礼拝と感謝の時
おはようございます。
今日はこのように、愛する皆さんと久しぶりに共に、礼拝に預かることの幸は覚えて、感謝をしております。
もうなんか、皆さんのお顔を見ただけで、すでに胸がいっぱいでという状況なんですけれども、
また、礼拝の後にお時間を許されたら、少し皆さんと混じられたら感謝だなと思っています。
それでは、御言葉を取り継がせていただく前に、一言お祈りさせていただきます。
天と地と作られ、その中のすべての万物を創造され、今もその世界を治めておられる全能の神様、
あなたの尊い名がめ、心から感謝をいたします。
イエス様の十字架と復活のその宮座の家に、私たち信じるものを、罪からあがなってくださり、
また、神よ、今年の特権を与えられた幸は覚えて、ありがとうございます。
そして、今日も変わらないあなたの御愛と、その招きによって、礼拝に預かられる幸は覚えて、ありがとうございます。
神よ、どうぞこの礼拝を最初から最後まで豊かに祝福してくださり、開かれる御言葉を通して、あなた御自身が私たちにお語りくださいますように、お願いいたします。
神よ、どうぞお語りください。
しもべが聞きますと、あなた御自身があなたの御思いを私たちに示してくださり、
また、私たちが信仰を持ってそれを受け入れて、あなたの御心に従って歩みを全うすることができるように、
共にいてくださり、聖伝によって導いてくださることをよろしくお願いいたします。
このお時も覚えつつ、この明大教会につながるお人よ人の中で、このところに来れない方々もいらっしゃいます。
私がどうぞ覚えてくださり、そんな方々のうちにも、あなたが今も覚えてくださって支えてくださることもお願いいたします。
一切を見ていらね、感謝し、尊いイエス様の御名前によってお祈りいたします。
イエス様の教え
マザーテレサを御存知の方は多いと思います。
日本にも3度来られていますから、それなりの年齢の方はテレビに御覧になったかもしれません。
彼女は貧しい人々に使える生き方を選び、亡くなるまでその奉仕をしました。
彼女がどのようにしてこのような働きをするようになったのかは、彼女の伝記を読むならばわかるかもしれません。
しかし、この聖書の箇所からも、彼女がそのような働きに魅せられていった目的、理由を知ることができるのではないかと思います。
17節に書かれているように、この出来事はエルサレムに昇る途中で起こりました。
イエス様、十二弟子、そしてその他の人たちが一緒にエルサレムに向かっていました。
そのような中で、イエス様は十二弟子だけを呼んで、これからイエス様の身に起こる出来事について話されたのです。
それは十字架への道の苦しみと苦難と復活についてです。
18節、19節に書かれているように、イエス様は弟子たちに、人の子は最首長たちや立法学者たちに引き渡される、
そして、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンでサンバンにかけられ、死刑の宣告を受ける、
違法人に引き渡され、ローマ人によって苦しみを受けられる、
侮られ、無知で討たれ、十字架にかけられる。
しかし、人の子は三日目に神によってよみがえらされると語られたのです。
イエス様が十字架の予告をされたのは、この時が三度目でした。
一度目はマタエの16章21節に書かれていますが、
この十字架の予告を聞いたペテロは、
主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。
と言って、イエス様にさたん呼ばわれされたわけです。
また二度目にイエス様が十字架の話をされた時、
弟子たちはその話を聞いて大変悲しんだと書かれています。
イエス様はご自分の苦難と復活についてお話しされる前に弟子たちに尋ねられました。
あなた方は私を誰だと思いますか?
誰だと言いますか?
それはイエス様のことを他の人たちはこのように言っています。
バフテスマのヤハネだとかエリアだとかいう人たちも、
また他の人たちはエレミアだとか、
預言者の一人だとか言っていると答えたからです。
それでイエス様は弟子たちに尋ねられたのです。
私を誰だと言いますか?
