1. 名谷教会
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2023-11-26 27:42

2023/11/26:存分にいのちを生きる


2023/11/26:聖日礼拝

加藤歩名牧師

マルコの福音書 -27


サマリー

山名教会のメッセージでは、永遠の命が豊かに成長することの大切さと、イエス様と止める青年との対話が紹介されています。彼らは神様から与えられた永遠の命を生きることで、神様の恵みを知ることができます。

アドベントとクリスマスの準備
おはようございます。
今朝も皆様とともに神様を礼拝できることを感謝いたします。
今日は午後、大掃除とクリスマスの片付けが行われます。
私たち夫婦にとっては、名谷教会で初めて過ごすアドベントとクリスマスを迎えようとしています。
皆様とともに幸いなアドベントとクリスマスを待ち望んでいきたいと願っています。
それでは一言お祈りをさせていただきます。
天の神様、主の皆を賛美いたします。
今朝も私たちは、神様にいのちを与えられて教会へと導かれてきました。
主の愛しておられる兄弟姉妹とともに、あなたを礼拝できますことを感謝いたします。
イエス様の十字架と復活によって、私たちは神のことされ、あなたの恵みを知るこの日々を歩ませていただいています。
どうぞその祝福の中で、あなたから与えられている学び、努めをなしていくことができますように、
どうぞ今週もお導きください。
季節は移り、寒さが増してきている中にあります。
体と心を保つことが厳しくなっていきますから、続けて主の支えによって私たちを守ってください。
神様、わけあってここに集うことができない兄弟姉妹もおられます。
自宅で礼拝されている方々がおられます。
主の等しい恵みがお一人お一人に届けられますようによろしくお願いいたします。
神様、御言葉を聞きます。主の命の言葉によって私たちを養ってください。
語るこのものを主が憐れんでくださって、主がお語りくださいますようにお願いをいたします。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
さて、先週の木曜日祝日に、京区の第二ブロック主催の秋のつぞいというものが行われました。
イエス様と止める青年の対話
第二ブロックの6教会が集まって、正解をしましょうということで、今回初の試みとして行われました。
神戸中央教会の西名智子先生が御言葉を取り継いでくださいましたが、
西名先生はメッセージの冒頭でこのようなことを言われていました。
私たちは正解、修養会によって信仰が養われ、与えられている永遠の命が豊かにされ成長していくことができます。
西名先生は、永遠の命が豊かにされ成長すると表現されたんです。
私たちの永遠の命へのイメージはどんなものでしょうか。
天国に行くための死後の命と考えることが多いと思います。
ですから、この命が豊かに成長すると言われても、あまりイメージが湧かないかもしれません。
しかし今朝のお開きした箇所を見ますと、イエス様は永遠の命が豊かにされること、成長することが大事だと考えておられる、そう言えると思うのです。
今朝は、永遠の命を求めたある人物とイエス様との物語です。
私は子供の頃からこの物語を読みながら、なんてイエス様は厳しい方なんだろうという印象を持っていました。
21節においてイエス様は、持っている物をすべて売り払い、その上で私に従ってきなさいと言われたり、
25節では、金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が優しいのですという言葉があったり、
イエス様に従っていくことも、神の国に入ることも、とても難しいことなんだなと思っていました。
しかし、おそらくイエス様が言いたいことは、そういうことではないのです。
むしろ、この厳しいように見える招きは、私たちがこの永遠の命を豊かに生きるための恵みの招きである、
そのことを今朝、皆様と共に覚えたいと願っています。
さて、この箇所を味わうにあたって、まずイエス様の前に駆け寄ってきたこの人物に目を止めたいと思います。
17節をお読みいたします。
イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、見前にひざまずいて尋ねた。
よい先生、永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいでしょうか。
この人物は一体誰なのかを見ていきたいと思います。
並行箇所を見てみますと、マタイの福音書では、この人物のことを青年、
そしてルカの福音書では、一人の役人と言及しています。
青年と役人という言葉で表されているこの人物。
この言葉で、彼が若い人であったこと、
そして彼はユダヤ世界の中でエリートだったことがわかります。
私たちにとっては、止める青年という呼び名で有名なキャラクターかと思います。
彼は若くして財産と名誉を兼ね備えていました。
また20節で彼が言っているように、聖書の今しめ、立法を厳格に守ってきた、
いわゆるこの時代において実力のある人物です。
しかし今朝の冒頭、そんな肩書のある人物にしては不思議な行動をとっているのです。
一人の人が駆け寄り、見前にひざまずいて訪ねたとあります。
彼はイエス様に駆け寄ってひざまずいたわけです。
ユダヤ世界のエリートであるならば、人前でむやみに、
駆け寄る、走るということはしません。
また誰かにひざまずくという行動もめったにしないことです。
しかしそんな彼が、そこまでイエス様に真剣に問うたのです。
永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいでしょうかと。
若くて財産もまた立場も不自由なく持っているはずの彼がなぜ、
永遠の命をこんなにも真剣に求めたのでしょうか。
一つ考えられる理由は、
彼にはある不安があったのではないかと思います。
ある不安があった。
それは死への不安です。死への不安。
旧約聖書の伝道者の書にこのような言葉があります。
お読みしますのでお聞きいただければと思います。
伝道者の書、一章二節。
空の空、伝道者は云う。
空の空、すべては空と。
空とは空とか空き缶の空という意味ですけれども、
この伝道者の書が書かれた時代に、
この作者は文字を書けた、
読めた人ということは、
この伝道者の書を書いた作者も、
この時代においてはエリートであったと思うのです。
そんなエリートであった彼がこのように記している。
すべては空だと、すべてはむなしいと記しているのです。
才能や能力や富、それらを持っていることは
祝福です。
しかし十二分にそういうものを持っているからこそ、
気づく事実があったのではないでしょうか。
そういうものはどれも祝福で、
素晴らしいけれど、
自分の命を支えるものにはなり得ない。
何でもできる人に見えて実は、
自分が不自由であり、多くを持っているからこそ、
拭いきれない不安に気づく。
この止める青年も同じです。
すべてのことをパーフェクトに得てきた、
こなしてきたであろう彼ですが、
若さと実力があり、立場がある彼ですが、
しかしこういう、そのような彼ですら、
どうしても得ることができないもの、
自分ではどうにもできないものがありました。
それが死だったのではないでしょうか。
この物語を読んでいますと、
最終的にイエス様の招きよりも、
自分の財産をこの青年は選びます。
そういう青年を私たちは見ていると、
どうしても悪い人物というか、
悪い例の人物に見えるかもしれません。
しかし彼は決して悪い人物ではありません。
実直に聖書の戒めを守って、
真面目に生きてきた人、
またこのようにイエス様を
良い先生とたっ飛んで、
跪いて質問する礼儀正しい人、
そんな彼がこれまでと同じように
努力をして、実力によって
得ようとした永遠の命、
自分の死への不安を払拭させるためにも
得たいと、そう考えていたのです。
永遠の命の理解
そういうこの止める青年に対して
イエス様は答えられました。
まずこのように答えています。
18節と19節をお読みします。
なぜ私を良いと言うのですか。
良い方は神お一人のほか誰もいません。
戒めはあなたも知っているはずです。
殺してはならない。
勧引してはならない。
盗んではならない。
偽りの証言をしてはならない。
騙し取ってはならない。
あなたの父と母を敬え。
さてこのイエス様の返答、
この青年が願った通りのものだったでしょうか。
