとタバコを吸っている。
そしたらその家がタバコにおいて、もう腐っているでしょう。ところがその夫が妻に怒って、あなたは家の掃除をしないのか。何でこんなに家からタバコが腐るのか。しっかりしなさいと言う。
そしたら妻はこう言うんです。あなたがタバコをやめなさいよ。同じなんです。私が恵まれたら、私が幸せな生徒になれば、夫婦関係も家族関係も教会もその通りになる。
たまにうちの子供たちが、お父さん、平谷教会にこれから何年いるの?聞かれるんですね。それは私はわかりませんよ。家様だけこそ言うでしょう。何年放出させていただくか、私にはわかります。
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夫に許された限り放出させていただきますけれども、僕として、私が夢見る牧会は、大きい教会になることは主な目的ではありません。
そしたら皆さんお一人お一人が、罪に返して死んで、神に返して生きているクリエイター。霊の目が開かれて、精霊様の働きに導かれて、皆さんが行くところところ、その家庭がその教会が天国のように恵みに満ちあうれる。
そのようなクリエイターになること。そして、その夢とビジョンを抱いて、この国と日本と世界に使い、そのため、復帰のため、走り続ける神と牧師、教会を夢見ているんです。
今年のクリスマスは、罪に返して死んで、神に返して生きるクリエイターになります。その信仰をもって、クリスマスの集会に、準備に臨んでいただきたい。
そのときに、神のイエス・キリスマ・ボシェイタンの真の意味が、まず、私の内側に、家庭の内に、教会の内に望まれることをお祈り申し上げます。お祈り申し上げます。