代表してペテロが答えました。
あなたは生ける神の子キリストです。
そのように答えたペテロにイエス様は、
このことを明らかにしたのは天におられる私の父、神様があなたにそのことを教えられたと言われました。
ペテロはイエス様をメシアであると告白したのです。
イエス様の時代のイザエ人たちはローマ帝国からの解放を求めていました。
その解放を訴えているメシアと名乗る人たちがいました。
自称メシアですね。
そのような人たちはローマ帝国に反弾する者、政治犯として十字架で見せしめされて殺されたのです。
弟子たちもイエス様に対して力でローマの軍隊を追い出してほしいと思っていたのでしょう。
ローマ帝国からイルサレムが解放されることを期待していたのです。
ペテロや他の弟子たちもメシアとしてのイエス様をそのように理解していたのです。
だからペテロはイエス様が他の偽メシアや自称メシアのように十字架で殺されることがないと思っていたのでしょう。
イエス様は一度、二度、三度とご自分に起こる十字架と復活について話されましたが、
残念なことに弟子たちは三度聞いてもその真意を理解すること、悟ることができなかった、全くわからなかったのです。
わからなかったけれども、イエス様に恐ろしくて聞くこともできない弟子たちでした。
けれども、とんでもない、そんなことが起こるはずがないと言ったペテロも他の弟子たちも、
その後イエス様が昇天されて約束の精霊をいただいたときに、
彼らはイエス様の十字架と復活の意味を本当に理解することができるようになりました。
私たちも、もしかしたら自分の常識や思い込み、自分の価値観や経験でイエス様が語っていることを理解しようとして、
イエス様のことを、イエス様が語られることを正しく理解できないで、
その真相を知ることはできず、思い違いをしていることがあるかもしれません。
けれども、そのような私たちにも、精霊が聖書の真理がわかるように私たちを助けてくださっているのです。
イエス様がその十字架と復活の話をされた後、このゼベダイの息子たちと母がイエス様のところに来ました。
お願いをしに来たわけですね。
ここではゼベダイの息子のお母さんが話し始めますが、マルコの福音書では息子たちが話したとなっています。
母も息子たちも同じ願いを持っていたのでしょう。
母は御国、神の国、イエス様がイスラエの国をローマから解放して治めるようになったときに、
自分の息子たちがそれぞれ最高の位であるイエス様の右と左につくことができるように、イエス様に願いを求めたのです。
それに対してイエス様は、あなた方は何もわかっていない、間違った求めをしていると指摘されました。
それは、イエス様の右と左に座ることは、イエス様が決めることではない、父なる神が決められ、備えられることだからです。
イエス様はヤコブとユハネに、
訪ねました。あなたはサカズキを飲むことができますか?
彼らはできますと答えたのです。
サカズキとは、イエス様が受ける苦難や苦しみのことです。
確かにヤコブは人の中で最初の準教者となりました。ユハネもペトロとともに最初の迫害を受ける者となりました。
晩年にはパトモスに島流しとなり、迫害耐える長い苦難の道を歩みました。
けれども、それが選ばれる理由にはならないのです。
ゼベダイの息子たちの願いは叶えられませんでした。
けれども、イエス様が彼らに言われたことは現実となったのです。
他の十人の弟子たちは彼らの話を聞いて、この二人の兄弟に腹を立てたと書かれています。
十人の弟子たちはヤコブとユハネが自分たちを出し抜いて、
イエス様に最高の地位につかせてくださるようにと、そのようなことを、とんでもないことを願ったことに腹を立てていたのです。
それもちょっとやそっとの腹の立ち方ではありませんでした。
お湯が沸騰してグラグラと鍋の中で煮えたげるような、非常に危険な状態ですね。
触ることもできない、近寄ることもできない。
そのような、それと同じような、彼らの腹の中が煮えたぐるほどの腹を立てていたということです。
それは、十人の弟子たちもヤコブとユハネと同じようなことを考え、心の中で願っていたからです。
そのような弟子たちを見て、弟子たちが誰が偉いのか、誰が一番なのか、地位や権力争いをする、そのような様子を見たイエス様は、弟子たちの間違った考えを指摘されたのです。
あなた方も知っている通り、この世の支配者たちも偉い人たちと言われる人も、人々を自分の欲望のままに抑えつけ、力づくで治めようとする。
権力を欲しいままにし、権力を奮い、人々を強制的に従わせようとする。
この世の支配者たちは、自分たちの生存のために、人の上に立つ価値観で競争し、他者を落とし入れるようなやり方をする。
けれども、あなた方の間ではそうではあってはなりません、とイエス様は二十六節で言われました。