きっとそうではなかったと思うのです。
こうすれば永遠の命を得られるよという
わかりやすい回答が欲しかったと思うのですが、
イエス様が言われたのは、
聖書の基本的な十回の話、
その十回の中でも人間関係、
隣人愛に関する戒めでした。
これはもう彼の人生にとっては
当たり前の事柄だったと思うのです。
案の定彼はこのように答えています。
20節。
先生私は少年の頃から
それらすべてを守ってきました。
イエス様そんなことはわかりきって
いますし、ばっちりやってきましたと、
彼にとってはイエス様の答えは
真新しいものでも、
期待していたものでもありませんでした。
何かイエス様とこの青年の対話が
かみ合っていないように私たちは感じます。
でもイエス様は的外れな
回答はされていないのです。
永遠の命を求める彼に対して
最も大切な答えをされたのです。
彼とイエス様の対話が
かみ合っていない理由、
それは双方の永遠の命の
とらえ方に違いがあるからです。
双方の永遠の命のとらえ方に
違いがある。
青年はイエス様に
何をすれば永遠の命を
受け継ぐことができるでしょうと
質問しています。
彼は永遠の命は何かをすることによって
獲得するものととらえています。
しかし一方イエス様は
いましめはあなたも知っているはずですと
この隣人関係に関する
いましめを改めて言われました。
殺してはならない、
会員してはならない。
イエス様は生き方の話を
しておられることがわかります。
生き方の話をされている。
永遠の命は獲得するものではなく
生き方であると
青年に言われているのです。
そしてもう一個わかりやすく
イエス様が示してくださった答えが
21節です。
あなたに欠けていることが一つあります。
かえってあなたが持っているものを
すべて売り払い
貧しい人たちに与えなさい。
そうすればあなたは
天に宝を持つことになります。
その上で私に
従ってきなさいと。
この言葉は何を言っているのか
二つのことが言えると思います。
一つは先ほども言いました。
永遠の命は何かをして
獲得するものではなく
もうすでに
彼に与えられているということです。
永遠の命は
彼にすでに与えられている。
彼はきっと
死を恐れていた。
だから永遠の命を持っているという
実感がなかったのです。
永遠の命と神様の結びつき
でもイエス様はそう言われていません。
あなたはもうすでに
永遠の命を持っている。
そして第二に
彼が永遠の命を持っている実感が
なぜ持てないのか。
それは
永遠の命を持ってはいるけれども
彼は使ってはいないのです。
永遠の命を持ってはいるけれども
使ってはいない。
私たちはなぜ
神様がくださるこの命を
永遠の命と呼ぶのでしょう。
不老不死の命だからでしょうか。
死ぬことのない命だからでしょうか。
三鶴先生が
よく永遠の命のことを
このように言われます。
永遠の命は
永遠の命は
永遠なる神に結ばれた命だと。
永遠の命とは
永遠の神に結ばれた命。
それは言い換えれば
神様に結ばれ
神様と共に歩む
尽きることのない命と
言い換えることができます。
尽きることのない命。
それは使っても使っても
無くならない命。
むしろ
使えば使うほどに
あふれ出てくる命です。
使えば使うほど
神様の恵みがあふれる命。
だから永遠の命と
私たちは呼ぶのです。
青年は多くのものを
今まで獲得してきました。
しかしそれは
自分自身のために
獲得してきたと
言えるかもしれません。
でもイエス様が
彼に語られたのは
永遠の命は
自分自身だけのために
使って豊かになるのではない。
この命は
誰かを愛するときに
例えばあなたにとってそれは
あなたの持ち物を
貧しい人に分け与えるときに
その命は本当に輝く。
その命の豊かさを
そのとき本当に
生きることができる。
神様が私たちに
与えてくださった
永遠の命は
死の不安を解消するためだけの
ものではありません。
この世界で本当に
永遠の命の生き方
神の命を生きることの
豊かさを知り
そこに働かれる
神の恵みの豊かさを
知るために
私たちは永遠の命が
与えられたのです。
私たちはこの命を
誰かを愛するために
使うのです。
使えば使うほどに
この命はあふれ出てくる。
イエス様はそのように
この青年を招かれました。