そして、「あなた方の間で偉くなりたいと思うものは、皆に使えるものになりなさい。あなた方の間で先頭に立ちたいと思うものは、皆の下目になりなさい。」と言われたのです。
弟子たちは偉くなりたい、権力を持ちたい、高い地位につきたいと思っていましたが、それはこの世の支配者たちと同じようになりたいと思っていたのでしょう。
だからイエス様は弟子たちにそうではあってはならない、この世の支配者たちのような価値観を持ってはならないと言われたのです。
むしろ偉くなりたいものは、人から自分に使えてもらうことを要求するのではなく、自分が皆に使えるものとなる生き方をすること、先頭に立ちたいと思うもの、頭になりたいと思うものは、人が自分の下目になることを要求するのではなく、自分が皆の下目として生きるようにと言われたのです。
この世の社会の価値観、考え方、行い、振る舞いなどは、あなた方の間で、弟子たちの間では、そのような考えを適用させてはならないと。
奉仕の生き方
偉くなりたいものは、使えるもの、給仕するもの、奉仕するものとなりなさい。先頭に立ちたいと思うものは、下目奴隷になりなさいとイエス様は言われるのです。
イエス様はどうしてそのようなことを言われるのでしょうか。
28節にはこのように書かれています。
人の子が使えられるためではなく、使えるために、また多くの人の贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのと同じようにしなさい。
ここにイエス様がこの世界に、この地上に来られた目的が表されているからです。
イエス様がご自分のことを人のことと言われるのは、人の子がメシアを指しているからです。
この世界を治める王として、メシアが来られることは旧約聖書に予言されています。
この聖句の背景には、イザヤ書52章3節から53章に表されている、苦難の下目としてのメシアの姿です。
イエス様は、メシアとして使えるために、ご自分の命を与えるために、この世界に来られました。
贖いの代価とは、奴隷を解放するための身の主の金のことです。
罪の奴隷となっている私たちを解放して、神様のものとするために、イエス様はご自分の命を贖いの代価とされたのです。
私たちは罪を犯して、神様に背き、神様の怒りを受けるものとなってしまいました。
神様は愛であり、義なるお方です。
神様は、神の義を全うするために、罪のない罪を犯したことがないイエス様を、
罪そのものの私たち、人間の罪の身代わりに十字架にかけられたのです。
多くの人のために、全ての人の贖いのために、イエス様はご自分の命を与えられたのです。
イエス様の生涯は人々に使える歩みでした。そのクライマックスが十字架でした。
イエス様が十字架上で栄光を送られた時、イエス様の右と左に付けられたのは、二人の犯罪人だったのです。
イエス様は私たちの身代わりの贖いの代価として、ご自分の命を私たちに与えてくださいました。
イエス様は私たちに使えてくださったのです。
人の子が来たのと同じようにしなさいと二十八節で進められています。
マザーテレサの奉仕
私たちもそのような使える生き方、歩みをするように進められているのです。
はじめに、またテレサの話をしました。
テレサはイエス様のように使える生き方に招かれて、生涯を貧しい人々のために使えたのです。
テレサは修道女として、インドカルカッタで裕福な子供たちを教える聖マリア学院で先生をしていましたが、
三十六歳の時、貧しい人々と共にいるキリストに尽くしなさいという神様の促しを感じたそうです。
神様からの証明です。
その招きに従ってカルカッタのスラム街での働きを決意したのです。
テレサは学校に行けない貧しい家庭の子供たちのために、青空の下で授業を始め、
四十歳の時に神の愛の先教者会を設立。
この会の目的は、飢えた人、裸の人、家のない人、誰からも世話をされない人のために働くことでした。
この頃からテレサは修道会のリーダーとしてマザーと呼ばれるようになったのです。
その後、死を待つ人々の家、貧図語では清い心の家というホスピスを開設しました。
私がこのマザーテレサの働きを知ったのは十五歳の時です。
当時、友達とカトリック教会へ行っていました。
そこでマザーテレサのドキュメンタリー映画を見たわけです。
教会ではなく、どこか市民ホールのようなところだったと思います。
十五歳とはっきり記憶に残っているのは、その映像に映っていた女の子たちが十五歳でその働きに就き始めるからです。
十五歳から二十五歳までの間、いわば見習いのような期間です。
十年間その働きをしながら、自分は生涯その人たちに仕えていくのかどうか自問をするのです。
彼女たちの働きは生やさしいものではありません。
そのドキュメンタリー映画に映っていたのは、貧しい人と言っても、死んでいく人たちをケアする働きです。
死を待つ人とも言われていました。
社会からも、人からも、家族からも見放された人たちです。