持っているものすべてを
手放さなければ
得ることができない命
という話ではありません。
むしろあなたが
持っているものを持って
誰かのことを存分に
生きていきなさい。
そのことを通して
あなたは
永遠の命
神の命の豊かさを知る
それが
存分に命を生きる
ということなのだと
イエス様が青年に与えられた
チャレンジは
神様の恵みを知る
歩みへの招きです。
そしてその道を今もなお
歩んでおられる
私についてきなさい。
とイエス様はおっしゃって
おられるのです。
この招きは決して
蹴落としたり
ふるいにかけようとされた
招きではありません。
なぜならイエス様は
21節のこの招きをするとき
慈しんで見つめて
彼に言われたと
書いてあります。
慈しんでとは
愛してとか
ことさらにたっ飛んで
という意味です。
イエス様はこの青年を
愛の眼差しで見つめられました。
実直に歩んできた
彼の生涯を疑わず
むしろ神様の言葉を
しっかり守り生きてきた
彼の人生を
たっ飛ばれたのです。
しかし
残念ながらこの青年は
イエス様の前を去ってしまいます。
顔を曇らせ
悲しみながら
立ってしまうのです。
彼は一歩を
この招きに
踏み出すことができれば
永遠の命の豊かさを
実感できたはずです。
しかし彼は
そうできませんでした。
彼自身が気づいてきた富を
手放す勇気が持つことが
できず
イエス様の招かれる
恵みの生き方へ
踏み出すことが
できませんでした。
私たちに重なるものが
あるかもしれません。
私たちにも
大切にしているもの
大切にしてきたものが
あると思います。
この青年と同じように
努力して
獲得してきたもの
また大事に大事に
育んできたものが
あるかもしれません。
きっとそれら一つ一つは
とても素晴らしいものなのです。
ただ時に私たちは
それらを大事にするあまり
神様が招かれている
恵みの生き方に
踏み出せない現実を
持っているお互いかも
しれません。
この青年の姿と
自身の姿が
重なるかもしれません。
神様は時に私たちが
望んでいる答えを
くださらないことが
あります。
もっともそばに
置いておきたいものを
手放すようにと
招かれることが
あるのです。
青年の前にはまさに
そんなイエス様が
おられた。
しかし
そんな自分の前には
なおも私を愛し
慈しんで見つめて
おられる
イエス様の眼差しが
あるのです。
大切にしてきたもの
願っている導きを
手放せず
だし惜しみしている
不自由な自分の
姿を
イエス様を愛して
見つめておられるのです。
そしてイエス様は
勇気を出して一歩
踏み出そうとしたとき
このように励まして
くださいます。
27説
それは人にはできないことです。
神にはどんなことでも
できるのです。
私たちが大切なものを
差し出す
その前に
イエス様ご自身が
ご自身の命を
そして父なる神様が
何にもかえがたい
愛する独り子の命を
私たちのために
お使いになられました。
あの十字架に
お捧げになられました。
私たちは神様が
尽きることのない
永遠の命によって
今生かされているのです。
人にはできないが
神にはできると
私たちがどんなに
自分の大事なもの
命を出し惜しみしたとしても
勇気を出して一歩
踏み出したときに
神様は私たちを励まし
この命を生きる
恵みの歩みへと
進ませてくださいます。
永遠の命は
天国に入るための
命です。
しかしそれだけではなく
今を生きる私たちを
生かし
誰かを愛するために
使う命です。
この命を生きることを
通して私たちは
神様の恵みの豊かさを
知るのです。
私たちは与えられた
この尽きることのない
永遠の命を
どのように使い
どのように生きるでしょうか。
イエスは彼を見つめ
慈しんで言われた
あなたにかけていることが
一つあります。
かえってあなたが持っているものを
すべて売り払い
貧しい人たちに与えなさい。
そうすればあなたは
天に宝を持つことになります。
その上で私に従ってきなさい。
イエス様は私たちを
奮いにかけてはおられません。
私たちを恵みに招くために
この永遠の命に招くために
このように言われているのです。
一言お祈りをいたします。
27:42

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