道端に寝転んで動くことができない人たち、そのような人たちを死を待つ人々の家に運んで、その方の最後を見たわけです。
中には体にウジ虫が湧いている人もいました。その虫をピンセットで取っていくのです。
ケアをしている女の子たちは笑顔で輝いていました。
強いられてではなく、喜んでその方を慈しみ、承知されている姿は、今も私の脳裏に浮かびます。
厳しい現状です。だから十年の間にそこを去る人たちもいます。
中には病気を持った人をケアするために感染し、命を落とす方もいたようです。
それでも家様に見されて死を待つ人々に使える彼女たちの家具ごと喜びが、その映像を通して伝わってきたのです。
使える生き方の意味
その映像を見ながら、別に誰かが私にそのようにしなさいと声をかけたわけではありませんけれども、
私には無理だなと、今の生活、好きなものを食べて好きなように遊んで、
自分の部屋で自分の好きなときに遊べるこの環境を手放したくないな、
軽かったに行くことなんてありえないな、と思ったことを覚えています。
その映像に映っていた彼女たちのその後はわかりません。
けれどもそのときの彼女たちは、使命と喜びにあふれ、輝いていたことは忘れることはありません。
私たちはマザーテレサのような働きはできません。
けれども私たちも家様によって使えるために見されているのです。
1979年にマザーテレサはノーベル平和賞を受賞しました。
そのときある記者がマザーテレサに質問しました。
世界平和のために私たちを何をしたらいいですか。
マザーテレサは答えました。
あなたは家に帰って家族に使いなさい。
私たちが使える人とはどのような人たちのことを言うのでしょうか。
それは家族であり、教会の一人一人であり、また学校や職場、地域の人たち、私たちが関わる人たちです。
そのような人たちにその人の必要を満たすために使える、働く、手伝う、自分を捧げることです。
心で相手を思うだけでなく、手を使って具体的に使えること、愛することです。
私たちはけれどもそのような人間関係の中で、時には疲れを覚え、また傷つけられ、傷つく、傷つけてしまう、そのようなことを起こしてしまうような弱いものです。
けれどもそのような中で、神様は私たちを愛してくださり、私たちを癒してくださり、私たちにもう一度神様の愛を注いでくださって、
私たちがそのようなものとして使えることができる歩みを続けることができるように私たちを助けてくださるのです。
失敗することもあります。失敗してもいいのです。
そこで私たちは互いに許すこと、許されることを学ぶことができるからです。
イエス様は失敗したからといって叱るお方ではありません。
使い合うこと、愛することを学んでいくことによって私たちは使えることを覚えていくのです。
カルカッタでの15歳の少女たちは映像に映るために使えていたわけではありません。
いつも使えていることが映し出されただけです。
マザーテレサは貧しい人々の中にキリストを見ると言われましたが、
それはキリストがその貧しい人に使えられたから私も使えるということでしょう。
私たちの隣人を愛し使えてくださるイエス様だから私たちも隣人を愛し使えるのです。
1997年9月5日、マザーテレサはカルカッタにて87歳の生涯を閉じました。
けれどもその働きは今も次の世代の人たちによって継続されているのです。
イエス様は贖いの代価としてご自分の命を私たちに与えてくださり、使えてくださいました。
まずイエス様が私たちに使えてくださったのです。
だからマザーテレサを招いたように、私にもあなたにも使える人となりなさいとイエス様は招いてくださっているのです。
マザーテレサは言いました。
神様は私たちに成功してほしいなんて思っていません。ただ挑戦することを望んでいるだけよ。
イエス様は私たちに使えるためにこの世界に来てくださりました。
メシアとして、しもべとして、多くの人の贖いの代価としてご自分の命を与えるためにこの世界に来てくださったのです。
イエス様が私たちに使えてくださり、命を与えてくださったその恵みのゆえに、私たちはそれぞれ与えられている賜物を用いて隣人に使えるものとして報酬をするように招かれているのです。
マザーテレサはその招きに応え、挑戦しました。
私たちはマザーテレサと同じ働きはできません。
でも、私たちも私たちに与えられている恵み、賜物によってイエス様の招きに挑戦することができるのです。
時には疲れ果て、傷つき、もうそのようなことはできない、もう人に思いを馳せることもできない、そのようなことが起こるかもしれません。
けれども、私たちにそのような愛と力を与えてくださるイエス様の恵みによって、神様の恵みによって、
招きに応え、人々を愛し、その必要のために、手伝い、自分を捧げ、使える生き方、奉仕する歩みを共にこれからも続けさせていただきたいと願います。
お祈りをさせていただきます。